猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

過去の自分の大失策がいま分かった、「迷惑をかけてごめんなさい」の手紙

2023-08-22 00:53:07 | こころの病(やまい)

先日、妻の本棚から、榊原洋一の『アスペルガー症候群と学習障害』(講談社+α新書)、岡田尊司の『パーソナリティ障害がわかる本』(ちくま文庫)を見つけた後、つぎつぎと同種の本が見つかった。

斎藤環の『社会的ひきこもり 終わらない思春期』(PHP新書、初版1998年、第25刷2003年)、笠原嘉の『精神病』(岩波新書、初版1998年、第13刷2005年)、中井久夫の『最終講義 分裂病私見』(みすず書房、初版1998年、第14刷2005年)、斎藤環の『生き延びるためのラカン』(木星業書、初版第1刷2006年)。

私が会社を定年退職したのが2007年の暮れである。中井久夫の『最終講義』に息子の手紙がはさまっていた。「迷惑をかけてごめんなさい」で始まる一枚の走り書きである。息子が苦しんでいた問題の本質が書かれていた。

「自分が人間でないことに気づいても、なかなか、人間になろうと思えない。約20年生きていたことを全否定して、新しいことをするなんて、ものすごい決意がいる。」

「毎日、自分を否定しつづけるのは辛い。人間になれなくて本当にごめん。」

べつに「人間」になるのに自分を全否定する必要がない。苦しむ必要がない。薬を飲んだからといって「人間」になれるわけではない。誰がオカシナことを息子に吹き込んだのだろうか。和光高校か?河合塾大検コースか?妻か?

当時、息子は和光高校に通えず、出席日数が足りず、2年留年して中退した。河合塾大検コースを妻が見つけてきて、息子はいやいや千駄ヶ谷の校舎に通った。そこで、プロテスタント牧師と称する男の主催する課外活動(畑を耕す)に参加した。ある日、突然、息子からの「追われている」との電話を私が受け取った。その畑から逃げているというので、私は妻と迎えに行った。渋谷か新宿で落ち合ったと思う。

なぜ、この手紙を妻が私に見せなかったのか。たぶん、当時、私は、世間と闘っていると、妻や息子に恐れられていたのだろう。妻や息子と意志疎通がとれていなかった。私の大失策である。

啓蒙書など一人で読んでも役にたたない。出版はビジネスである。精神科医やカウンセラーも職業である。自分の頭で考えない限り、知識は役に立たない。人間関係はいつもユニークな出来事で、マニュアルで扱えない。


パーソナリティ障害と発達障害

2023-08-13 23:14:04 | こころの病(やまい)

また、妻の本棚から、変な本を見つけた。岡田尊司の『パーソナリティ障害がわかる本』(ちくま文庫)である。2014年8月10日第1刷発行とある。DSM-IVとDSM5とのパーソナリティ障害の見方(モデル)の違いが書かれているから、比較的最近の本である。

本書の副題名に『「障害」を「個性」に変えるために』とある。どこか聞いたことあるセリフだ。そう、「発達障害」も「個性」と言ってカミングアウトが一時はやった。

斎藤環・與那覇潤の対談集『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書)のなかで、与那覇がつぎのように述べている。

「各種の精神病理について啓蒙書を書いている岡田尊司は『発達障害と呼ばないで』で、いま発達障害として鑑別されている人の多くは、本当は愛着障害で、子どものときに安定した形で愛情が注がれなかったことが原因だと主張しています。」

「発達障害」も「パーソナリティ障害」も精神科医がどこか変だと思う人間に振り当てた診断名である。違いは、前者が「生まれつきの脳機能の差異が発達とともに明らかになった」とするのに対し、後者は「成長とともに環境が心の偏りを強めた」とする。それって、どっちらももっともらしい。しかし、「個性」だとすれば、「障害」という言葉がものものしい。英語ではdisorderという単語をあてており、disabilityを使わない。

子どもや大人をたくさん見ていると、変な子や変な人と、パッと感じとってしまう。榊原洋一は『アスペルガー症候群と学習障害』のなかでつぎのように述べる。

「自閉症の子供をたくさん見ている人にとって、自閉症かどうか診断することは、別にむずかしことではないのだ。……。ある人は、「自閉症の子どもは診察室に入っただけですぐにわかる」と書いておられるし、なかには「診察室の窓から、病院の玄関に向かって歩いている姿を見るだけで診断がつく」と豪語しておられる専門家もいるのだ。」

この「診断がつく」とはどんな意味があるのだろうか。保険診療するには、診断名が必要であるが、精神科医は診断名をつける以上のことをやってくれているのだろうか。

変だというのは、普通ではない、標準モデルから外れているということである。標準から外れているだけなら、個性として、社会として受け入れていくべきだろう。

先日、テレビで政府がギフテッドの教育に何百臆円もののお金を投入すると言っていた。しかし、その内容はできる子にエリート教育をするということにすぎない。「発達障害」と呼ばれる子を学校教育で隔離せず、教室に受け入れていくために、もっとお金を投資すべきだと私は考える。

[訂正]

ギフテッドの教育に何百臆円もののお金を投入するというのは、私の聞き間違いであった。事実は「文科省がその支援のために2023年度予算案で8000万円を計上する」であった。用途は調べてはいないが、額からすると調査費か研究費ではないか。


榊原洋一の『アスペルガー症候群と学習障害』―愛着

2023-08-08 15:38:43 | こころの病(やまい)

先日、妻の本棚から榊原洋一の『アスペルガー症候群と学習障害』(講談社+α新書)をみつけた。21年前の2002年8月20日が発行日で、妻の買った本は2004年12月7日の第12刷である。当時、妻が息子の不登校と家庭内暴力に悩んでいた時期である。

いま読んで、気になることがいくつもあり、これから、何回かに分けて論じたいと思う。

榊原は小児精神科医で、本書で、「心の理論(theory of mind)」、「愛着(attachment)」「多重知能(multiple intelligences)」「ワーキングメモリー(working memory)」などの概念を説明した上で、「アスペルガー症候群」「学習障害」のついての自説を述べるものである。じっさいにアスペルガー症候群や学習障害の子どもにどう接したら良いかを答えるものではない。

(注)この「心の理論」は不適切な訳で誤解しやすい。”mind”とは記憶、認知、推測、意図などの脳の機能全体を指し、“theory“は推測や仮説などを指し、ともに日本語に訳しにくい言葉だ。要するに、相手の気持ちを察することではなく、相手が考えていることを推測する能力をいう。

本書のページ193に、「微細脳障害」という症候群の概念が述べられている。医師からみて「はっきりとした病変が見つからないにもかかわらず」、どこか子どもの脳の機能に変なところが見られる症候群をいう。榊原はこの症候群に批判的で「くずかご的」診断名と呼んでいる。

私は、現在流行の「発達障害」という概念は、この「微細脳障害」を引き継いでいるように思う。斎藤環と同じく、メディアが安易に「発達障害」という言葉を使いすぎると考えている。大人が「発達障害」とカミングアウトするのは異常だし、子どもの相談にくる母親を「大人の発達障害」と陰口するカウンセラーも異常だ。

症候群とは、その発症機構もわからず、症状だけからまとめた診断名で、保険で診療費を請求するための便宜的なものにすぎない。したがって、同じ診断名でも、発症機構が異なるものがあるはずで、一律のステレオタイプ的な対応でなく、個別な対応が必要と私は考える。

榊原は、本書で「愛着」という概念を紹介しながら、「自閉症」「アスペルガー症候群」の原因とは無関係であるとする。根拠は別に示しているのでなく、アメリカの現在の流行に従ったまでと私は思う。もちろん、「愛着」と関係あるも特に根拠があるわけでない。

これは、一時、アメリカの精神科医の間で、「自閉症」が「愛着」の問題に由来するとし、「自閉症」児の親たちを世の批判にさらしたことの反動であると私は思う。親や教師が自閉スペクトラム症とされる子どもに十分な愛情をもって接することは、自閉症の誘因がなんであれ、重要であると私は考える。

充分な愛情をもって子どもに接するとは、求めるものを何でも買い与えることではなく、自分が守られているという安心感を与えることである。心の根柢に人間に対する信頼感をもっていると、他人を信頼するな、期待するなとの忠告を理屈として理解するので、人との距離をうまく保てる。それに対して人間への不信感を根柢にもっていると、人との距離をうまく保てなくなると、自分の経験から思う。

「発達障害」の児童を対象とする運動に熱をいれ、娘をアスペルガーとネットで公言するが、娘の不安に抱きしめて大丈夫だ大丈夫だと言うこともない母親を知っている。また、息子との愛着関係で悩んでいる母親も知っている。上の子を下の子のように愛せないと悩んでいる。

愛情を十分に与えたから、知的能力の問題が解決すると言えない。しかし、人間は安心できる居場所が必要である。あるいは、逃げる先があるということは、一人で人生を生き抜いていくときの安心感をあたえるものである。

新聞の家庭欄などを見ると、夫婦の間で相手が「発達障害」だとの悩みがでてくる。相手が考えていることを推測できないからといって、困ることは何にもない。相手の考えが読めると思っている人は、疑心暗鬼に陥りやすい。相手の気持ちを察しないというのであれば、愛が冷えたのである。いっしょにいるなら、愛が燃え続けた人生の方が楽しい。関係をもう一度高めるよう、務めれば良いと思う。

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心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋

2023-07-31 17:09:52 | こころの病(やまい)

おととい、図書館でタイトルが面白そうな本を見つけ借りてきた。斎藤環と与那覇潤の『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書)である。

しかし、「心が病んだらいけないの」というキャッチなタイトルにもかかわらず、本書は日本社会の広範囲にわたる表層的おしゃべり(対談)にとどまって、私には不満が残った。いまだに、日本人はダイアローグ(対話)ができないのだろうか。インテリの偉そうな態度だけが目立った。

それでも、いくつかの収穫があった。

斎藤環は、日本の「発達障害」は流行であって、その妥当性に疑問を呈していた。私もこの12年間NPOで6歳から40歳近くまでの子どもたちを相手にしてきたが、同感である。

じっさいの「発達障害」児に接していると、その多くはただの不登校、ひきこもりか、知的能力に軽い問題を抱えている子どもたちで、重い知的障害とかASDとかAD/HDの子どもは非常に少ない。文科省の調査結果は、手間のかかる子どもたちを「発達障害」とカウントしているのではないか、と私は疑ってしまう。

問題は、日本の多くのケア施設では、みんなを知的障害かASDかのように扱い、社会に適応させようと、プログラムと称して、集団行動の訓練を行っている。たとえば、指導員が指さした方向に目を向けるように訓練する。

「発達障害」の烙印を個々の人間に押しつけるが、何が「発達障害」かはその国の「文化」によって規定される。親がそのことを認識し、「発達障害」だと思わず、社会から子どもを守れば、ただの発達の個人差ですむことが多い。

理想的には、障害の重い子に支援が多く向けられるようにし、軽い子には社会のほうが変わって受け入れるようにした方が良いと思う。たとえば、社会の側が「発達障害」と ののしらず、省略のない分かりやすい日本語で話せば、多くの場合、コミュニケーションは成り立つ。

不登校やひきこもりの場合は、塾や学校や職場など社会の側に根深い問題があることが多い。いじめがあると、いじめを受けた側が精神科の治療対象で、いじめをした側は精神科の治療対象にならないのは、与那覇はオカシイと言う。そういう意味で、本書の副題のとおり、病的な社会側に「処方箋」が必要なのだが、残念ながら斎藤環も与那覇も「処方箋」を与えていない。難しくて処方箋が書けないのか、処方箋は当事者が書くべきものと考えているのか、理由が明らかでない。

私も就労支援という立場から、「社会」を変える必要性を強く感じる。政府の現在の制度では、「精神障害」「発達障害」という烙印を本人が受け入れないと、就労支援を受けられない。就労支援の内容も問題がある。すべてをあきらめるよう指導する。また就労支援の結果、就労先は、能力に応じたというより、「無能」だという烙印を押されたような仕事しか与えられない。国の福祉政策の素案作りに、精神障害や発達障害の公務員が当事者として参加するのが筋であろう。

社会としては、障害があろうがなかろうが、すべての人に能力を高める支援をして、能力に応じた仕事を与えたほうが、得なはずだが、そのような合理的な考えが日本政府にない。与那覇や斎藤は、これを市場競争主義の「理想の計画」の欠如と呼ぶ。

私は、精神分析の方法論の有用性も部分的に認めるが、「迷信」の部分のほうが多いと考えている。とくに、フロイトのエディプス・コンプレクス仮説は、私の納得しかねるところである。そんなもの、育った家庭がどんな文化を引きづっているかによって異なるだろう。エディプス・コンプレックス仮説は、幼児から大人への成長の過程で「去勢」が必要だとするものだ。

本書で、与那覇も斎藤も、この「去勢」を「あきらめ」(自分の無力の是認)と解釈し、必要だとする。そして、戦後民主主義教育が「去勢」を禁止したことを誤りとする。私はこの議論に承諾できない。別に、あきらめないから不登校になる、ひきこもりになる、うつ病になる、わけではない。「あきらめ」させるは、興奮する子どもに向精神薬を飲ませておとなしくさせれば良いという暴論と同質である。あきらめないで一生夢を追い続けたっていいではないか。社会はそういう強さを育てたって良いと考える。

精神分析よりも脳科学の方が実践的にも有用である。


精神科「強制入院」を可能とする精神保健福祉法の政府改正案

2022-11-18 13:00:52 | こころの病(やまい)

この11月9日に、政府自民党は精神保健福祉法の改正案を国会に提出した。その問題点は、精神科病院に患者を本人の意思に反して強制入院させる「医療保護入院」「措置入院」が、削除されていないことである。そればかりか、これまで本人の意思に反して家族の同意によって行われていた「医療保護入院」が、改正案では、家族が意思表示しない場合でも市町村長の同意で入院を可能とするものである。

本人や家族が入院を求めていないのに、誰が入院を求めるのだろうか。本人は犯罪者でない。「保護」という名目での社会からの隔離してよいのだろうか。それに、市長村長が患者の入院か通院かを判断できるはずがない。

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3カ月前に、2014年に批准した「障害者権利条約」に基づき、日本政府がどのような取り組みをしてきたか、国連障害者権利委員会が審査した。そして、9月9日に出された報告書で、改善を勧告された1つが、「強制入院」の裏付ける法律の廃止であった。

東京新聞は10月28日の社説でつぎのように指摘している。

<改正案を作成した厚生労働省は当初、有識者検討会で「医療保護入院の将来的な全廃を視野に」と説明していたが、病院団体の反対で「信頼できる入院医療の実現」へと方向転換した。>

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私の子ども時代、私の住む田舎町で、もっとも裕福なのは、精神病院を経営する一族であった。子どもをしかるとき、親は、その病院に入院させると脅したものである。

昔、これは全世界で共通する問題であった。精神疾患者を強制的に社会から隔離し、精神科の劣悪な病棟に閉じこめた。患者の人権が無視されていたのである。

1960年代にはいると、アメリカでは、劣悪な環境に閉じ込められた精神疾患者を解放せよという社会運動が起き、精神疾患に効く薬の開発とあいまって、入院ではなく、通院があたりまえになった。患者の意思が尊重されるようになった。

ところが、日本では、1964年のライシャワー事件以降、精神疾患者に対する精神科病院への隔離収容の強化に傾いた。「ライシャワー事件」とは、その年の3月24日、米国駐日大使ライシャワーが、精神科治療歴のある19歳の若者に右大腿部を刺され重傷を負った件である。

私のいた理学部物理学科は、病院と面しており、1968年、毎日通学するとき、「閉鎖精神病棟粉砕」の立て看板を目にした。閉鎖病棟の中で、患者の虐待、生体実験が、「精神医療」の名のもとで行われていたのである。

精神疾患者を入院から通院に変えようと運動していた医局員、学生を医学部が処分したことに対する抗議が、東大闘争の発端である。私は東大闘争で日本が変わっていくものかと思っていた。

ところが、そうではなかった。

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1984年に宇都宮病院事件が起きる。

前年に、報徳会宇都宮病院の虐待を面会者に伝えたとして、入院患者が職員にリンチされ、死亡した。翌年、新聞にスクープされ、院長と4人の職員が殺人、暴行、詐欺の容疑で逮捕された。それだけでなく、宇都宮病院の死亡患者の脳が、普段から、東大医学部の武村信義医師に送られ、脳研究に使用されていたことが、発覚した。

これを転機に閉鎖病棟廃止の動きが日本でも再燃した。

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しかし、形式的な改善にとどまっていて、精神疾患者を社会から隔離するという実体は変わっていない。

いま、入院患者のほとんどは、本人の意思に基づかかない「医療保護入院」である。

きのう11月17日の朝日新聞によれば、「医療保護入院は2001年度は11万930件だったが、21年度時点も13万940件と高止まりしている」。

また、9月30日のNHKの時事公論で、解説員が「精神科病院の入院患者数は、厚労省の調査によると2020年はおよそ29万人。平均入院日数は277日とOECDのなかでも突出しており、特異な状況」と言っている。補うと、OECD Health Statistics 2020によれば、人口1,000 人当たり精神病床数は、日本がOECDのトップであり、2番目のベルギーの約2倍、9番目のフランスの3倍である。イタリアでは、精神疾患者を病院に閉じこめることが禁止されている。

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患者が密室に閉じこめられれば、虐待が起きてしまう。入院か通院かは本人の意思にもとづくという慣習を日本に確立しないといけない。現在の法でも、病院は、入院患者が外と連絡できる手段を用意しないといけないのに、数年前の朝日新聞に、精神病院の半分で病棟に公衆電話が置かれていなかったという報道があった。

NHK時事公論の解説員が「私はネット中継で(国連の)審査を見ていたのですが、質問と回答がかみ合わない場面が多く見られました。象徴的だったのが障害のある人が施設を出て地域で暮らすことや精神科病院の退院支援について問われたときの厚生労働省の回答です。『日本の施設は高い塀や鉄の扉で囲まれてはいない。桜を施設の外や中で楽しむ方もいる』」と述べていた。政府や役人の人権意識がとっても低いのである。

他の先進国では、精神疾患者も入院でなく通院ですむことが明らかになっている。ところが、日本では、津久井やまゆり園殺傷事件、京アニメ放火事件、大阪の診療所放火事件のため、また逆風が吹いたようである。

アメリカの精神医学会の精神疾患の診断・統計マニュアルDSM-5 に、次のようにある。

<敵意と攻撃性が統合失調症に伴うことがある。しかし自発的あるいは突発的な暴力行為はまれである。(中略)統合失調症をもつ人の大半は攻撃的ではなく、一般人口よりも高い頻度で暴力の犠牲者となっていることである。>

私は、自分の経験から、地域社会の差別・排除が精神疾患者を生むと思っている。地域社会は異質の者を抑圧し、排除する傾向がある。

政府が率先して精神疾患者の人権を守るべきなのに、自民党や精神病院経営者に押されて、強制入院を正当化する改正を行おうとすることに、私は反対する。