けさのテレビで、松本人志は天才だ、崇拝している、との趣旨の発言があった。妻も「えっ」という感じで見ていた。
ちょうど昨日 読んでいたハンナ・アーレントの『全体主義の起源』(みすず書房)の第6章に、つぎの文章があった。
〈個人の「個性」に捧げた際限のない賛美である。そこでは完全な気ままさこそ天才の証明だとされる。いわゆるロマン主義的な世界感情・生命感情の中核をなすのは、天才の概念と生産性の概念であり、天才の程度は彼が生産し得る思いつきの数によって決まるとされている。ロマン主義のこの天才崇拝・個性崇拝は、近代知識人の相貌を決めるうえで他のすべてにまさる決定役割を演じた。〉
ここでは、天才とは何か、という問題と、天才は崇拝の対象か、という問題が提起されている。
英語版の『全体主義の起源』では、「個人の「個性」」は"personality" of the individualとなっている。「崇拝」はidolization、「思いつき」はthe entirely arbitrary game of his "ideas" となっている。(みすず書房の版はドイツ語版の翻訳。英語版はネットで無料でダウンロードできる。)
明らかに、アーレントは、天才の概念に疑いをもっており、だれかを安易に天才と偶像化することに警告を与えている。
私自身は「天才」とは、人のいうことを受け売りするのではなく、自分の頭で考え判断することだと軽く考えている。あなたも私も、だれもが天才になれるのである。だから、だれかを天才と崇拝するのではなく、自分自身が天才になるよう、つとめるものだと考える。だれもが自分の思いつきをおしゃべりして良いと思う。
アーレントは、上に引用した文章の背景として、ドイツの知識人が 遅れて西欧文化圏に参加したことの劣等感の反動として、天才の待望や天才の崇拝があると考えていたようだ。
松本人志の場合は、自分の思ったことを発言できないという日本社会の閉鎖的風土と、吉本興業の芸人売らんがためのイメージ作りとの 合体ではないか、と私は考える。
吉本興業は、安倍晋三に尻尾をふりふり、NHKの教育番組制作に食い込み、また、大阪万博にも食い込んでいる。松本人志は来年の大阪万博のアンバサダーになっていた。