猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

岸田文雄の施政方針演説―新しい資本主義を批判する

2023-01-27 00:11:19 | 政治時評

今月の1月23日、第211回国会開会にあたり、岸田文雄が行った施政方針演説は、はじめこそ格調が高かったが、各論にはいると、中身が滅茶苦茶だった。

今回は「新しい資本主義」に絞って批判する。

岸田が一昨年に自民党総裁になったとき、「新しい資本主義」を、「新自由主義」経済モデルの反対であって、「再分配」を通して「貧富の格差」を是正するものであると言っていた。ところが、今度の施政方針演説では、それが、まったく変わってしまった。「新しい資本主義」を「市場に任せるだけでなく、官と民が連携し、国家間の競争に勝ち抜くための、経済モデル」と彼は定義する。国民のためでなく、民間企業が国際競争に勝ち抜くために、政府と民間企業との連帯を強めることが彼の「新しい資本主義」なのだ。これでは少しも新しいことはない。戦前戦後一貫して日本政府が歩んできた路線を肯定しているだけである。

資本主義とはそんなに難しいことではなく、現状の経済活動をありのまま肯定する考えである。ビジネスを始めるには元手(資本)がいるということである。

小売店や飲食店をやろうとすれば、店を開くのに、商品や食材を仕入れるのに、お金がいる。製造業を始めようとすれば、工場をもつのに、機械をそろえるのに、資材を仕入れるのに、お金がいる。収入がはいるまえに、支出が求められる。その金を元手という。このため、その元手を調達できるかでどうかで、雇用主になるか被雇用者になるかに、分かれる。

近代になって必要とされる元手の額が大きくなり、この雇用、被雇用の壁が高くなってきた。私自身は、商店主の子どもであるので、人に使われるのが嫌で、自営業を始めたかったが、結婚相手に生活が不安定になると反対され、定年になるまで、会社に務めた。

本来、人は対等であるべきである。ところが雇用関係を通して、人に上下関係ができている。雇用者の中でも、上司と部下の関係がつくられる。さらに私の子ども時代と違い、日本社会では正規と非正規とに分かれる。

会社の中の序列関係は給料にも反映される。それを通して、経営者は社員を管理する。

「お疲れ様」と言うか、「ご苦労様」と言うかは、雇用関係のなかの序列で決まると、外国人向けの日本語教育の教材に書いてある。私は無視してきたが。

発達障害児のための特別支援学校では、障害者枠で雇用されるために、何があっても、雇用者に向かっては「はいそうです」「はいありがとうございます」と答えるように指導されている。

法的根拠がないにもかかわらず、独立するだけの元手があるか否かで、資本主義社会は明らかに人のあいだ序列を作っている。

いっぽう、近代の資本主義は、人と人を結びつけ、異なった能力を持つ人々がチームとして働くことを促してきた。私はこれを良いことと考える。人のあいだの序列関係を排除し、チームとして人々が喜びをもって対等に働くことができれば、もっと素晴らしいことだと思う。

数日前の朝日新聞で、岩井克人が「株主資本主義」を批判している、元手の調達をどうするかで、銀行からお金を借りる、社債を発行する、株を発行するがある。はじめの2つは、基本的にお金を借りることで元手を調達する。最後の調達方法は、株主が企業を所有しているとのタテマエから、お金を返す義務が企業にない。企業は、配当を通じて利益を株主に還元する義務がある。岩井は、経営者に対する株主の発言権が強すぎることを批判している。

私がIBMにいたとき、株価を下げる不用意な発言をしたとして、日本IBM社長の北城恪太郎が解任された。株価を下げると、株主の資産を減らすことになる。会社の経営者は、配当金を増やすだけでなく、株価を吊り上げることが要求される。株主は株の売買を通して利益を得ようとするからである。株主は企業で働く人のためことを何も考えていない。株式資本主義は、所有と経営を分離したが、資本主義社会の人間関係の歪みを何も解決していない。

歴代の日本政府は、アメリカと違って、企業の上に、政府と官僚とを置いただけである。政府は日本企業を外国企業から守る代わりに、企業は高級官僚の天下りを引き受けなければならない。私がIBMにいるとき、日本IBMも天下りを引き受けていた。

しかし、外国系企業の社員は日本政府から見れば異邦人である。たとえば、日本IBMからオプションで株をもらったとき、売れば所得に加算されて、高率の税金がかかる。日本企業に務めていれば、オプションでもらった株を売っても所得に加算されず、通常の金融所得とされるので、税率が低い。日本政府はあらゆる場所で日本企業を優遇し、外国系企業に務める日本人を売国者扱いをする。

日本は「株式資本主義」であるだけでなく「国家資本主義」でもあるのだ。岸田は「株式資本主義」と「国家資本主義」の連携を図っているだけである。岸田はとんでもない役者である。野党は、もっと、岸田の主張の危険性に気づくべきだ。


岸田文雄の施政方針演説を批判する

2023-01-25 22:37:48 | 政治時評

今月の1月23日、第211回国会開会にあたり、岸田文雄が施政方針演説を行った。昨年1月の施政方針演説に比べ、格調高く、はじまった。スピーチライターが優秀なのだろう。

ところが各論にはいると、その言っていることは滅茶苦茶になる。スピーチライターが優秀でも、政策補佐官がボロでは、まともな施政方針の原稿ができあがらない。さらに、知的に劣る岸田が、生前の安倍晋三が促成栽培したごろつきの安倍派議員の突き上げを食い、焦って何かやっているフリをするので、将来に悔いの残る施政方針演説になってしまった。岸田は何もしないことの美学、善行を知っていて欲しかった。

演説の「防衛力の抜本的強化」は全くいただけない、どこにも、「5年間で43兆円の予算を確保」する必要性が述べられていない。支出する項目を羅列しただけで、それでは、予算確保の理由にはならない。

第1の疑問は、なぜ、アメリカ軍の下、中国軍との戦争を準備しなければならないのかである。歴代の日本政府が悩んだのは、アメリカの市場から日本が追い出されることを恐れて、どの程度、アメリカ政府の要求、たとえば、日本の国土をアメリカ軍の基地にささげ、その基地維持費をはらい、海外のアメリカ軍との共同作戦への参加するなどの要求に答えていかなければならないのか、ということである。

アメリカの政治家は、他国を敵に仕立て煽ることで、アメリカ国民の統合を図るが、直接参戦することにとても慎重である。それは、政府の意図にかかわらず、アメリカ国民は戦争に加ることが嫌いで、政権党が選挙で不利になるからである。まともなアメリカ国民は殺されることも殺すことことも大嫌いである。このまま、軍事力を増強していけば、台湾有事の際に最前線に日本の軍隊が押し出される可能性がある。しかも、アメリカ軍は後衛に下がって直接の参戦を避ける可能性が高い。

アメリカが全世界に軍事基地を置いたのは、アメリカのビジネス・ルールを各国に押しつけ、資本を輸出するためである。アメリカと日本との関係は対等ではなく、日本はアメリカに従属してきたのである。まず、アメリカと日本のあるべき姿を「防衛力の抜本的強化」の前に議論すべきである。バイデン政権にほめられるようでは、日本の利益も日本の正義も守られていない。

第2の疑問は、日本が どれだけ お金をかければ、中国に対する侵略の抑止力になるのか、また、そもそも、中国が日本に侵略する可能性があるのか、という問題である。「抑止力」となる攻撃力の軍事費が膨大になるのなら、侵略の可能性を精度高く予測しなければならない。防衛庁が行っている中国との戦争のシミュレーションは、もと自衛隊幕僚長によれば、アメリカ軍の基地への攻撃であり、日本の都市への攻撃ではない。

中国はすでに日本の3倍のGNP(国民総生産)にある。日本が中国と対等な軍事力をもつことは無理である。軍事力に頼らない道を日本は選択すべきである。これからの10年、中国のGNPは日本の5倍以上になるであろう。

これと関連して、演説の「まず優先されるべきは積極的な外交の展開です。同時に、外交に、裏付けとなる防衛力が必要です」はまったくのウソである。軍事力に裏付けされて外交するのでは、「国際紛争を武力で脅して解決」することになる。軍事力がない国こそ、外国との交渉力が求められるのだ。政府に外交能力がないし、外交能力を向上させる意志もないと、岸田は告白していることになる。

施政方針演説の「あたらしい資本主義」も根本的に間違っている。

「権威主義的国家からの挑戦に直面する中で、市場に任せるだけでなく、官と民が連帯し国家間の競争に勝ち抜くための、経済モデル」が「新しい資本主義」だとしている。ここの「官と民」は、政府と民間企業をさしている。「新しい資本主義」とは、豊かな階級と貧しい階級に社会が分かれていく問題を解決することではなかったのか。「骨幹の競争に勝ち抜く」ためではない。

「世界のリーダと対話を重ねる中で」の「リーダー」とは統治者のことである。各国の首脳と話し合っても何の解決にもならない。問題のすり替えが最初からなされている。

あすも、「新しい資本主義」についての議論をつづけたい。


加藤陽子の『天皇と軍隊の近代史』、原武史の『昭和天皇』

2023-01-09 23:57:49 | 天皇制を考える

父親の昭和天皇がなぜ戦争を止められなかったのか、上皇(平成天皇)が自問していたと、昨年末、テレビで保坂正康が話していた。戦争とは1941年12月8日に開戦した日米戦争のことである。戦争を止めるチャンスは、開戦を決めた御前会議の1941年にも、日本とドイツの敗戦が明らかになった1944年にもあったのである。

加藤陽子の『天皇と軍隊の近代史』(勁草書房)を読んでいると、天皇に軍隊を動かすチャンスがないように思えてくる。

「徳川幕府を打倒した明治維新政府は、若くて未熟な明治天皇を形式的に戴く、薩(鹿児島藩)長(山口藩)土(高知藩)肥(佐賀藩)など旧雄藩勢力による連合政権に他ならなかった。」(p.98)

明治維新政府にとって、天皇とは、国民統合の象徴であった。道具である。

長州藩出身の政治家、伊藤博文と山縣有朋は、維新の実力者がそれぞれ私兵を蓄えていては、いつ内乱か起きるかわからない、と考えた。政争から軍隊を隔離するには、軍隊を国民皆兵にし、軍隊を国家に直属させるしかないと考えた。すなわち、徴兵制と天皇の軍隊統帥権である。

伊藤博文と山縣有朋の誤りは、国民を信用しなかったことだ。議会を設置したが、議会や政府と並び立つものとして、軍隊を置いたことである。

保坂正康は、戦前の日本の軍人はエリート集団であったという。維新の元老が政治権力を失うなかで、議会から規制を受けぬ軍人たちが自分たちこそ日本を統治できると思うのは自然の流れかもしれない。

歴史家は、ともすれば、歴史が必然で動いているように思いがちである。歴史を必然とすれば、閉塞感に襲われる。歴史に流れに逆らう選択肢が常にあると思う。選択肢があるということは、統治者の責任を問うて良いということだ。

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原武史の『昭和天皇』(岩波新書)、『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書)は、昭和天皇に焦点をあてて、戦争責任を問うている。

明治天皇は、明治維新政府によって、神輿に乗せられて京都から江戸に無理やり連れてこられた人である。無口な人で、しかも、国民の前に姿を現すことがなかった。明治維新政府が創った宮中儀式への参列をもさぼっていた。政治にも関心がなかった。しかし、自分が神であると思っていた。

大正天皇も創られた宮中儀式をさぼり、政治に関心がなかった。しかし、洋風の生活が好きで、宮中でダンスやビリヤードに興じていた。自分を神と思っていたかは不明だが、明治天皇と違い、旅行好きで、おしゃべりで、ひねくれていて、スケベだった。政府にとって、無口な明治天皇と違い、神格化が難しかった。

昭和天皇は、明治天皇や大正天皇より近代人である。自分は天照大神の末裔であると信じていたが、自分自身は神ではない、普通の人間であると思っていた。しかし、昭和天皇は、明治時代にノスタルジアを感ずる者たちの期待の星だった。彼らは、大正天皇を甘やかしすぎたと思いから、昭和天皇にそれぞれ厳しい教育を行った。いっぽうで、昭和天皇が、祖母や叔母など女に囲まれ、愛情に恵まれて育った、と原武史は言う。したがって、昭和天皇は、政治に関心があるいっぽうで、ビリヤードやゴルフや粘菌などの生物学研究に興じた。これは戦前の話である。

原武史が一貫して注目するのは、昭和天皇の、母親との確執、また、弟たちに権力を奪われるという不安である。二・二六事件の際、弟の秩父宮に権力を奪われるのでないかの恐怖が、反乱軍の素早い鎮圧に昭和天皇を向かわせたのだと私も思う。じっさい、陸軍にいた秩父宮は反乱を起こした人脈と関係をもっていた。

同様に、1941年の御前会議では、日米開戦に踏み切らないと、政権の主流から見捨てられると昭和天皇は思ったのではないか。

当時、ドイツは共和国で、君主制ではない。イギリスは君主制だから、昭和天皇はイギリスに親近感を持っていたはずである。ナチスのドイツと運命をともにしたいはずはない。

それでも、昭和天皇は、権力の中枢にとどまりたいから、三国同盟を容認し、日米開戦に同意したのだと私は思う。

1945年8月の原子爆弾の惨状を知るまで、昭和天皇は降伏に踏み切れなかった。弟の高松宮が降伏を自分に勧めていたからである。やっていたことは、賢所(かしこどころ)で天照大神に助けてくれるよう祈ることであった。

昭和天皇が自分の座にこだわることは戦後も続いた。戦犯として巣鴨拘置所に収容された木戸孝正は昭和天皇に日本の占領が終了したとき、退位するように勧めた。中曽根康弘も昭和天皇の退位を求めた。しかし、昭和天皇は絶対に退位することはなかった。

原武史は『昭和天皇』につぎのように書く。

「天皇が責任を感じる対象は第一に「神」であり、第二に「大宮様」であり、その次が「国民」である」(p.155)

ここで「神」は天照大神で、「大宮様」は自分の母である。

上皇(平成天皇)が老齢を理由に退位したが、昭和天皇が戦争の責任をとらなかったことに対する異議申し立てでなかったのか。

原武史は昭和天皇に戦争責任があると言う。責任があるとは、戦争を回避する、あるいは、戦争を早期に終結する選択肢が天皇にあったとするのである。

また、原武史は、護憲を口にする上皇(平成天皇)が、宮中で天照大神の神への祭祀を続けていたことに危惧を述べる。昭和天皇と同じく、いまだに天照大神の末裔であることにこだわっているのだろうか。

      *      *      *      *   

戦後の日本国憲法の瑕疵は、天皇制を存続させたことである。

皇族が法の下の平等(憲法14条)から除外されている。また、憲法第7条の

「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。(中略)三 衆議院を解散すること。(以下略)」

を、政権党の党首が利用している。自分の都合の良いときに衆議院を解散し、選挙で自分の政党に有利な立場を取ろうとしている。天皇制は社会に政治に歪みを生じさせている。

天皇はいらない。天皇制を廃止すべきである。


朝日新聞の『「覚悟」の時代』とは何を言いたいのか

2023-01-05 22:37:57 | 政治時評

1月1日付の朝日新聞、オピニオンの面に『「覚悟」の時代』というインタビュー記事があった。この「覚悟の時代」という言葉に、私はずっと違和感を持ち続けている。なぜ、朝日新聞はこんなテーマを選んだのだろうか。編集委員が頭がおかしくなっていないだろうか。

インタビューを受けて、宗教学者の山折哲雄は、言葉の説明で逃げているような気がする。

「覚悟」は仏教用語で、「迷いをすて悟る」ことを意味すると山折は言う。そこから、「死の覚悟」「武士道」「葉隠れ」に話が広がっている。見当違いの方向に暴走しているのではないか。サムライとはロクな者ではない。暴力集団にすぎない。

「死」とは「永遠の休息」であり、すべての人に平等に訪れるものである。私に心残りがあるとすれば、「死」によって、周りの人をもう助けることができないということである。

言葉にはニュアンスというものがある。ネットのOxford Languages and Googleによれば、「覚悟」とはつぎのことらしい。

  1.  危険なこと、不利なこと、困難なことを予想して、それを受けとめる心構えをすること。「赤字覚悟の低価格販売」
  2.  仏語。迷いを脱し、真理を悟ること。
  3.  きたるべきつらい事態を避けられないものとして、あきらめること。観念すること。「覚悟しろ」
  4.  覚えること。記憶すること。

岸田文雄は、2021年9月13日に自民党総裁選の出馬にあたって、『「信頼」と「3つの覚悟」に基づいた外交・安全保障』を公表している。

1.民主主義を守り抜く覚悟

  • 台湾海峡の安定・香港の民主主義問題
  • ウイグルの人権問題に毅然と対応(人権問題補佐官新設)

2.我が国の平和と安定を守り抜く覚悟

  • グレーゾーン事態に対応する法整備の検討
  • ミサイル防衛能力強化の検討
  • 経済安全保障も含めた国家安全保障戦略の見直し

3.人類に貢献し国際社会を主導する覚悟

  • 核軍縮・核不拡散体制の強化
  • DFFTの推進・担当大臣の設置

何もしない無難な人というイメージで自民党総裁、日本の首相になった岸田文雄が出馬時にこんなトンデモもないことを言っていたのである。今年の1月1日付の年頭所感でも「覚悟」という言葉を使っている。岸田は「覚悟」を「決意」という意味で使っている。自分が「行動の人」と思われたくて熟慮もなく動き回る迷惑な人なのだ。

朝日新聞の編集部は読者に何を覚悟せよ言いたいのか、私には理解できない。

「死の覚悟」より、「合理的思考」「柔軟な思考」をもって、「武力による国際紛争解決」への道を止めるべきでないか。岸田文雄は、いま、日米同盟のもと東アジアの秩序を武力で守ると、アメリカ政府に約束している。軍事費を2倍にするというのもアメリカ政府への約束である。