猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

宗教は「共同体」願望から生まれたものでないだろうか

2021-12-30 22:36:51 | 宗教

市川裕の『ユダヤ人とユダヤ教』は、異なった価値観の世界を体系的に見せることで、私たちの社会を根底から考え直す機会を与える。

ユダヤ系の学者によっては「ユダヤ教は宗教でない」と本に書いているという。

キリスト教を基盤とした現代の欧米社会では、「宗教」は「世俗社会」から切り離された精神世界を律するもので、「信仰対象としての唯一神、世界観を含めた教義体系、礼拝行為を定めた儀礼体系、明確な信徒集団などの諸要素を備えたもの」を指しているという。

ユダヤ教やイスラム教では「啓示法」をもち、「宗教」と「世俗社会」と分離できない。「啓示法」とは、理念上は、人間が定めてた「法」でなく、超越的権威の「神」が与えた「法」のことである。じっさいには、権威をもつ法学者が「啓示法」を解釈して、「世俗社会」を律するという。

これは、「法」を社会の成員である人間たちが立案し施行するという、近代の民主制社会と合わない。

市川は、「ユダヤ教」を、エレサレム神殿がローマ軍に破壊されるなかで、ギリシア哲学に対抗することで成立したものとする。

ここでのキリスト教的「宗教」か否かは、「世俗社会」での生活を律するか否かにある。たぶん、キリスト教がローマ帝国の国教になったことで、世俗的権威の皇帝と宗教的権威の教会との両立をはかることで、「宗教」と「世俗」との分離がなされたのであろう。

じつは、私は別の見方から「宗教」をみている。市川は「宗教共同体」という言葉を、ユダヤ世界やイスラム世界に当てはめているが、「宗教」が成立する要因に「共同体」の維持あるいは構築の願望があるのではないか、と思う。キリスト教の教会も、同じ役割を果たしてきたのではないか、と思う。「唯一神」であるかどうかは重要な問題でない。教義も礼拝儀礼も後からついてきたものだろう。

日本での「新宗教」(新興宗教)について書かれた本を読むと、困窮に陥って入信した人たちが、そこから抜け出れないとある。それは、超越的権威に頼ろうとして入信したが、そこに同じような困窮に陥っている人たちとの共同体を見いだし、孤立を感じなくて済むからではないか、と思う。入信した人は帰属先をもち、孤独でなくなるのだ。

オウム真理教もそういう「新宗教」の1つである。「世俗」の学歴に劣等感を感ずることなく、権威をもった幹部を除き、みんなが平等であるという世界が実現される。

「共同体」の問題は、1つは、「共同体」の外に対して、被害者意識から、攻撃的になりがちである。1つは、本当の平等ではなく、内部に権威をもつもの、持たないものの上下関係が生じやすい。このような問題は、「新宗教」だけでなく、キリスト教の教会でも、生じる。

「信仰」は、個人の判断を排除し、権威に判断を預けがちになる。ということは、「信仰」を核とする「宗教」が個人にとって居心地がよくても、人間社会の問題を解決するのはどだい無理ではないかと私は思う。


ユダヤ教は「宗教」というより持ち運びできる「国家」と市川裕は言う

2021-12-26 23:30:41 | 宗教

(タルムード)

きのう、図書館で、約3年前に出版された市川裕の『ユダヤ人とユダヤ教』(岩波新書)に気づいた。新書本ながら、「ユダヤ教」について体系的に書かれた本である。自分のこれまでのステレオタイプ的なユダヤ人理解を壊す衝撃的本である。

通常のユダヤ教の解説本は、旧約聖書の世界について書かれているのだが、市川裕は、旧約聖書以降の世界について、ユダヤ人の歴史、信仰、学習と探求、社会を書く。彼は、日本におけるユダヤ教の理解は、西欧のキリスト教中心の史観にもとづくものであるという。

市川は、ヘブライ語聖書(旧約聖書)に書かれた世界が歴史的事実かどうかは問題にしない。彼の主張を私なりに延長すれば、キリスト教はギリシア語で書かれ、ギリシア的な世界観に基づくことになる。

新約聖書には、日常生活に対する規定がない。新約聖書の提示する世界は、ヘレニズム的普遍的である。私が読み取るのは貧困に苦しむ人びとの叫びである。金持ちを憎みながら金持ちの施しを期待せざる得ない人びとの声である。関心は精神的なものにある。

市川によれば、ユダヤ教はふつうの宗教ではない。精神的なものに限定されず、日常生活を含め、ユダヤ人が生きていくうえの指針であり、守るべき規範であるという。すなわち、ユダヤ人は、ヘブライ語聖書より、「ミシュナ」にもとづいて、生きてきたのである。ユダヤ人にとって、「ミシュナ」は持ち運び可能な「国家」であると市川は言う。

彼によれば「ミシュナ」は全6巻63篇からなる口伝律法集である。第1巻、第2巻、第5巻、第6巻は、神とユダヤの民と関係を律するが、第3巻は家族法で、第4巻はユダヤ社会維持の法で、裁判に関する規定、経済的紛争の法規定を含む。「タルムード」は、ラビ(律法学者)による解釈を添えた「ミシュナ」のことを言う。

J. D. サリンジャーの作品を理解するうえでも、なぜ20世紀に生まれたユダヤ人の国が「イスラエル」と命名されたのかを誓いする上でも、市川裕の『ユダヤ人とユダヤ教』は助けてくれる。


クリスマスのプレゼント

2021-12-25 22:47:47 | 社会時評

きのう、NPOで子どもと話していたら、うれしそうに、あす、クリスマスプレゼントを買うのだ と その子が言う。誰に買うのか、と聞いたら、自分に買うのだと言う。私は、お母さんに買うとか、お父さんに買うとか、弟に買うとかいう答えを期待していたので、拍子抜けてしまった。

私がカナダにいたとき、クリスマスイブが明けた朝、家族が互いにプレゼントを交換するのが、慣習だった。親からお金をもらって自分のポケモン・シャイニングパールを買うのなら、正月にお年玉と同じではないか。日本のクリスマスはどこか変だ。

確かに欧米のクリスマスも、現在、商売人の仕掛けるイベントになっている。しかし、それでも、クリスマスは家族やふだん付き合っているひととの愛の絆を確認し強め合う機会になっている。クリスマス映画は、みんな、ふだん欲どうしい、あるいは、意地悪なひとが、クリスマスの日に、ちょっとしたきっかけで、愛に目覚めることがテーマになっている。

クリスマスイブに彼女とホテルに行くと言うのも変だ。家族そろって家でちゃんとした食事をし、そのあと教会のミサに出かけるの慣習である。

たぶん、欧米人にとって、クリスマスは、町の住人が、昔、共同体の一員だったことを思い出す日でもあるのだろう。


カナダでの40年前のクリスマス

2021-12-24 23:54:00 | 思い出
 
40年前、私たちはカナダに4年間いた。
ファミリーが遠くから集まるのは10月の感謝祭。12月のクリスマスはいっしょに住んでいる家族がイエスの誕生を祝う。
 
24日の夕方には、kindergarden(保育園)の子どもたちが、イエス誕生劇をやる。物語は、星に導かれて羊飼いがいくと、馬小屋でイエスが生まれている、という物語である。見に行ったはずなのに、息子が羊飼いの役をやったのか、ヒツジの役をやったのか、遠いむかしで判然としない。
 
キリスト教徒でなかったので、私たちは教会に行かなかった。
 
25日の朝は家族同士がプレゼントを交換する。25日からクリスマスセールがはじまる。クリスマス・プレゼントの売れ残りを安く売るという理屈のようだ。町は活気につつまれる。私たちは、包装紙とかリボンとかクリスマスカードとか絵本を買った。
 
クリスマスの前まで、モールにサンタクロースがいた。無料で子どもたちと一緒に写真を撮られていた。
 
40年も前のことで、思い出そうとすると、デティールが消えていく。

サンタクロースは いるの?にどう答えるか、チャーチの場合

2021-12-24 23:53:24 | こころ
 
きのうの朝日新聞に、120年前のアメリカで、「サンタクロースは、いるの?」と8歳の子どもに聞かれて、社説で真面目に答えようとした記者の話があった。
 
この話は、森本あんりによると、アメリカ人にとってとっても有名な話だそうである。アメリカで「そうだよ、ヴァージニア(Yes, VIRGINIA)」と言うと、誰もがすぐに「サンタはいるんだよ(there is a Santa Claus)」と続きを返してくるという。
 
ヴァージニアは新聞社にそれを聞いた女の子の名前 Virginia O'Hanlonである。答えたのはチャーチ(Francis Pharcellus Church)というベテラン記者だ。森本は、次のように言う。
 
〈 南北戦争の悲惨さを伝えて記者になったチャーチは、迷信を排する冷徹な皮肉屋だったという。おそらく、日頃の自分自身に向かって書いたのだろう。そういう彼の内心の声を社説に据えて正面から世に問うたところに、世界の善を信じるこの新聞の矜恃が見える。〉
 
しかし、どう答えるべきかは、とても難しい問題だと思う。私にとって、サンタクロースは存在しないからである。聖書のどこにもサンタクロースのことは出てこない。北ヨーロッパにキリスト教が土着化したことによって、生まれた物語である。
 
私のNPOに通う子どもたちには、中学を卒業しても、「閻魔大王がいて、ウソをつくと舌を抜く」と信じている子がいる。存在しないものを、「そうだよ、いるんだよ」と答えることが、正しいとも思えない。
 
森本はつぎの問題も指摘する。
 
〈 少女は「サンタなんかいない」と言う子がいる理由も悟っていた。自分は何不自由ない暖かな暮らしだが、プレゼントなどもらえない子もいるのだ。19世紀末のニューヨークなら貧富の差は歴然としていただろう。〉
 
それだけでない。ユダヤ人の家庭では、クリスマスは別に祝う日ではない。クリスマスの日に寂しい思いをした子ども時代を語るユダヤ人も多い。
 
私の母も日蓮宗の信者だから、私はクリスマス・プレゼントもなかったし、神社に初もうですることもなかった。
 
この「サンタクロースはいるの」の話しがほほえましいのは、キリスト教の家庭と、クリスマスを商業上の大イベントとする小売業だけかもしれない。
 
ヴァージニアの『サンタクロースっているんでしょうか?』の邦訳と出版に携わった中村妙子は、1977年、つぎのように言ったという。
 
〈こどもの質問だからとちゃかしたり、また単に夢をもっていればいいのだと甘やかすのではなく、ここには、目にみえない心の問題がどんなに大切かを訴えたチャーチの考えがうかがえます〉
 
児童文学者の松岡享子は、1973年の朝日新聞への寄稿でつぎのように訴えたという。
 
〈 本当らしく見せかけることによってつくられる本当と、本当だと信じることによって生まれる本当を、子どもはそれなりに区別している。むしろ、見えないものを信じることを恥じ、サンタクロースの話をするのは、子どもをだますことだというふうに考えるおとなが、子どもの心のふしぎの住むべき空間を、信じる能力を、つぶしているのではないだろうか〉
 
そんなに問題が簡単だと思えない。「心の問題が大切」というのはわかるが、「信じる能力」が大切だというのは理解しがたい。何を信じるのか、それを信じることは社会に害をなしていないか、の問題が必ず生じる。
 
チャーチの答えの中に、
 
〈 Of course not, but that’s no proof that they are not there.(もちろん、みた人は、いません。けれども、それは、いないという証明にはならないのです)〉
 
という文がある。これは、神の存在を主張するときに、いつも出てくる言葉である。もし、オウムの信者がそう言ったら、あなたはどう思うか。
 
記者のチャーチは、サンタクロスの存在を、「愛を与える人」の存在にすり替えることで、子どもの難しい問いに苦労して答えている。チャーチの答えは簡単なように見えて、じつは理解するに難しい。難しい単語も出てくるが、屈折している。ヴァージニアは賢い少女だったから、チャーチの心の葛藤を感じとったのではないか。
 
[補遺]
チャーチの社説の全文は次で手に入る。
https://www.newseum.org/exhibits/online/yes-virginia-there-is-a-santa-claus/