猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

昔の先生がたへの感謝と いま先生が忙しすぎることについて

2021-02-28 21:22:07 | 教育を考える


新型コロナの感染で昔の友達に会うこともない生活が1年以上続いている。
糖尿病の症状が悪化したのか、NPOでの子どもの指導の疲れが、この土日でとれなかった。頭もすっきりしないし、目も良く見えない。

それで、4年前の、まだ、今より元気であったときの、ブログを再掲させてもらう。
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先日、高校のときの同窓生が4人、下町のすし屋に集まったとき、期せずして、子供のときの学校の先生への感謝の話がでた。もちろん、恵まれて大学まで行けた老人たちが言っていることだから、割り引いて考えるべきかもしれない。

昔と今の教師がどう違うかは客観的な把握するのが難しい。歳をとればとるほど色々な事例を見たり聞いたりするから、まずい事例も知ってしまう。

きのうの朝日新聞の「耕論」に『忙しすぎる先生』で3人へのインタビュー記事が載っていた。
政治的な視点、倫理的な視点が抜け落ちており、「忙しすぎるのは政府の陰謀かもしれない」という意見が出てこないのが淋しい。たぶんにインタビューした記者の責任もあるだろう。

戦前の大日本帝国の権威主義、集団主義、規律主義の手先になったことへの反省が、日教組(日本教育組合)の出発点だった。私が子どものときは 9割以上の先生が組合に加入していた。1960年代にはいると急激に組合加入率がさがり、新規採用の教師の加入率は1990年から約20%になっている。

私は、組合が不人気になったというより、組合に入らない人間を意図的に採用しているからだと思う。「忙しすぎる」という問題は本来は組合が扱うことである。

自民党や文部科学省は、公立学校を自分たちの統治の一手段、洗脳教育の場としてきた。良い教育とは、勉強ができて勤勉であり上に逆らわず空気を読む人間を作ることだとしてきた。

これに逆らう子どもたちがでてきてもおかしくない。集団で逆らうという話は1970年代で終わっている。1980年代には孤立した子が、隠れて、学校の窓ガラスを割り、壁に落書きするようになった。1990年代にはいり、不登校、ひきこもりがでてきた。ここ10年は、小学校の低学年のうちに「発達障害の疑い」で、隔離され、別教室での学習になる。逆らう子どもたちには「発達障害の疑い」の烙印が押される。

「先生が忙しすぎる」という問題は、仕事量が多すぎるか教師の数が少なすぎるかである。以前に教師の弟にきいたら、作るべき報告書が多すぎるからだと言っていた。それに、学校行事、部活、研修が多すぎる。これらは子どもたちのためではなく、報告書は国の管理のため、そのほかは町の有力者や学校の名誉のためである。さらに、これから、教育への公費が経費削減の対象となるから、教師の数が少ないという問題も深刻化するだろう。儲かるのは IT 企業だけである。

また、公立学校の教師は毎年春に移動の対象となる。職場移動は、戦前の大日本帝国が官吏をこき使うときのテクニックである。下級官吏に仲間意識が芽生えるのを防ぐためである。下級官吏が地域住民と仲良くなるのを防ぐためである。

一方、不思議なのは、いじめ問題が外部に漏れると、学校単位で組織防衛に走る。本当に仲間意識があって助け合って教育に当たっていれば、もっと、初期の段階でいじめを防止できたはずだ。

私は、現在の、教師の資格や採用制度を疑う。放送大学で教育学の講義を聞いていると、公的教育というものは政府の方針に忠実であるが第1で、ことがあれば校長を中心に組織を防衛せよと言っているにすぎない。
また、児童心理学の講師は実際の子どもの教育にあたったことがないように見える。子どもたちも個々の人間である。個々の人間の心、すなわち、記憶の多様性を教えていない。放送大学を聞いていると、類型化された虚構の話しかしていない。

だから、戦前の大日本帝国の時代と同じく、先生の資格は、政府の優秀なロボットであるというお墨付きにすぎない。そして、恐ろしいことに、AI 技術を使って、生きている教師を、感情のない本当のロボットに置き換えようという話まで出ている。恥ずべきことである。
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4年前のブログはここまでだが、いま、先生方は、新型コロナ騒ぎでもっと苦労しているだろう。

私のNPOでも、通ってくる子供の学校に新型コロナ感染者がでたとか、こどもの家族の一人が新型コロナで家族全体が自宅待機になったとか、身近で感染騒ぎが起きている。リモート指導にも慣れてきたが、まだ苦労が絶えない。ただ、うつの子にはリモートでも気分を上向きにでき、指導をして良かったと思っている。

宇野重規のすすめる田中拓道の『リベラルとは何か』

2021-02-27 22:57:00 | 思想
 
予約して1か月はかかると思っていた、田中拓道の『リベラルとは何か』(中公新書)が、たったの2週間で図書館に届いた。きょう、早速、図書館に行き借り受けた。
 
読もうと思った動機は、宇野重規が朝日新聞の書評欄につぎのように褒めていたからだ。
 
〈本書の最大のメリットは、この言葉を明確に絞り込んで使っている点である。〉
〈リベラルを切り捨てる前に、ぜひこの本を読んで欲しい。〉
 
いま、パラパラとながめるように本書を読んでいるのだが、面白くない。本書を読むと「リベラル」を切り捨てたくなる。田中拓道が本書を中産階級や市民(ブルジョアジー)の視点から「リベラル」を書いているからだ。
 
彼は、「現代のリベラル」を、「価値の多元性を前提として、すべての個人が生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために、国家が一定の再分配を行うべきだと考える政治思想と立場」とする。
 
「政治思想と立場」というとき、この「政治」は「統治」になりがちである。本書は、統治の立場からマクロ経済学を論じている色彩が強い。
 
バートランド・ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)で、「哲学上の自由主義 (Philosophical Liberalism)」という章をわざわざ作っている。その冒頭につぎのようにある。
 
〈初期の自由主義(Early liberalism)は、イングランドとオランダとの産物であり、ある種のはっきりした特徴を持っていた。それは宗教的寛容(religious toleration)を代表していたし、またプロテスタント的ではあったが、狂信的なタイプではなくてlatitudinarianであり、宗教戦争をバカげたこととみなしたのである。またその自由主義は、通商と産業を高く評価し、君主や貴族よりも新興中産階級に好意を寄せ、財産権にはかり知れない敬意を払った。〉
 
私は、「寛容」という言葉に騙されて、「新興中産階級に好意を寄せ、財産権にはかり知れない敬意」の部分を軽く考えていた。田中の「現代のリベラル」の定義は、「寛容」が「価値の多元性を前提」に置き換わり、「機会の保障」が加わり、「財産権の敬意」に「国家が一定の再分配」が加わったものである。
 
宇野重規の書評で、「再分配」という語に非常に気になったのだが、本書を読んでその危惧が正しかったと思う。「現代のリベラル」は、「共産主義」を抑え込むために、貧乏人の切り捨てを主張した「19世紀のリベラル」につぎはぎをほどこしたものにすぎない。
 
すなわち、恵まれた知識人が貧困層や無産階級の反乱、暴動を恐れて、施しをするという統治の立場の表明にすぎない。だから、田中の主張が複雑で屈折しているのだ。
 
もちろん、私は寛容だから、「施し」をしない人より「施し」をする人が好きである。
 
野口雅弘によれば、マックス・ウェーバーの母は、貧者に施す資金をためるために、家事を自分で引き受けて、出費を抑えていたという。ところが、彼女は非常な資産家の娘である。その資産をウェーバーの父が奪い取りし、プロセインで政治家になった。彼女は「夜ベッドについても、あたたかい寝所をもたぬ大都会の数十万の人口を思うと彼女は肉体的に苦痛を感じた」という。
 
ウェーバーも父もろくでもない人間である。しかし、母は好きである。
 
日本語訳の新約聖書に「律法学者」や「金持ち」に対する憎しみの言葉がいっぱいでてくる。この「律法学者(γραμματεύς)」は「文字の読み書きできる人(地位のある知識人)」で、けっして「法の専門家(νομικός)」ではない。
 
私のような下層民からみると、金持ちの立場にたつ知識人に敬意をもてない。ヒラリー・クリントンにも、その匂いが強くて、大統領選で支持できなかった。政治家になる前の、化粧しないヒラリーのほうが好きだ。
 
新約聖書は、ちょっと変なところがあって、「金持ち」を憎しみながら追い詰めない。たぶん、初期のキリスト教徒はルンペンプロレタリアで、金持ちを憎しみながら、金持ちからの施しを必要としていたからだろう。
 
ラッセルに戻ると、個人主義はリベラルに先立つという。
 
〈アレキサンダー帝の時代以降、政治的自由の喪失とともに個人主義が発生し、キニク学派とストア学派とがそれを代表した。ストア主義の哲学によれば、一個の人間はどのような社会的状況の下にも善き生活を送りうる、というものだった。〉
 
初期キリスト教の以前に、パレスチナの隣の地シリアに、ローマの圧政にたえしのぶためにストア主義者がいたのだ。古代ギリシア社会がデモクラシーからモナキー、アリストクラシーに変わることで、政治への参加を奪われた知識人が生み出したのが、個人主義である。価値を、現世の成功でなく、孤立のなかで自分が生き抜くことに置くのである。
 
それが、19世紀になると、専門家を自称する知識人が、統治の側にたち、搾取する根拠を、自由な経済活動を正当化する論理として、リベラリズムを唱えたのである。
 
「19世紀のリベラル」につぎはぎをした「現代のリベラル」を切り捨てる者が出てくるのは当然ではないか。2011年に「ウォール街を占拠せよ」という運動がアメリカで起きたが、これを「機会の平等」を唱えるアメリカン・ドリームの崩壊とみる慶応大学の教授の中山俊宏に賛意する。
 
そう思いながら、私は、「寛容」の心で、トンデモナイ田中の『リベラルとは何か』を読み続ける。

きのうのシリア空爆はバイデン政権の外交政策の混迷からくる

2021-02-27 00:30:39 | ガザ戦争・パレスチナ問題
 
きのう、2月25日、アメリカのバイデン政権が、シリア国内の民兵組織の拠点に空爆を行った。これは、有効な対外政策を打ち出せないアメリカのイライラを象徴するもので、戦略的に意味がないばかりか、倫理的にも問題がある。
 
たとえると、こんなことだ。
カラスは、外猫の食べ物を横取りしたり、また、生まれたばかりの子猫を襲い食べてしまう。それで、私は、猫を守るため、よく、高い木の上のカラスと にらめっこをする。すると、カラスは、私を脅すため、足で小枝を折る。私を威嚇するが、決して襲ってこない。カラスがアメリカだ。
 
今回のシリア攻撃も単にアメリカの威嚇に過ぎない。しかも、目的は対シリアではなく、対イランであり、対中国である。どちらに対しても、叩きのめしたいが、それで何が解決するのか、見通せない。したがって、弱い相手を叩いて、アメリカのプライドを保とうとしている。シリアの人々が可哀そうだ。
 
米国防総省のジョン・カービー報道官は、米軍や有志連合に対する最近の攻撃だけでなく、「そうした兵士に対する進行中の脅威」に対抗するためという曖昧な説明をした。じつは、米軍や有志連合に対する最近の攻撃は、シリア国内ではなく、2月15日のイラク北部のアルビル国際空港付近で米軍率いる有志連合の部隊にロケット弾が着弾し、民間請負企業の1人が死亡、米軍兵士1人と民間請負企業の4人が負傷していたことをさしている。
 
このような、アメリカの対外政策の混迷のため、混乱しているシリアを叩くことは初めてでなく、トランプ政権による2017年4月6日のシリア攻撃もそうだった。
 
対イランの問題では、アメリカはヨーロッパと協調するから、大きな衝突にならないだろう。問題は、対中国である。
 
米中対立は根深い。トランプ政権が振り上げたこぶしのこともある。また、ウイグルや香港の人権問題もある。日本が経験した経済摩擦よりも大きな経済対立が米中の間にある。バイデン政権としては軍事衝突を避けたいであろうが、アメリカのプライドがそれを許すだろうか。日本や韓国がアメリカをなだめることができるか、予断を許さないと私は思う。

見果てぬ科学者の夢、20世紀最大のスキャンダル常温核融合事件

2021-02-25 23:54:25 | 科学と技術
 
きょう、BS NHKの『フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿』で「20世紀最大の科学スキャンダル“常温核融合”事件」を取り上げていた。
 
事件は、バナジウムを陰極として重水を電気分解すると、入力したエネルギーを超える発熱があり、常温核融合が起きた、と、1989年3月23日にスタンレー・ポンズとマーティン・フライシュマンとが記者会見で発表したことだ。ノーベル賞ものと全世界で騒ぎになったが、結局、実験が再現できず、否定されたのである。ここで、重水とは、水分子を構成する水素原子の核が、陽子と中性子が1個ずつの原子核、すなわち、重水素の核からできているものをいう。
 
ちょうど、民間企業の研究所にいたころであり、思い出深い大事件である。この常温核融合の発表が世界的に科学者たちを熱狂させたのには、次のような背景があった。
 
1つは、高額の大装置をつかったプラズマ核融合が30年以上の研究開発をかけても成功せず、新しいアイデアが求められていた。2つの重水素の原子核が核融合を起こしてヘリウムの原子核できるためには、プラスの電荷とプラスの電荷の反発が作るポテンシャルの壁を通り越える必要がある。そのために、高温高圧の状態を作ろうとするが、その状態を安定に保てなかった。
 
もう1つは、1986年にIBMチューリッヒ研究所のK. A. ミュラーとJ. ベドノルツが、これまでの常識を破る高い温度で超伝導が起きる固体物質LaBaCuOを発見したことだ。それまでは絶対温度で25度K以上での超伝導は不可能だと信じられていた。彼らが発見した物質は35度Kで超伝導を起こした。これが発表されるやいなや、世界中で、いろいろな固体物質が精製され、つぎつぎとより高い温度で超伝導を起こす物質が発見された。このことで、ミュラーとベドノルツとが、1987年にノーベル賞を受賞した。
 
この高温超伝導物質の発見は、日常的な感覚での高温ではなかったが、お金をかけなくても、小規模なプロジェクトで、常識を破る発見ができるという夢を、物理や化学の科学者たちに与えたのである。
 
NHKは、以上の科学者を熱狂させた背景をすっとばして、共同研究者のフライシュマンが有名な電気化学の研究者であったことのみを、当時の科学者の熱狂の要因している。
 
そして、ポンズが突然のライバルの出現で焦って、研究が未完成のまま発表に追い込まれたことに番組のテーマを絞った。
 
確かに、科学者の名誉心や、また、「選択と集中」という研究費の配分に、問題がある。しかし、いっぽうで、お金をかけず、夢を追いかけて地道な研究を続けている科学者たちの存在を信じて欲しい。
 
私が院生で物理教室にいたころ、ディラックの仮説のモノポール(磁気単極子)を東北の砂鉄の山で探していた先生や、自分で金属を加工して重力波を測定する装置を作っていた先生など、見果てぬ夢を追いつづける人たちがいたのである。

ウーブン・シティ着工はトヨタ破滅の第1歩か

2021-02-24 22:50:31 | 社会時評

きのう、2月23日、豊田章男社長が、トヨタの東富士工場跡地にウーブン・シティ(Woven City)建設の鍬入れ式を行った。それがテレビや新聞で大々的に報道された。私の息子は、電気自動車の出現で起きる、トヨタの衰退を象徴するものではないか、と心配していた。

トヨタが本当につぶれるかどうかは、まだ、決まったわけではない、と私は思う。トヨタは崖から落ちずにもとに戻ることができる、と思う。

豊田社長はかつてトヨタの危機を救った功労者である。しかし、現在、バカ息子の大輔に足もとがすくわれているのに気づいていない。

まだ、10年以上も前、私が外資系IT会社を退職してまもない頃、豊田社長はアメリカ議会の公聴会に出席し、誠意ある態度をみせ、トヨタの責任追及を回避した。アメリカで、トヨタ車の暴走などが多発し、自動車を電子制御するチップのバグが疑われたのである。

チップにバグがあるかどうかの判定は難しい。バグを全部だすという理論的方法はないのである。チップは入力を処理して出力する電子回路である。すべての場合の入力を確かめることができないから、バグがないと証明はできない。チップの製造の問題ではなく、チップの設計の問題である。いっぽう、バグがあるという証拠も、トヨタがチップのバグだしに時間と労力を注いだ後の出荷だから、よほど運がよくなければ、アメリカ政府がトヨタにバグを突きつけることができない。

公聴会が開かれたということは、問題を政治的に決着しようと、アメリカの議会が判断したということである。豊田社長は、技術者でないのに、自ら公聴会に出席し、委員の責任追及に答えた。裏取引があったか私は知らないが、とにかく、豊田社長は、公聴会の振り上げたこぶしを取り下げることに成功したのである。

電気自動車の出現が自動車業界に旋風を起こすことは、20年も前からいわれていた。それは家電業界やパソコン業界に起こったことが、自動車業界にも起きるということである。部品の共通化が行われ、親会社と部品メーカの系列が崩れることである。それは、しかたがないことで、いつまでも、系列によって、親会社だけがいい目にあうことはできない。

それでも、自動車会社の親会社は、新車の企画、新車の設計、電子制御、新車のフレーム(車体新車)の製造、新車の組み立て、塗装、品質管理、販売などのノウハウをにぎっている。家電とくらべ、設計・生産過程が複雑で、1商品の価格が2桁高いのであり、電気自動車が市場を席捲しても、既存の自動車会社にとって、その変化を乗り越えることができる。

私がIT会社を退職する前から自動車は電子制御になっていた。すでに、車体のなかは、光ファイバを通して電子信号が駆け巡っていた。エンジンが電気モータに置き換えられ、燃料タンクが蓄電池に置き換えられるだけである。

困難は部品を供給する系列会社に降りかかる。電気自動車は要求される部品数は少なくなる。使用される部品も違ってくる。

したがって、本来、トヨタがテスラーやアップルにおびえる必要がない。すでに電子制御のノウハウを確立しているはずである。トヨタはこれまでの系列会社が新体制にうまく組み込まれるように考えていけばよい。また、社員が創造力あふれるよう、民主的で自由な風土に経営陣は心を尽くしていけばよい。いままで以上に、車は安全で美しくなければならない。

しかし、心配するのは、豊田大輔の後ろに怪しげなIT指南役がついているのではないか、ということである。ウーブン・シティは意味不明なプロジェクトである。規模は,広さ約70万平方メートール(東京ディズニーランド約1・5個分)、住民は360人にすぎない。工場を閉じて仕事を失う多くの労働者を生んだだけである。静岡県に360人の研究開発所をつくるというだけで、建設会社に一時的な雇用がうまれるだけである。

記事によれば、トヨタは今年1月、子会社「ウーブン・プラネット・ホールディングス(HD)」を、豊田章男の個人出資で設立し、代表取締役には息子の大輔氏が就任するという。能力のない息子に事業を任すと、魑魅魍魎のごろつきIT指南の食いものになるだけである。多くのトヨタ社員や関連会社の社員のことを思うと、できるだけ、早く、豊田親子に退職してもらい、この新会社の負債をトヨタ本体が負わなくても良いようにしたほうがよい。

豊田章男は10年前の成功に惑わされ、ものづくりの王道を忘れ、政治家のように考えるようになっているのでは、と私は危惧する。ものづくりを忘れた製造会社は結局破滅するのである。