猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

天才は崇拝する対象なのか、松本人志のばあい

2024-01-30 10:47:19 | 社会時評

けさのテレビで、松本人志は天才だ、崇拝している、との趣旨の発言があった。妻も「えっ」という感じで見ていた。

ちょうど昨日 読んでいたハンナ・アーレントの『全体主義の起源』(みすず書房)の第6章に、つぎの文章があった。

〈個人の「個性」に捧げた際限のない賛美である。そこでは完全な気ままさこそ天才の証明だとされる。いわゆるロマン主義的な世界感情・生命感情の中核をなすのは、天才の概念と生産性の概念であり、天才の程度は彼が生産し得る思いつきの数によって決まるとされている。ロマン主義のこの天才崇拝・個性崇拝は、近代知識人の相貌を決めるうえで他のすべてにまさる決定役割を演じた。〉

ここでは、天才とは何か、という問題と、天才は崇拝の対象か、という問題が提起されている。

英語版の『全体主義の起源』では、「個人の「個性」」は"personality" of the individualとなっている。「崇拝」はidolization、「思いつき」はthe entirely arbitrary game of his "ideas" となっている。(みすず書房の版はドイツ語版の翻訳。英語版はネットで無料でダウンロードできる。)

明らかに、アーレントは、天才の概念に疑いをもっており、だれかを安易に天才と偶像化することに警告を与えている。

私自身は「天才」とは、人のいうことを受け売りするのではなく、自分の頭で考え判断することだと軽く考えている。あなたも私も、だれもが天才になれるのである。だから、だれかを天才と崇拝するのではなく、自分自身が天才になるよう、つとめるものだと考える。だれもが自分の思いつきをおしゃべりして良いと思う。

アーレントは、上に引用した文章の背景として、ドイツの知識人が 遅れて西欧文化圏に参加したことの劣等感の反動として、天才の待望や天才の崇拝があると考えていたようだ。

松本人志の場合は、自分の思ったことを発言できないという日本社会の閉鎖的風土と、吉本興業の芸人売らんがためのイメージ作りとの 合体ではないか、と私は考える。

吉本興業は、安倍晋三に尻尾をふりふり、NHKの教育番組制作に食い込み、また、大阪万博にも食い込んでいる。松本人志は来年の大阪万博のアンバサダーになっていた。


横浜市の図書館情報システムの切り替えに苦言を呈する

2024-01-21 23:55:01 | 社会時評

横浜市の図書館情報システムがこの年末年始で入れかわった。これに関して私は大きな不満がある。

第1に、昨年の12月25日から今年の1月14日まで、3週間も、図書館情報システムのサービスをやめたにもかかわらず、切り替え後、1月15日、1月16日まで情報システムが混乱した。第2に、前システムのインタフェースと新システムのインタフェースに連続性がない。第3に、前システムの図書検索機能が改善されていない。

横浜市の図書館情報システムの入れ替えは4度目である。前回の入れ替えでは、図書館情報システムは長期にとまることも混乱もなかった。しかし、前回の入れ替えでも、インタフェースの断絶があった。検索機能は改善されるどころか、悪くなったと私は感じた。

前のシステムは、日立製作所が開発を請け負い、検索機能はトウハンが下請けしたようである。

トウハンは書籍流通の大手であるので、検索機能が前より劣るのは、私にはとても不思議だった。日本社会では旧漢字と常用漢字が併存しており、また、海外の著者名をカタカナに直す際に表記が一意的でない、タイトルに副題がついているなど、タイトルや著者名には、曖昧検索が必須である。

今回のシステムの入れ替えは、横浜市教育委員会事務局中央図書館企画運営課が2021年3月1日にシステム仕様書を作成し、同年10 月12 日に公開入札した。翌年の3月1日に富士通Japan株式会社神奈川支社が落札した。横浜市は「AIを利用した蔵書探索サービスを全国で初めて導入する」と発表したが、入れ替えたシステムは、前と同じく検索の精度が悪い。AIをなにに使ったか不明である。

新システムで、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を検索しても該当なしである。3分冊になっているから、『全体主義の起源1』、『全体主義の起源 1』、『全体主義の起源 新版』と入力してもだめだった。いろいろ試して分かったのは、『全体主義の起源 1 新版』と入力しないと検索にヒットしないのである。

落札する会社によってインタフェースが変わるのも困ったものである。横浜市はインタフェースの連続性を保つようシステム仕様書に書くべきである。

また、今回のシステムでは、画面に表示される文字の大きさが、項目によって異なる。どうも図書システムを使ったことない人が画面をデザインしたらしく、大事な情報の文字が通常より小さいのである。私のような年寄りには、すべて同じ大きさでいいから、ほかのサイトと同じ大きさにして欲しかった。

つぎに、今回のシステム入れ替えで、3週間もかかったのに、新システムの初日と翌日のアクセス処理に混乱が起きたことを検討してみたい。

まず、システムの停止期間が長かったのは、横浜市がシステムをハードウェア中心に考えていたことである。もう3度目のシステムの切り替えだから、ソフトウェアの入れ替えだけでよかったはずだ。

システム開発の発注において、ソフトウェアとハードウェアを切り離すべきであった。今回、ハードウェアは図書館にすでにあるのものをベースにすべきであった。そうすれば、ソフトウェアシステムの開発に1年かかっても、切り替えの期間は数日あれば十分である。じっさい、多くの基幹システムの切り替えは数時間で行っている。

現在のシステムはサーバとクライアントからできている。どちらも、ソフトウェア側からみれば、ハードウェアがどこのメーカでも動くのである。とくに、クライアントは町で売っている普通のパソコンで十分である。ハードウェアは消耗品である。

今回入札したシステム価格は、ハードウェアベースに評価しており、ソフトウェアがおまけになっている。これはソフトウェア軽視であり、システム開発の経験者からすればあり得ない話である。

また、サービス開始におけるアクセス集中のトラブルも、開発請負会社の図書館システム運用実態の無知に起因すると考える。

今回、システム切り替えで、これまでのユーザーのログインパスワードを無効にした。利用者は新規パスワードを登録しないと、図書館システムが使えないのである。ユーザインタフェースがこれまでと異なるうえに、また、パスワードがこれまでと違い、8文字以上でアルファベットと数字と記号を含まないとだめに変更した。インタフェースの違いやパスワード規格の違いなどがあり、パスワード登録にユーザーの操作ミスでアクセス数が異様に増えたと私は考える。

利用者が旧パスワードでログインでき、1月中に新規格のパスワードに切り替えるとすれば良かったのだ。前回の切り替えでは、パスワードの変更が要求されなかったので混乱を招かなかったと考える。

システムの運営においては、サーバー側の運用に専門性が求められる。したがって、バッグアップなどのサーバーの管理は運営会社に委託すればよい。図書館側は各サービスのアクセス数とか不具合の発生とかの報告を運営会社から受け取ればよい。

サーバーの管理を運営会社に委託する利点はアクセスの増加・減少に合わせてサーバーの台数を動的に変えることができることにある。サービス開始時のアクセス集中を処理するためには、サービス開始時だけ、サーバー数を増やすのが20年前から世界の常識である。

請負会社を10年ごとに取っ変えるだけでは、図書館情報システムは良くならない。図書館側としては、図書館を愛する利用者が指摘する改善点をまとめ、継続的にシステムの改善をソフトウェア開発会社に求めて行くのが望ましい。

図書館を利用しない営業マンが「AIだ」「ビジュアル・インタフェースだ」と言うのを信用していけない。図書館側はソフトウェアシステムが分かる人を職員として正規採用し、富士通とか日立とかに騙されないようにすべきである。資本主義社会では、IT会社の経営者と営業マンはどこもごろつきである。彼らは、情報処理システムに無知なうえ、会社が儲かることしか考えていない。

[追記]

横浜市の図書館が教育委員会事務局の下にあるのに私は違和感がある。図書館は市の文化事業であるべきである。教育委員会が文化のことがわかるはずはない。


能登半島地震、二次避難だけでなくインフラの復旧を早急に進めてほしい

2024-01-15 22:50:41 | 社会時評

いま、メディアで能登半島地震の二次避難が話題になっている。より安全なところに避難するのは確かに理にかなっている。

しかし、けさのテレビ朝日で、能登の地方議員が、「ここにいても、2年たっても電気と水が通るかどうかはわからない」と言って地域ぐるみの二次避難させたと自慢気に言うのを聞いて、中央政府ベースの二次避難策が心配になった。

住民の安全のため二次避難を進めようとする地方議員の気持ちも分かるが、あくまで「避難」という概念は一時的な災害に対する対処である。地方議員は、中央政府に、災害からの復興への支援を求めるべきではないか、と私は思う。避難だけでは生活復興につながらない。

もしかして、中央政府は、もっと大きな地震が来て、能登地域の復興が不可能だと考えているのだろうか。そうならそうと言って欲しい。

そうでなければ、中央政府は、能登地域の大地震からのインフラの復旧を支援すべきである。まず、道路を復旧させ、水道と電力を復旧させるべきである。インフラ復旧の見通しこそが、住民の災害からの生活復興の希望と生きる意欲を力づける。住民がインフラ復旧に主体的に参加すれば、村おこし、町おこしにもなる。

地方議員や地方自治体は、中央政府の顔色を見るのではなく、積極的に主体的に災害からの復旧を進めるべきである。

また、今回の大地震のメカニズムや今後の地震の推移が報道や気象庁の発表ではよくわからない。流体が上がってきて能登の群発地震を起こしているとの専門家の仮説が的をはずしていたのではないのか。

日本の地震学者たちは、プレート沈み込みによる地震ばかりに集中していて、断層による地震を軽視していたのではないか、という疑問を私はもった。

沈み込んだプレートから流体が上がってきて群発地震を起こすというのは、火山性群発地震の仮説の焼き直しにすぎない。新潟から能登、加賀、福井にかけて多数の断層の痕跡がある。2007年3月25日にマグニチュード6.9の地震が能登半島沖で起きている。

今回の地震では、能登沖の海底に走っている逆断層が動いたと言われているが、本震も大きな余震も、震源の多くは能登の陸地の深さ10km前後にある。すると、大きな断層面が能登半島内部に入り込んでいることになる。北陸の地殻にどれだけの圧力がかかっているか、ちゃんと調べるべきでないか、と思う。

地震のメカニズムと予測の研究と、地震による災害を最小限に抑える対策も、今後必要だと考える。


日本語では思想が語れない、夏目漱石

2024-01-09 23:03:23 | 思想

小池清治の『日本語はいかにつくられたか?』(ちくま学芸文庫)は約30年前に出版された本であるが、いま読んでも面白い本である。私の本棚から出てきたのであるが、買った記憶も読んだ記憶もない。記憶がないのは、私がボケてきたのもあるが、当時読んでも小池の言いたいことがよくわからなかったのだろう。

本書の5章は「近代文体の創造 夏目漱石」である。その冒頭に、夏目の書き残したメモを小池は引用する。それは日本語に英語が混ざったメモである。小池は「こういうスタイルが、彼の内的言語であった」と書く。

私は、夏目が横書きでメモを書いていたのが、それとも縦書きだったのだろうか、気になる。英語の単語を縦書きで書くのも読むのも大変であるからだ。

つづいて、小池は、夏目の1907年の『将来の文章』を引用する。

「私の頭は半分西洋で、半分は日本だ。そこで西洋の思想で考えたことがどうしても充分の日本語で書き現されない。これは日本語には単語が不足だし、説明法(エキスプレッション)も面白くないからだ。」

夏目にとって、日本語では明晰な文章を書きにくかったのだ。100年後の私も、日本語だけの文章はわかりづらいし、書きづらい。だから、少なくても、日本語は横書きに移るべきだと思っている。横書きなら、英単語やドイツ語やロシア語やギリシア語が入り混じった文を書けるし、そういう文章を読むのは苦痛ではない。単語にはニュアンスがある。明治時代に粗製乱造された漢字熟語が使われても困る。

ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』(みすず書房)でやたらと「人種思想」がでてくるが、英語版を読むと、“race-thinking”の訳語である。日本語で「思想」というと、何かとても高尚なものに感じてしまうが、“thinking”は「考え方」「思いのもとになる立場」という程度の言葉である。

夏目はじっさいにどんな文章を書いていたのか、と思って、ネット上の青空文庫を見まわしていたら、『おはなし』という講演に出合った。東京高等工業学校(東工大の前身)の「文芸部の会」での1914年の講演である。

「よく講演なんていうと西洋人の名前なんか出てきてききにくい人もあるようですが、私の今日のお話には片仮名の名前なんか一つもでてきません。

 私はかつてある所で頼まれて講演したとき、日本現代の開化という題で話しました。今日は題はない、分らなかったから、拵えません。」

この後、夏目はけっこう意地悪な人のようで、建築家など技術者をバカにした話をしだす。それはそれとし、話しのなかで英単語がいっぱいでてくる。それを抜き出して書き並べてみた。

definition, energy, consumption of energy, factor, sufficient and necessary, mechanical science, mental, universal, personal, application, personality, eliminate, apply, sex, naturalism, abstract, reduce, philosophical, depth, law, govern, free, justice, mechanical, capitalist, art, essence, scientific, departure, essential.

講演を聞いた学生や職員は面食らったのではないだろうか。英単語もそうだが、夏目は、工学系の仕事はuniversalだからpersonalityがいらない。文芸家や芸術家は、art (技巧)が二の次で人間が第一だと言う。「文芸家の仕事の本体すなわち essence は人間であって、他のものは附属品装飾品である」「私一人かも知れませんが、世の中は自分を中心としなければいけない」と言う。

私は、どんな仕事にも、その人しかできない事柄、独自性、創造性があると思うので、ここまで、人をバカにする気にはなれない。

しかし、多言語で物事を考えることは、言葉に酔わないために必要なことと思う。


民族主義は劣等感や被害者意識の裏返しではないのか、ハンナ・アーレントを読んで

2024-01-08 22:52:09 | 歴史を考える

ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読むと「汎民族運動」が悪のはじまりの1つのように書かれている。共産主義のソビエトは汎スラヴ運動を引き継いで世界征服をたくらんでいたかのように書かれている。

本当に汎スラヴ運動なんてあったのだろうか。ポーランドの歴史、ウクライナの歴史、バルカンの歴史、ロシアの歴史、ビザンチンの歴史を読むかぎり、そのようなものは見受けられない。

スラヴ語圏には、被害者意識や劣等感からくるローカルな民族主義というものは見られるが、一部の集団が権力奪取の道具として、あるいは権力維持の道具として、民族主義を利用しただけではないのだろうか。1980年のチトーの死でユーゴスラヴィアが崩壊し、1991年には内戦にいたった。汎スラヴ運動なんてなかった。

汎ドイツ主義、汎ゲルマン主義も疑わしい。ドイツ語圏はプロテスタントとカトリックとの激しい争いがあったところである。深井智明は『神学の起源』(教文社)のなかで、プロテスタンティズムは南欧の宗教による中欧支配への反乱であったと言う。結局は被害者意識を権力者が利用しただけにすぎない。ナチスの汎ドイツ主義もドイツ国民にくすぶっていた被害者意識や劣等感を利用しただけではないか。

日本に、汎ヤマト民族主義があったなら、同じ民族として朝鮮人を対等に扱っていただろう。朝鮮語と日本語とは語彙や文法が近い。

小池清治の『日本語はいかにつくられたか?』(ちくま学芸文庫)によると、さらに、古代の日本語の音韻は朝鮮語と同じだったという。本居宣長(1780-1801年)が万葉集や古事記で同音音節の万葉仮名の使い分けを見出した。橋本進吉(1882-1945年)はこの使い分けは音韻の差に基づくと気づいた。朝鮮語と同じ8母音を古代日本人は使っていたのだ。しかも「母音調和」というアルタイ語の規則を各単語は満たしていたのである。すなわち、音韻からも、日本語と朝鮮語は同じアルタイ語圏にある。

しかし、ヤマト民族主義は、単に欧米への劣等感の裏返しに過ぎなく、他のアジア諸国への侮蔑、朝鮮や台湾の併合、満州国建国、そして、中国との戦争、米国との戦争に のめり込んでいく。

いま、イスラエルも、1948年にパレスチナに無理やり建国し、まわりの中東諸国をバカにして、西欧の一員かのように主張する。イスラエル国民は被害者意識と劣等感にとらわれているのではないか。

ハンナ・アーレントは、シオニストの暴走を歯止めするため、被害妄想、劣等感というものをもっと分析すべきだったと思う。