猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

超少子化、過度な競争 自分だけで精いっぱい、日韓共通の問題

2024-05-06 17:40:04 | 働くこと、生きるということ

5月4日の朝日新聞に、春木郁美のインタビュー記事『韓国の超少子化 背景に何が?』が私の興味を引いた。

少子化は、ヨーロッパや東アジアで起きている現象で、普通は「経済発展に伴う子供の養育コストの増大、結婚や出産に対する価値観の変化」と片付けられてしまいがちである。「養育コストの増大」はなぜ起きるのか、「価値観の変化」とは何なのか、が検討されずに、議論が終わってしまう。

春木は「良い教育を、良い就職を、という過度の競争圧力が若い世代を追い詰め、自分一人でやっていくのが精いっぱいという状況です」「子どもを持つことをリスクととらえる傾向が日韓ともにみられます」と言う。

そして、これが「子供のがいる家庭がマイノリティーになり、子どもや子育てへの共感が薄れている」「子供に対して寛容さが失われてしまうと、ギスギスした生きづらい社会になりかねません」という春木の危惧につながる。

考えてみると、少子化というのは不思議な現象である。これまで、ペストなどの感染症や戦争がなければ、人口が減少することがなかった。人口は生産方式の発展とともに拡大してきた。

20世紀の第1次世界大戦、第2次世界大戦は、ヨーロッパの人口の増大が引き起こしたという説もある。ハンナ・アーレントは、全体主義は人の命を粗末にするものだから、ドイツやロシアのように過剰の人口を抱える国でしか、成功しない、とまで言う。

だから、人口が増加しないこと自体は、悪いことと言えない。本当の問題は、「社会の若い世代が追い詰められ、自分一人でやっていくのが精いっぱい」という状況である、と私は考える。

発情期なのに、恋に身を任せないというのは、私からみれば、とっても不思議なことである。二人で子どもを持ち、永遠の命をつないでいこうと思わないのは、とっても不思議なことである。女性は何から追い詰められているのであろうか。

昨年の韓国の出生率は0.72であるという。日本や他国と比較するために、2021年の合計特殊出生率で較べると、韓国は0.81で日本は1.30、中国は1.16、シンガポールは1.12、イタリアは1.25、イギリスは1.56、フランスは1.83、アメリカは1.66である。合計特殊出生率は一人の女性が一生の間に何人の子どもを産むかの推定値で、人口を維持するには、1,2年で死ぬ赤ちゃんがいるから、2.00を少し上回るのが望ましいとされる。

不思議なことに、これらの国のうち、この10年間人口が減りつづけているのは、日本とイタリアである。韓国は2020年から始めて人口減少が起きているが10年の平均で見れば人口減少が起きていない。韓国は移民でまかなわれているのではないか。

ヨーロッパをみても、出生率にもかかわらず西ヨーロッパでは人口減少が起きていないが、東ヨーロッパで人口減少が起きている。東から西に人の移動が起きているのではないだろうか。

出生率は、その国の女性が生きることに肯定的であるかの指標になる。国の人口そのものは移民で維持できるが、生きることに自分だけで精いっぱいであるという問題は、移民では解消できない。社会の集団心理の病的状況を、まじめに議論して、改善すべきだと考える。


自分を表現し人に見てもらい集まっておしゃべりするのは、文化的

2024-04-16 17:10:04 | 働くこと、生きるということ

私は、NPOで子どもたちの指導を始めて13年目、文芸誌と称して子どもたちの作品を集めて発行し始めて7年目になる。これまでに30号をだした。

私は子どものときのから、文化的なことに 憧れがあり、そういう活動が好きだった。作品を書いて、あるいは、描いて、あるいは、創って、人に見てもらいたい、という気持ちがあった。演劇にも、憧れがあった。

NPOで一人黙々とイラストを描いている女の子の、本当はイラストを見せ合っておしゃべりしたいという気持ちがよく分かった。が、何もしなかった。

7年前の春、てんかんの持病をもつ中2の男の子がインタネット上の『小説家になろう』のサイトに投稿しているのに気づいた。そのとき、突然、NPOに集まってくる子供を集めて、文芸誌を発行したいと思った。強引に私の担当している子どもたち8人の作品を集めて、文芸誌1号を出した。

そのときから私は文芸誌をデジタルで発行してきた。「非売品」と表紙につけて、NPO内だけの回覧である。デジタルだから、イラストや工作や立体造形も簡単に載せることができる。私が、大学でガリ版印刷で同人誌を出していたときと比べると、なんと便利な時代になったものだ。

いつのまにか、NPOのほかのスタッフも作品を集めてくれるようになった。NPOは現在5つの教室からなるが、各教室から作品が電子メールで送られてくるようになった。編集を手伝ってくれるスタッフも4人いるようになった。

私が勝手に出し始めた文芸誌が、NPO公認の文芸誌になった。

私は、文化的活動が、自己表現であり、自己肯定であり、生きていく心のかて(糧)となる、と信じている。それは学校のテストの成績や学歴と何の関係もない。送ってきた作品はすべて文芸誌に載せることにしている。作品の質は問わない。だから、だんだん、文芸誌が重くなっている。

おととしの夏から、文芸誌に載った子どもたちの作品について、スタッフが集まって感想をかわす会を催すことにした。18世紀後半のドイツでは、文学や音楽についておしゃべりするサロンが流行したという。作品を創るのも文化的活動だが、作品について話し合うのも文化的活動である。

感想会のほうは参加者の人数がなかなか増えない。ようやく、今回9人になった。まあ、これくらいが良いのかもしれない。Zoomミーティングを使い、オンラインで行っている。載った作品すべてについて話しあうと、1時間半を超えてしまう。いつも、感想会で編集の時に気づかない発見がある。とっても楽しいひとときである。


「能力が高い」とか「仕事ができる」とかの職場の評価は本当なのか

2023-12-19 23:57:08 | 働くこと、生きるということ

古新聞を処分していて、突然、ひと月近く前の朝日新聞《耕論》に不快な思いをしたことを思い出した。その《耕論》は『「仕事はできる」けれど』という見出しで、つぎのような問題を提起していた。

「職場で「能力が高い」と評価される人が、攻撃的だったり、他人の足をひっぱったりすることがしばしばある。なぜそうなってしまうのか。「仕事ができる」とはどういうことなのか。」

私が思うに、本当に「能力が高い」人なら、どうして、他人に攻撃的である必要があるのか、他人の足を引っ張る必要があるのか、そんな必要はないはずだ。だとすると、他人を攻撃する人や他人の足を引っ張る人は、「能力がない」のに、会社内の競争に勝ちたいからでないだろうか。そういう人を「能力が高い」と評価する職場に問題があるのではないだろうか。私はそう思う。

同じように、他人を攻撃する人や他人の足を引っ張る人が「仕事ができる」と評価される職場は、どうでもよい仕事や他の人に迷惑がかかる仕事や他の人からお金を奪う仕事をしているのではないだろうか、と私は思う。

しかし、インタビューを受けている3人の論者は、「能力が高い」「仕事ができる」という言葉に、少しも疑問を感じていないように、見える。私はこのことに不満であった。

              *                          *                          *                          *                          *

約40年前、カナダの大学で研究していた私は、日本の外資系会社の、コンピュータの新しい応用を切り開く部門に請われて、入社した。入って感じたことは、やっていることが退屈であることだ。もっと創造性のある仕事がしたい、そう思って、幾度となく企画書を上司や上司の上司や上司の上司の上司に提出した。

職場に先に入社した同僚(先輩)から、まず、言われたのは、「仕事をするな」「私に仕事をされると自分の居場所がなくなる」ということだった。彼は、その後、私をうまく手なずけている、「管理能力」があると吹聴して出世していった。私からみれば、上に対するゴマすりが上手であるだけだ。

会社の行事として全員の宴会があるとき以外、上司や同僚との飲み会に私は参加しなかった。私は家族がある。飲み会よりも家族と時間を過ごすことのほうが、だいじだと思うからである。いっぽう、異なるグループや異なる部門の人たちとは昼間に会話を良くした。営業部門の人たちのおかげで日本のいろいろな企業の開発部門、研究部門の人たちとも付き合った。話すのは、私は耳学問が好きだからである。いろいろな人たちと楽しく会話し学んだ。

そのうちに、私の部門が研究部門に格上げになった。研究部門とは会社の明日を築くかもしれないが不確実性の高いことに挑戦する部門である。ところが上司たちは海の向こうの本社に独創的な企画を出さず、開発の下請けのような仕事しかとってこない。企画書を出す私は上司たちからは煙たがられた。

私に研究管理の職がまわってきたのは、本社が赤字をだし、人員整理の波が来たときである。私が50歳近くのことである。管理職になって、自分がやりたい仕事をあきらめ、みんなができることは何か、みんながやりたいことは何かを考えた。また、みんなと公平に接するために、職場の人間と少人数で飲みに行くことを自分自身に禁じた。話はみんなの前で昼間にすべきという考えをつらぬいた。

結局、私が率いた研究プロジェクトが成功せず、会社の退潮傾向を止められなかったが、それで出世できなかったことには悔いがない。楽しい一社員の生活だった。

            *                          *                          *                          *                          *

もちろん、世の中はいろんな仕事があって、創造的な仕事だけではない。世の中の大半は昔ながらの仕事かもしれない。

どんな仕事でも、一生懸命する人と手を抜く人がいる。手を抜く人を一生懸命する人が非難するのはいけない。人より働いたからといって偉いということはない。しかし、逆もいけない。働かないから偉いということもない。

私のいとこの夫は、自衛隊の曹士だった。彼は 引退後 門番に再就職したが、それだけで給料をもらうのは悪いと感じて、門のまわりの掃き掃除をした。たちまち、周りの同僚から非難された。門番の仕事を増やすという理由からである。みんなと同じでなければいけないという考えは、おかしいと思う。よく働く人も、あまり働かない人もいて いいのではないか。


メジャーリーガの大谷翔平の靱帯損傷は防げなかったか

2023-08-25 11:44:10 | 働くこと、生きるということ

きのう、メジャーリーガの大谷翔平は、ダブルヘッダー第1試合に投手兼DHで出場し、わずか26球なげたところで交代した。試合後の検査で、右肘の靱帯損傷がわかった。

私は、大谷の過労による故障から、過労死の問題を連想した。

けさのテレビでは、なぜ、監督が大谷を適度に休ませ、故障を防げなかったに、話が集中された。そのなかで、ひとり、誰だったか覚えていないが、アメリカ社会では故障の大谷個人の責任も問われるだろうと言った。大谷は非常に体調管理に厳しく、あらゆる享楽や友人関係を拒否していたように見える。

むずかしい問題である。

斎藤環・與那覇潤の対談集『心を病んだらいけないの?』(新潮選書)のなかで、日本人のあいだで「承認は職場で仕事を通じて得るものだと、する発想がまだ根強い」と与那覇が問題提起している。いっぽうで、彼は、「勤勉だとされる日本人がその実、潜在的には自分の仕事を憎みだしている」「今日の平均的な日本人にとって、理想のライフスタイルは『働かないで稼ぐ』ことなのでは」と指摘している。

私も、去年「働かないで稼ぐ」という宣伝ビラが東急の電車内で見て、驚いた。資産活用の宣伝である。多数の日本人にとって、「仕事」とは、与那覇のいう通りなのだろう。だからこそ、メディアは、そのアンチである、修行僧のような大谷を称賛したのであろう。

私も、40年以上前、自分の作ったプログラムが市場に売り出されるというので、ひと夏、その仕上げに一人で専念した。無事、日本の市場に売り出されたが、その秋、坐骨神経痛で、足が痺れ歩けない状態になり、1カ月以上、会社を休んだ。上司から病欠でなく有給休暇を出せと言われた。

大谷はトミー・ジョーン手術を受ければ、少なくとも1年は復帰できない、投げれるまでに2,3年はかかるのではないか、という。

問題は、大谷は好きなことをして、故障したということである。それが、個人の責任と言えるかである。あるいは、監督の責任と言えるかである。

大谷は、周りからのヒーロー視に毒されていたとみることができる。誰にもできない努力をして結果をだすことに快楽をみいだしたのは、それが、大谷の承認欲求を満たしたからと考えられる。メディアは、毎日毎日、大谷と騒いでいたが、それに、今回の故障の責任があると思う。

人は、躁状態に陥ったとき、倒れるまで、走り続ける。倒れるまで走ったことを称賛するのではなく、倒れるまえに休むよう説得することが必要である。


橋爪大三郎の『リスキリング 似た経験した人 過去に見つかる』

2023-04-27 23:58:53 | 働くこと、生きるということ

きのうの朝日新聞夕刊の橋爪大三郎インタビュー記事『リスキリング(学び直し)への心構えは 似た経験した人 過去に見つかる』が面白かった。モヤモヤしたものがすっきりした。だが、タイトルはちょっと不適切である。

橋爪は最初につぎのように言う。

「リスキリング。危ない言葉ですね。」

「経営者も政府も、経営不振や不景気は労働者のせいだ言わんばかり。」

「クビを切られるのは、スキルのないお前の責任だ。こんな言葉がブームになるなるのはおかしいんです。」

私はリスキリング(reskilling)が日本ではやっていたとは知らなかった。これは非常に政治的な言葉だ。こんな言葉を安易に使うやつらがウヨウヨといっぱいいるなんて正気の沙汰でない。

スキル(skill)とは「何かを巧みにこなす能力」のことを言い、もともとは名詞である。これにingをつけてスキリング(skilling)とするから、スキルを動詞として使っている。新しい英語の用法なのだろう。「巧みにこなす能力」が教育で得られるという仮定があって、動詞として使うのだと思う。私自身はここから疑う。教育は表層的な知識をさずけることで、職場での経験がなければスキルはつかない。

リスキリングは、さらにリ(re)がついたのだから、新しい仕事をする能力をつけるという意味になる。労働者をクビにしておいて、労働者にリスキリングしろというのは、無責任である。誰かが雇わなければ、熟練労働者になる機会すらない。雇用者は、労働者を首にしないで、リスキリングする倫理的責任があると考える。

経営者の立場からすると、労働者をリスキリングするのはコストがかかる。とすれば、労働者がもっているスキルを活かした新しい市場に企業が進出するのが、経営者の普通の選択である。じっさい、まともなコンサルタントはそう経営者に進言する。

リスキリングを「お前のスキルはもう古い」という意味で使うのは、人の人生を一方的に否定している。本来は、そんな言葉を軽々しく使うべきではない。

ただ、個人の力や経営者の力だけでは及ばない大きな「時代の転換」は起きるかもしれない。橋爪は「たとえば空襲で町全体が焼けてしまった状況」を「リセット」と呼ぶ。橋爪は日本の敗戦時を思いうかべているのかもしれない。私は地球に大きな隕石が落ち気候の大変動が起きた場面を思いうかべる。こういうときは、みんな平等だから、柔軟な思考でやり直しするしかない。

しかし、それは、「リスキリング(学び直し)」ではないと考える。橋爪のいう「似た経験した人 過去に見つかる」とは過去の人の生き方から「やり直しの勇気」をもらうことであって、「何かを巧みにこなす能力」を過去の人から学ぶことではない。