猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

新型コロナワクチン接種の諸問題と私の接種体験

2021-06-30 23:42:36 | 新型コロナウイルス

朝日新聞の投書欄を見ると、新型コロナのワクチン接種が高齢者なのに予約もできない、予約できても8月にならないと接種が受けられない、また、副反応の情報が届かない、という投書が続いている。

厚労省のホームページによれば、ファイザー社のワクチンが、7月中に84,341箱、各市町村に供給されることになっている。1箱は、接種1170回分である。いっぽう、65歳以上の高齢者は、約3513万人である。7月中に高齢者の全員が2回接種したとしても、29%のワクチンが余ることになる。実際には、高齢者の半分程度しか接種しないから、大量にワクチンが余ることになる。

したがって、投書の事態が生じるのは、単に行政の問題である。行政のトップが政府であるから政府の責任である。ワクチンが余っているのに、希望者が接種をうけられないというのはおかしい。

一番の問題は、政府が市町村の要請にしたがってワクチンを供給し、接種率の低い市町村の担当者を総務省の役人が叱るという体制にあると思う。公平な供給という考えがなく、自由競争に任すが、政府に計画性がまったくない。叱ると、ウソの申請をする市町村が現れ、結局、ワクチンが廃棄されるか、怪しげなところで消費される。

日本は総務省が日本の各市町村の年齢別人口構成を把握しており、どこが接種が進んでいないか、どこがあまっているのか、わかっているはずだ。なぜ希望者が接種を受けられないかを、しらべ、中央の政府が地方の市町村を助けるべきである。責任を地方におしつけ、中央が叱るばかりというのはおかしい。接種する医療従事者がいないなら、政府が支援すべきである。たとえば、巡回接種バスで地方を回ることもできる。

私の神奈川県では、申請ベースで市町村にワクチンを供給するので、郡部の町村は有り余る量のワクチンが供給されている。接種が遅れているのは市部である。川崎市、大和市、横浜市、厚木市などである。

神奈川県の市部で遅れている理由は、大規模接種、集団接種、個別接種、職場接種という、接種体制の複雑さのためである。大規模接種、集団接種は予約申し込み方法が単純であるが、個別接種はクリニックや医療施設によって申し込みが非常に異なる。個別接種のクリニックによっては、一般予約を受けず、クリニック側から顧客に電話をかけて接種をうける者を選んでいる。

地区センターや公会堂をつかった集団接種の予約枠は少なく、どうも、個別接種に大量のファイザー社のワクチンが出まわっていると、私は推定している。

私の妻は1昨日、1時間半かかって、横浜の大規模接種会場ハンマーヘッドでモデルナ社の1回目の接種を受けた。私は、20分で歩いていける小児科で、昨日、ファイザー社の個別接種をうけた。その小児科クリニックは、診察券がなくても、接種の予約を受けるとインターネット上に出ていたからだ。

考えてみれば、高齢者が小児科の診察券を持っているはずがない。それなのに、診察券がないと接種が予約できない小児科クリニックも実際に数多くあった。

私の予約した小児科での接種は、いつ接種されたか気づかないほど、痛くもかゆくもなかった。さすがに、小児科医だと思った。解熱剤の処方箋もそこでもらえ、隣の薬局で買えた。

投書の副反応の情報がたりないというのも本当で、これも政府の責任である。

ワクチン接種を受ける人は予診票の提出が義務になっているが、それは同時に同意書にもなっている。普通の同意書には、どれだけのどのようなリスクがあるかが記載され、そのリスクを受容することが、同意である。横浜市の同意書にそれがないのである。かわりに、神奈川県医師会の発行の、10%以上の接種者に現れる副反応が記載された紙が、接種後に看護士から渡された。その紙に、副反応が出た場合の相談電話番号も書かれていた。

幸いにも、私も私の妻も重大な副反応が現れていない。私の場合は、接種した腕が重たくて、倦怠感がでているが、発熱はない。

新しいRNAタイプのワクチンだから、町の医者が副反応の情報を持っているはずがない。副反応の情報供与の責任は政府にある。

世界中で接種が行われているのだから、厚労省に、副反応の統計データがたまっているはずである。世界の主要国で平均20%の接種率なら、億単位の症例があつまっているはずである。政府は接種率を高めるために、意図的に副反応の公表を控えている、と私は疑っている。

[補遺]

7月11日朝のテレビは、モデルナ社のワクチンの副反応に、1週間以上してから腕が赤くなったり、痛くなったりすることがあると言っていた。私の妻も1週間してから、接種した腕が広範囲に赤くなった。NPOの私の同僚も腕が痛くなったと言う。ともに、大規模接種にでかけ、モデルナ社のワクチンの接種を受けた。

 

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8月の横浜市長選はカジノ誘致反対のだいじな意思表示の場

2021-06-29 23:08:41 | カジノ反対

私はモノを作るという社会のほうが好きである。モノは、工業製品でも農産物でも良い。料理でもアートでもミュージックでも良い。しかし、カジノを横浜に誘致するのには私は賛成できない。

この2年間、横浜市長の林文子はカジノを誘致を推進してきた。

ギャンブルには、運に自己をゆだねるという自己放棄的なところがあり、健全な生きかたと思えない。ギャンブラーはお金を失い、親しい人々を不幸にし、ギャンブルの胴元は豊かになる。しかもカジノはパチンコと桁違いの大きなギャンブル場である。

それを横浜市が誘致して、税収を増やし、市民を豊かにするのだと、林文子は言う。

もちろん、横浜市民の多くはカジノ誘致に反対である。

8月に横浜市長選がある。8月8日告示、22日投開票である。すでに、多数の人が立候補している。ほとんどの立候補者が、横浜にカジノを誘致することに反対している。

6月29日、立憲民主党からは、カジノ誘致に反対する山中竹春が無所属で立候補を表明した。また、同じ日に、坪倉良和もカジノ誘致に反対し無所属での立候補を表明した。元自民党衆院議員の福田峰之だけがカジノ誘致を唱えている。

2019年の市議では、カジノ誘致を隠して、自民党・公明党は多数派をにぎった。林文子は自民党・公明党と一体となって、市民の意思を無視し、カジノを誘致しようとしている。

2021年の市長選では、カジノ誘致が争点になっている。

自民党本命の小此木八郎は、6月25日、「山下ふ頭へのカジノ誘致」に反対から「横浜全体へのカジノ誘致」反対に踏み込んだ。横浜商工会議所など地元経済界が、小此木に「代替地や代替案を」と着地点を求めていたが、小此木がそれを拒否したのである。

きょうの神奈川テレビのニュースは、横浜市中心部の商店街など25団体の有志が、IR誘致と出馬を要請する嘆願書を林文子市長に提出したという。

林市長と面会したあとの記者会見で「IR誘致の正しさは、山下ふ頭の周囲の土地の値上がりでわかる」と発言が飛び出て、私は驚いた。

私は小さな商店主の息子だからわかるのだが、土地の値段があがると家賃もあがり、商売が苦しくなる。土地の値上がりを期待する「横浜市中心部の商店街など25団体の有志」とは何ものぞ。土地を売って商売をやめることを考えているのではないか。横浜商工会議所の考える横浜市の未来は何ものぞ。

私はモノを作るという社会のほうが好きである。モノは、工業製品でも農産物でも良い。料理でもアートでもミュージックでもよい。しかし、カジノを横浜に誘致するのには私は賛成できない。

 

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不当な言葉の使い方で言葉が劣化していくのに耐えられない

2021-06-27 22:26:55 | こころ

私は言葉にたいする不信が強い。けさも「ほめちぎる学習塾」というビラが郵便受けにはいっていた。それだけでない。「海洋放出に国民と対話を」という見出しのもと、2年後に控えるトリチウム水の海洋放出を安全安心と説得せよが、新聞が書いている。

言葉で人のこころを操作できると言っているのだ。人を取り巻く環境を変えずに人の心を操作でできると言っている。

私は言葉をだいじにしたいと願っている。私が誰かに言葉を投げかけるとき、相手の反応を見ながら、自分の考えを変えていく。

言葉がこころからでたものであれば、相手の反応で変わる自分がなければならない。

子どもをリスペクしない塾講師が子どもをほめちぎっても、それは、ウソの世界にのめり込もうとしているだけではないか。たしかに、ほめちぎれば、子どもの警戒心が緩む。一部の子どもに効果がある。しかし、結局、子どものこころをねじ伏せて、自己を放棄させているだけではないか。

福島第1原発のトリチウム水が安全安心だと言葉で説き伏せようとも、自然界になかった大量のトリチウムを放出しているのに変わりがなく、人間界の都合で自然環境を破壊している事実は不動である。自然界のトリチウム濃度は人間の核実験や原発によって何倍にも何十倍にもなっている。政府の海洋放出が不動の政策として、国民を言葉によって説得しようということは、「オレオレ詐欺」と かわらないのではないだろうか。

電通や博報堂の人びとは、言葉で、人間の行動を変えることができると思っている。それはそうであろう。新型コロナ感染対策は、「緊急事態宣言」という魔法の言葉で、新規感染者を減らしてきた。しかし、人間の行動を言葉で変えるというのは、人を操作する技術に過ぎず、新しい人間行動は倫理的に良いことか、という問題は厳然と残っている。

世の中に「コミュニケーション戦略研究家」という肩書があることを新聞で知った。実際、不祥事があるたびに、謝り方の技術的コメントが新聞にのる。「あやまる」ということは、自分の行為が「あやまり」であることを認め、正しい方向に歩むことでないか。言葉を、追求を避けるための「ごまかし」としか考えていない。

言葉を話し手の欲得実現の手段として使うことに、人としての誠実さを見えない。こころない人の言葉の使用で、つぎつぎと言葉が劣化していくのが私には耐えられない。


佐伯啓思の『対コロナ戦争』で展開する「国家観」を批判する

2021-06-26 22:36:45 | 国家

きょう、また、佐伯啓思が理解しがたいことを朝日新聞に書いている。『(異論のススメ スペシャル) 対コロナ戦争』である。

彼が言いたいことを一言でまとめると、日本人は頭が悪いということである。この結論自体に私はべつに異論がない。日本人に限らず、人間は頭が悪いと思う。それでも人間は生きていくのだ。

問題は、そこにたどり着くまでの論理である。

彼の小論には「西洋」「日本」「市民」「国家」「共同体」「戦争」「国家の危機」「国家の強権」「ルソー」「共和主義」などの言葉が出てくるが、「平等」「プロレタリア」「共産主義」「階級」「革命」という言葉は出てこない。

「民主主義」「リベラル」という言葉はそれぞれ一度だけ出てくるが、「戦後民主主義」、「リベラル系」というかたちであらわれ、自分の思想に反する人びとを罵るため使われている。

彼は、今は《国家の危機という「例外」状態》にあるから、「国家の強権」が必要があるというたわごとを、つぎのように述べているだけである。

《われわれは、「自粛要請」型でゆくのか、それとも、西洋型の強力な国家観を採るのか、重要な岐路に立たされることになるだろう。「自粛型」とは市民の良識に頼るということであるが、果たしてそれだけの良識がわれわれにあるのだろうか。》

この結論をだすために、偏った国家観をくどくどと書いているのである。

私はフランス語が読めないから、彼が引用するルソーの言葉もその思想もわからない。

《「統治者が市民に向かって、『お前の死ぬことが国家にとって役立つのだ』というとき、市民は死なねばならない」》

こんなことをなぜルソーが言ったのか私は知らないが、私は拒否する。

バートランド・ラッセルは『西洋哲学史』のなかで、ルソーがトンデモナイお調子もので、人にたかって生き、支援をつなぎとめるために、その場しのぎの言葉をあやつっている、何の哲学もないと、ケチョンケチョンにけなしていた。

佐伯はさらに続ける。

《ひとたび国家社会に危機が押し寄せてきた時には個人の権利は制限されうる。国家が崩壊しては、個人の権利も自由もないからである。だから危機を回避し、共同体がもとの秩序を回復するために強力な権力が国家指導者に付与される。》

《「政治」とは危機における決断なのである。しかし、戦争のような国家の危機という「例外状態」にあっては、部分的には憲法の条項を停止した独裁(委任独裁)が必要となる、というのである。》

こんなことで、独裁が認められるなら、独裁者になりたいものは、戦争の危機をいつも煽りつづけるだろう。実際に、ナチスは「共同体社会の防衛」をかかげ、ファシズムは「国家社会の防衛」をかかげ、独裁体制を造り上げ、戦争に国民を導いた。私は彼に問う。回復すべき「秩序」とは何のことか。「国家指導者」とは何のことか。

佐伯は欧米がコロナ禍で国家の強権をふるっていると言うが、それは負担の「平等」という考えにもとづいており、守るべきルールをコロナ対策として明確に打ち出しているだけだ。現実には、ドイツでは、コロナ禍で私権が制限されるなかでも、デモによる表現の自由が認められている。イギリスでは、感染対策のルールを破った政府要職者は世論の批判を浴び、辞任している。民主主義は欧米で いまも 生きている。

佐伯が「共和主義の精神」と呼んでいるものはプラトンの「哲人による政治」のことである。プラトンは、アテネがスパルタとの戦争に負け、一時的にスパルタの属国になっていた時代のスパルタ派である。プラトンは、スパルタを模範として軍事強国を作るべきと考え、市民は自分の役割に専念し、政治は一部の集団が独占すべきだと説いた。そして、民主主義を批判した。プラトンの考えは、欧米社会に生き残り、エリート層による国家支配という形で、幾度も復活してきた。

国家指導者や独裁なんて不要である。コロナ禍でも民主主義が充分機能する。新型コロナワクチンは、まだ、試験段階であり、本人の同意のもとに接種されねばならない。また、「三密を避ける」「人流を抑える」という、彼がバカにする「自粛要請」は充分に機能し、「緊急事態」の宣言で感染者数が減っている。これは、「自粛要請」にしたがう良識ある人々がいるからである。

政府こそ、「自粛要請」にしたがう良識ある人々をあざ笑うがごとく、「三密を避ける」「人流を抑える」に反する政策を行う。これを批判するのが、民主主義社会の健全さである。「自粛」自体の問題ではない。

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「視覚優位」「聴覚優位」「言語優位」「体験優位」

2021-06-25 22:37:43 | 脳とニューロンとコンピュータ

あなたは「視覚優位」「聴覚優位」という言葉を聞いたことがあるだろうか。

「視覚優位」とは、目で見ることで物事を理解できる人のことを言う。それに対し、「聴覚優位」とは、耳で聞くことで、言葉を通じて物事を理解できる人のことを言う。

おかしなことに、「言語優位」という言葉さえある。これは、言葉で書かれているものを目で見ることで物事が理解できる人である。

これらの言葉は、「発達障害児」の指導の現場で使われている。また、「知能検査」の結果報告書にも現れる。

しかし、「視覚優位」「聴覚優位」とは、情報の種類に本来よるのではないか。また、「言語優位」は教育の結果生じるあだ花ではないか、と思う。

道を教えるのに地図を描いて説明することが多い。そして、多くの人はそれによって、理解が深まる。言葉は指示するに向いている。指示とは話し手が、聞き手の注意を特定のことに向けさせ、命令することである。

図は概観や構造や関係を理解するに向いている。しかし、地図を描くだけでは、工夫を凝らさないと、目はあらゆるところに行って、指示する側の思う方向に注意を向けてくれない。

新しい道具の扱い方を説明するとき、実物を手にとって説明するほうがわかりやすい。道具を使うとき、強く握るのか、軽く握るのか、口で「強く」とか「やさしく」とか言ったほうが理解されやすい。

このように、本当は、「視覚」と「聴覚」との協同が有効な場面が多い。したがって、この子は、「視覚優位」とか「聴覚優位」とかを真にうけて、型通り行うと失敗する。

会社や官庁のプレゼンテーションでは、パワーポイントかなんかでスクリーンに画面を写して説明することが多い。昔聴いた話では、みんな沢山のことを書こうとするが、1画面に1つのメッセージが望ましい、ということであった。画面に多数のことが書かれていると、聞き手の関心が拡散するからである。とくに、役人は頭が悪いから情報が多いと記憶に残らないと言われた。

コミュニケーションとプレゼンテーションとは異なる。

「言語優位」は適切な言葉でない。本やマニュアルを読んで、物事を理解するのではないと気が済まない、人のことである。書かれたものを読むときは、書かれた順に読む必要がなく、いったりきたりして読むことができる。したがって、聞いて理解するのと異なり、読み手が書き手に対し優位に立てる。書き手に支配されない。そして、わかりくい本やマニュアルに出くわすと、書き手を罵る。

私は「理数系」だから、「視覚優位」と思われるがちである。実際、作業記憶力の負担を軽くするため、考えていること、選択肢とか試行錯誤の過程を書き出すことが多い。

しかし、新しいことを聴いて理解することも好きだ。俗にいう「耳学問」である。聴くということは、対話が伴うから面白い。いろいろな質問や意見をぶつけって、ものごとの本質に迫ることができる。私は小学校、中学校、高校、大学を通じてよく質問する子どもだった。

ときには、先生の理解の浅さを引き出すための意地悪な質問もわざとした。だから、私が大学で講義したとき、意地悪な質問に出会うのでないかヒヤヒヤしていたが、そんな質問を受けることはなかった。

学生と先生の関係は、民主主義社会では、対等であるから、対話が日常的にあってしかるべきと思う。

もう1つ、「言語優位」に加えて「体験優位」という言葉もあって良いと思う。人は体験しないと本当に理解することはないと私は思う。私は、ITの会社の研究所にいたが、マニュアルを読まないで、直接、機械に触ったり、プログラムを書いたりして、その失敗の体験から学ぶことが多かった。