猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ドストエフスキーの「だれもが たがいに 仕えあう」、福音書から

2019-04-10 12:32:11 | ドストエフスキーの宗教観

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に、
「このぼくは、他人に奉仕してもらえる値打ちなんてあるか、相手の貧しさや無学をいいことに、彼らをこき使う資格などあるのか?」
「こんどは ぼくが おまえたちに仕えてやるからね、だって、だれもが たがいに 仕えあわなくちゃ ならないなんだから」
というゾシマ長老の兄の言葉がある。

この「みんなに仕える」という考えは、新約聖書の『マルコ福音書』『マタイ福音書』『ルカ福音書』に固有のものである。

新約聖書の『マルコ福音書』の9章33-35節に、次のようにある。
〈一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。〉
〈彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。〉
〈イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」〉

また、『マルコ福音書』の10章42-44節に、つぎのようにある。
〈そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。〉
〈しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、〉
〈いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。〉

この考え方は、『ヨハネ福音書』やパウロの書簡など、新約聖書のほかの書にはない。先の三福音書に固有の革命的理念である。

なお、10章42節の共同訳「異邦人」は誤訳で「ひとびと」と訳したほうがよい。英語なら“peoples”とするところである。これは、別途、議論したいが、とりあえず、イエスの言葉を私が訳し直すと、次のようになる。

〈あなたがたも知っているように、ひとびとの「長(つかさ)」らしき者たちが、ひとびとに向かって主人ぶり、ひとびとの位の高いほうの者たちが、ひとびとに向かって威張っている。〉

三福音書は、ローマ帝国の属州であった当時の社会全体を痛烈に批判しており、ユダヤ人社会もその中に含まれている。決して「異邦人」などの「他人ごと」ではない。

ドストエフスキーは、ゾシマ長老に
「俗世で召使なしにやっていくこと不可能だが、それなら自分の家では、召使が、かりに召使でない場合より気分がのびのびできるよう工夫してやるがいい」
と、弱気なことを、言わせている。

現在の日本では、「お手伝いさん」をかかえる「家庭」を見ることが めっきり なくなった。
アンデルセンの童話を読むと、貧しい女の人が冬の冷たい川の水で洗濯するというシーンがよくでてくる。
つい最近まで、日本でもそんな世界があった。洗濯機がでてきて、電気釜がでてきて、掃除機がでてきて、召使を家庭に抱えることが不要になった。

しかし、日本の職場や家族の人間関係には、三福音書が批判する主従関係が、まだ、残っている。
だれかがだれかに一方的に仕えるのでなく、たがいに仕えあうのが、平等であり、本当の幸せである。

「ぼくら みんな罪がある」の補足、つみと罪

2019-04-06 19:20:41 | ドストエフスキーの宗教観


私は、「罪」と「罰」との違いが、長らくわからなかった。

ある日、白川静の『字統』を見て納得がいった。

「罪」の旧字は、「辠」なのだ。罪人の鼻に入れ墨をすることなのだ。肉体に犯罪者の刻印をきざむことなのだ。

「罰」は下に「言」があるように、言葉で罰することなのだ。それが、拡大され、罰金のように、お金で償うこともいう。

したがって、「罪」は「罰」より重いのだ。どちらも、禁じたことをおこなった人間に、支配者である王がくだす処分である。

だから、「罪」だとか「罰」とか言われたら、権力者の横暴に、怒らないといけない。聖書の翻訳者が、安易に、「罪(ざい)」や「罪人(ざいにん)」を使ってはいけない。

白川静の『字訓』を読むと、面白いことが書いてある。日本語で「つみとが」と言うが、「つみ」と「とが」は意味が異なるという。

「つみ」とは、はじめから その意図をもって 禁じられたことを なすことをいう。

「とが」とは、その意図がなく あるいは 知らずに 禁じられことを なすことをいう。すなわち、「誤ること」、「過失」なのだ。

聖書の翻訳者は、「罪(ざい)」と「つみ」とは異なることだ、と知っているのか。

実は、ヘブライ語にも、この区別がある。エーリッヒ・フロムは『自由であるということ―旧約聖書を読む』(河出書房新社)で、ヘブライ語で「罪」は、「ハタ」と「アボン」と「ペシャ」に区別されると書いている。

「ハタ(חטאה)」は、「誤ること」すなわち「過失」なのだ。
「アボン(עון)」は「意図的に悪を行うこと」なのだ。
「ペシャ(פשע)」は「権力や権威や慣習に逆らうこと」なのだ。

聖書で多くの「罪(つみ)」と訳されているものは「ハタ」であり、「罪(ざい)」ではなく、「悔い改める」ものではないとフロムは書く。

『新共同訳 聖書辞典』(日本キリスト教団出版局)でも、「つみ」の項目に同様な説明がある。ヘブライ語の発音が違うだけである。昔のヘブライ文字に母音がないので、著者によって異なるのは仕方がない。

この辞典では、「ハタ」が「ヘート」または「ハッタ」となる。「アボン」が「アーウォーン」となる。「ペシャ」は同じである。

そして、「ハタ」のギリシア語訳に「ハマルティア(ἁμαρτία)」や「ハマルタノー(ἁμαρτάνω)」があてられている、と説明する。

すなわち、日本語新約聖書で「罪(つみ)」と訳されているものの多くは、この「ハタ」「ハマルティア」「ハマルタノー」である。人間は間違いをおかすものである。間違いに気づけば改めれば良い。これが福音書のメッセージである。

ところが、パウロだけは、イエスが全人類の「間違い」を背負って殺された、と『ローマ書』に書いてしまった。聖書の中でも『ローマ書』に、集中的に「ハマルティア」「ハマルタノー」が使われる。

パウロは、アダムが「善悪を知る木の実」を食べて、人類に罪を生じた、と『ローマ書』に書くが、旧約聖書の『創世記』のアダムとエバの物語に「罪」という言葉が使われていない。すなわち、「ハタ」も「アボン」も「ペシャ」も使われていない。神は、人間が、これ以上、神に近くなったら困るから、エデンの地から人間を追い出したのである。

パウロは、神の嫉妬の話を、人間の「ハタ」の始まりと思い違いしたようだ。

死んだイエスが自分に声をかけたと信じるパウロは、「復活の信仰」と「イエスの刑死」の整合性のため、イエスが全人類の「間違い」を背負って「神への いけにえ」になり、これによって、全人類に「復活」が保証されるという考えに至った。

決して、パウロの強調点が「原罪」にあったのではない。そんなもの、頭のかたすみにもなかった。イエスをたたえるために、軽い気持ちで「ハタ」と言ってしまったのだ。
「原罪」は、教会と王権とが結びついたとき、教会が創った統治のための「教化」の道具にすぎない。

それにしても、なぜ禁じられるのか、ということに昔のひとが疑わないのは不思議だ。
人間はそんなにバカなはずがない。
きっと権力者が暴力でもって、人間を押さえつけていたのであろう。

ドストエフスキーの「ぼくら みんな罪がある」

2019-04-06 17:22:06 | ドストエフスキーの宗教観

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に、修道僧ゾシマ長老が、死ぬ直前に、集まった五人を前に、自分の8歳上の兄のことを語る、章がある。

長老の兄は17歳で死ぬのだが、その前に、突然、こころ変わりをして、次のように言う。
「ぼくら みんな、すべての人に対してすべての点で罪があるんだよ、ぼくはそのなかでもいちばん罪が重い」
往診に来た医師は「病気のせいで精神錯乱におちいっています」と母に言う。

これは、別に、聖書の言葉が兄の口から出たわけでない。

『カラマーゾフの兄弟』を読むと、当時のロシアの上流、中流のひとびとは、文字通り、すごく悪い。本当に、彼らみんな、罪がある。「支配」と「従属」の関係をあたりまえだと思っている。下層民の私としては、それにすごく怒りを覚える。

革命こそがロシアの地に必要だ。

だからこそ、ドストエフスキーが、その兄に次のセリフを当てたのであろう。

「ぼくに仕える価値なんて あるのか?もし神さまが情けをかけて 死なずにすんだら、こんどは ぼくが おまえたちに仕えてやるからね、だって、だれもが たがいに仕えあわなくちゃ ならないんだから」

「人生って天国なんだから、ぼくたち みんな 天国にいるのに それを知ろうとしないだけなんだよ。その気になれば、あすにでも世界中に天国が現れるんだから」

原罪とか、人類普遍に罪があるとか、そういう問題ではない。

ゾシマ長老の兄は、生きたまま、すでに「天国」におり、天国に行くために、すなわち、地獄に行かないために、「ぼくらみんな罪がある」と言ったのではない。兄が、「支配」と「従属」を慣習とする社会構造のあやまりに、気づいたという設定なのだ。

「支配」と「服従」は、社会構造の問題であり、個人のこころの問題にしてはいけない。
私の学生時代にも、「自己否定」とか「自己批判」とか言う者たちがいたが、
何の役にも立たなかった。
自責の罠に陥ちらず、社会の構造を変えなければ、いけない。

ドストエフスキーの「大審問官」の自由、新約聖書の自由

2019-03-31 21:55:30 | ドストエフスキーの宗教観

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章で、無責任にも自由という考えをイエスが民衆に吹き込んだ、と大審問官は長々と責める。この章は劇中劇で、アリョーシャの兄、イワンが語った物語詩である。

ハッキリ言って、私には、なぜイエスが責められるのか、わからない。

イエスが死んでから30年以上たって、新約聖書の『マルコ福音書』、『マタイ福音書』、『ルカ福音書』が書かれた。さらに、40年たって『ヨハネ福音書』が書かれた。
下層民のイエスもイエスの弟子も字が読めず字が書けなかったから、イエスの言ったことの直接の記録はないのである。イエスが、本当のところ、何をいったのか、わからない。

史的イエスの研究者M. J. ボーグは、『イエス・ルネサンス』(教文館)で、福音書にあるイエスの言葉のほとんどは、本当にイエスの言葉か疑わしいと言う。

福音書に先立つパウロの書簡が語るように、イエスがユダヤの王としてはりつけにされ殺されたことのみが、イエスについて確実な事実である。

パウロの書簡から分かることが、もう一つある。イエスと会ったことがなく、何かの教えを直接聞いたことがない人間、パウロが、イエスの弟子を名乗り、布教して歩いたのである。

それは、下層民が、宗教的権威へ「無秩序」に反逆し始めたということである。そして、イエスは反逆の象徴になったのだ。

したがって、この「無秩序」を「イエスが無責任に自由を民衆に吹き込んだ」と大審問官が責めたいのかもしれない。

私自身は「無秩序」「反逆」こそがイエスの愛すべき点と思っている。

日本の学校教育では、ドイツの宗教革命ばかりに光があてているが、古代ギリシア、古代ローマの民主制、知の自由、科学を復活したのは、イタリア・ルネサンスである。
これを暴力で抑えたのは、スペインの軍人上がりのロヨラであり、彼の軍隊、イエズス会である。イエズス会は反宗教改革の旗をしょって、知の自由を掲げたイタリア・ルネサンスを弾圧した。
だから、ドストエフスキーは、「大審問官」の舞台として、異端者を火焙りにするセヴィリアの広場を選んだのだろう。

しかし、大審問官の罵りは、下層民の反逆の扇動者イエスに向けられているというよりは、19世紀の文化の遅れたロシアで、反逆者として生ききれなかったドストエフキー自身への罵りであると思う。

その罵り言葉が異常なのである。常軌を逸している。亀山郁夫の訳で書き抜くと

「おまえ(=イエス)は世の中に出ようとし、自由の約束とやらをたずさえたまま、手ぶらで向っている。ところが人間は生まれつき単純で、恥知らずときているから、その約束の意味がわからずに、かえって恐れおののくばかりだった。」

「確固とした古代の掟にしたがう代わりに、人間はその後、おまえの姿をたんなる自分たちの指針とするだけで、何が善で何が悪かは、自分の自由な心によって判断していかなくてはならなくなった。」

「人間にとって、良心の自由にまさる魅惑的なものはないが、しかしこれほど苦しいものもまたない。」

「おまえは忘れたというのか。人間にとっては、善悪を自由に認識できることより、安らぎや、むしろ死のほうが、大事だということを。」

「おまえはほんとうに考えなかったのか。選択の自由という恐ろしい重荷におしひしがれた人間が、ついにはお前の姿もしりぞけ、おまえの真実にも異議を唱えるようになるということを。」

「人間の自由を支配するのは、彼らの良心に安らぎを与えてやれる者だけだ。」

「自由と、地上に十分にゆきわたるパンは、両立しがたいものなのだということを。なぜなら、彼らはたとえ何があろうと、お互い同士、分け合うということを知らないからだ!そしてそこで、自分たちがけっして自由たりえないということも納得するのだ。」

「彼らが自由でいるあいだは、どんな科学もパンをもたらしてくれず、結局のところ、自分の自由をわれわれの足もとに差しだし、こう言うことになる。『いっそ奴隷にしてくれたほうがいい、でも、わたしたちを食べさせてください』」

イエスは、歴史の記憶に偶然残った下層民の反逆者である。

しかし、「良心の自由」とか「選択の自由」とか「善悪を自由に認識」とか「人間の自由を支配」とかイエスは言わなかった。
イエスに従った無学の弟子たちも、そんなことを言わなかった。
新約聖書からの言葉でない。

これらは、低文化国ロシアに生まれた臆病な知識人の言葉にすぎない。
自由とは反逆である。自由は、誰かに差しだすべきものではない。

ドストエフスキーの「大審問官」、賢い悪魔の3つの問い

2019-03-29 11:09:41 | ドストエフスキーの宗教観

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章の、イワンの作った物語詩の中で、90歳の大審問官は、イエスが民衆に自由をあおった、と、牢の中の男を長々と罵る。
そして、この罵りは、「賢い悪魔の3つの問い」を軸に、なされる。

もちろん、聖書には「賢い悪魔」という言葉はなく、「恐ろしい、賢い聖霊、自滅と虚無の悪魔が、偉大な悪魔が」というイワンの言葉を、私がここで簡略化しただけだ。

ドストエフスキーは、『マタイ福音書』の4章1節から4章11節を、また、『ルカ福音書』の4章1節から4章13節をもとに、この「賢い悪魔の3つの問い」を書いている。
ヨハネ福音書には、それに対応する記述が、まったくない。
『マルコ福音書』にも、1章12-13節に
「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。」(口語訳)
とあるだけで、悪魔の3つの問いはない。

旧約聖書の『ヨブ記』以来、神が信仰をためすとき、サタンが神に代わって行うことになっている。サタンのヘブライ語の意味は「邪魔する者」である。
サタンは、ギリシア語で、ギリシア語では、“διάβολος”(ディアボロス)と訳されたり、“σατανᾶς”(サタナース)と訳されたりする。

日本語聖書は、ディアボロスを「悪魔」と訳しただけだ。
「悪魔」は、決して、頭に角があったり、しっぽやひずめがあったりするわけではない。人間の顔をし、人間の体をもっている。ただ、口がたち、鋭い頭脳を持ち合わせているだけだ。

ドストエフスキーの賢い悪魔の3つの問いの順は、『マタイ福音書』の順と一致する。そのイエスの答えは、すべて旧約聖書の『申命記』からの引用である。

「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(『マタイ福音書』4章3節)と悪魔は試みる。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(『申命記』8章3節)とイエスは答える。

「もしあなたが神の子であるなら、(エレサレムの神殿の先端から)下へ飛びおりてごらんなさい」(『マタイ福音書』4章6節)と悪魔は試みる。
「主なるあなたの神を試みてはならない」(『申命記』6章16節)とイエスは答える。

「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのもの(権力と賞賛)を皆あなたにあげましょう」(『マタイ福音書』4章9節)と悪魔は試みる。
「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(『申命記』6章13節)とイエスは答える。

「賢い悪魔」の口を借りて、ドストエフスキーは、精神的よろこびは、物質的よろこびを上まわるか、という根源的な問いを発している。
どうして、「反抗」をやめて、世の権力に「服従」しないのか、を問うている。

大審問官の口を借りて、ドストエフスキーは、なぜ、「奇跡」、「神秘」、「権威」の力を使わなかったのか、と、イエスを罵る。

たしかに、「賢い悪魔」の3つの問いに、イエスは、『申命記』のドグマを引用しているだけで、真面目に答えていない。

しかし、実体のない「奇跡」、「神秘」、「権威」なんかも、妄想の世界の外では、まったく無力である。頼るわけにはいかない。大審問官は、民衆をバカだバカだとささやいているだけである。

ドストエフスキーは、イワンの口をかり、『マタイ福音書』の非合理性を、暴いているのだろうか。

この章に、私は、ドストエフスキーの生きる立場の迷いを感じる。迷っているからこそ、小説を書かざるを得ないのだろう。迷いを、登場人物に叫ばせている。

私自身は、「奇跡」、「神秘」、「権威」に、なんの魅力も感じない。悪魔の3つの問いにも興味がない。
悪魔に正直に答える必要も感じない。
不都合な時代には、「めげない」、「ずぶとい」、「しぶとい」こそ、生きる力である。