今月の1月23日、第211回国会開会にあたり、岸田文雄が行った施政方針演説は、はじめこそ格調が高かったが、各論にはいると、中身が滅茶苦茶だった。
今回は「新しい資本主義」に絞って批判する。
岸田が一昨年に自民党総裁になったとき、「新しい資本主義」を、「新自由主義」経済モデルの反対であって、「再分配」を通して「貧富の格差」を是正するものであると言っていた。ところが、今度の施政方針演説では、それが、まったく変わってしまった。「新しい資本主義」を「市場に任せるだけでなく、官と民が連携し、国家間の競争に勝ち抜くための、経済モデル」と彼は定義する。国民のためでなく、民間企業が国際競争に勝ち抜くために、政府と民間企業との連帯を強めることが彼の「新しい資本主義」なのだ。これでは少しも新しいことはない。戦前戦後一貫して日本政府が歩んできた路線を肯定しているだけである。
資本主義とはそんなに難しいことではなく、現状の経済活動をありのまま肯定する考えである。ビジネスを始めるには元手(資本)がいるということである。
小売店や飲食店をやろうとすれば、店を開くのに、商品や食材を仕入れるのに、お金がいる。製造業を始めようとすれば、工場をもつのに、機械をそろえるのに、資材を仕入れるのに、お金がいる。収入がはいるまえに、支出が求められる。その金を元手という。このため、その元手を調達できるかでどうかで、雇用主になるか被雇用者になるかに、分かれる。
近代になって必要とされる元手の額が大きくなり、この雇用、被雇用の壁が高くなってきた。私自身は、商店主の子どもであるので、人に使われるのが嫌で、自営業を始めたかったが、結婚相手に生活が不安定になると反対され、定年になるまで、会社に務めた。
本来、人は対等であるべきである。ところが雇用関係を通して、人に上下関係ができている。雇用者の中でも、上司と部下の関係がつくられる。さらに私の子ども時代と違い、日本社会では正規と非正規とに分かれる。
会社の中の序列関係は給料にも反映される。それを通して、経営者は社員を管理する。
「お疲れ様」と言うか、「ご苦労様」と言うかは、雇用関係のなかの序列で決まると、外国人向けの日本語教育の教材に書いてある。私は無視してきたが。
発達障害児のための特別支援学校では、障害者枠で雇用されるために、何があっても、雇用者に向かっては「はいそうです」「はいありがとうございます」と答えるように指導されている。
法的根拠がないにもかかわらず、独立するだけの元手があるか否かで、資本主義社会は明らかに人のあいだ序列を作っている。
いっぽう、近代の資本主義は、人と人を結びつけ、異なった能力を持つ人々がチームとして働くことを促してきた。私はこれを良いことと考える。人のあいだの序列関係を排除し、チームとして人々が喜びをもって対等に働くことができれば、もっと素晴らしいことだと思う。
数日前の朝日新聞で、岩井克人が「株主資本主義」を批判している、元手の調達をどうするかで、銀行からお金を借りる、社債を発行する、株を発行するがある。はじめの2つは、基本的にお金を借りることで元手を調達する。最後の調達方法は、株主が企業を所有しているとのタテマエから、お金を返す義務が企業にない。企業は、配当を通じて利益を株主に還元する義務がある。岩井は、経営者に対する株主の発言権が強すぎることを批判している。
私がIBMにいたとき、株価を下げる不用意な発言をしたとして、日本IBM社長の北城恪太郎が解任された。株価を下げると、株主の資産を減らすことになる。会社の経営者は、配当金を増やすだけでなく、株価を吊り上げることが要求される。株主は株の売買を通して利益を得ようとするからである。株主は企業で働く人のためことを何も考えていない。株式資本主義は、所有と経営を分離したが、資本主義社会の人間関係の歪みを何も解決していない。
歴代の日本政府は、アメリカと違って、企業の上に、政府と官僚とを置いただけである。政府は日本企業を外国企業から守る代わりに、企業は高級官僚の天下りを引き受けなければならない。私がIBMにいるとき、日本IBMも天下りを引き受けていた。
しかし、外国系企業の社員は日本政府から見れば異邦人である。たとえば、日本IBMからオプションで株をもらったとき、売れば所得に加算されて、高率の税金がかかる。日本企業に務めていれば、オプションでもらった株を売っても所得に加算されず、通常の金融所得とされるので、税率が低い。日本政府はあらゆる場所で日本企業を優遇し、外国系企業に務める日本人を売国者扱いをする。
日本は「株式資本主義」であるだけでなく「国家資本主義」でもあるのだ。岸田は「株式資本主義」と「国家資本主義」の連携を図っているだけである。岸田はとんでもない役者である。野党は、もっと、岸田の主張の危険性に気づくべきだ。