猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ユングの激しい怒りに興味を覚え、『ヨブへの答え』を読む

2024-07-23 23:41:49 | こころ

図書館でC. G. ユングの『ヨブへの答え』(みすず書房)が目に留まり借りて読む。じつは、ずっと以前から、そこにあるのに気づいていたが、ユングが好きでないので、読もうと思わなかった。

読みだしてみると、非常に興味深いものであった。自分の気づいていない聖書の読みが随所にあり、ユングの博識が生きている。それに加え、私が興味を持った理由は、ユングの激しい怒りである。晩年の彼が、なんに対して怒っているのか、誰に対して怒っているかを、知りたくなったからである。

「ヨブ」は旧約聖書の『ヨブ記』のヨブのことである。神の気紛れからヨブがサタンに預けられ、サタンはヨブの家族や部下や財産を奪い、それでも神への信仰を失わないヨブを皮膚病に落す。正義を求めるヨブに、友人たちは神を讃えヨブを罵る。そういう物語である。

ユングがここに神の不正義、暗黒面を見る。そしてそれに腹を立ている。ユングにとって、「神」というものは、人の心の奥にある集団記憶である。

もともとの仏教にとって、「神」は魔物である。「神」は人間を不安と恐怖におとしこむ魔物である。不安と恐怖に落とし込める魔物、心を動揺させるものから自由になることが、「悟り」を開くことである。そのためには、人間界の上下関係や暴力に関与せず、世俗から離れてみずから社会の最下層になることである。しかし、もっとも古い経典の中にも、釈迦の弟子たちの間の憎しみと争いの痕跡がある。

「神」を魔物という考えに対して、もう一つは、「神」を「守り神」という考えがある。平均的日本人の風習に、賽銭箱にお金を投げ入れて、神にお願いすることがある。

古代の「神」は、共同体の「守り神」で、正義をもたらすか、不正義をもたらすかは、追求されなかった。守り神はお供えに答える神であり、不正でかまわないのだ。ユダヤ人の「神」もそんな神である。

ユングは、ヨブが「神」に正義を求めたのは、人間の心の成長と考える。人の心の奥にある集団記憶が変わってきたのである。そういう意味で「神」は人間との相互作用で変わり、人間は「神」に近づき、「神」は人間に近づくのである。エーリヒ・フロムも類似の考えを『自由であるということ―旧約聖書を読む(You shall be as gods)』(河出書房新社)で表明している。

「神」のイメージにもう一つある。「愛の神」である。愛する人と一緒にいるとき、静かにわき上がる喜びである。「愛の神」の「愛」は「快楽」と異なる。ユングは、「神」が人間に近づいて「愛の神」となると願っていたようである。

ユングの怒りは、『ヨブへの答え』の後半で、旧約聖書の『ヨブ記』の「神」への怒りから、新約聖書の『ヨハネの黙示録』の「キリスト」や「神」への怒りに移る。黙示録の「キリスト」や「神」は怒りに満ち溢れ、神が人間に近づき、道徳的になっていくはずだった神が、「恐怖の神」、「復讐の神」に戻っている。

どう考えても、ユングは昔に書かれた書物に怒っているのではない。1952年に『ヨブへの答え』を出版したとき、ユングは、現実の何かのできごとに、現実の人々の心の奥の何かに、現実の善人ぶる誰かの言動に激しく怒っていたと思われる。それが何かを理解したくて、『ヨブの答え』を読み続けている。


せんせい!おかげで生きとられるわ ~海辺の診療所 いのちの記録~

2024-06-03 23:03:06 | こころ

きのうのNHKスペシャルは、三重県・熊野灘の入り江の奥ふかくにある診療所の平谷一人医師(75歳)の、町の人々との日常を追ったドキュメンタリーだ。番組紹介に「にぎやかな診察室や、最期の時を支える往診など、いのちと向き合う日々を4年間にわたり記録。先生と町の人々との関係は、人がおだやかに“生”を全うするとはどういうことか静かに語りかけてくる」とある。

後期高齢者となった私が見ていて興味をもったのは、診療を拒否するお年寄りや食事をしなくなるお年寄りがいることだ。

平谷はこれらのお年寄りにどう対応したらよいのかわからないと言う。彼が「わからない」というのは、彼らの気持ちが分かるからだろうと思う。その気持ちとは「自分は充分生きた」ということではないか、と私は思う。

アメリカの会社には「定年」というものはない。役にたたないとして会社からクビになるか、「自分は充分働いた」と思って自分から退職するのだという。私が日本で定年になったとき、「自分は充分働いた」と思って自分から退職する気持ちが、理解できなかった。

番組では、診療を拒否するお年寄りや食事をしなくなるお年寄りは、90歳とか100歳であったが、「自分は充分生きた」という気持ちが時々浮かんでくるようになった私は76歳である。


カズオ・イシグロの『クララとお日さま』

2024-04-07 21:06:25 | こころ

最近は色々なことが つぎからつぎと起こり、年老いた私には、情報の洪水で処理できない。ウクライナの戦争もガザの戦争も、何もかも解決していない。きょう日曜日は、ガザ戦争の発端から半年にあたるというので、朝日新聞はガザ戦争でのイスラエルの暴虐を特集していた。

しかし、マルチタスクができなくなった老人の私には、きょうは『クララとお日さま』に話を絞りたい。金曜日の夜に、仕事の終わった後、明け方まで、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』をいっきに読んだ。ちょっと寝ての土曜日のゴミだしは、若くないので、体に こたえた。

クララは、太陽光(お日さま)発電で動く人造人間で、子どもの玩具である。クララが人間界を観察し語るSF小説である。

読んで感じたのは、イシグロは、誰かに仕えるだけの人生をあえて描くということである。『日の名残り』を読んだときもそう感じた。仕えるだけの人生を送ったのにも関わらず、人造人間のクララも執事のスティーブンスも後悔しないのである。自己肯定感が崩れないのである。

イシグロの作品は、いつも非常に考えて創作されたプロットで、普通の人の普通の人生体験ではない。

イシグロは小説家として成功しているにも関わらず、屈折しているように感じる。普通のイギリス人ではなかった自分の幼少期の体験に自信を持っていないのではという気がする。舞台を日本にしたり、執事という特殊な職業をえらんだり、クーロン人間とかAF(人造友人)を主役にしたりして、虚構の舞台設定で、人間の心理劇を描いている。イシグロは自分の幼少期のことを隠している。

誰かに仕えるだけの人生、それは、マイノリティが必死で社会のなかを生きていくすべでもある。私が40年前にカナダで親しくさせていただいた日本からの研究者の息子は大人になってから自殺している。2世のほうが、葛藤を抱える。1世は国を捨てるのは、生き抜くためにしかたがないと納得している。自分の選択であると納得している。2世は自分の選択ではない。なぜ、差別されるのか、納得いかないが、親の祖国日本で生きていける自信もない。

せっかく、イシグロは名声を確保したのだから、SFに逃げるのではなく、マイノリティとして暮らした幼少期をモデルにした作品も書いてみて欲しい。


昭和も子どもを叩くことが当たり前ではなかった

2024-03-29 12:34:04 | こころ

けさテレビを見てたら、TBSの金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』の宣伝として、昭和には先生や親が子どもを叩くのが当たり前だったという町の女子生徒の声が流れた。私はそんなことはない、と思う。昔も、子どもを叩くのは間違ったこととの認識があった。

22年前に出版された榊原洋一の『アスペルガー症候群と学習障害』の序章の冒頭は「日本は昔から、子どもをかわいがる文化的背景を持った国であった」で始まる。昭和でも、子どもを叩く親は異常なのである。病気なのだ。

二日前の朝日新聞に、日本のカウンセリングの先駆者、信田さよ子はインタビューでつぎのように言う。

「1995年当時、40歳前後の女性の虐待経験が他の世代と比べて際立っていました」

「多くは『父は復員して人が変わり、酒飲みになって暴力的になった』という話しに行き着きます」

「米国では(ベトナム戦争の帰還兵の)PTSD(診断名)の誕生と前後してDV・虐待を処罰する法律が各州に広がり、戦争トラウマと家庭内暴力とつながりました」

ここで、括弧内は私が補ったもので、「つながった」とは、影響を及ぼしていることがわかったという意味である。信田の主張で注目すべきはつぎである。

「こうした構図は虐待の『連鎖』にも見えますが、連鎖という荒っぽい言葉には注意が必要です。『元兵士は加害者だが、被害者でもあり可哀想だ』という言説につながりかねません。それでは殴られ続けた妻や子が置き去りにされてしまいます」

被害者だからといって加害者になる必然性はない。子どもを虐待するのは犯罪である。トラウマによって犯罪を犯すのは病気である。病気は直すべきである。

イジメの調査報告が最近でたが、言葉による暴力が肉体的暴力の3倍あるという。自分のストレスを子どもにぶつけるのは病気であり、犯罪である。最近は、塾が子どもへの虐待の隠れた発生源ではないかと感じている。中学受験進学塾「四谷大塚」の盗撮犯は「ふだんから騒がしい児童に対して盗撮で『仕返し』してやろうと思った」と裁判で語った。

この講師も病気である。病気は直すべきである。犯罪は犯罪として罰するべきである。虐待を「しつけ」であるかのような誤解を社会に生みがちなのは、言論界には いつの世も権威主義的な知識人、人を支配したがる知識人が幅をきかしているからだ、と思う。


朝日新聞の「《耕論》自分らしさ?」は「地上軍ガザ侵攻」を隠すため?

2023-10-28 23:15:26 | こころ

きょうの朝日新聞の《耕論》のテーマは「自分らしさ?」だった。以前にもブログに書いたのだが、「自分らしさ」という意味が私にはわからない。

《耕論》の冒頭の朝日新聞の側の問題提起に「『自分らしく生きよう』というメッセージを目にすることが多い」「なぜ『自分らしさ』を求められるのだろうか」とある。

本当にそんなメッセージが多いのだろうか。誰がそんなことを言うのか。「自分らしさ」には、「女らしさ」「男らしさ」と同じく、うさん臭さ、陰謀臭さを感じる。

ネットで「自分らしく生きる」を検索してみると、「自分らしく生きるとは、周りの目を気にせずにやりたいことや楽しいと思えることを選択して、自分の気持ちに正直に生きることです」と答えが返ってくる。それなら、「自由に生きよう」で良いのではないか。「らしさ」をつけると、何か、「自分の能力にふさわしく生きよう」と聞こえてしまう。

キズキ塾のサイトをみると、「『自分らしさ』に縛られ過ぎず、自分の生き方を探していきましょう」と書いてある。「自分らしさ」とは自分の思い込みのことを言うのだろうか。

「自分らしさ」という言葉には、自分が何をやりたいのか、わからないという状態が想定されている気がする。それで、「自分の意思」ではなく、「自分の気持ち」に忠実に生きようと言っている気がする。自由のために闘わなくていいのだよ、無理しないでいいのだよ、そのままでいいのだよ、と言っているような気がする。

「自分のやりたいことがない」「自分のやりたいことがわからない」という状態は、我慢し過ぎやあきらめ過ぎからくる、病的な状態だと思う。放課後等デイサービスで、低学年の子どもたちを見ていると、やりたいことがいっぱいあって、大騒ぎである。大人の言うことなんて聞く耳をもたない。

私は、小さい子どもには、我慢しなくてよい、あきらめなくてよい、と言いたい。そして、大人には、自分勝手な都合で、子どもたちの自由を奪うな、と言いたい。

問題は、病的な状態に陥った大人である。精神科の医師が薬を出して解決とはいかない。もし、意志力が強いのなら、思いつくままに自分のやりたいことを書き抜いていき、しだいに明確な自分の意志を育てることである。どうしたら、自分の意思が実現するのか、少しづつ、その戦略を考えていく。

意志力が強くないなら、自分の思いを聞いてくれる相手を見つけることである。自分とともに行動してくれなくてもよい。耳を傾けてくれる人がいるだけで、自分が何がやりたいのか、整理できる。

総じて、自分の思うままに物事はならない。しかし、自分の思うままに動いてみることは、物事がそうならなくても、満足感がある。

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