猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

アメリカ史の反知性主義のヒーローを追う森本あんり

2021-03-31 23:13:29 | 宗教


森本あんりは、『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)のあとがきで、「本書は結局のところ、アメリカ史に登場する反知性主義のヒーローを追ったものだ」と言う。キリスト教の運動史と読んではいけないのだ。

森本が「反知性主義のヒーロー」を追うのは、あとがきを読むと、今の日本に胸のすくような面白いヒーローがいないからだ、とわかる。権力や権威に逆らい、堂々と自分の意見を述べる人が日本にいないからだという。それで、アメリカの「反知性主義のヒーロー」を追うのだという。

確かに、いまの日本人は委縮して面白くもおかしくもない人が多いように見える。しかし、戦前の日本のように、大言壮言して、国民を戦争に導いていくのも困る。昭和天皇が言うには、太平洋戦争(日米戦争)に突入し日本が負けたのは、自分に責任があるのではなく、日本軍に下剋上が起き、みんな勝手に暴走したからだという。そういう昭和天皇も、ずいぶん無責任な人間だと私は思うが。

森本あんりの目からは、戦国時代にさかのぼっても、乱暴者や陰謀家ばかりで、面白い人が日本にいないのだろう。武士は人殺しを職業としていたのであり、自分の安全を確保して、相手の命を奪うには、陰謀しかない。真実を追えば、彼らは、決して、胸のすくようなヒーローではない。

その点、アメリカの信仰復興運動(リバイバリズム)のヒーローは、キリスト教をネタに人びとを一時的に熱狂に導くだけで、国民を抑圧するわけでもない。ヒーローのする悪さは、せいぜい、お金儲けだけである。森本は、第6章に、第3次信仰復興運動がビジネス化したことを書いている。

森本は、信仰復興運動の熱狂は民主主義の原点、平等の原則を人々に思い出させ、民主主義を固める、と主張する。この点をもって、森本は反知性主義がアメリカの民主主義のなかで、一定の役割をはたしたと主張する。

いっぽう、森本は、第6章に共産主義者フリードリッヒ・エンゲルスによる信仰復興運動の批判を紹介している。

《宗教はあの世における幸福を夢みさせることで、この世の苦しみや不正から目を逸らせる効用を持つ。貧困と重労働にあえぐ庶民を宗教のアヘンで眠らせておくことは、支配階級にとって不可欠の統治手段なのである。》

確かに、現在のアメリカの政治を見ていると、キリスト教原理主義が政治家に利用されている。

私は、悪さをしない熱狂はあった方が楽しいと思う。

熱狂が別に宗教である必要がない。世直し運動でも良い。世直し運動の高揚と衰退とを通して、人びとが少しずつ賢くなれば良い。

また、熱狂が快い興奮ではなければならない。苦しいものであってはならない。

恋に落ちるという経験がなく結婚する人を、私は可哀そうに思う。私のめいは、恋をせずに結婚し、離婚し、シングルマザーとして必死に娘を育てている。食べるものも食べていないのか、美しかった顔はどす黒くなって頬骨が飛び出ている。

アメリカの平等主義はプロテスタントの教義からきたのではない

2021-03-30 23:12:14 | 宗教


昨日の私の疑問は、アメリカの平等主義はプロテスタントが生んだのか、という疑問である。というのは、プロテスタントの本流であるカルヴァン派は、人間は生まれながらにして平等でないと考えるからである。神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする。マックス・ウェーバーは、神の偏愛を知ることができないから、不安に駆られて人は利殖のための利殖に走る、そして、それが資本主義の精神だと言う。

私は、もともとプロテスタントにいろいろな派があって、カルヴァン派のニューイングランド支配に反抗するなかで、平等主義や反知性主義がでてきたのではないかと、と思う。

森本あんりは、『反知性主義』(新潮選書)で、そうではなく、プロテスタンティズムの変質だ、プロテスタンティズムの土着化だ、アメリカ化だという。

同書のプロローグに、森本はつぎのように書く。

《はじめ大陸の改革派神学の中で語られた「契約」は、神の一方的で無条件の恵みを強調するための概念だった。人間の応答は、それに対する感謝のしるしでしかない。》

《ところが、ピューリタンを通してアメリカに渡った「契約神学」は神と人間の双方がお互いに履行すべき義務を負う、という側面を強調するようになる。》

これは、救いが神の気紛れとする「改革派(カルヴァン派)」のドグマから外れている。人が神に契約を守れと迫ることができるからだ。しかし、旧約聖書を読むと、ユダヤ教は神に契約を守れと叱っているところがある。「改革派」のドグマから脱皮するのは当然ではないか。

プロテスタントに、ルター、カルヴァン以外の系譜がいたとすれば、話しが変わる。そして、アメリカにいろいろな思いをもった人々が押し寄せ、るつぼと化して、まざりあって現在のアメリカが生まれたとした方が自然な解釈ではないか。神の重荷から脱却して、人間中心のアメリカになっただけではないか。マックス・ウェーバーも森本あんりも、保守的プロテスタント(=改革派=カルヴァン派)を過大評価していないか。

森本あんりは同書の3章でつぎのように書く。

《ルターが論じた「キリスト者の自由」は、宗教的な領域における自由であって、その自由が一直線に市民的自由へと発展を遂げたわけではない。彼の思想に共感した農民たちが領主への反乱を起こすと、ルターは容赦なく「盗み殺す農民暴徒ども」を打ち殺すよう勧めた。》

ルターは南ヨーロッパによる教会支配に逆らっただけで、王や貴族の支配に対する農民の反乱はルターによって引き起こされたのではない。無学の農民がみずから反乱を選んだのであって、トーマス・ミュンツァーなどの一部の神学者がそれを助け、殺されたのではないか。そして、抵抗し迫害された人々の子孫がアメリカに逃れたのではないか。

森本あんりは、同じ章に、つぎのように書く。

《宗教改革の中でも、ルターやカルヴァンはいわば主流派であり、その限り穏健な部類に属する。彼らは、聖書や伝統の理解に関しては大胆な改革を唱えたが、社会の中で教会の占めるべき位置については、中世的な理解をほとんどそのまま踏襲している。この点に大きな異議を突きつけたのが、宗教改革のもう一つの勢力である急進派で、その代表格が「アナバブテスト」(再洗礼派)であった。》

森本あんりは、5章に、つぎのように書く。

《もともとプロテスタントは「聖書のみ」を掲げて出発しているが、アメリカではこれが特定の教義を掲げない「神学なし」「信条なし」という意味になる。》

もともとプロテスタントは支配階級の外にいたのだから、文字は読めず、聖書が正しいのなら、こう書いてあるという思い込みから、生まれた信仰ではないか。「神学なし」「信条なし」は当然の帰結ではないか。

アメリカで、キリスト教が土着化したというより、ヨーロッパ大陸から逃げてきた人々が、旧来の王侯貴族がいないアメリカで争い、神学によらずに、平等を求めていったと考えたほうが良いのではないか。だからこそ、カトリック教徒のトクヴィルも、平等を求めるアメリカの民主主義に人類の未来を見たのではないかと思う。

アメリカの平等を求める原動力はどこにあるのか、『反知性主義』を読んで

2021-03-29 23:10:20 | 思想



森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)を何度も読み返すうちに、疑問が生じた。アメリカが「平等の国」ということと、「プロテスタントの建国した国」であることとが矛盾するのではないか、ということである。

森本あんりはカルヴァン派をプロテスタントの本流ととらえている。しかし、カルヴァン派は人間が不平等に作られているというドグマ、予定説をもつ。カルヴァンによれば、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が、あらかじめ決められているとする。人間は神の前で平等でないのだ。

マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店)で、金持ちがますます金持ちになることが正しいと主張している。彼の言うプロテスタンティズムはカルヴァン派のことである。カルヴァン派は、欲望のための際限のない欲望を肯定するブルジョアジーのためのキリスト教の1セクトではないか。

私の疑問は、宇野重規が『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)で主張する、平等の国アメリカと矛盾するのではないか、ということである。

森本あんりは、『反知性主義』の第3章に、つぎのように書く。

《実のところ、植民地時代のアメリカは、何とかして「神の前での平等」が「社会的な現実における平等」という現実に直結しないようにと、必死の努力を続けていたのである。もし万人が社会的平等を主張したなら、上に立つ者の権威はどうなってしまうのか。政府や王や教会を敬う人はいなくなり、体制転覆の革命が起き、アナーキー(無政府状態)が生じるのではないか。これが彼らの恐れていたことだった。》

このアナーキーを恐れていた「彼ら」は、アメリカで支配者の立場にたった裕福なプロテスタント、カルヴァン派ではないか。彼らは、「神の前での平等」さえ、否定していたのではないか、という疑念である。

裕福なプロテスタントに搾取されたプロレタリアートこそが「平等」を求めたのではないか。字が読めず、英語も話せない、無学の貧しい移民が「平等」を求めたのではないか。

キリスト教はもともと字も読めない無産階級(プロレタリアート)のものだった。新約聖書は金持ちへの怒りに満ち満ちている。しかし、彼らは、金持ちの施しによってしか生きていけない弱みを抱え、金持ちたちを皆殺しにできなかった。

歴史的には、キリスト教徒は財産の共有を求める叛乱を何度も何度も起こしている。『使徒行伝(Πράξεις τῶν Ἀποστόλων)』の5章1節から11節は、キリスト教徒の共同体に自分の財産を正直にすべて捧げなかった金持ちアナニアとその妻を使徒ペテロが殺したという話しである。

カルヴァン派だけがプロテスタントではない。カルヴァン派から急進派と忌み嫌われたアナバプテストやクエーカーやメソジストがいる。彼らが「平等」を求めたのではないか。

新約聖書には「神の前の平等」なんて書いてない。『マルコ福音書』『マタイ福音書』『ルカ福音書』『ヨハネ福音書』には、単に、あなたがたは偉そうにするな、人々に仕えよ、とイエスが使徒たちに言ったと書いてある。すなわち、キリスト教徒の間に上下関係があってはならない。これが、ヨーロッパからアメリカに逃げてきた人々の求めた「平等」ではないか。

それを裕福な人々は抑え込もうとして、カルヴァンの「予定説」を利用しただけではないか。「神の前での平等」が「社会的な現実における平等」という現実に直結しないようにと、必死の努力を続けているのは、森本あんり自身ではないか、という疑念を私はもつ。

同じように、「機会平等」は現実の「不平等」を肯定するためにウソではないか。

森本あんりはカトリックをバカにしてつぎのように書く。

《プロテスタント教会には、カトリックのような修道院も存在しない。修道士として出発したルターは、あえて元修道女と結婚し、世俗社会に暮らす者にも修道者と同じように神に仕える道があることを示した。》

修道院は、貧富の差がある現実の社会を否定し、自分で自分の食べるものを作り、搾取を否定する者たちの集まりである。カウツキーによれば、修道院も土地があるから自活できるのであり、豊かな収穫が得られるようになると、共有と平等を否定する「組織としての教会」が動き出し、上下関係を否定する修道士を抑圧し、蓄えた富を奪い取る事態となる。「カトリックのような修道院」に、悪意に満ちた森本あんりの偏見を感じる。修道院自体は何も悪くない。

反知性主義とは、難解な知識で飾り立てた権威に反発する直観である。それを「熱病」と断定するのではなく、反知性主義の背後にある真実「不平等の存在」を弾劾しないといけない。アナーキーは何も悪くない。

「許す」という単語の多義性を英単語から見る

2021-03-29 00:29:19 | 思想


私の所に話にくる青年が、大学を受験すると言ったので、彼のために、英単語から動詞を抜き出し、基本単語集を作成した。そのとき、日本語の「許す」にあたる英単語が多いことに気づいた。

 “allow”
 “permit”
 “excuse”
 “pardon”
 “forgive”
 “tolerate”

私は、違う単語は違う意味だと思う立場なので、その違いを考えてみた。

“allow”と“permit”とは、禁止されていることがあって、それを破ることの許可を得ることだ。この2つの違いは、“allow”は個人的な許可を得る場合を含むが、“permit”は公的な許可に限られる。

“excuse”と“pardon”とは、相手に許可を求めているが、大目にみてねという気持ちで、そんな禁止するほどのことではない、と行為の主体は思っている。“pardon”はより丁寧な言い方になる。

“forgive”は、犯した行為を罰しないことをいう。犯した行為をしても良いと認めたわけではないので、再びしてはならない。

“tolerate”は、英英辞典では、allow or endure without protest とある。行為を好ましいと思わないが、我慢をして、とがめないという意味になる。

岩波の国語辞書を開くと、「ゆるす」に①から④までの意味が書かれ、①が次の4つにさらに分かれている。
(ア)願いなどを聞き入れる。“excuse”と“pardon”とに近い。
(イ)罪・とが・負担を免ずる。“forgive”に近い。
(ウ)禁を解く。“allow”と“permit”とに近い。
(エ)体を相手に任す。これは性的な行為に同意することで、上記の英単語には該当しない。

“tolerate”の用法は岩波の辞書に見当たらない。

森本あんりは『不寛容論』を書いたが、この「寛容」は“tolerate”の名詞形だと思う。「寛容」は我慢をしているのであって、我慢の限界に達すれば、衝突が始まる。

宇野重規は『トクヴィル 平等と不平等の理論家』で、「リベラル」の原義を「寛容」としていたが、「我慢している」というニュアンスはそこにあったのだろうか。フランス語の辞書を出して調べると、「我慢している」というニュアンスはない。気前が良い、鷹揚なというニュアンスである。

日本語の「許す」という概念は非常にいい加減なものだと思う。日韓基本条約を結んだから過去の行為は「許される」というのは甘い。条約は国と国の取引であるから、国民の一人ひとりが許したわけではない。国民が国に縛られるわけではない。また、我慢しているのかもしれない。

ウーウーという うなり声が聞こえてきた暖かい春の日

2021-03-27 22:25:00 | 愛すべき子どもたち


きょう、暖かい日和にさそわれて散歩していたら、ウーウーという大きなうなり声が聞こえた。
あたりを見回したら、釣りの老人がひっくり返って池に頭を突っ込んでいた。みんなが来て引き揚げた。居眠りをしたらしい。しかし、声のくる方向と違う。
池から離れてなだらかな坂道を上りはじめても、また、ウーウーという大きなうなり声がついてきた。後ろを振り返ると、おばあさんが杖を突きながら、ついてきている。おばあさんが、こんな大きなうなり声を出せるのだろうか。
坂道を登りきると、あたりが開けて、子どもたちが水場で遊んでいる。うなり声は近づいてきた。車いすの若者だった。数人でかわるがわるに押していた。ときどき、ウーウーがウッウッに変わった。喜んでいるのだろう。

言葉がでないというのは、本人にとって とても もどかしいだろう。虐待されても訴えることができない。5年近く前の相模原のやまゆり園殺傷事件では、言葉が話せないという理由でだけで、元職員の一人によって、殺された。そうでなくても、知らない人に、自分の気持ちをわかってもらえない。

なぜ、言葉を発せられないかが、私には不思議である。

言葉が発生られないのには、肉体的な欠陥によるものがある。NPOで私の担当したダウン症の子に、何を話しているのがわからない男の子がいた。はじめ、発音の矯正しようとムキになったが、ジェスチャーで意思を表現ができるし、人の言うことは理解できる。矯正をやめた。「かわいい」という言葉だけはハッキリと言えるので、子どもたちのなかでは人気があった。

ジェスチャーは立派な言語である。話すべき事柄が頭の中で作り上げられているのだ。

つぎに言葉が発せられない子には知らない人への警戒心からくるものがある。これは色々な程度に差がある。警戒心を解いてあげれば、話すようになる。

音声器官や聴覚に問題もなく、誰とも話せない子どもに、心理的な問題でなく、知的な問題の場合がある。ジェスチャーもないから知的な問題であることがわかる。ソーシャルワーカーの人によれば、30歳までが勝負となる。言葉が話せないとグループホームに入るのが難しくなる。

私の担当の子どもに言葉が出ない子がいた。はじめて会ったのは、中学1年に上がる前の春先であった。前任者の手首をつかんで離さないので、私が引き受ける羽目になった。女のスタッフだったので、大きくなった男の子がつかんで離さないのが、気持ち悪いという。その前任者に指導をみせてもらうと、その子の手首をつかんで指導するから、その子も彼女の手首をつかむのだと思った。

前任者は、彼が字を読めないし書けないことにムキになっていた。しかし、その前に言葉を発せられないのが問題だと私は思った。いまでも、字を形として認識できるが、音声や意味を伴う記号として、理解できない。

その男の子はいま22歳になっている。毎週金曜日の夕方には親に送られて私に会いにくる。1時間近く会話の練習をする。といっても、同じ簡単な会話のパターンを、動詞を中心に私が繰り返し、ときどき、彼に質問をする。彼がすきなのは、私が「やきいもー♪、やきいもー♪、ホカホカの焼き芋いりませんか」というと「大きい焼き芋ください」と答えるパターンである。練習の最後は、きょう1日に起きたことや、これから起きること、家で何を食べるのか、お父さんやお母さんといつも何をしているかなどを聞き取り、口頭日記として書き取り、親に渡すのである。答えは、毎回同じようでも、少しずつ変化している。

とにかく、とても苦労したが、その子は、話せるようになった。ところが、私のまわりのスタッフが彼の話せることに気づいていない、ということに、最近、私は気づいた。大きくなった彼は、いまだに、飛びはねるし、ウーウーとうなるからだ。それが、彼にとって、とても楽しいことなのだが。

きょう会った車いすの若者にも、もしかしたら、話せる誰かがいるのかもしれない。