猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

小さな小さな関東州の守備隊の関東軍が かってに満州を占領した

2020-12-19 21:33:28 | 育鵬社の中学教科書を検討する
 
きょうのきょうまで、冷蔵庫のクラフト「切れているチーズ」をカマンベールチーズだと思っていた。しかし、味が納得できず、外箱をよくみると、「カマンベール入り」のプロセスチーズとあった。私は間抜けである。
 
そういえば、加藤陽子の『戦争まで』(朝日出版社)を読むまで、「関東軍」を日本の「関東地方」の陸軍のことだと思っていた。私の父は、戸籍が東京都の文京区にあったので、赤紙で東京に呼び出され、中国の戦地に行かされた。
 
私は間抜けである。「関東軍」の「関東」が、中国の「関東州」の「関東」であることを知らなかった。私は高校のとき、暗記を重んずる日本史の先生がきらいで、日本史を勉強しなかった。いつも白紙の答案を提出していた。
 
しかし、「関東州」はいまや中学の教科書にも出てくるのだ。育鵬社の『新しい日本の歴史』につぎのようにある。
 
〈 大戦〔第1次世界大戦〕のさなか、関東州・南満州鉄道(満鉄)の租借期限の延長などを中華民国政府に要求しました。〉211ページ
 
〈 また満州には、わが国が権益をもつ関東州と南満州鉄道を守るための日本軍部隊(関東軍)が置かれていました。〉226―227ページ
 
関東軍は租借地「関東州」と南満州鉄道の権益を守るための日本陸軍の一師団であったのだ。
 
育鵬社の教科書を使う中学校の先生方は「租借地」や「権益」をどう教えるのか、私は気になる。
 
ところで「関東州」とはどこか。地図で探すと、中国遼東半島の先端の3,463平方キロメートルの小さな地域である。現在の大連市の南半分で、日露戦争の激戦地、旅順を含む。上の地図の下の赤色の小さな地域が「関東州」である。
 
日露戦争は、第1次世界大戦開戦のちょうど10年前のことである。
 
〈 陸軍は、ロシアが築いた旅順の要塞を攻略するため、乃木希典の率いる軍を送り、多くの犠牲を払った末に旅順を占領し、奉天会戦でも勝利を収めました。〉191ページ
 
〈 一方、わが国の兵力や武器、弾薬、戦費は底をつき始め、ロシアでも革命の動きが高まっていたため、1905年、アメリカの仲介でポーツマス条約が結ばれ、わが国の勝利で戦争は終わりました。この条約でわが国は、韓国での優越的な立場が認められたほか、旅順大連の租借権、長春以南の鉄道の権利、北洋での漁業権、樺太の半分を得ました。〉191ページ
 
ロシアも日本も降伏したわけではないから、育鵬社の「わが国の勝利」は言い過ぎである。日本は、たった1年の戦争で「兵力や武器、弾薬、戦費は底をつき始め」たにもかかわらず、「わが国の勝利」に酔いしれて、日露戦争を期して、軍国主義の道に進む。
 
〈 しかし国内では、犠牲の大きさに比べ、ロシアから賠償金が得られず、手に入れた権益があまりに少ないとの不満がわきおこり、暴動にまで発展しました(日比谷焼き討ち事件)。〉191ページ
 
戦争反対の暴動でなく、ロシアから奪ったものが少ないと皇居の前で暴れるなんて、なんて情けない日本人なのだろう。もちろん、日本が勝った勝った、と宣伝した大日本帝国政府に責任の半分があるが。
 
さて、小さな「関東州」と南満州鉄道の権益を守るための「関東軍」は、大日本帝国政府を無視して、トンデモナイ戦略を立て、軍事行動を起こす。
 
〈 こうした情勢の中で、関東軍は問題の解決をはかって満州の占領を計画しました。1931年9月、関東軍は、奉天郊外の柳条湖の満鉄路を爆破して中国軍による爆破と発表し、満州の各地に軍を進めました(満州事変)。〉227ページ
 
〈 日本政府は関東軍の動きを抑えようとしましたが、関東軍は満州の主要都市を占領し、満州の有力者の一部を味方につけ、その翌年、清朝最後の皇帝だった溥儀を元首とする満州国を建国しました。事態がこのように動くなか、政府も関東軍の行動を追認しました。〉227ページ
 
育鵬社の教科書は、中華民国から満州の利益を守るために、関東軍は満州を占領し、満州国を建国したとある。育鵬社の教科書は伊藤隆の監修である。伊藤隆に指導を受けた加藤陽子は『戦争まで』で、つぎの別の見方を紹介している。
 
〈 1931年9月18日に起こされた満州事変は、日本の関東軍参謀、石原莞爾によって、2年前から周到に準備され、起こされた事件でした。〉98ページ
 
〈 石原が事変を起こした理由は明快でした。ソ連がいまだ軍事的に弱体なうちに、日本とソ連が対峙する防衛ラインを、山脈など天然の要塞で区切られたソ連の国境線まで北に上げることで楽にしておくということです。〉99ページ
 
伊藤隆は陸軍と政府から見た視点で中華民国を敵国とし、加藤陽子は関東軍の視点からソ連(ロシア)を敵国とする。歴史の結果は、満州国はソ連の侵攻であっという間に総崩れで、日本人開拓民の引き揚げ(逃亡)やシベリアへの日本兵の捕囚で多くの犠牲者を出す。軍事的には、ソ連に対する軍備の備えが必要だったのに、満州国の軍備がソ連の5分の1以下であったのに、陸軍はインドシナ、フィリピンへの南攻に兵を移動させたのだ。
 
私の父は、旧制中学卒業であったので、将校にしてやるから、南方戦線に行かないかと誘われた。しかし、父は、南方にいくまでに海で死ぬという噂を聞き、二等兵で中国戦線に残ることを選択し、負傷兵として終戦を病院で迎えた。帰国に1年かかったが、中国から生きて帰れたのである。
 
加藤陽子は、庶民の立場ではなく、政府や軍首脳の立場から、どこで、国策を誤ったかを『戦争まで』に書いている。まあ、加藤も伊藤もどっちがどっちであるが、なぜか不思議なことに、菅義偉は加藤の日本学術会議会員任命を拒否した。政府や軍の誤りを指摘すると、「自虐史観」になるようだ。日本には「学問の自由」がない。
 
小林英夫は、満州国政府が関東軍の完全な傀儡であったと『アジア太平洋討究』No. 23に書いている。
 
〈 中国人官吏は無論として日本人官吏も関東軍の了解なくしては満洲国の官吏に就任することはできなかった。〉
 
〈 関東軍司令官が満洲国の中央,地方官署の日本人職員の任命権および解任権を持っていたからである。しかも関東軍は,正面には中国人を立てながら,背後から日本人がこれを制御する「内面指導」を実施した。〉
 
また、ソ連の侵攻に対する日本の陸軍の備えはなかったと小林が書いている。終戦後の満州国で起きた日本人の悲劇は、陸軍と日本政府に責任があるのである。伊藤は、その責任をスターリンひとりに押し付けているが、それは彼の共産党嫌いからくる誤りであると思う。

育鵬社の教科書を横浜市が採択しなくて良かった

2020-08-04 23:02:59 | 育鵬社の中学教科書を検討する

きょう、8月4日、横浜市教育委員会は、市立中学校で来年度から4年間使う教科書を採択した。歴史と公民について、横浜市では育鵬社の教科書を使ってきたが、今回の採択では、歴史は帝国書院版、公民は東京書籍版を選んだ。

育鵬社の『新しいみんなの公民』は、なぜか、大日本帝国憲法(明治憲法)をヨイショし、日本国憲法(昭和憲法)を日本の敗戦による連合軍のお仕着せとする教科書である。

日本国憲法と大日本帝国の共通点は、財産権を記していることである。育鵬社の公民教科書は、日本が「自由主義国家」で「自由経済」であることを強調する。お金持ちがますますお金持ちになることを是とするのが、育鵬社の公民教科書である。

育鵬社の公民教科書は、愛国と伝統文化を強調し、「各国は独自の「価値」を憲法に記述することにより、国民に自覚と誇りを持たせています」と書く。

現在の日本は民主政の国で、日本国憲法は国民主権を規定している。戦前の日本は君主政の国で、大日本帝国憲法は天皇をすべての官僚(官)、軍人(武)、庶民(民)の上に置き、天皇の発議がなければ、憲法は改定できない

日本が敗戦して、連合軍が天皇に民主政を強要しなければ、伝統の「国体」の変更をもたらすことができなかったのである。そうでなければ、私たちの親はたちが、革命を起こして、天皇を追放しない限り、民主政(国民主権)に移れなかったのである。

伝統の「国体」、天皇制は、約150年前の明治維新以来の伝統のことであり、維新の功労者たちによって、でっち上げられたものである。

日本国憲法には「法の下の平等」という条文があるのに対し、大日本帝国憲法にはそれがない。

日本国憲法第14条《すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
○3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。》

日本は、自由と平等の考えにもとづく、民衆(デーモス)が治める国である。

大日本帝国憲法になく、日本国憲法だけにある条文は、これだけでない。

第19条の「思想及び良心の自由」、第23条の「学問の自由」は日本国憲法固有の条文である。

第13条の「個人として生命、自由及び幸福追求の権利」、第25条の「健康で文化的な生活を営む権利」、第26条の「教育を受ける権利」は固有の条文である。

働くものの権利、第18条の「奴隷的拘・苦役の禁止」、第27条の「勤労の権利・勤労条件の基準・児童酷使の禁止」、第28条の「勤労者の団結権・団体交渉権」は固有の条文である。

第24条の「婚姻は両性の合意・夫婦同権・両性の平等」も固有の条文である。

さらに、だいじなのは、国務大臣、国会議員、裁判官などの公務員の特権を日本国憲法は禁止していることである。

第15条の「国民が公務員を選定・罷免。公務員は全体の奉仕者」、第16条の「請願の権利」、第17条の「公務員の不法行為にたいする賠償請求権」、第34条の「弁護人に依頼する権利と拘禁理由の公開法定での開示」、第36条の「公務員による拷問・残虐な刑罰の禁止」、第37条の「公平で迅速な公開裁判を受ける権利」、第38条の「自白の強要の禁止」、第39条の「実行の時に適法であつた又は既に無罪とされた行為に刑事上の責任を問われない」、第40条の「無罪の裁判を受けたときの抑留又は拘禁の補償の請求権」は固有の条文である。

これによって、日本国憲法は、民主政の国では、行政はサービス機関であることを明確にしている。政府も議員も裁判所も「国民への奉仕者」である。これを公民教科書は教えるべきである。

大日本帝国憲法に戻るなんて、まっぴら、ごめんだ。
   ☆    ☆

もうひとつ問題として、育鵬社の教科書に、統治に「効率」を求める考えが書かれているが、これは、民主政を否定するものである。じつは、トンデモないことだが、この考えは文部科学省の「公民」の指導要領に書かれている。

きょうのBSフジ『プライムニュース』で自民党議員の松本剛明は、現在、国会を開くと大臣がそれに時間をうばわれ、新型コロナ対策を「効率」的に打てないから、国会を開かないのだ、と言っていた。

彼だけでなく、安倍晋三も与党と相談するというが、新型コロナ対策のために、国会を開くと絶対に言わない。野党は国会を開くことを請求しているが、憲法の規定を無視して安倍政権は国会を開かない。

安倍晋三や自民党議員は、「効率」のために自民党の独裁を主張している。独裁は、必ず、腐敗を生む。そして、じっさい、安倍長期政権はすでに腐敗を生んでいる。

育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その6 基本的人権

2020-07-25 22:17:12 | 育鵬社の中学教科書を検討する
 
育鵬社の中学校教科書『新しいみんなの公民』は、第2章第2節で日本国憲法の基本的人権を扱う。
 
著者たちは、第1節で大日本帝国憲法を評価しているにもかかわらず、第2節で基本的人権について、現在の日本国憲法と戦前の大日本帝国憲法の比較を行っていない。それは、基本的人権に関して、大日本帝国憲法は、ほとんど何も規定していないからである。
 
日本国憲法と大日本帝国憲法の構成には類似性がある。日本国憲法の第2章が「国民の権利及び義務」で、大日本帝国憲法の第3章が「臣民権利義務」になっている。単に、「国民」が、戦前、「臣民」であっただけでなく、大日本国憲法では、ほとんどの権利を「臣民」に認めていない。認めていないだけでなく、「臣民」に徴兵の義務を課しているのである。
 
大日本帝国憲法第20条《日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス》
 
この点に関して、教科書の著者は、つぎのように言及する。
 
〈国民に国防の義務がない徹底した平和主義は世界的に異例ですが、戦後日本が第2次世界大戦によるはかりしれない被害から出発したこともあり、多くの国民にむかえ入れられました。〉(56ページ目)
 
日本国憲法が「異例」だと、著者は書く。それに続く文、「戦後日本が第2次世界大戦によるはかりしれない被害から出発した」が不可解である。「被害」が動機であれば、復讐のため軍事力強化となり、多くの国民は徴兵制を望んだはずである。
 
私の子ども時代の記憶では、大人たちに「反米」という感情が残っていたが、それと同時に、戦争は無意味だった、帝国政府と天皇に騙されたという思いを大人たちは共有していた。もう二度と戦争に行きたくない、もう二度と子どもたちに戦争に行かせないという思いが、徴兵制廃止に賛成した理由である。
 
日本国憲法の第11条、第12条、第13条、第14条、第15条、第16条、第17条、第18条、第19条、第23条、第24条、第25条、第26条、第27条、第28条、第33条、第34条、第36条、第37条、第38条、第39条、第40条は、対応するものが大日本帝国憲法にない。対応するものがある場合でも、なんらかの制限がついている。
 
大日本帝国憲法のもっとも大きな基本的人権の制限は、つぎである。
 
大日本帝国憲法第31条
《本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ》
大日本帝国憲法第32条
《本章ニ掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴触セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス》
 
大日本帝国憲法では、「天皇の大権」と「軍の法令と紀律」が、基本的人権の上にあるのだ。
 
大日本帝国憲法にない「法のもとの平等」について論じてみよう。
 
日本国憲法第14条
《すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
○3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。》
 
これに対して、育鵬社の著者は、教科書から「政治的、経済的又は社会的関係において」の句を省く。そして、公民教科書につぎのように書く。
 
〈一方で、憲法は人間の才能や性格の違いを無視した一律な平等を保障しているわけではありません。憲法が禁止する差別とは、合理的な根拠を持たないものと考えられているからです。行きすぎた平等意識は社会を混乱させ個性をうばう結果になることがあります。〉(64ページ目)
 
〈憲法が保障する平等は、合理的な根拠をもたない差別を禁止するものだと考えられています。〉(68ページ目)
 
私には、合理的な不平等というものが、想像できない。
 
育鵬社の著者たちは、つぎのようにのべる。
 
〈男性または女性というだけで不合理な差別をうけたり偏見をもたれることは、あってはなりません。しかし同時、社会の風習や古くから伝わる伝統をすべて否定したり、性別を尊重しようとする個人の生き方を否定したりしてはならないでしょう。〉(65ページ目)
 
〈家族が単に個人の集まりでしかないと考えられたり、個人が家族より優先されるべきだとみなされるようになると、家族の一体感は失われていくおそれがあります。個人の多様な生き方を尊重する現代の社会はそのようなことになりがちです。現在の日本では、家族の形や役割に変化が見られますが、家族を維持していくことの重要性は、現代の日本人にも強く意識されます。〉(67ページ目)
 
〈外国人にも人権は保障されますが、権利の性質上、参政権など日本国民のみにあたえられた権利は、外国人に保障されません。〉(68ページ目)
 
上記の第1段、第2段は、日本国憲法14条だけでなく、暗に、下記を批判している。
 
日本国憲法第13条
《すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。》
 
日本国憲法第24条
《婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
○2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。》
 
教科書の著者たちは、「個人の尊重」「個人の尊厳」というものを理解できていない。
 
三段目の著者たちの主張は、日本国憲法の欠陥にも起因する。憲法第2章の条項には、「国民」という語が主語になっているものがある。たとえば、第13条や第14条では「国民」が使われている。
 
しかし、日本で働いている外国人から税金をとりたてている。また、在日朝鮮人、在日中国人は親や祖父の代から日本に住んでいる。「国民」の解釈を通じて、外国人の権利を救う必要があると思う。
 
日本国憲法第13条
《日本国民たる要件は、法律でこれを定める。》
 
   ☆    ☆    ☆
そのほか、教科書第2章第2節に、著者たちは、世界の国家を「全体主義国家」と「自由主義国家」に2分しているが、「君主国家」か「民主国家」か、そして、形式的に「民主国家」でも機能しているか否かで、見るべきでないか。
 
著者のつぎの記述に、私は納得できない。
 
〈日本をはじめとする自由主義国家は、国民が自由に移動し、職業を選び、事業を営み、自分で働いて得た財産を保持することを、国民の基本的な権利としています(22条・29条)。これによって自由な経済活動が保証され、経済発展が支えられています。〉(63ページ目)
 
[補遺]
米国では、戸籍がない。一人ひとりが、国籍をもつ。したがって、米国で生まれたことが、米国の国籍を持つ条件となる。
日本では、戸籍や住民台帳があり、「世帯」と「世帯主」という概念で個人が管理される。日本の「家族」は、政府が個人を管理するための手段として利用されている。
「個人」を尊重する米国で、家族が崩壊しているとは言えない。

育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その5 ふたつの憲法

2020-07-24 22:54:45 | 育鵬社の中学教科書を検討する


2011年から横浜市で使われている育鵬社の中学校教科書『新しいみんなの公民』を、私たちは検討してきた。いよいよ、私たちの憲法について教える第2章である。その第1節は、つぎのように驚くべき構成になっている。
   ☆   ☆   ☆

戦前の憲法、大日本帝国憲法を肯定的にのべ、現在の日本国憲法は連合国占領軍(米軍)の押し付けであるという。連合軍は日本に非武装化を強く求め、「戦力」をもたないこと、他国と自分から戦争しないこと(憲法9条)を押しつけたとする。

日本政府は、1950年の朝鮮戦争を期に、米国に協力する形で、警察予備隊、自衛隊と戦力を復活させ、憲法9条を、自国の防衛は許されるという解釈で乗り切ってきたとする。

また、1951年の日本の独立にあたって、日米安全保障条約を結び、米軍基地が国内に残るかわりに、日本の平和が米軍の抑止力に守られるようになったとする。

国際情勢の変化で、自衛隊を外国に派遣する必要が生じ、政府は、2003年に武力攻撃事態対処法など有事関連三法を成立させたという。東アジアでの緊張に呼応し、2015年には平和安全法制関連二法を成立させ、日本の安全保障体制を強化したとする。

日本国憲法を改正するために、2007年、具体的な手続きを定めた国民投票法を制定し、2010年5月18日に施行されたとする。
   ☆   ☆   ☆

これは、日本政府が、強い日本、世界の大国である日本を復活させるために、いかに着々と前進してきたかをのべているのであって、私が期待した憲法教育ではない。

日本国憲法の内容を分かりやすく説明し、その知識によって、弱い者たち、虐げられて者たちが自分の権利を守っていくのに役立つのが、公民の教科書であるべきだと私は思っている。

育鵬社の教科書の第2章第1節の記述を具体的に検討しよう。

第1節は、46ページ目のつぎの主張で始まる。

〈私たちが集団生活を営む上では、みんなが従う一定のルールがなければ混乱が生じ、最終的にすべての人々が不利益や損害をこうむってしまいます。
 社会の秩序を維持、みんなの自由や安全を守るためには、ときとしておのおのの自由を制限することも必要です。〉

「自由」や「平等」の説明から始まるのでなく、「社会秩序の維持」のために法によって「自由を制限する」というところから、「法治国家」を説明する。「自由を制限する」の主語はなんだろう。

確かに、「人は右側、車は左側」というように、単に「混乱」を防ぐための法律もあるだろう。しかし、法というものは、人間と人間が、集団と集団が、利害の違いから、対立し、その妥協点を明文化したものだ。妥協点は、力のつり合いが変化すれば、当然、変化する。

法による「自由を制限する」の必要性は自明でないし、最初に教えるべきことではない。

47ページ目に、つぎのように書く。

〈現代の多くの国の憲法には、歴史・伝統・文化など自国の独自の価値が盛り込まれています。各国は独自の「価値」を憲法に記述することにより、国民に自覚と誇りを持たせています。〉

憲法とは、人類普遍的な理想をのべるものではないか。「歴史・伝統・文化など自国の独自の価値を盛り込む」とは、国民と国民の対立を生むことになるのではないか。

なぜ、こんな変なことをのべるのかは、つぎの48ページ目を読むとわかる。

〈明治維新をむかえた日本では、五箇条の御誓文が示され、天皇自らこれを実践することを明らかにしました。〉
〈政府は伊藤博文らを中心に欧米の憲法を調査研究するとともに、日本の歴史や伝統、国柄の研究を行い、約8年の歳月をかけて、1889年、大日本帝国憲法として公布しました。〉

五箇条の御誓文とは、明治天皇が、「官武一途庶民に至るまで、人心が離れないようにする」と宣言しただけで、官僚、軍人から庶民までを上手に丁寧に支配する(君主政)と天皇が誓っているのである。

ここの「日本の歴史や伝統、国柄」は、戦前の言葉では「国体」のことである。49ページ目にそれが書かれている。

〈この憲法では、日本の伝統文化と西洋の政治制度をいかに結びつけるかに力がそそがれ、日本は万世一系の天皇が統治する立憲君主制であることを明らかにしました。〉

それに対し、49ページ目に、現在の日本国憲法は押しつけであると書く。

〈連合国は、大日本帝国憲法の下での政治体制が戦争のおもな原因だと考え、日本の民主主義的傾向を復活強化して、連合国にふたたび脅威をあたえないようにするために、徹底した占領政策を行いました。〉
〈連合国軍最高司令官マッカーサーは、憲法の改正を日本政府に求め、政府は大日本帝国憲法をもとに改正案を作成しました。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)はこれを拒否し、自ら1週間で憲法草案を作成したのち、日本政府に受け入れるようにきびしく迫りました。〉
〈日本政府は英語で書かれたこの憲法草案を翻訳・修正し、改正案として1946年6月に帝国議会に提出しました。改正案は、一部の修正を経たのち、11月3日に日本帝国憲法として公布され、翌年5月3日から施行されました。〉

「歴史・伝統・文化など自国の独自の価値が盛り込む」とは、「日本の歴史や伝統、国柄」すなわち「国体」を憲法に書くことで、そうでない日本国憲法をマッカーサーの押し付けと言っているのである。

50ページ目に、つぎのように、「国民主権」を説明する。

〈主権とはその国のあり方を最終的に決定する権力のことであり、その中には憲法を制定したり、改正するなどの大きな権限も含まれています。この主権が国民にあることを国民主権といいます。〉

ところが、51ページ目に、不可解な一文がある。

〈天皇は直接政治にかかわらず、中立・公平・無私な立場にあることで日本国を代表し、古くから続く日本の伝統的な姿を体現したり、国民の統合を強めたりする存在にとなっており、現代の立憲君主制のモデルとなっています。〉

象徴天皇制を「現代の立憲君主制」というが、「立憲君主制」では君主に主権がある。じっさい、著者の大好きな大日本帝国憲法では、天皇が陸軍、海軍を統帥し、内閣は軍隊を統括できない。また、憲法の改正は、天皇が発議しないかぎり、国会で憲法改正を議論できない。そして、じっさい、1941年12月に昭和天皇は、米国との開戦を決め、1945年8月に降伏を決めた。

新しい日本国憲法は、天皇から、これらの権限を奪った。しかし、日本国憲法に象徴天皇制があるのは、民主国家の憲法として大きな傷で、天皇制を廃止しなければならない。さもないと、この教科書の著者のように、「現代の立憲君主制」という者が出てくる。

「人権とは何か」のところの、53ページ目に、ふたたび、大日本帝国憲法をヨイショする。

〈日本でも、大日本帝国憲法を制定する際、古くから大御宝と称された民を大切にする伝統、新しく西洋からもたらされた権利思想を調和させ、憲法に取り入れる努力がなされました。〉
日本国憲法では、西洋の人権思想に基づきながら基本的人権を「犯すことのできない永久の権利として信託されたもの」(97条)とし、多くの権利と自由を国民に保障しています。〉

また、54ページ目の「基本的人権の尊重」でつぎのように書く。

〈政治の最大の目的は、国民の生命と財産を守り、その生活を豊かに充実させることにあります。したがってその基礎をなす基本的人権の保障と充実は、なにより重要な政治目的のひとつとして位置づけられています。〉

この「国民の生命と財産を守り、その生活を豊かに充実させる」は、保守政権が自衛隊の海外派遣や米国との軍事同盟を強化するときに使う、きまり文句である。そうでないでしょう。「政治の最大の目的は、誰かが誰かを搾取することをやめさせ、自由と豊かさを平等に分かち合うようにする」ことでしょう。

56ページ目に、著者は、日本国憲法の第9条は、連合軍(米軍)の押し付けだと書く。そして、57ページ目に、つぎのように、日本政府は第9条の解釈で対応してきたという。

〈政府は、ここでいう戦争とは「他国に侵攻する攻撃」を指し、「自国を守る最低限度の戦闘」までも禁じているものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を待つことは憲法上許されると解釈し、自衛隊を憲法第9条に違反しないものと考えています。〉

自衛隊は「戦力」でなく「実力」だと言うのは詭弁である。
さらに、58ページ目に、日米安全保障条約について不可解な一文を挿入する。

〈1960年に改定され、日本が外国からの攻撃を受けたとき、アメリカと共同して共通の危険に対処することが規定されました。戦後の日本の平和は、自衛隊の存在とともにアメリカ軍の抑止力(攻撃を思いとどまらせる力)に負うところも大きいといえます。この条約は、日本だけでなく東アジア地域の平和と安全の維持にも、大きな役割を果たしています。〉

これも、日本政府の解釈であって、日米安全保障条約は、あくまで、米軍基地を日本に置くことの相互了解である。

1989年の「ベルリンの壁崩壊」以降、東西両陣営の対決による第3次世界大戦の危機は遠のいたのに、それ以降、以前にまして、日本では国際社会が変化した、軍事力が必要だ、日本は海外に自衛隊を派遣する必要がある、と日本政府はいうようになった。

これは、米国の国力低下が大きな要因である。1980年代に、日本と米国のあいだに経済摩擦が起き、日本政府は、その解消を経済ではなく、米国に軍事協力をする形でつぐなおうとした。これは、日本の経済界とこの教科書の著者のような右翼勢力との野合である。

それにもかかわらず、著者は、国際情勢が急変し、日本の安全保障が脅かされたと言い出し、米国との問題であることを隠ぺいする。そして、日本政府の対応を支持する。

〈そこで有事への対応を想定した法律(有事法制)の整備が進められ、2003年に武力攻撃事態対処法など有事関連三法が成立しました。〉(58ページ目)

〈このような周辺の安全保障環境の急変に対し、政府は2014年に憲法解釈を実情に即して改め、集団的自衛権の行使を限定的に容認することを閣議決定しました。そして、2015年には平和安全法制関連二法が成立し、日本の安全保障体制が強化されました。また、自衛隊による在外邦人保護要件が緩和され、国際平和への積極的貢献の範囲も広がりました。〉(59ページ目)

在外邦人保護とは、海外にいる日本人の生命と財産を実力で守るということだが、戦前、日本が関東軍が中国に駐留する理由にこれを使った。軍事力を在外邦人保護の名目で使うなら、それは、他国の主権を軍事力でおかすことになる。憲法9条がなくても、やっては いけないことである。

そして、憲法改正について、つぎのように、著者は教科書に書く。

〈憲法は国の根本的なあり方を示すだけでなく、現実に国の進路を左右する大きな力をもっています。そのため、実際の政治を行うにあたり、目まぐるしく変化する国内や国外の情勢に対応していくためにどのように憲法を解釈・改正すべきか、という問題がしばしば起こります。〉(60ページ目)

〈憲法を絶対不変のものと考えてしまうと、時代とともに変化する現実問題への有効な対応を妨げることにもなりかねません。〉(61ページ目)

〈2007年、憲法改正のための国民投票など具体的な手続きを定めた国民投票法が制定され、2010年5月18日に施行されました。今後は、各院に設置された憲法審査会で、国会に提出された憲法改正原案の審査が行われ、国会の議決を経た上で、国民投票による改正の是非が諮られることになります。〉(61ページ目)

育鵬社の中学教科書『新しいみんなの公民』は偏向しているのではないか。横浜市の公立中学で使うのは不適切ではないか。


育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その4 宗教と法

2020-07-23 12:46:45 | 育鵬社の中学教科書を検討する

育鵬社の中学校教科書『新しいみんなの公民』は隅々におかしなことが書かれているので、検討がなかなか進まない。今回、第1章の第2節と第3節を大急ぎで検討しよう。

  ☆   ☆   ☆
第2節は、伝統のなかでも宗教を扱っている。24ページ目に、つぎのようにある。

〈日本人の多くは、子どもが生まれると無事に成長するよう願って神社にお宮参りをし、人がなくなると宗教的行事として葬式を行うなど、人生の節目で、神道と仏教と深い関わりをもった儀礼を行います。〉
〈また、12月24,25日にクリスマスを祝い、数日後の元日に神社や寺院に初もうでに行くといった、宗教的行事への寛容性や多様性が見られます。〉

これは、宗教的伝統と言えるのか。戦後、宗教に対しての信頼が壊れたということではないか。起きていることは、宗教的行事が商業上の利益追求(コマーシャリズム)に利用されているだけでないか。

150年前の明治政府の「神仏分離令」で仏教界が大打撃をうけた。これは、明治政府を支える基盤に儒学者と神道家がいて、仏教の排除を図ったからである。100年前の大正時代になると、仏教の復興時代に入り、親鸞の弟子の唯円が記した『歎異抄』が再発見され、鎌倉仏教全体が再評価された。これもグローバル化の良い結果である。当時、キリスト教のクリスマスに対抗して、お寺では、釈迦の誕生を祝う花祭りが4月8日に行われた。

日本人がふたたび宗教から離れるのは、80年前の戦争の時代である。平和を願うのが宗教なら、信仰をもつ者は、天皇が始めた戦争に反対しなければならない。ところが、既成宗教団体は反対しなかった。危険を冒して反対したのは、一部の信者であった。

同じ問題は、ドイツでも起きている。一部のプロテスタントの聖職者は身を挺してヒトラーに反抗し、捕らえられて収容所で殺された。ところが、プロテスタントの教会の主流派はナチスにしたがったため、戦後、信者たちは教会に戻らなかった。(ドイツでは、教会の聖職者の給料が州政府からでていたという特殊事情があるので、いちがいには責められないが。)

宗教が、商業的行事や慣習上の儀礼としてしか意味をもたなければ、それは宗教の敗北である。もしかしたら、「宗教的行事への寛容性や多様性が見られます」という賛美は、靖国神社への閣僚や議員の参拝の正当化を図ったものではないか。

第2節ではそれ以外にも変な記述がある。26ページ目に

〈これらは、神社の祭礼や民俗信仰、年中行事だけでなく、皇室の文化や祭祀(神仏や祖先をまつること)の大きな特色でもありました。〉

とある。「皇室の文化や祭祀」を、「神社の祭礼や民俗信仰、年中行事」と同列視している。明治政府が「天皇の神格化」を図って、西洋諸国から批判を浴びたとき、これは、「儀礼」であって「宗教」でないと弁明した。明治以前に、天皇が「生き神様」であったことはない。

政府は、一貫して宗教を統治の手段として利用し、邪魔な信仰人を弾圧してきたのである。

また、30ページ目の

〈しかし、あまり便利な機械化社会では、例えば家事をするとき、冷蔵庫や電子レンジ、洗濯機など、機械に頼らなければ生活できない状況も生みだしました。〉

も意味不明である。家事労働の負担を軽くするために「冷蔵庫や電子レンジ、洗濯機など」を使って、どこが悪いのか。
こんなバカな教科書著者に

〈科学では解明できないことがたくさんあることを理解し、生命や自然に対して畏敬の念をもつことも必要です。〉(31ページ目)

と言われたくない。科学で解明できても、生命や自然に畏敬の念をもっていいのだ。

  ☆   ☆   ☆
第3節は、「法」の順守を訴えるために書かれている。38ページ目に「対立が生じて、まとまらないこともあるでしょう」につづいて、

〈みんなが納得できるように、解決策を話し合い、何らかの決定を行い、合意する努力をしていかなければなりません。〉

とある。この文章は どこか おかしくありませんか。プロセスとしては、「解決策を話し合い、合意し、決定を行う努力」が普通である。無意識からか、「何らかの決定を行い」が合意に先立つ。

つぎの段落を読むと著者のねらいがはっきりする。

〈合意する努力がされるとき、必要な考え方に効率と公正があります。効率は無駄を省くという考え方です。公正は不利益をこうむっている人をなくそうとしたり、みんなが同じ条件になるようにしたりするなど、さまざまな意味合いがあります。〉

「効率」という語がでてくるのは、早く「何らかの決定を行う」ことがだいじだ、みんなの文句を聞くことが無駄だという「上から目線」で書かれている。

また、「公正」という言葉もおかしい。「公正な裁判」「公正な処置」という用法が示すように、上位の者が、当事者のそれぞれの言い分を聞いて公平に判断することをいう。

「効率と公正」は権力者の言い分である。

40ページ目に「法」の役割をつぎのように書く。

〈私たちが社会生活を営むなかで、ときには意見や利害の関係から、対立が起きることがあります。そのトラブルを解決し、合意にいたった場合に大切なことは、二度と同じことが起こらないようにすることです。そのためには、個人個人の習慣や考え方を変えるのもひとつの方法ですが、前もって集団社会のなかできまりをつくることも有効な手段です。〉
きまりは、私たちが巻き込まれる可能性があるトラブルや事故を防いでくれ、合意を形成するためにつくられています。〉

「きまり」は「きまる」の名詞形であって、「きめる」の名詞形ではない。「きまり」はすでにある「掟」であって、合意事項ではない。学校にいろいろな「きまり」があるが、生徒が合意して「きめた」ことではない。

「きまりが合意を形成する」というのも意味不明である。「きまっているから文句を言うな」という意味であろうか。

現在、学校にある「きまり」の多くは、1970年の学園闘争を抑え込むために、学校運営者が導入したものである。

41ページ目に、著者はつぎのように脅す。

〈しかしそのために、私たちには、きまりを守る義務があるということも忘れてはなりません。〉
〈もしそれを破った場合には、責任を問われることになります。〉
〈現代にいろいろなトラブルが起こる背景には、義務を忘れ権利だけを主張する風潮があるからだといわれています。〉

まったく、支配者の身勝手な言い分だけを書いている。こんな「公民」の教科書の中身を真に受けて、子どもたちが、役人や経営者になったら、トンデモナイ社会になってしまう。