猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』を読む

2024-07-04 20:37:55 | 教育を考える

図書館に5カ月前に予約した本、成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』(青春新書)がようやく届き、いま、読む。

彼女は言う。「発達障害」と呼ばれる子どもが、この13年間に10倍に増えている。「発達障害は、脳の発達に関わる生まれ持った機能障害」のことなのに、これは本当なのか、と彼女は言う。「発達障害もどき」ではないだろうか、と言う。

この11年間、NPOで働いている私も、同感である。本当に「いわゆる発達障害」という疾患が存在するのだろうか、とも思う。単なる「政治的」な言葉だと私は考える。

じつは、アメリカ精神医学会(American Psychiatric Association)が出している診断マニュアル5版(DSM-5)のどこにも、「脳の発達に関わる生まれ持った機能障害」とは書いていない。

DSM-5の冒頭につぎのように書かれている。

The nerodevelopmental disorders are a group of conditions with onset in the developmental period.

(神経発達症群とは,発達期に発症する一群の疾患である.医学書院訳)

DSM-5自体は「発症」とか「疾患」とさえ言っていない。“onset”や“conditions”という語を使っている。

人の精神機能は脳の働きであるが、その機能の実現や障害のメカニズムは充分には解明されていず、意見の相違がある。それにもかかわらず、子どもの精神機能の欠陥(deficit)に悩む親は、医療機関に治療を求めてくる。患者団体と医療関係者と医薬品業界と保険業界との間に、お金をめぐって、争いと妥協が生じる。このような背景があるから、慎重な言い回しをアメリカ精神医学会がDSM-5で使うのだ。アメリカ精神医学会が標準の診断マニュアルを作ったのは、かって精神科医が信頼を失いメディアで袋叩きにあったからだ。

「脳の発達障害」の実体としては、「生まれつき」も「生まれつきでない」もあるだろう。問題は、「生まれつきでない」もあるのに、「生まれつき」であると決めてかかる日本社会の誤解にある。それでは、支援によって、症状がなくなるものも、なくならない。

だから、成田は本書で治るものを治しましょう、と言っているのである。彼女が言っている「脳を育てる」は、子どもへのあたりまえの対応である。分子生物学・発生学・解剖学・脳科学を研究してきた彼女がこのようなあたりまえのことを言わねばならないのは、日本社会の劣化ではないかと思う。

彼女が本書で対象にしているのは、貧困層の子どもではない。共稼ぎで、十分な教育を受けているはずの両親の子どもである。しかし、「あたりまえ」のことが「あたりまえ」でないのだ。すると、日本の「教育」というものを疑わないといけない。無理をして「知識」を詰め込み、子どもを受験体制に組み込んでいく日本の教育に問題がある。

どんな地方に行っても学習塾があるのは おかしくないか。

彼女は本書で、子どもは10時間寝るのが良い、と言っている。私も高校2年まで10時間寝ていた。夜9時に寝て朝7時に起きていた。小学校のときは、かまどの火を起こし、ご飯を炊くの手伝っていた。高校3年になって、はじめて、朝6時に起きて受験勉強を1時間した。

何時間も受験勉強をしなければならないというのは神話である。人間は何時間も意味のないことを続けることはできない。小学校、中学校、高校も楽しかったが、受験勉強を1時間に限定した私には、興味あることをいくらでも学べる大学は本当に楽しいものだった。いつも、教室の最前列にいて質問していた。

あたりまえの生活をすすめる彼女の本は おすすめである。ぜひ、読んで欲しい。

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子どもの理科実験レポートで苦悶した私

2024-07-02 20:42:53 | 教育を考える

放課後デイサービスで私の担当する子どもに、理科が好きな中3の男の子がいる。どうして理科が好きなのかと聞くと実験が面白いと言う。

私には中学時代に実験をやった記憶がない。化学は覚えることが多くて好きでなかった。リトマス試験紙の色が酸性アルカリ性でどう変わるのかも、すっかり忘れてしまった。

理科が好きな彼は、2週間前から私に実験のレポートの書き方をしつこく聞いてくる。銅と亜鉛とのイオン化傾向の違いを調べる実験のレポートだ。

学校から配られたプリントに、実験に先立って自分の仮説を立て書く欄とその根拠を書く欄とがある。銅と亜鉛のどちらがイオン化傾向が大きいかを、中学生が根拠を示して予測できると思えない。大学生にも難しいと私は思う。

私は非常に困った。実験とは予測できないから実験するのではないか。実験で大事なのは、結果の予測ではなく何を知りたいかではないか。そのための実験の設計が大事なのではないか。

すると、この仮説は、どちらがイオン化傾向が大きいかでなく、実験では、どういう現象を期待しているのか、ではないか、と思い、そう説明した。

実験は,硫酸銅の溶液に亜鉛を入れた場合と硫酸亜鉛に銅を入れた場合を比較するようになっている。仮説は、イオン化傾向の大きい金属を入れた場合に反応が起き、入れた金属の表面の変化が観測できる。イオン化傾向の小さい金属を入れた場合には何も反応が起きない。このことなら、仮説とそう予測した理由を述べることができる。

私はそう思ったのだが、きのう、彼が来る前に教科書を丁寧に読んだとき、この実験の期待される仮説を教科書の補充部分に見出した。仮説Aは亜鉛のイオン化傾向が銅のそれより大きい、仮説Bは銅のイオン化傾向が亜鉛のそれより大きい、となっている。仮説Aの根拠は、オリンピックのメダルは銅、銀、金であって亜鉛でない、仮説Bの根拠は、銅でできている10円玉は古くなると黒っぽくなる、というものであった。

この教科書は、実験をゲームのように扱って、子どもたちに結果を予測させることを目的としているのだ。根拠は科学的である必要ではないのだ。子どもたちに理科への関心を起こすには、非科学的な予測も良しとするしかない。自由な発言を認めないといけない。

しかし、教科書にはイオン化傾向の順が書いてある。そうすると、実験のレポートで「仮説」と「根拠」を述べさすことは間違いではないか。レポートに書くべきは実験の「目的」ではないか。実験の「設計のポイント」ではないか。

このイオン化傾向の実験では、銅と亜鉛とを対称に扱っているところが、実験のポイントである。

理科教育はとっても難しい。特に電解質、電池は教えるのが難しいところだ。現在の中学の理科は内容が多すぎる。丁寧に教えるには、内容を絞るべきではないかと思う。

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今の英語教育は昔より改善されている、話せないのは勇気の問題

2024-05-14 17:17:44 | 教育を考える

日曜日の朝日新聞《声》のコーナーに「高校の英語 文法より実用重視を」という高校生の投書があった。外国人観光客に英語で道を聞かれたら咄嗟に英語が口から出なかったが、それは高校の英語教育が悪いという要旨である。

本当かな、というのが私の正直な感想である。

私はバリバリの理系の人間で英語が嫌いであるが、放課後デイサービスでは、子どもの求めに応じて英語も教えている。私が知ったのは、中学も高校も英語の教科書は現在コミュニケーション英語になっていることだ。大学入試もすでに文法重視から実用的な英語になっている。

私は、その高校生が勇気がないから話せなかったのではないか、と疑う。道を聞かれたとわかったのだから、少なくともリスニングの第一歩をクリアできたのだ。だから、答える単語が思いつかなくても、身振り手振りで答えることができたはずである。

カッコいい英語で発音できないと思ったから、口から声がでなかったのではないか。相手の困りごとより、自分の見栄を優先したのではないか。

数年前、不登校の中学生を担当したら、英語の勉強とは単語を覚えることだと彼は思いこんでいた。単語帳で単語を覚えようとしている。いっぽう、私は、英語の勉強は英語の言い回しを覚えることだ、と考える。教科書ぐらいは読んだ方が良い。しかし、単語の知識だけでも、道を教えることができる。

この4月から担当した高校生は、とつぜん、英検5級を受けたいと私に言った。始めてみてわかったのは、英語のスペルはまったく読めず、リーディングは全滅だということだ。それにもかかわらず、彼は大声で英語を読み上げようとするので希望が持てる。

私が感心するのは、彼がリスニングができることである。彼は、重要な単語をいくつか聞き取ることができ、文法は分からなくても、言っている内容を推察することができることだ。過去問の9割がたを正解する。できなかったものの1つは、絵を見て、コーヒーカップとスプーンとの位置関係を正しく言っている文(もちろん音声)の番号を選択する問題だった。答えは、“A spoon is by a cup.”である。前置詞によって意味が違ってくることを知っているかを問うているのだ。

英語には、ラテン語やギリシア語と比べて、文法らしい文法はない。前置詞の使い分けは、文法ではなく、言い回しの問題である。私がカナダにいたとき、きっすいのカナダ人のなかに、移民や外国人学生の英語をバカにする人がいた。発音やアクセントでない。前置詞の使い方で、ネイティブかネイティブでないがすぐわかると私に言う。彼にとって、私などの英語は、きっと、助詞がない、あるいは、助詞が間違っている日本語を聞いているようなものなのだろう。

だから、高校で言い回しを勉強することは、良いジョッブを獲得するために無駄ではない。しかし、それは文法ではない。理屈で正しい使い方が分かるものではない。

話す英語は、まず、勇気をもって声を出すこと。それを誰かのせいにするのは、いただけでない。


早期教育が詐欺や虐待にならないために

2024-03-21 22:18:48 | 教育を考える

古新聞を整理していたら、2月から3月にかけて朝日新聞が『早期教育ギモン』というシリーズを連載していた。私は、これを1月末の特集『教育虐待をなくすには』を受けたものと思う。早期教育が教育虐待になりがちだから問題で、それが虐待にならなければ、早期教育の機会を子どもに与えたってどうってことはない。

私がNPOで担当している23歳の子どもは、人との付き合い方に問題があって、友達もできないし、就職もできていなかった。ようやくこの4月から知的障碍者の枠で水耕栽培の職にたどりついて、ホッとしている。

しかし、彼には小さいときから母親に教えられたピアノがあり、心の支えになっている。清塚信也と違って、ピアノが職業にならなかったが、心の支えになったのだから、それで良かったと思う。

私はNPOで知的な遅れのある子たちも担当してきたが、遅れが軽くても重くても、親がそれを受け容れていれば、それなりに親子は穏やかに生きていける。昔より、社会の支援が整ってきている。

早期教育は、ビジネスとして行うときには、その質を問題にすべきである。虐待であってはならない。怪しげなビジネスが横行するのは、親が教育というものを誤解しているために、詐欺にひっかかるのだと思う。メディアは、怪しげな教育ビジネスを具体的に指摘して、警告を発していかないといけない。

親が詐欺にひっかかるのは、教育を貧困から脱出する手段と思っているからだ。早期に教育を受けさせないと競争に負けてしまうと思っているからだ。

虐待を受けるのかもしれないのに、親は子どもを保育園や幼稚園に入れる。公文式ドリルを子どもに強要したり、四谷大塚や日能研に子どもを押し込んだりする。親はその金を工面するため非正規雇用者としてスーパーやコンビニで働く。

私はドリルが悪いと言わない。ドリルはその子が言語を操るのに何が足りないのか探るに使える。この子は「どうして」とか「どのように」とかいう人からの問いの意味がわからないとか、人の気持ちの推察がつかないとか、コミュニケーション能力の弱点がわかる。そこをフォローするのが教育である。

教育は人に勝つためでない。健全な心や脳を育てるのが教育である。

子どもに特に知的遅れがなければ、子どもが小さいとき、親が教育に熱心であれば、確かにそうでない子どもよりできるようになる。しかし、本当に能力が子どもにあるかどうかは、わからない。親の助けでそう見えるだけかもしれない。子どもには親を超えて賢くなって欲しいと思うのは悪くないが、賢いということは何かをも考えてほしい。自分で考える力を育てないといけない。

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「AI時代 PISAが問うのは」に答える竹内良樹事務次長

2024-02-12 15:12:24 | 教育を考える

けさの朝日新聞の教育面に、『AI時代 PISAが問うのは』『OECD・竹内良樹事務次長に聞く』がのった。

PISAというのは、経済協力開発機構(OECD)が3年ごとに行なう学習到達度調査である。コロナで1年遅れに2022年に実施した学習到達PISAでは、日本は81ヵ国のうち「科学リテラシー」が2位、「読解力」が3位、「数学リテラシー」が5位とだったという。「リテラシー」とは基礎能力という意味らしい。

これは、経済力を支える「次世代の労働力」のレベルを問うものであって、社会の文化レベルを問うものでない。通常は、実用的教育に力を入れる産業後進国が上位を占める。したがって、この順位に一喜一憂するものではない。

武内は、「テストだけでなく全体をとらえてほしい」と前置きをして話す。しかし、「全体」とは何のことか話していない。単に、テスト以外にアンケートもとっているという形式的なことをいうだけである。大蔵省で次長、局長をなしてきただけあって、役人根性丸出しだ。

武内は語る。

「その狙いは、これまでの教育政策の『通知表』としてではなく、今後の自国の教育政策に反映してもらうことにある」

「『何を知っているか』より『何ができるか』が問われる。測ろうとしているのはこの力だ」

「『読解力』は、日本では文学を読み、味わう力が重視されるが、PISAでは論理的な文章を認識し、議論を展開する力を見る」

彼の話は、文脈上、「何ができるか」をPISA測って、その力を高めたいとなる。しかし、「何ができるか」ではあまり漠然としている。「読み書き」ができるということなのか。そうではなく、「論理的な文章を認識し、議論を展開する」ことのようだ。

しかし、「認識する」とはどういうことなのか、意味不明である。もしかしたら、understandingのことなのか。そもそも、日本語で論理的な文章を書けるのだろうか。夏目漱石は無理だと言っている。頭の中の論理的なものを文にするには、どうしても、日本語の枠を超えざるをえない。

また、議論では、「文章」ではなく「口頭」でする力が、より重要に思う。国会の政府の答弁は答えになっていない。

コンサル業界では、論理的思考の助けとして、図解を利用する。しかし、企業を助けようと思っても、企業のトップは自分を正当化する言葉を求めているだけで、論理的に思考しようとしない。

私は学校教育からはみ出した子どもたち、発達障害、学習障害、ASD、AD/HD、うつ、躁うつと言われる子どもたちを相手にしてきた経験から言えば、「論理的」理解の前に、自分の気持ちが伝えられる、相手の気持ちが分かることが、とっても大事である。このことがPISAで問題にされないとは、PISAは単なる労働力のレベルアップを狙っているとしか言えない。

ここで、明治政府が「和魂洋才」と言っていたことを私は思い出した。「和魂洋才」とは無理な要求である。「創造的な力」は「批判する力」なしには育たない。そして「創造的な力」や「批判する力」のまえに人間のこころがちゃんと育たないといけない。

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