猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

岸見一郎・古賀史健の『嫌われる勇気』にかかわる私の失敗

2020-07-31 22:44:59 | こころ


NPOで高校3年の子が、岸見一郎・古賀史健の『嫌われる勇気』(ダイアモンド社)の本を買って読んでいる、と言ったとき、私は、つい、うっかりしてネガティブなことを言ってしまった。その子を傷つけてしまった。

この本の副題は『自己啓発の源流「アドラー」の教え』である。

私はアドラーが好きでない。数年前に、NHK Eテレの『100分de名著』で、岸見一郎がアドラーの著作を解説するのを聞いて、子どもの悩み解決に使えるかもと思い、アドラーの著作を読んだが、使えないというのが私の判断だった。アドラーは攻撃的である。優秀な子どもや強い子どもには向いているだろうが、そのどちらでもない子どもたちには向いていないと感じて、そのままになっていた。

私のNPOにくる子どもたちの ほとんどが本を自分で読めない。高校3年生の彼が、お金を払って自己啓発の本を読むだけでも素晴らしい。彼の話を丁寧に聞いてあげれば、彼の心の成長に役立ったであろうし、私にとっても楽しい心の交流ができただろう。本当に私は軽率だった。

その日、『嫌われる勇気』を図書館に予約した。予約順位は66番だったが、横浜市の図書館に56冊あるので、きょう、予約25日目に手に入った。出版されて6年半がたっているにもかかわらず、すごい人気である。

表題の『嫌われる勇気』は、「嫌われることを恐れない勇気」の意味で、「嫌われろ」という意味でない。他人の意思でなく、自分の意志で動く「勇気」を持とうということである。自分の意志で動くには「勇気」がいるということを認めているのだ。

岸見一郎・古賀史健は、アドラーの毒を弱めて、弱い人間でも自己啓発できるようにしている。結局は普通のことを言っている。わたしは、この「普通」の自己啓発には、賛成である。

ただ、本書のはじめのほうは、価値の転換を引き起こすために、ちょっと極端なことを言っている。「大声を出すために、怒った」という考えには無理がある。

人間の行為は、すべて目的がある、あるいは、目的をもてという教えは、強い者の考え方である。人によっては、そういうことをすると「うつ」になったり、強迫的になったりする。自分が精神的に追い詰められなくても、人を追い詰めるかもしれない。自分は無理をしないし、他人にも無理させないのが、良いと思う。

人間の脳には、統合された自己というものがあるわけではない。脳全体の多数決で自己が維持されている。したがって、意識的に自分を引っ張っていこうとすると、意識的に動けない自分との争いが生じ、動けなくなるかもしれない。

本書によって、自分の劣等感の本質を理解し、不要な自己嫌悪を棄て去ることができれば、岸見一郎・古賀史健のねらいの半分が達成したのでは、と思う。また、劣等感に陥る要因に、他人との競争意識がある。競争は不要だという指摘も、納得していただけると、それだけ、生きるのに楽になる。

私は運動神経が極端に鈍い。体育の時間にできないことがいっぱいある。おかげで、同級生に愛された。秀でていないと人に愛される。劣っていることは、悪いことではない。劣等感は不要な感情だ。

また、上下の人間関係でなく、横の人間関係を作れというのも、人生を楽しくする本書の実践的な知恵である。

本書のはじめの教条的部分は、そういう考えもあるのかと、軽くいなし、後半の普通の部分をゆっくりと読むのがいいと思う。

国の借金は 国民の借金ではなく 政府のモラル崩壊

2020-07-30 21:31:46 | 経済と政治
 
2日前の朝日新聞『(耕論)羊飼いの沈黙』が物足りなかった。
 
この(耕論)は国の借金をテーマにしている。「国の借金」は、経済の問題というよりはモラル崩壊の問題ではないかと思う。この点で、法学者や社会学者あるいは哲学者が参加した方が良かったと思う。
 
論者の一人、平野未来は「でも、膨大な借金という『負の遺産』だけを次世代に残してしまうことはいけないと思います」と言っているが、見当ちがいの発言である。なぜ、この平野に朝日新聞がインタビューしたのか、理解しがたい。
 
2014年に麻生太郎が「国の借金」は「国」が民間に借金することだと言っている。今年になって、この麻生の主張がネットで飛び交っている。この主張には、国の借金を国民が返す必要はないという考えが潜んでいる。私も、国民が返す必要がないと思う。
 
「借金」とは、「返す」約束にもとづく富の移動である。経済から見れば、富の総和は同じだから、返さなくとも何の問題も生じない。「返さない」は信用を傷つける。モラルの問題である。
 
貸し主は、借り主の「国」や政策担当者を訴えるしかない。裁判を行って、賠償金を勝ち取れるかという問題でもある。責任はだれにあるかである。自民党や公明党に投票しなかった国民もいるから、国民にまで責任をなすりつけることはできない。
 
返されなかった借金の結末は、安倍晋三や麻生太郎を禁錮刑にするか、死刑にするか、そうでなければ、怒った債権者が安倍や麻生の目玉をえぐり取ることで終わりそうである。
 
そうでなければ、「革命」が起きて、すべて、チャラになるだろう。
 
国の借金は、借り手と貸し手のモラルの問題だけで済まない、と私は思う。借り手が、借りたお金をどう使ったかが、さらに問題である。
 
景気浮揚のために、政府が、お金を借りて、一時的に財政出動するというのは、J. M. ケインズの景気対策である。景気がよくなれば税収が増えて借金を返せる。財政政策で、景気の波を平滑化したことになる。
 
しかし、1990年にバブルがはじけて以降、政府は借金をずっと返せなかった。政府は借金を繰り返した。政府の借金が国民にばらまかれて、景気が浮揚したのではない。政府から一部の人にお金が流れ、富の偏在が増したのである。経済的格差が増したのである。
 
これに反対して、2009年に民主党が、「コンクリートから人へ」という標語で、政権を勝ち取った。残念ながら、2012年の暮、自民党や公明党が再度政権を勝ち取ると、政府は爆発的に借金をするようになる。政権獲得に貢献した人たちにお金をより配るようになったからである。
 
東日本大震災の復興工事でも、福島第1原発事故の除染でも、政府の財政支出はホステスとの飲み代、愛人の生活費、レクサスや外車の購入費となったのである。これでは、マクロ経済理論がどんなに饒舌であろうとも、景気浮揚の効果が期待できず、モラル崩壊を生むだけである。
 
新型コロナ対策の補正予算でも同じモラル崩壊が起きつつある。
 
『(耕論)羊飼いの沈黙』は、モラルの崩壊が国の借金を引き起こし、国の借金がさらなるモラルの崩壊を生むことに、光をあてるべきだった。

なぜ天皇は一般市民にならなかったのか、本郷和人『天皇にとって退位とは何か』

2020-07-29 23:18:55 | 天皇制を考える

先日、駅前の本屋の前で古本市が立ち、本郷和人の『天皇にとって退位とは何か』(イーストプレス)を500円で売っていた。2017年1月27日出版であるから、3年半で、定価1400円が500円に下がったわけだから、ちょっと気の毒に思う。

本書は、平成天皇が2016年8月8日にNHKにビデオメッセージを送り、公務が忙しいから天皇をやめたいと国民に向けて言い出したことに対して、歴史学者の立場から、「天皇の退位とは何か」を国民に提示したものである。

私からみれば、天皇が終身制か否か、別に憲法の規定がないから、やめたければ、さっさとやめれば良いと思っていた。

本郷和人から見れば、右翼が、退位問題について、どうどうとウソの歴史を語っているのに、歴史学者の誰もが、天皇制を認めたことになるのを恐れて、退位問題について発言しないのに、我慢ができなかったようだ。

本書のアマゾンの読者評価は非常に低いが、それは、右翼しか買って読まなかったからだろう。じつは、私は、その古本市の立ち読みで、読む価値ありと判断し、図書館に予約した。きのう、本書が手に入り、1日かけて読んだ。そして、読む価値ありの私の判断は正しかったと確信した。

本郷和人の批判は、平成天皇の退位の有識者の議論は、明治維新以降の「先例」とか「皇室典範」とかに基づいており、それは、結局、戦前の国体を引き継ぐか否かという、すなわち、右翼の国家観を復活させるか否かにすぎない、ということにある。政府の有識者会議に歴史学者が含まれていないのである。

明治以降の天皇制の慣例は、あらゆる点で、それ以前とかけ離れているという。「先例」に基づいていないのだ。

天皇が実権をもっていたのは、平安時代の前までであると本郷は言う。実権とは、政治と祭祀に加え、軍事を行う力である。

天皇が実権を持たないということは、象徴であるということである。したがって、万世一系の天皇制というが、象徴であるからこそ、続いたと本郷は言う。

もちろん、象徴天皇が必要だとみんなが思っていたのではなく、多くの時代の庶民は、天皇の存在さえ気づかなかった。単に、京都の住民だけが、和歌などの お稽古ごとの先生として天皇がいることを知っている時代もあったわけだ。

天皇親政復活をはかった南朝・北朝分裂期でも、足利尊氏の家来の高師直は、「天皇を島流しにしてしまえ」「天皇が必要ならば金で鋳るか、木でつくるかしろ」と言っていたと本郷は言う。

私も、象徴ならそれで良いと思う。いまなら、AIを繰り込めば挨拶ぐらいしてくれる金ぴかのロボットを作れると思う。

明治以前は、天皇の退位はめずらしいことではないと本郷は言う。象徴であることは、誰かによって利用できることである。藤原摂政家が天皇を操ったことは、子どものとき教科書で教えられたが、もうひとつは、上皇が天皇を操ることもおこなわれ、これを院政という。天皇を退位して、上皇になるということは、そういうことだ。

操つる側にとって、操られる天皇は、幼いか、バカでないと困る。

明治維新は、薩摩や長州の下級武士たちによる軍事クーデターであるが、このとき、天皇を利用し、尊王攘夷の大義名分で、幕府軍に勝った。

したがって、伊藤博文は、天皇制が自分たちに逆らう勢力に利用されないよう、天皇を実際の政治から遠ざけ、祭司に役割を限定し、そして、天皇が退位することを許さないよう皇室典礼をつくったと本郷は考える。上皇など作らなければ、天皇家が力をもつことないと考えたわけである。

ところが、伊藤博文は、自分たちを天皇の権威で守るために、操り人形の天皇を絶対的君主かのような明治憲法(大日本帝国憲法)をつくってしまった。
維新の元老たちは、天皇が操り人形であることに合意しており、集団指導体制で国民を統治し、幸徳秋水ら革新派を天皇暗殺容疑で根こそぎ殺してしまうことができた。

ところが、時代がすすみ、明治憲法を言葉どおりに信じる者たちがいて、昭和の混乱が起きる。昭和天皇がいかにバカで駄々っ子であったかは、NHKのドキュメントのほうが詳しい。

日本国憲法は、天皇を「象徴」と第1条に明文化するだけでなく、第6条に「国会」の、「内閣」の、第7条に「内閣」の操り人形だと書く。

その平成天皇がなぜ退位を希望したのか、なぜ、退位後、皇室と縁を切り、一市民とならず、上皇になろうとしたのかを、本郷は色々と推測する。

平成天皇は安倍晋三にバカにされながら操り人形を演じることに疲れたこともあるのではないかと、私は思う。

しかし、昨年、平成天皇は退位したが一市民とならず、上皇となった。また、令和天皇は、明治に作られたニセの儀礼を恥ずかしげなくも、この現代に、繰り返した。ふたりとも、人間として生きることを選んでいない。

アマゾンの評価に騙されず、本郷和人の本書を読んだ方が良い。

小早川秋聲「國之楯」、死者の魂を喰う邪鬼と闇に横たわる軍人

2020-07-28 22:50:39 | 戦争を考える
 
NHK《BSプレミア》で、『極上美の饗宴 闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲「國之楯」』(2011年)の再放送を深夜に見た。
午前0:45からであったにもかかわらず、私は、小早川秋聲の鬼気迫る絵画に魅せられ、見続けてしまった。
 
『國之楯』は、1943年、小早川が、陸軍の要請で 従軍画家として ビルマ戦線に向かい、帰国して翌年に仕上げ提出したが、受け取りを拒否された戦争画である。
 
NHKの番組タイトルは「横たわる兵士」とあるが、腰に軍刀を指しているから、「将校」である。それも位階が高い将校と思われる。顔は寄せ書きのある日章旗で覆われ、革の手袋をした手は胸に置かれている。
その横たわる将校のまわりが黒で厚く塗りつぶされている。
黒のつくる闇が、この絵の鬼気迫る迫力を生みだしている。
 
番組は、絵の裏に書かれた画題の変遷から、その後、二度の改作があったとする。軍部に届けたときの画題が『軍神』、その後、『大君の楯』に、そして、1973年の最後の画題が『國之楯』である。
 
小早川は、どのような思いで、この絵を描いたのか? なぜ、軍部は受け取りを拒否したのか。
それをNHKの番組は発見された下絵や赤外線調査などから探る。
アニメ『火垂るの墓』をとった高畑勲が番組の進行役を務める。
 
軍人のまわりを黒で厚く塗りつぶし、闇に何かが隠されたと番組で聞いて、突然、多数の邪鬼が、餓鬼が、死者の魂を喰うために集まっているさまが、闇の中に私には見えてきた。昔、プラド美術館でみた、黒い絵(Pinturas negras)の邪鬼かと思ったが、あとで確認すると違う。目の前に浮かんだ邪鬼は正面を見据え、頭の上が盛り上がっていて、落ちくぼんだ目は大きく開けられ、口は舌がはっきり見えるほど、上下に開けていた。誰の絵の邪鬼が見えたのか、私にはわからない。
 
番組では、黒く塗りつぶされたのは、横たわる軍人のまわりの桜の花と、風で画面いっぱいに舞い散る桜の花びらだ、と、赤外線写真からわかる。
これが、番組の進行役にアニメ『火垂るの墓』の高畑勲監督をNHKが選んだ理由でもある。
NHKの番組制作者は、『軍神』を戦争の悲惨さを描いた反戦画を捉えたのだと思う。
     ☆   ☆   ☆
 
小早川はもっと単純に考えていたのではないか。
『軍神』は、お国のために桜の花と散る軍人を描こうとしたのではないか。そして、その絵の受け取りを軍部に拒否されることで、軍に対するわだかまりを持ち、戦後、さらに、世間に怒りをもって、桜の花や花びらを黒で塗りつぶしたのではないか。
 
1944年、絵を受けとった軍部は、ビルマ戦線でのインパール作戦の悲惨な状況を知っていて、「桜の花びらとなって死ぬ軍人」の絵を受けとる心の余裕がなかったのではないか。
 
小早川も、『軍神』の返却後、無謀なインパール作戦で日本軍が負け いくさをし、退却のなかで、兵士が飢えと病(やまい)に倒れ、そればかりか、死に行く仲間を肉として、途中の村人に引き渡し、食べ物を得ていたことなども知ったのではないか。
 
ウィキペディアで調べると、小早川秋聲の母は、子爵の九鬼隆義の妹で、恵まれた少年時代、青年時代を送り、欧米や中東や中国を旅している。
陸軍に志願し、陸軍中尉までになっている。
小早川は、関東軍の寺内寿一大将、荒木貞夫大将とも親しく、1931年から1943年まで、陸軍の従軍画家として、アジア各地に将校待遇で従軍している。
家族の話を聞くと、教養ある自由人で、大きな邸宅を京都に構えていた。
 
小早川はロマンチストとして『軍神』を描き、軍部に受け取りを拒否されて、現実を意識し、さらに敗戦で自分が否定され、しかし、自分を変えられず、敗戦で変身した世間に怒っていたのではないか、と思う。それが、桜の花びらを黒で塗りつぶし、横たわる軍人を闇の中に置いた理由だと思う。
 
小早川の絵の闇の中に、死者の魂を喰らう邪鬼と餓鬼を見た私は、間違っていなかったと思う。
 
[参考文献]
白石敬一:第2次世界大戦における日本の従軍画家に関する一考察
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育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その6 基本的人権

2020-07-25 22:17:12 | 育鵬社の中学教科書を検討する
 
育鵬社の中学校教科書『新しいみんなの公民』は、第2章第2節で日本国憲法の基本的人権を扱う。
 
著者たちは、第1節で大日本帝国憲法を評価しているにもかかわらず、第2節で基本的人権について、現在の日本国憲法と戦前の大日本帝国憲法の比較を行っていない。それは、基本的人権に関して、大日本帝国憲法は、ほとんど何も規定していないからである。
 
日本国憲法と大日本帝国憲法の構成には類似性がある。日本国憲法の第2章が「国民の権利及び義務」で、大日本帝国憲法の第3章が「臣民権利義務」になっている。単に、「国民」が、戦前、「臣民」であっただけでなく、大日本国憲法では、ほとんどの権利を「臣民」に認めていない。認めていないだけでなく、「臣民」に徴兵の義務を課しているのである。
 
大日本帝国憲法第20条《日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス》
 
この点に関して、教科書の著者は、つぎのように言及する。
 
〈国民に国防の義務がない徹底した平和主義は世界的に異例ですが、戦後日本が第2次世界大戦によるはかりしれない被害から出発したこともあり、多くの国民にむかえ入れられました。〉(56ページ目)
 
日本国憲法が「異例」だと、著者は書く。それに続く文、「戦後日本が第2次世界大戦によるはかりしれない被害から出発した」が不可解である。「被害」が動機であれば、復讐のため軍事力強化となり、多くの国民は徴兵制を望んだはずである。
 
私の子ども時代の記憶では、大人たちに「反米」という感情が残っていたが、それと同時に、戦争は無意味だった、帝国政府と天皇に騙されたという思いを大人たちは共有していた。もう二度と戦争に行きたくない、もう二度と子どもたちに戦争に行かせないという思いが、徴兵制廃止に賛成した理由である。
 
日本国憲法の第11条、第12条、第13条、第14条、第15条、第16条、第17条、第18条、第19条、第23条、第24条、第25条、第26条、第27条、第28条、第33条、第34条、第36条、第37条、第38条、第39条、第40条は、対応するものが大日本帝国憲法にない。対応するものがある場合でも、なんらかの制限がついている。
 
大日本帝国憲法のもっとも大きな基本的人権の制限は、つぎである。
 
大日本帝国憲法第31条
《本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ》
大日本帝国憲法第32条
《本章ニ掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴触セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス》
 
大日本帝国憲法では、「天皇の大権」と「軍の法令と紀律」が、基本的人権の上にあるのだ。
 
大日本帝国憲法にない「法のもとの平等」について論じてみよう。
 
日本国憲法第14条
《すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
○3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。》
 
これに対して、育鵬社の著者は、教科書から「政治的、経済的又は社会的関係において」の句を省く。そして、公民教科書につぎのように書く。
 
〈一方で、憲法は人間の才能や性格の違いを無視した一律な平等を保障しているわけではありません。憲法が禁止する差別とは、合理的な根拠を持たないものと考えられているからです。行きすぎた平等意識は社会を混乱させ個性をうばう結果になることがあります。〉(64ページ目)
 
〈憲法が保障する平等は、合理的な根拠をもたない差別を禁止するものだと考えられています。〉(68ページ目)
 
私には、合理的な不平等というものが、想像できない。
 
育鵬社の著者たちは、つぎのようにのべる。
 
〈男性または女性というだけで不合理な差別をうけたり偏見をもたれることは、あってはなりません。しかし同時、社会の風習や古くから伝わる伝統をすべて否定したり、性別を尊重しようとする個人の生き方を否定したりしてはならないでしょう。〉(65ページ目)
 
〈家族が単に個人の集まりでしかないと考えられたり、個人が家族より優先されるべきだとみなされるようになると、家族の一体感は失われていくおそれがあります。個人の多様な生き方を尊重する現代の社会はそのようなことになりがちです。現在の日本では、家族の形や役割に変化が見られますが、家族を維持していくことの重要性は、現代の日本人にも強く意識されます。〉(67ページ目)
 
〈外国人にも人権は保障されますが、権利の性質上、参政権など日本国民のみにあたえられた権利は、外国人に保障されません。〉(68ページ目)
 
上記の第1段、第2段は、日本国憲法14条だけでなく、暗に、下記を批判している。
 
日本国憲法第13条
《すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。》
 
日本国憲法第24条
《婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
○2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。》
 
教科書の著者たちは、「個人の尊重」「個人の尊厳」というものを理解できていない。
 
三段目の著者たちの主張は、日本国憲法の欠陥にも起因する。憲法第2章の条項には、「国民」という語が主語になっているものがある。たとえば、第13条や第14条では「国民」が使われている。
 
しかし、日本で働いている外国人から税金をとりたてている。また、在日朝鮮人、在日中国人は親や祖父の代から日本に住んでいる。「国民」の解釈を通じて、外国人の権利を救う必要があると思う。
 
日本国憲法第13条
《日本国民たる要件は、法律でこれを定める。》
 
   ☆    ☆    ☆
そのほか、教科書第2章第2節に、著者たちは、世界の国家を「全体主義国家」と「自由主義国家」に2分しているが、「君主国家」か「民主国家」か、そして、形式的に「民主国家」でも機能しているか否かで、見るべきでないか。
 
著者のつぎの記述に、私は納得できない。
 
〈日本をはじめとする自由主義国家は、国民が自由に移動し、職業を選び、事業を営み、自分で働いて得た財産を保持することを、国民の基本的な権利としています(22条・29条)。これによって自由な経済活動が保証され、経済発展が支えられています。〉(63ページ目)
 
[補遺]
米国では、戸籍がない。一人ひとりが、国籍をもつ。したがって、米国で生まれたことが、米国の国籍を持つ条件となる。
日本では、戸籍や住民台帳があり、「世帯」と「世帯主」という概念で個人が管理される。日本の「家族」は、政府が個人を管理するための手段として利用されている。
「個人」を尊重する米国で、家族が崩壊しているとは言えない。