猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ユートピアから科学的社会主義へ――プロレタリア独裁

2019-10-08 23:20:56 | 民主主義、共産主義、社会主義

フリードリヒ・エンゲルスの『空想から科学へ』(科学的社会主義の古典選書、日本出版社)は、「社会主義」の誤解を生みやすい。

これは、ドイツ語版の“Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft”の翻訳である。本体の論文は短くて、3章からなる。それに、フランス語版、英語版の序文の翻訳がつく。

「空想」は“Utopie”(ユートピア)の訳で、ユートピアは「理想郷」の意味で通常使われている。エンゲルスはユートピアを求めることを批判しているのではなく、じっさいに、第1章では、3人のユートピア家たちを、敬意をもって、紹介している。その意味で、「空想」は不適切で、“Utopie”をユートピアと訳すべきだった。

「科学」は“Wissenschaft”の訳で、ドイツ語では「事実についての体系的な知識」を意味し、哲学や神学から区別される。1880年代初め、機械と科学が文明の最先端であった時代に書かれた論文であるから、「科学的」が「正しい」と同じ意味で、同時代の読者は受け取ったと思われる。

20世紀の初頭、いまから100年以上前、相対論、量子論が出てきて、ニュートン力学の世界像が、真理でないことが明らかになった。現在では、科学は作業仮説の体系にすぎず、常に、実験と観察によって批判的に扱われるのが、共通理解になっている。

さて、エンゲルスは、自分の考える社会主義こそが正しいものと言うために、「ユートピアから科学へ」という論文を書いたのである。

第2章は、「弁証法」こそ素晴らしい手法で、これまでの「形而上学」や「論理学」を超えるものとエンゲルスは主張する。私の理解を超えるもので、また、理解する必要はないと思う。「弁証法」とは、世界を、肯定、否定の命題に分解するのではなく、変化する全体として理解する方法と言っているようだが、宗教のようなもので、実用性があるようには思えない。

第3章では「唯物論的歴史観」(Die materialistische Anschauung der Geschichte)で生産様式の発展から、あるべき社会主義をエンゲルスが導く。「唯物論的」とはいかめしい言い方だが、“materialistische”(物質論の)とは、「精神と肉体の二元論」の反対の意味で、現代の私たちの多くの考え方である。じっさいには、エンゲルスの言いたいことは、英雄(支配者)の活躍中心に歴史を見るのでなく、生産様式、社会制度の観点から歴史をみることで、これも、現代では当たり前である。

ここで、英語版の序文に、興味深い一節がある。中世以後の工業生産の歴史を、手工業、マニュファクチュア、近代工業にわけ、エンゲルスは、つぎのように言う。

「近代工業、そこでは生産物は動力で動かされる機械によって生産され、労働者の仕事は機械の作業を監視、調整することに限られている。」

なにか、極端ではないか。これは、映画の『メトロポリス』を思い出させる。しかし、近代工業でも、機械をつかって、人間が物を生産しているのが実態である。道具がより強力になっただけである。

さて、第3章に戻ると、近代の、無政府的な生産(Produktionsanarchie)のため、生産過剰が起き、10年おきに恐慌が起きる。そして、一方で、生産手段の独占が起きている。独占を極端におしすすめて、国家が生産手段を独占し、計画的に生産すればよい、とエンゲルスが考える。

「プロレタリアートは国家権力を掌握し、生産手段をまず国有に転化する。しかしそれによってプロレタリアートは、プロレタリアートとしての自分自身を廃棄し、それによってプロレタリアートはすべての階級差別と階級対立を廃棄し、またそれによって国家としての国家を廃棄する。」

これこそ、空想ではないか。生産手段を国家が所有すると自然に国家が消滅するとは、安易すぎやしないか。製造業しか考えられていないが、流通業も、農林水産業もある。また、人間にはよこしまな心がある。生産を国が管理計画するとは、官僚を肥大させないか、闇屋・投機・収賄などがかえって横行しないか。

なお、訳の「プロレタリアートとしての」と「国家としての」は、どちらも、語尾の「の」はいらない。ドイツ語原文の“als”がどこにかかるかの問題だが、これは誤訳だと思う。

議論に戻ると、無政府的な生産体制が恐慌の原因とは言えない。また、「効率」「集中管理」が良いとも思えない。生産手段が向上すれば、「無駄」のある社会システムを実現する余裕が生じる。

科学的社会主義という幻想が今もあるなら、レーニンにとどまらず、エンゲルス、マルクスにさかのぼって批判する必要がある。