猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

思うがままに話し振るまうことがスラブの自由である

2022-03-31 23:04:32 | 自由を考える

(1906年、長崎でロシア語新聞が発刊された)

自由とは何か。中学の『公民教科書』を読んでも何がなんだか、わからない話が出てくるだけである。教師は、どうやって教えるのだろう。

それに対し、土肥恒之の『ステンカ・ラージン : 自由なロシアを求めて』(山川出版社)の冒頭に、もっと、わかりやすい「自由」の説明がでてくる。

《 「ヴォーリヤ」(自由)、それは行けども行けども果てしがなく、大きな河の流れに乗ってどこまでも旅をすることができ、自由の息吹、見はるかす大地の息吹を吸い込み、風で胸を一杯にふくらませ、頭の上に大空を感じ、足の向くまま気の向くままに、どこへでも行くことができる大きな空間です。》

これは、中世文学史家ドミトリィ・リハチョーフの言葉の引用だという。まさに、私が50年以上前に求めていたものだ。

「ヴォーリヤ」とはロシア語でどう綴るのだろうか。ネットで、日本語の「自由」をロシア語に翻訳させても、「ヴォーリヤ」という語は出てこない。仕方がないから、「ヴォーリヤ ロシア語」でネット検索をかけた。ほとんどカスばかりだったが、ついに、1906年に長崎で「ヴォーリヤ」というロシア語の新聞が発刊されたという観光紹介を見つけた。その写真から綴りがわかった。

「воля」である。

Wiktionaryで調べると、ブルガリア語にもロシア語にもウクライナ語にも「воля」があり、「will, freedom, desire」の意味だとある。「ヴォーリヤ」とは人や国家に左右されず、自分の思いを述べ、行動することである。

Wiktionaryには音声ファイルがあり、聞いてみるとロシア語では「ヴォージャ」に近く聞こえ、ウクライナ語では「ヴォーヒャ」に近く聞こえる。語尾の「я」は二重母音でなく、短母音である。「ヴォーリャ」と記したほうが良いようだ。

ロシア語版、ウクライナ語版ウィキペディアで、「воля」の項を見ると、ロシア、ウクライナ、ポーランドのいたるところで、それが地名として使われていることがわかった。逃亡農民が住みついた地である。

「それは行けども行けども果てしがなく、大きな河の流れに乗ってどこまでも旅をすることができ」は、シベリヤのことではなく、ウクライナの地だったのである。じっさい、19世紀につくられたウクライナ国歌の第1節に「воля」が出てくる。

 Ще не вмерла України і слава, і воля.

1991年ウクライナが再度独立したとき、この国歌が復活する。日本の「君が代」よりずっとマシな歌詞である。

土肥恒之は、先ほどの書で、ウクライナ東部のドネツク州のコッサク(スラブ語ではカザーク)のモスクワに対する反乱の物語、ステンカ・ラージンの物語を伝える。


政府の教科書検定は 「歴史総合」という新必修科目の狙いと矛盾する

2022-03-30 23:15:48 | 教育を考える

不思議なんだが、子どもたちを見ていると、「地理」より「歴史」が好きなようである。どうも、世の中が固定したものではなく、どんどん変わっていくのが面白いらしい。歴史は子どもたちにとって、思いもつかない展開をしていく物語の連続らしい。

いっぽう、私自身は歴史が嫌いだった。高校の日本史のテストでは、わざと白紙の答案をだして反抗をしていた。不幸なことに、歴史は暗記ものだったからだ。

朝日新聞によると、この4月から、「歴史総合」という新科目が、高校の必修となる。高校生が抱きがちな「重要な出来事の暗記」というイメージを覆す狙いが込められているという。これは良いことだと思う。

歴史学者の成田龍一によると、「これまで世界史と日本史に分かれていた歴史科目を、18世紀以降の近現代史として『総合』した形で学ぶ新科目」だそうだ。

一国だけの歴史ではなく、「近代化」「国際秩序の変化や大衆化」「グローバル化」の3つのテーマで、「世界的な相互作用のダイナミズム」から歴史をとらえるという。すごい新科目だ。

「歴史は事実を暗記する科目ではない。生徒が『なぜなのか』と問いを立てるよう導くことが重視されています」と成田龍一はいう。

「暗記ではない」に賛成するが、『なぜなのか』という意味がわからない。歴史は必然ではないはずだ。このあとの「フランス革命は・・・7月に始まった」か「8月の人権宣言」かの議論を見ると、単なる時代区分の議論のように思える。

以前、放送大学で本郷和人が、武家の時代はいつ始まるのか、鎌倉幕府はいつ始まるか、もう「イイクニツクロウ」は通用しないというという話しをしていた。

しかし、もし、時代区分でなく、歴史をどう見るか、の問題であるとすると、人、それぞれの物語ができる。価値観の問題となる。思想の問題となる。

すると、教科書で1つの物語を押しつけるのは間違っている。政府が教科書検定をするのでは、洗脳教育となる。各自の価値観、思想に点数をつけるのでは、洗脳教育そのものになる。

「歴史」は、あくまで、ある1つの「物語」であって、子どもが自由に選べるものでなければならない。いくつもの異なった物語があってよい。そうでなければ、私がまた高校生になったら、「思想の自由」という理由で、白紙の答案を出し、「洗脳教育反対」のこぶしを挙げるだろう。


ウクライナ侵略戦争で私たちができること、過去を自省し まともな人を国の代表に選ぶこと

2022-03-29 23:20:28 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

きょうの朝日新聞への寄稿、李琴峰の『国家に領有される個人』に私は共感する。

《ウクライナ侵略戦争という事態について私は言葉をもたない。現に市街戦が行われ、民間施設が瓦礫と化し、人間が砲火に撃たれて死んでいるこの状況において、安全なところにいながら「ウクライナは徹底抗戦しろ!」と煽るのも、「これ以上犠牲を出さないためにウクライナは降伏すべきだ」とすまし顔で論じてみるのも、無責任極まりないだろう。》

彼女はそう言って、自分の過去、台湾の学校での体験を振り返る。そして、国家が軍事訓練、軍国思想を押しつけてきたことを語る。

このことは、形が一見柔らかくても日本でも同じだ。自分が生まれたときから存在する国家、何が正しいかを押しつける国家、それから自分を切り離し、対等な立場から国家というものを見ること、これこそ、真の「個人主義」と私は思う。「自由」というとき、一部の人だけが「自由気ままにふるまう」のではなく、みんなが平等に「自由」を楽しめるのが「自由主義」である。「自由主義」とは「私的所有バンザイ」「格差肯定」であってはならない。

ウクライナ侵略戦争を止められない私、ウクライナ侵略戦争を止めないアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ。ウクライナの町が瓦礫と化し、人が死んでいるのに、無責任にウクライナは善戦しているとの報道するメディア。

私たちがすべきことは、届く範囲で、まともな人をリーダとして選ぶことではないか。

日本には、米軍基地が至るところにある。横浜市は、厚木の米軍基地と横須賀の米軍基地に挟まれている。アメリカは中国は敵国だと叫ぶ。アメリカが中国と戦争をすれば、当然、ミサイルが横浜市に飛んでくる。アメリカと中国が戦争をしているのに、米軍基地がある日本だけが、戦争の輪の外にあることができると思えない。なぜ、日本にアメリカの軍事基地があるのだ。日本をアメリカが占領したなごりでないか。なぜ、それがまだあるのか。1980年代の日米経済摩擦でアメリカ政府に許してもらうため、日本政府は米軍に日本の土地を提供続けるだけでなく、基地の維持費も払い、しかも、アメリカで古くなった兵器を高い価格で買っているのではないか。

日本の学校教育で、規律、集団行動を押しつけるのは、昔の軍国主義を懐かしむ集団の陰謀ではないか。あるいは、国家の存在を否定する「個人主義」が広がらないための陰謀ではないか。

明治時代、「和魂洋才」という言葉があった。「和魂」とは「下が上を尊ぶこと」、「洋才」とは「生産技術を学ぶこと」だった。そして「富国強兵」「アジアの盟主」の目標のもと、アジアに侵略を行った。その帰結として「加害者」になったため、アメリカが日本各地に大空襲を行い、ウクライナと同じように無差別に人を殺したことを、後ろめたさのある日本政府は戦争犯罪として訴えていない。どれだけ、日本人が空襲で死んだかの国の調査も行われていない。100万人前後かもしれない。また、ソ連(ロシア)は満州にいた日本人約60万人を連行し、シベリアで強制労働に課した。そのうち、5万8千人が強制労働で死んだと言われる。

ウクライナは他国を侵略していない。

「武力で国際紛争を解決しない」という立派な日本国憲法を変えようという輩(やから)を議員に選ぶ日本人がいるとは、情けないではないか。

アメリカが核をもっていてもロシア軍のウクライナ侵略を止められないのに、アメリカと核を共有しようという信じられないバカなことを言う政党が日本にあるのは、どうなっているのだろうか。「核共有」とは、日本の米軍基地に核を配備することにすぎないのに。


翻訳不可能性、小説『日の名残り』の「品格」と「美しさのもつ落ち着き」

2022-03-29 00:05:24 | 思想

カズオ・イシグロの小説『日の名残り』(中公文庫)を読んでいて、土屋政雄の翻訳があまりにも見事で、本当にカズオ・イシグロの小説“The Remains of the Day”を読んでいるのか、気になりだした。

最初にひっかかったのは、土屋が「品格」と訳しているものはイシグロのなんであるかだ。横浜市の図書館には幸いに外国語の蔵書が多少ある。早速、“The Remains of the Day”を借りて読みだした。

土屋が「品格」と訳しているものは、イシグロの“quality”と“dignity”だった。

イシグロは、最初、イギリスの田園風景の美しさに言及する。他国の風景が持ちえない“quality”をもっているという。土屋はこれを「品格」と訳す。

イシグロはイギリスの風景の美しさをつぎのように書く。

What is pertinent is the calmness of that beauty, its sense of restraint.

これを土屋は「問題は、美しさのもつ落ち着きであり、慎ましさでありますまいか」と訳す。

イシグロは、執事のミスター・スティーヴンスに、このイギリスの風景の美しさから、もう1つのイギリス的なもの「執事」を連想させる。ここでも、はじめは“quality”という語を使い、秀でる同業者を讃える。土屋はこれも「品格」と訳す。執事のこころ中でのしゃべりが高まると“quality”ではなく、“dignity”をイシグロは使わす。しかし、土屋は相変わらず、「品格」と訳す。

イシグロの小説の後半で、上等のスーツを着て立派なフォードのクラシックカーに乗っている執事のミスター・スティーヴンスを村人は名士と間違える。村人は彼がどこか違うと騒ぎ立てるが、執事はついそれは “dignity”だと答える。これも土屋は「品格」と訳している。村人のばか騒ぎは執事のこの一言でさらに大きくなる。イシグロは、宿の女主人に「ああいう人は、偉そうにふるまうことをdignityと勘違いしているから困るわねえ」と言わす。政治談議の好きな村人ミスター・スミスにも「dignityってのは、紳士だけのもんじゃないと思いますよ」と言わす。

翌日、村のただ一人の教養人、村医者にあなたは本当は執事だろうと言われる。ここで、執事は自分が村人の前で“a comic figure”であったのではと思う。土屋はこれを「道化」と訳している。村医者と執事の会話も“dignity”を使っている。土屋はここでも「品格」と訳している。

日本語と英語とは翻訳不可能である。日本とイギリスとは文化が違う。だいたい、“Mr”を「様」と訳したり、「ミスター」と訳したり、土屋はずいぶん苦労している。また、英語にない敬語、とくに謙譲語を執事に使わせたりしている。英語では身分の差が発音や文法の精確さに現れるが、翻訳では、村人に江戸弁を使わすことで、教養の差を表現している。私の父は江戸弁を話すので、こういうふうに江戸弁が使われるのは不快だ。

土屋の訳では、イシグロが、小説を通して、執事のミスター・スティーヴンスにこれからアメリカ的ジョークを学んで使おうと言わせているのがなぜかわからなかったが、イシグロの原作を読んでわかった。執事をとおして描かれるイギリス的なもの、これは、軽いジョーク、お笑いにすぎないということなんだ。可哀そうかもしれないが、壊れるべきして壊れるものにしがみついて、過ちをおかしてきたのだ。

いっぽう、私は、イギリスの田園風景のもつ”the calmness of that beauty”は、民主主義の世になっても残る気がする。calmness、quality、dignityは日本語に訳せない。


憲法9条を廃止し軍隊をもてば中国から侵略されないか

2022-03-27 23:00:49 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

いま、ロシア軍のウクライナ侵攻を目の前にして、日本国憲法の9条を変えるという主張が吹き出ていると人はいう。しかし、正確にいうと、吹き出たのではなく、前から憲法9条を廃止すべきと言っていた人たちの主張が、メディアの注目をあびるようになっただけである。

だいたい、ウクライナに軍隊がなかったから、ロシアがウクライナに軍事侵攻したのではない。ウクライナはロシアのふところに広がっており、そこにNATOの支援で強力なウクライナ軍ができ、アメリカ軍将校に指導されて軍事訓練を受けていたのである。軍事研究者、小泉悠によれば、ウクライナには実質100万人の兵がいるという。

もちろん、だからといって、ロシアがウクライナに軍事侵攻してはいいわけではない。だいじなことは、軍隊がないから、他国に攻められたわけではないという事実である。

私の子ども時代、父親に連れられてハリウッド映画の西部劇をよく見に行ったものだが、銃器を使って法を破る悪い一家が町を牛耳っていて、ヒローが救いに来て、悪者たちを殺し、町を去って行くと、パターン化されていた。人を殺したものは町を去らねばならない。

名作『シェーン』も、流れ者シェーンは拳銃の名手であることを隠し、夫が殺された母と子のもとで畑仕事をする。悪者に家と土地が奪われそうになり、はじめて、拳銃をもって女と子どもとを守る。人を殺さないという誓いを破ったので、闘いが終わったあと、その女と子どものもとをさり、観客の私と父は「シェーン、カムバック」と涙を流したものである。

アメリカ人は別に人殺しが好きなわけではない。

今回のウクライナ軍事侵攻でも、アメリカ人の多くは、ウクライナ人に同情すれど、アメリカの若者が銃をもって、ロシア人と戦うのをのぞんでいない。バイデン政権は今のところ軍事物資を支援しているだけである。日本が真珠湾奇襲攻撃で、越えてはいけない一線を破り、アメリカは、第2次世界大戦に参戦した。もしかしたら、プーチンも一線を越え、世界大戦になるかもしれない。

もう一度私は言う。憲法を改正し、軍をもち、どこかを敵国にして軍事演習をやったからといって、敵国に攻められないわけではない。また、軍事同盟も平和を保障しない。軍事同盟が履行されなければ、人びとが見殺しにされる。軍事同盟が履行されれば、世界大戦になり、全世界の人びとが戦争で死ぬようになる。

日本国憲法9条はつぎのようなものである。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

9条は、世界に武力で自分の言い分を通そうと永久にしない、という立派なものである。

朝鮮戦争が始まったとき、アメリカの圧力を受けて、この9条を「自分の言い分を押し通すための武力を持たないが、自分の国を守るための最小限の武力をもつ」という解釈に日本政府は変えた。

2015年に、安倍晋三は憲法9条の解釈をさらに変え、「安保法制」を無理やり国会に通した。新しい解釈では、「日本の存立の危機に直面したとき」、他国の地であっても、日本人や他国の軍人、民間人を守るために自衛隊を派遣できるとした。昨年は、その実績として、アフガニスタンに自衛隊機を派遣し、日本人を1人つれて帰った。形式的には戦争ではないので、国会の了承なく、政権の判断で派遣できたのである。

加藤陽子は、『この国のかたちを見つめ直す』(毎日新聞出版)で、憲法9条が必要な理由をつぎのようにのべる。

「憲法第9条をめぐっては、最近、次のような批判が多くなされているようです。日本人が平和憲法をもってこられたのは、在日米軍の存在があったからであり、また米国の傘のおかげなのだ、といった論調です。
ただ9条には、国内的な存在意義がある点を忘れるべきではありません。9条の存在によって、戦後日本の国家と社会は、戦前のような軍部という組織を抱え込まずに来ました。戦前の軍部がなぜあれだけ力を持てたかといえば、国の安全と国民の生命を守ることを大義名分とした組織だったからです。
実際には、大義の名のもとに、国家が国民を存亡の機に陥れる事態にまで立ち至りました。軍部は、情報の統制、金融・資源データの秘匿、国民の監視など、安全に名を借りて行ったのです。このような組織の出現を許さない、との痛切な反省の上に、現在の9条があるのだと思います。」(168ページ)

ウクライナ大統領のゼレンスキーは、幸いなことに、日本は戦争を放棄した平和国家だと思いこんでいて、戦争が終わったとき、ウクライナの復興に手を貸してくれと言った。ゼレンスキーは善人である。