猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

国民の分断とは浮動票がないこと、と米大統領選を見て気づいた

2020-09-30 21:56:04 | 政治時評


11月3日(火)は、2020年アメリカ合衆国大統領選挙投票日。

きょう、投票日まで1か月あまりとなるなかで、共和党候補のドナルド・トランプと民主党候補ジョー・バイデンの初めてのテレビ討論会があった。討論会といっても、トランプが司会者の進行をまったく無視する方で罵詈雑言を吐く形になり、NHKの通訳を通して聴いている私には、盛り上がらないプロレスを見ているようだった。

確かに、テレビ討論会をやって、大統領選の勝者が決まるというのも幻想である。しかし、テレビ討論が全く無意味となると、どうやって、大統領を米国民が選択すればよいのだろうか。トランプは選挙そのものを否定してはいないので、内戦まではいかないとしても。

これまでの大統領選で行われた郵便投票に、いま、トランプは異議を言い出している。マイノリティのアフリカ系やラテン系米国民にとって、投票所に行くと暴力を受けるので、郵便投票は必要なのに。

代議制民主主義をこれほどバカにした候補者を見たことがない。

考えてみるに、選挙というものが意味をもつには、浮動票があるということだ。少なとも、そのことで、候補者が節度とある言動をするようになる。あまり、無茶な言動ができなくなる。

しかし、浮動票がなく、固定票が接近していると、固定票を固めるために、プロレスごっこを始めるようだ。トランプは、悪役に徹すれば、自分の支持層が固まると思って、わざと、司会を無視している。そして、あとは、自分に敵対する層が選挙に参加できないようにすれば良いのだ。

そうなんだ。国民の分断とは、浮動票がなくなることなのだ。

日本はまだ大きな浮動票がある。半分の日本国民が投票所に行かないということは、大きな浮動票の層である。投票所に行って意志表示しようという草の根運動が起きれば、日本の政治を大きく変えることができる。

菅政権の「デジタル化」「デジタル庁」「マイナンバーカード普及」は意味不明

2020-09-28 23:00:04 | 叩き上げの菅義偉


菅政権の「デジタル庁」で行いたい「デジタル化」政策が私にはわからない。「デジタル化」そのものは、20年以上前から民間企業で行われていた。

「デジタル化」という言葉自体は、「平成」より以前の「昭和」から使われていた。企業や政府のデータは、ずっと以前にデジタル情報として、データベース化された。データベースとは利用者の要求で求める情報を取り出すだけでなく、いろいろな表の形でとりだせるし、データ分析処理プログラムを使えば、需要の予測などができる。しかし、いいことばかりではない。

約20年前に起きたいわゆる年金問題は、これまでの帳簿を大急ぎでデジタル化する際に生じた入力ミスである。入力データには誤りは必ず存在する。個人の情報はその個人が訂正できる仕組みが必要である。

情報がデジタル化されるにつれて、個人情報が外部に漏れ、悪用されることが生じている。オレオレ詐欺でも個人情報が利用されている。IBMとかOracleとかの標準製品のデータベースを使い、所定の運用をしていれば、情報の漏洩が起きると思われないが、手製のデータベースを使ったシステムであったり、標準データベースからデータを取り出しファイルとして保管していたりすることで、情報が簡単に漏洩する。

外部と接続しているシステムは原理的には不正アクセスを防ぐことはむずかしい。侵入されても、情報が漏洩しないためには、利便性を犠牲にしても、データベースの厳格な運用をすることである。そのためには、デジタル情報漏洩に関して、不正アクセスの実行者だけでなく、情報管理者にも責任が追及されなければならない。それだけでなく、個人情報の売買を禁止すべきである。個人情報の売買する市場がある限り、個人情報に不正にアクセスする者が現れるのを防げない。

20年前から生じた新しい問題は、集めた個人情報を企業が何に使うかということである。特定の個人に何を売り込んだ方が成功の確率が高いか、これは集めた情報を使えば、情報処理で求まる。これがビッグデータの利点である。私がIBMをやめる前、15年以上昔だが、会社のモラルとして、これはしてはいけないことだったが、現在どうなっているか、知らない。

企業が抱える巨大な個人情報は、会社がつぶれかけたとき、あるいは、つぶれたとき、市場に売り出される可能性がある。その意味でも、デジタル化された個人情報の売買は禁止しないといけない。それでも、合併吸収の形で、大規模なデジタル個人情報を他社が入手できる。個人情報の使用目的に制限をかけないといけない。

このように、われわれは、デジタル化の問題を、すでに、いろいろ経験している。それにもかかわらず、前総理の安倍晋三は、ことしの1月に、所信表明で、IT利用の規制緩和を宣言している。コロナ騒ぎでどうなったか不明だが、企業の利益にばかり目がいって、個人の権利を守ることが忘れられている。

菅義偉は、昭和の人間だからか、「デジタル化」を政権の方針にかかげたが、行政情報自体は、すでにデジタルになっているはずである。たぶん利用の利便性を高めようということであろう。利便性は個人情報の保護とトレードオフ(trade off)の関係である。

現在、マイナンバーは、住民票情報(住所、連絡先、氏名、年齢など家族構成)、給与、所得税、住民税、預金などの資産情報と結び付いている。まさに、貴重な個人情報である。そして、すべてデジタル化されている。これらが漏洩したら、誰が責任をとるのだろうか。漏洩がないか、どうかをちゃんと監査しているのか。これらの問題に対処しないで、デジタル化を進めるとは、国民をバカにしている。

もうひとつわからないのは、菅政権の「デジタル化」のひとつに、マイナンバーカードの普及をかかげている。別にカードを普及させなくたって、個人情報は、デジタル化されており、利用できる。カードを普及させたからといって、情報の漏洩が防げるわけではない。だから意味がわからない。

考えられる用途は、非常事態制限下で、国民に写真付きマイナンバーカードを所持させ、身分証として利用したいからではないか。あるいは、犯罪捜査のために、写真情報とマイナンバーと結び付けたいのか。犯罪のなかに、日本は公安情報を含めているから、デモ参加者の顔を割り出したいのか。疑心暗鬼になる。

マイナンバーカードを普及させたい菅政権の理由がわからない。

映画『ガーンジー島の読書会の秘密』と戦争時の占領の記憶

2020-09-27 23:02:13 | 映画のなかの思想


2018年のイギリス・フランス映画『ガーンジー島の読書会の秘密』は、イギリスの若い女流作家がノルマンディー沖の小島の読書会を訪れ、愛が芽生え、結婚するという物語である。占領されるという戦争の記憶を扱いながら、美男美女が結ばれるというハッピーエンドの物語である。

映画の原題 “The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society”は、その読書会の名前である。直訳すれば「ガーンジー島の文学とジャガイモの皮のパイの会」となる。 “Guernsey”がその島の名前であるが、私には「ガーンジー」とは聞こえず、「グールンズィ」と聞こえる。発音記号で示せば、[ˈɡɜːrnzi]となる。

グールンズィ島はイギリス王室の属領だが、第2次世界大戦中、ドイツ軍に占領された。読書会の名前は、4人の島民が夜歩いていると、ドイツ軍の兵士にとがめられ、とっさに「グールンズィ島の文学とジャガイモの皮のパイの会から帰宅する途中です」と答えたことからくる。そして、本当に読書会を継続的に開くことになる。

私自身は読書会というものを経験したことがないが、映画では、誰かが本の紹介者になり、何ページかを朗読し、そのあと、メンバーが議論する形をとっていた。

戦後、1946年に、島を訪れた女流作家のジュリエットは、読書会に主催者のエリザベスがいないことに気づき、それを探り始める。読書会のメンバーにとっては、それは、秘めておきたい悲しい記憶であった。エリザベスはドイツ軍に連れられていき、戦争が終わっても戻ってこないのである。いっぽう、ジュリエットが宿泊した宿の女主人は、読書会のメンバーはウソつきで、エリザベスをドイツ軍兵士の子どもをやどした「あばずれ」とののしる。

ジュリエットが島に訪れるきっかけを作った読書会の一人(男)、ドースィ(Dawsey)は、エリザベスとドイツ軍兵士の愛は真剣で、その間に生まれた女の子を自分が育てていると話す。

映画は、ジュリエットとドースィの恋心に焦点を当てているので、なぜ、島の女とドイツ兵士に愛が芽生えたのか私にはわからない。たぶん、その兵士は優しい人なのだろう。その兵士が、兵営を抜け出て、エリザベスと密会していることを密告する島民がいて、島から追放されるが、載せられた船が連合軍の攻撃に会い、船ごと死んでしまう。

一方、エリザベスは、脱走した捕虜少年のために夜間に薬を取りに行くが、ドイツ軍につかまり、エリザベスは大陸の収容所送りになり、少年は射殺される。

ジュリエットはアメリカ人の婚約者にエリザベスの行方を調査してもらう。エリザベスが、収容所で少女を殴っている看守を止めようとして、射殺されたという知らせをもって、婚約者はジュリエットを軍用機で迎えに来る。

とても、複雑なプロットで、時間の制限がある映画では、どうしても、消化不良になる。じつは、読書会のメンバーが本当の家族であったのか、それとも、疑似家族であったのか、私にはわからない。私は、読書会というもののもつ力を信じたいので、疑似家族であって欲しいと思うが、映画では本当の家族であるようにも見える。

この後、イギリスにもどったジュリエットは、島の読書会メンバーと離れることに耐えられず、婚約者と別れ、ドースィに結婚を申し込むという結末で終わる。

第2次世界大戦終結から70年以上もたって、この映画が作られたのは、心の傷の記憶がまだイギリスやフランスの人々に渦巻いているのではないか。

婚約者など不要な登場人物を消し去り、外部からの侵入者のジュリエットが、読書会をとおして島民の戦争の心の傷を暴くことに焦点を絞ると、もっと、深みのある映画になっただろう。島の女が敵の兵士を愛することこそ戦争のもたらす悲劇の中心テーマになると思う。本作は、イギリス映画としては、メロドラマ的すぎる。

安倍政権の7年8カ月に好意的な論壇時評に驚く

2020-09-25 22:42:17 | 安倍晋三批判
 
きのう、きょうと、朝日新聞に安倍政権の7年8カ月に好意的な記事がのった。9月24日の津田大介の《論壇時評》『安倍政権の功罪 問題の責は彼個人ではなく』と、9月25日の佐伯啓思の『この7年8カ月の意味』である。
 
佐伯啓思は、保守の視点からみて中途半端で不十分だが、「疑いもなく、近年、これほど『仕事』をした政権はなかった」と評価している。佐伯は保守の人だからそう評価するのは当然である。
 
しかし、津田大介がそう評価したのにはびっくりした。津田は、昨年、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督をして、「表現の不自由展・その後」に関して批判され、臆病になったのではないか。
 
《論壇時評》といっても、評者が中立的である必要はない。論者たちは常に時流に流される可能性がある。私からみれば、彼らは、ちゃんとした職業につかず、文筆で生活するのだから、お金をもっている人たちの意識に影響されがちである。実際、多くの論者はクソである。だから、評者が時流から離れ、定点の自分から、論壇が右傾化している、左傾化していると批評できなければ、評者の存在自体が無意味である。
 
津田は、吉田徹の発言「皮肉なことに安倍政権は十分に民主的な政府だった」を、なんの説明もなく引用しているが、「民主的」とは何を言うのだろうか。普通選挙で選ばれた政府なら、戦後の日本政府はすべて「民主的」であろう。「選挙に勝ち続けた」ことを言いたいのだろうか。
 
横浜市が今年まで使ってきた育鵬社の「偏向」公民教科書につぎのように書かれている。
 
〈政治の最大の目的は、国民の生命と財産を守り、その生活を豊かに充実させることにあります。したがってその基礎をなす基本的人権の保障と充実は、なにより重要な政治目的のひとつとして位置づけられています。〉
 
逆でしょう。政治の最大の目的は、自由と平等、基本的人権、国民主権を実現することでしょう。育鵬社の表現では、格差の存在について何も語られていない。また、生命は守られても、死ななければ、奴隷であっても良いのかという問題もある。
 
2014年から2019年にかけて、「若年世代は物価の変化を考慮してもなお、安倍政権期を通じて賃金が上昇したそうだ」と津田は書くが、本当だとしても、この間の政治は民主的だったのか、ということである。
 
政府の公文書を改ざんしたり、情報を隠蔽したりする安倍政権のどこが民主的だろうか。政府が発表する資料は信頼できるのだろうか。若年世代の賃金が増えたとしても、他の世代の賃金は減少し、平均賃金では減少しているのではないか。
 
コロナ感染が流行する前までの私の観測では、リーマンショックの時よりも雇用が改善されたといえ、みんな安いものを買うのにあくせくしている。良い品質のものを売っていても、価格が他店より ちょっと高ければ、その店はつぶれてしまう。みんな安物を安く買っているだけである。貧乏なのである。
 
非エリート官僚までが官邸に忖度しなければならない社会のどこが民主的なのか。官僚だって自由に官邸の誤りを指摘できてこそ、健全な社会である。
 
安倍政権は「女性活躍」というが、その前に男性が活躍できているのか。経営陣が労働者の自由な判断を受け入れているのか。自由がない企業は衰退するしかない。近年の日本の製造業が国際競争力を失っているのは、自由な発想を経営陣が取り入れることができないからだ。
 
「女性活躍」の「女性」は誰のことか。多くの女性は、すでに賃金労働者として働いている。賃金をもらわなければ、子どもを育てることができないからだ。賃金労働者になることが、女性の「活躍」なのか。私は経営者なんてろくでもない種族と思っているから、経営者になることも「活躍」などと思わない。
 
「資本主義」とは何なのか、私にはわからないが、金持ちは、勤勉であるから金持ちになるのではなく、多数の人を雇って働かすから金持ちになるのである。多数の労働者が労働市場にいて、雇われたなら、贅沢も言わず黙々と働いてもらわないといけない、と金持ちは考えている。
 
そういうなかで、津田の書く「安倍政権で噴出した問題とは、安倍前首相個人にその責があるのではなく私たちそのものの問題である」の「私たち」とは誰のことか。「ちゃんとした職業につかず、文筆で生活する者たち」ではないか。教室から閉め出され、ちゃんとした職業につけないなら、「文筆で生活する」のはわかる。しかし、楽をしようとして、文筆活動をしていることはないか。ちゃんと底辺生活を体験しているのか。
 
「私たちそのものの問題」というまとめかたは、敗戦直後にでてきた「一億総ざんげ」と同じで、責任の所在があいまいになる。
 
安倍晋三は別に自民党総裁にも総理大臣にもなる必要がなかった。谷垣禎一だって良かったはずである。安倍とそれを担いだ菅義偉らの政治的意図があってのこの7年8カ月だから、とうぜん、その結果に責がある。
 
このようなわけで、津田大介の頭が大丈夫なのか、と思う私である。

菅政権は これまでの自民党の経済政策の誤りを継承していくのか

2020-09-24 22:13:25 | 経済と政治
 
新首相の菅義偉が安倍政治を継承すると言っているが、安倍政権下の経済政策は失敗だったとしか言いようがない。日本の産業は、この間、安倍政権下で急速に国際競争力を失った。これは、日本の経営者を甘やかしすぎたからである。無能な経営者が社長や会長になっているからである。現在の経営者の総入れ替えをしないといけないのだ。
 
日本政府は、戦後ずっと日本企業の保護政策をとっている。政府や地方自治体の物品購入先は日本企業である。外国企業の製品には関税をかけ、日本企業を保護してきたのである。そして、政府が音頭を取って企業の合併を進めてきたのである。
 
日本が貧しい国であれば、政府が企業を保護するというのは、しかたがない。しかし、日本が敗戦から復興した1970年以降は、企業を保護する、経営者を甘やかすのはやめなければいけなかった。政府は農業の保護に限定すべきであった。
 
ところが、政府は、いつも、農業を犠牲にして、企業を保護してきたのである。
 
小泉純一郎が発明した「規制緩和」という流行語がある。「規制」には、国民を守るための「規制」と、政治家の既得権を守るための「規制」とがある。
 
最近の日経ビジネスに、「岩盤規制の改革が進まない裏には族議員や省庁の抵抗があり、その背景には規制に結びついた業界や省益の維持がある」とあった。まさに、その通りである。しかし、「国民をまもるための規制」は必要なのだ。緩和してはいけない。
 
自民党の「規制緩和」の対象に、戦後できた「労働三法」がある。労働組合法,労働基準法および労働関係調整法の3つの法律をいう。これは、つぎの憲法の理念を法律として実体化したものだった。
 
憲法 27条「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
○2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
○3 児童は、これを酷使してはならない。」
憲法 28条「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」
 
自民党政権は、ずっと、この「労働三法」の空洞化をはかってきた。
 
しかし、経営者は、労働者の権利を守って、その上で、活力ある企業活動をおし進めてこそ、経営者の資格があるのである。それなのに、安い労働力にもとづいて、しかも、米国の需要だけに頼っていたから、1970年代から米国との貿易摩擦が生じたのだ。労働者も大事な消費者であることを経営者がわすれているから、国外に需要を頼ることになる。
 
貿易摩擦を米国民の目からそらすために、日本政府は同盟国であると強調せざるを得なくなった。実質上の軍事同盟の強化と、米国から軍備の購入をおし進めるしかなかった。
 
本来は、日本では、理想的な経営がなされ、労働者が幸せに暮らしているから、米国民も見習いましょう、であれば、貿易摩擦が起きなかったはずである。1980年代から、日本政府は不正を行っているとの声を、私は米国民からよく聞いた。
 
「派遣労働」の創設は、労働市場の流動化をはかった「規制緩和」の1つである。この「派遣労働」の創設によって、人材派遣企業が雨後の筍のように多数でき、その当時の規制緩和推進の大臣である竹中平蔵が、いま、派遣大手のパソナグループの会長になっている。
 
すなわち、自民党は経営者に甘かっただけでなく、同時に、新たな利権者になってきたのである。
 
「自助」を唱え、安倍政治の継承をうたう菅義偉は、とっても悪い人間である。
 
そして、菅義偉の「デジタル化政策」も うさん臭いものだ。
 
日本政府は1970年代から国産コンピューターに力をいれていた。大学のコンピューターはすべて国産で、政府が各大学に国産メーカの日立、富士通、NECを割り振っていた。積極的にコンピューター産業に力をいれていたのである。1990年代は、政府はスーパーコンピューターに力をいれた。2000年代はインタネットに力をいれた。また、官公庁のデジタル化、小中高教育のデジタル化をおし進め、国産のパソコンメーカの後押しとソフト開発会社の救済を行った。
 
日本政府は「デジタル化」をずっと試みてきたのである。しかし、何か成功したことがあるのか。官僚が旗をふっても、せいぜいで、米国やドイツの後追いするだけである。現在は、日本のIT産業は、中国や韓国よりも、実力が低くなった。
 
人間の資質には国による差はない。自由な社会であるか、どうかがだいじである。政府は経営者を甘やかしてはいけない。しかし、政府は企業の経営に口出してはいけない。経営者を罷免するのは社員、すなわち労働者である。政府の口出しは利権を生み、第2の竹中平蔵を生むだけである。
 
政府は、若者に、新しい技術や産業を提案する場を、現在の経営陣を罵倒する場を、与えれば良い。出てきたアイデアをすべての人の共有財産として公表すればよい。それによって、若者が活性し、人材が育つ。別に博士の数が増加する必要がない。みんなが大学に進学する必要がない。大学は学問の場である。学問を目指すものだけが行けばよい。
 
最大の経済政策は、富の再分配による経済格差の解消である。経営者を甘やかす政策を打ち出しても、事態は好転しない。
 
財界は、菅政権の「デジタル庁」を新しい利権の場としか見てない。財界はろくでもない無能な経営者の集まりで、社会のルールを自分に都合が良いように変えることしか考えていない。