猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

判決のステレオタイプな批判は無意味、津久井やまゆり園殺傷事件

2020-03-17 13:49:38 | 津久井やまゆり園殺傷事件


きのう、3月16日、津久井やまゆり園殺傷事件被告の死刑判決があった。

この裁判は、裁判員裁判のため、裁判所のもとに検察側と弁護側の論点整理が事前に行なわれたため、争点が、被告の「責任能力」に絞られたことは、まことに不適切で不幸なことだった。

きょうの朝日新聞が『視/点』や『論説』で「なぜ犯行が解明されていないのか」と批判していたが、それが「動機」の解明を意味するなら、本来、裁判で行うべきことではない。それに、判決文に理解可能な被告の「動機」が十二分に書かれている。

今回の裁判の問題は、判決文にそれしかないことである。

ひとがおこなった行為に対して、ひとはひとを裁くべきである。刑法199条に殺人罪があり、これにもとづいて裁くべきである。被告は2016年7月26日に「19名を殺害し、24名に傷害を負わせた」のである。

もちろん、裁判のもう一つの役割は、類似の犯罪が行われないように、社会にメッセージを発することでもある。

しかし、裁判で個人の内面に踏み込んで、何か、意味あるメッセージを社会に送ることができるのであろうか。個人の内面に踏み込むことは、自分の心の動きから相手の心の動きを憶測することであり、いまだ科学的に行えない領域である。

それより、もしかしたら、犯行を防げたかも知れない点が幾多とある。そこに集中すべきである。

今回の事件で驚いたことは、被告が津久井やまゆり園での犯行を予告したにもかかわらず、有効な手段がとられなかった、あるいは、とることができなかったということである。

判決文によれば、「午前1時43分頃から同日午前2時48分頃までの間に、本件施設内の各居室又はその付近において、いずれも殺意をもって、利用者43名に対し、それぞれ、その身体を柳刃包丁等で突き刺すなどし」とある。被告が、邪魔されることがなく、1時間以上にわたって、犯行をおこなったのだ。しかも、5人の職員が結束バンドで拘束され、遅い者は午前4時まで解放されなかったのである。誰が職員を解放したかは、判決文に明記されていないが、とにかく、セキュリティ会社ALSOKの警備体制がまったく役に立たなかったことは事実である。ALSOKはテレビで過大広告を行っているのではないか。

また、被告は、仲間と日常生活のように、大麻を服用していることにも驚いた。芸能人の大麻使用に厳しく処罰しているのに対し、それ以外は野放しになっているのではないか、という疑問をもった。大麻がそんなに手に入りやすいのか。

もう一つ、今回の裁判で明らかになったことは、刑法が殺人を禁じていることを、被告は意に介していないことである。裁判官も被告人質問でこの点を確認している。これは、殺人犯を厳罰に処さないからということより、法の権威が、そして民主主義の理念が、日本社会で崩れていることを反映していると思われる。この問題に関して、判決文は言及していない。

   ☆   ☆   ☆
判決文は、ネット上に全文が載っている。それを読むと、非常に丁寧に「責任能力」について論じている。「当裁判所は、犯行時の被告人が完全責任能力を有していたと認めた」との結論に私は納得できる。もちろん、死刑が妥当とは思わないが。

判決文では、「意思疎通ができない重度障害者が不幸を生む不要な存在であり、安楽死させるべきであると考えるに至った」根拠を、是認できないものであるが、理解可能と指摘している。噛みつくなどの重度障害者の行動、その家族の心の揺れ、介護職員の態度、また、政治家の言動、テロの存在、社会のお金への崇拝など、被告の「妄想」を形成する要因があるとしている。

判決文は、また、犯行の5ヵ月前の2月15日に衆議院議長に渡した被告の手紙を引用している。非常に論旨の通った論理的な手紙である。そして、違法行為を行うことを被告は意識している。刑法39条の「心神喪失」あるいは「心神耗弱」の状態では、こうは書けない。

判決文では、また、精神鑑定の中身に踏み入って論じている。この部分はとても良くできている。判決文 曰く、

「本件証拠上、本件犯行に相応の影響を及ぼした可能性があるといえる精神障害は、工藤鑑定が指摘する動因逸脱症候群を伴う大麻精神病のみであるが、動因逸脱症候群を伴う大麻精神病は、工藤医師自身もこれまでに接したことがなく、日本国内で確認された例もない稀有な症例とされており、その病像や診断基準等について、工藤鑑定が確立した医学的知見に依拠したものといえるのかは証拠上必ずしも明らかではない。」

これって、弁護側のために精神鑑定をした工藤行夫を、裁判官が「ののしっている」のである。

私は、精神科医は裁判に関与すべきでないと考えている。アメリカ精神医学会の診断マニュアルDSM-5にも、このマニュアルを裁判で使わないようにという前書きがある。

精神医学は学問として いまだ成立していず、しかし、治療を願う患者やその家族のために、仮説にもとづいて薬を使ってみたり、患者の周辺の人間関係を変えたりしてみているのが、現状である。精神医学を、死刑か無罪かの判断の基準に使ってはならない。

判決文 曰く、

「しかしながら、このことのみから、精神医学の十分な専門的知見に基づくと認められる工藤鑑定を直ちに排斥することはできない。そこで、以下、工藤鑑定のいう病像や診断基準等に照らして、犯行時の被告人が、工藤鑑定のいう動因逸脱症候群を伴う大麻精神病にり患していた疑いが排斥されるか否かを検討する。」

そして、裁判官は、精神医学の「権威」にあえて踏み込み、「完全責任能力を有していた」と判定したのである。

「動因逸脱症候群」とは私が聞いたことがないが、判決文によると「持続した高揚気分、あるいは意欲の異常亢進等能動性が逸脱した状態」のことをいうらしい。「動因」とは “motive”の訳で「逸脱」とは “deviation”の訳と思われる。「症候群」とは、病因をいうのではなく、そういう症状がみられる集まりというのに過ぎない。そのことと、「意志疎通のとれない重度障害者は死ぬべき」とは、つながらない。裁判官が「工藤医師自身もこれまでに接したことがなく、日本国内で確認された例もない稀有な症例」と言うように、「責任能力がない」根拠に まったく ならない。

とにかく、今回の判例をもって、今後、他の裁判でも、弁護人が、刑法39条の「心神喪失」あるいは「心神耗弱」を法廷戦術に利用するのは やめてほしい。

津久井やまゆり園殺傷事件の最終弁論―失敗の裁判員裁判

2020-02-20 22:22:22 | 津久井やまゆり園殺傷事件

きのう、2月19日に、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で利用者19人を殺害し、職員を含む26人に重軽傷を負わせた件の裁判が、横浜地裁で結審した。

きょうの朝日新聞の神奈川面に、19日の最終弁論の要旨がのっていたが、弁護側のスタンスがよく分かる記事であった。

その最終弁論要旨をさらに圧縮すると、「検察側が根拠とする精神鑑定」に誤りがあり、「被告が当時、ブレーキが壊れ、変な方向にアクセルが入りっぱなしになった状態。自己を制御する能力は無かった。病的で異常な思考で実行した可能性がないと言い切れない。被告は精神病を患い心神喪失の状態にあったので、無罪を言い渡されるべきだ」となる。

私は「検察が根拠とする精神鑑定」に誤りがあるとするのは、その通りだと思う。しかし、精神鑑定に誤りがあるからといって、「無罪」になるわけではない。

私が誤りだというのは、反社会的パーソナリティ障害との診断のことで、アメリカの精神医学会の診断マニュアルDMS-5の「鑑別診断」の項に次のように書いてある。

「成人で反社会的行動が物質使用障害を合併している場合、反社会性パーソナリティ障害の特徴が小児期から成人後まで継続していないかぎり、反社会性パーソナリティ障害の診断はくだされない」。 
(ここで「物質使用」は “substance use”の訳で、覚醒剤、大麻、アルコール、精神科で処方する薬剤などのことをいう。)

私自身は、刑法第39条の適用を精神鑑定にたよること自体に反対である。反社会的行為は反社会的行為によって処罰すべきである。刑法第199条の「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」にもとづいて裁くべきである。

刑法39条「1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」は、明らかに錯乱している状況にある場合に限定すべきであり、その場合には錯乱しているものを放置した者の責任が問われなければならない。

弁護側は、公判をつうじて、錯乱している被告を放置した責任をだれにも告発していない。また、明らかに錯乱していたという裏付けがない。

弁護側は、弁護側の精神鑑定で「大麻精神病、大麻の長期常用による慢性精神病」としている。この弁護側鑑定にたいして、公判でどのような討議があったかが、メディアの情報では一切わからないが、「鑑定は合理性を欠き、信用性に疑問がある」という言葉を返したい。

「精神病」とは、統合失調症に類似した症状をもつことを普通はいう。しかし、被告には「障害者を安楽死させるべきだ」「自分で抹殺する」という信念のもとに、計画をねって犯行を実行している。いっぽう、「精神病」の状態では、脳の機能が低下しており、計画的犯行ができない。場当たり的な犯行になる。

弁護側は、「大麻精神病」の裏付けとして、「常識では理解できない」「死刑になる可能性も検討していない」「この思考は奇異」「きわめて軽率、無防備」を連発している。

ここで、ヒトの心を常識でシミュレーションできるという誤りを犯している。ヒトの心をシミュレーションして人を裁いては いけないのだ。
ヒトの心をかってにシミュレーションして、無罪だ、死刑だと、していけないのだ。

被告が「重度心障者」と心が相互に伝わらないと言っているのは、被告が相手の心をシミュレーションできないことを言っているのだ。被告と同じ過ちを犯していけない。

また、「大麻精神病」と言いながら、芸能人の薬物使用にたいしては厳しく、「やんちゃな」町の若者の大麻使用を見過ごす、メディアや社会に言及しなかった弁護側の態度は不誠実に思える。

また、復讐心をあおるメディアにたいする弁護側からの批判が弁護側から聞こえなかった。弁護側は「死刑制度」をどのように考えているのだろうか。

被害者学の諸沢栄道が朝日新聞記者に語った裁判批判は的をえている。

「裁判には法的責任を問う役割に加え、動機を解明して事件の再発を防ぐ責務があるという。だが、この公判では被告の成育歴を明かす両親の供述調書や、園での働きぶりを示す同僚の証言など、真相解明に欠かせない証拠がほとんど明らかにならなかった。」

弁護側がすべてを大麻のせいにするのは無理があり、事件の再発を防げない。また、被告を死刑にしても、事件の再発を防げない。

弁護人が弁護人としての責任をはたさなかった、津久井やまゆり園殺傷事件裁判

2020-02-18 22:13:14 | 津久井やまゆり園殺傷事件

きのう2月17日、津久井やまゆり園殺傷事件裁判の、検察の論告求刑が、横浜地裁であった。あす19日に、弁護側の弁護側の最終弁論があり、結審する。判決は3月16日午後1時半から言い渡されるとのことである。

昨年の9月30日に地裁が発表した公判日程では、26回の公判がある予定であった。ところが、これまでに4回の公判キャンセルがあり、そして、あす以降の公判はキャンセルされ、第17回の公判で判決が下される。

これは、検察側、弁護側、地裁側がグルになって猿芝居をうっていたからだ。はじめから、3者で争点を被告の刑事責任能力の有無とに絞っている。ところが、被告が自分はアタマがおかしくない、責任能力があると、言いだしため、この猿芝居が続行できなくなった。それで、26回の公判が17回になったのだ。

裁判員裁判を短期間で円滑にすすめるために、検察側、弁護側、地裁側が事前に争点整理と称して談合を行うが、これは裁判員裁判の目的に反している。裁判では検察と弁護側が争うことで意外な展開が生じ、それを裁判員が市民感覚で有罪・無罪を判断するから意味がある。新しい共犯者が見いだされるかもしれない。

被告が言うように、今回は被告に責任能力があることは明白だ。じつは、「責任能力」という言葉自体はおかしくて、ほんとうは、日本の刑法第39条に該当しないということである。

日本国刑法 第39条 「1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」

重度障害者への差別、憎悪は、大麻を週に何回か吸ったことでは生じるものではない。

殺人は殺人である。行為で裁かれなければならない。日本国刑法での殺人にたいする刑罰の選択範囲は、非常に広いのだ。

日本国刑法 第199条 「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」

したがって、被告は26人も人を殺したという事実を認めているのだから、弁護側は、あくまで、この量刑で争わなければならない。

すると弁護側が主張すべきことは、次の2点であった。

(1)社会は、とくに、津久井やまゆり園は、被告の犯行を防げたのではないか。防がなかった社会、とくに、津久井やまゆり学園に落ち度があったのであり、その分だけ、被告の罪を相殺しないといけない。

(2)被告が暴力的な思想の持ち主で憎悪の対象をせん滅しようとしたといえ、社会が被告を社会からせん滅することは、被告と同じ暴力をふるうことになり、死刑の選択はやめるべきである。

今回、津久井やまゆり園の監視カメラは外部に向かってだけあり、内部における虐待を監視するようになっていなかった。
また、内部の施設利用者が外部に生命の危険を連絡する手立てがなかった。
また、被告から重度障害者殺害の計画を聞いた園の職員は、上司にそれを告げたのにもかかわらず対策をとらなかった。
また、被告といっしょに大麻を吸いながら、殺害計画を聞いた被告の友人たちの罪が問われていない。
被告が重度障害者を殺すべきだという手紙を国会議長に渡した段階で、頭がおかしいとして、精神科医に責任を押し付け、刑事事件として対策を検討しなかった。

すなわち、被告の大量殺傷を防げたかもしれないポイントがいっぱいあるのだ。裁判員裁判の結果、それでも、死刑になるかもしれない。しかし、弁護人が防げたかもしれないポイントを指摘し、改善を訴えなければ、もっと最悪の事件が起きるかもしれない。

また、「汝、ひとを殺すなかれ」という。合法的な殺人があるという考えは野蛮なのだ。死刑は廃止すべきである。罪をゆるす必要はないが、復讐心から被告を殺せという大合唱は避けたい。それは、憎しみから人を殺すという、人の心の闇を助長するからである。今回は、裁判員を説得できないとしても、死刑廃止を世の中に弁護側は訴えるべきである。

以上の2つの視点から、今回の弁護人は弁護人としての責任を果たさなかったと思う。


精神鑑定は言いぱっなしではダメで討議すべき、やまゆり殺傷事件裁判

2020-02-12 21:47:44 | 津久井やまゆり園殺傷事件

相変わらず、メディアの津久井やまゆり殺傷事件の裁判報道がお粗末である。

2月7日の第12回公判では、東京都立松沢病院の大沢達哉医師が2018年に行なった精神鑑定を説明し、心神喪失か耗弱の状態でないと述べた。2月10日の第13回公判では、中山病院(千葉県市川市)の工藤行夫医師が、大麻の乱用で心神喪失か耗弱の状態だったと述べた。

大沢は検察側の精神科医であり、工藤は弁護側の精神科医であるから、結論が異なるのはあたりまえだ。

精神医学は、まだ、学問として未熟であり、専門家といえでも、客観的真理を述べることはできない。1900年前後に活躍した精神医学の大家、エミール・クレペリンは、精神科医が心の動きをシミュレーションできない言動をする人を、精神疾患者と定義した。現在もそれが変わっていないが、現代の精神医学哲学者レイチェル・クーパーは、自分の心の動きから他人の心の動きをシミュレーションするのを精神科医は もう やめるべきだと言う。

したがって、自分の心の動きから他人の心の動きを推量するという、現在の精神医学の限界を超えるために、大沢と工藤が直接討議したり、検察や裁判員や裁判官が工藤の論理的整合性をついたり、弁護側や裁判員や裁判官が大沢の論理的整合性をつくことが、必須である。

今回の裁判長がバカでないかぎり、大沢や工藤に対する質疑が法廷で行われたはずである。それを報道しないメディアはお粗末としか言いようがない。それとも、裁判長はバカなのか。

このなかで、2月11日の時事オピニオンに載った雨宮処凛の『植松聖被告の法廷に通って』は貴重な公判報告である。彼女によると、傍聴した2月6日の第11回公判で、次の事実を聞いて驚いたという。

《しかし、2月6日に傍聴した第11回公判で、冒頭のように被害者弁護士に「あなたは小学生の時、『障害者はいらない』という作文を書いてますね?」と問われた植松被告はそれを認めた。書いたのは低学年の頃だという。
 また、この日の裁判では、中学生の頃に一学年下の知的障害者の生徒が同級生の女の子を階段から突き落としたのを見て、その障害者の腹を殴ったと発言。これも初耳だった。》

弁護側の証人、精神科医の工藤は、第13回公判で、つぎのように言った。

《幼少期の被告は明るく人懐こい性格の一方で、中学時代に飲酒・喫煙をしたり、高校時代に部活動で部員を殴り停学になったりしたと指摘。大学では飲み会中心のサークルに入り、危険ドラッグも使うようになった。
問題行動はあるが反社会的な逸脱はない「やんちゃでお調子者」というのが、被告本来の性質だ。だが、2013年ごろから大麻を乱用し、「障害者を安楽死させるべきだ」などと述べて人が変わった状態になった》。

第11回公判で、子どもときから障害者への嫌悪感をもっていたとの証言と、「問題行動はあるが反社会的な逸脱はない」との工藤の判断とは、整合性があるのか。このことを、第13回公判で、だれかが、工藤に問わなかったのか、気になる。

さらに、「問題行動」と「反社会的逸脱」との境界は何かを問わないといけない。私が思うに、この区別は精神医学の問題ではなく、教育心理学、犯罪学心理学で行われる区別である。「反社会的逸脱」とは法を犯すことをいい、「問題行動」とは社会的コンセンサスを犯しているが、法を犯していないこと工藤はを言っているようである。

そうでなければ、「中学時代に飲酒・喫煙」、「高校時代に部活動で部員を殴り停学」、「大学では危険ドラッグ」さらに「入れ墨」した被告を「やんちゃでお調子者」とは言わないだろう。

また、「幼少期の被告は明るく人懐こい性格」というが、第11回公判で証言された「障害者の嫌悪」と「暴力的行動」と合わせると、弱者への共感能力にかけた乱暴な性格と言えるのではないか。とうぜん、工藤に問うべき問題である。

じつは、精神科医 工藤は、昨年5月に1回、被告と約1時間面接しただけで、地裁が起訴後に実施した精神鑑定の結果などを参照しながらの判断である。すなわち、同じ事実を参照しながら、どう解釈するかに違いが生じたと思われる。したがって、工藤に対する質疑が裁判においてとても重要だと言えるのに、報道からまったくそれが見えない。

雨宮は、また、被告が深刻な「妄想」状態だったのではと述べている。彼女はつぎのエピソードを書いている。

《 1月30日の面会で、私は植松被告に真鍋昌平氏の漫画『闇金ウシジマくん』(小学館)について聞いていた。1月24日の法廷で「横浜に原子爆弾が落ちる」「6月7日か9月7日に落ちる」などと言っていた植松被告だが、それが「『闇金ウシジマくん』に書いてあります」と述べていたからだ。面会でそのシーンが何巻にあるか聞くと「最終巻です。それの一番最後のところです」と言うので入手して読んでみた。
しかし、『闇金ウシジマくん』の最終巻に、彼が言うシーンは存在しなかった。
彼には一体、何が見えているのだろう?》

統合失調症のなどの「精神病」の診断では、よみがえる記憶を現実と誤って認識する状態を「幻覚」という。本人にとって嫌な声が聞こえる幻聴が多い。

この被告のケースは、原爆が落ちる記述がどこにあったかの記憶の話であり、「幻視」ではなく、単純な「記憶違い」の可能性もある。「彼には一体、何が見えているのだろう?」というほどのことではないように思える。

もちろん、裁判員や裁判官が、大沢や工藤にこのことをどう考えるのか、聞いてみても面白いと思う。

公判から見えてくる軽薄な被告、津久井やまゆり園殺傷事件

2020-02-06 23:45:36 | 津久井やまゆり園殺傷事件


きょう2月6日、津久井やまゆり園殺傷事件の第11回の公判が行われた。あすは、7日は、植松被告の精神鑑定を行った医師からの説明などが行われる。ここでは、きのうときょうの公判を振り返ろう。

きのうは、午前が被害者の遺族による被告人質問、午後が裁判員と裁判長による被告人質問があった。きょうは、遺族の弁護士による被告人質問があった。きょうの公判の詳しいレポートがあがっていないので、きのうの産経ニュースの「全文・詳報・一問一答/相模原殺傷」を中心にまとめてみる。

被告人質問から見えてくるのは、被告のとても軽薄な言動である。

なんとなく津久井やまゆり園に務めて、面倒で大変な仕事だと思うようになった。「重度障害者」を殺した方が社会にとって良いと思い、国会議長にその旨の手紙を渡した。精神病院に措置入院になり、出てきてから、「障害者の安楽死」の考えをまわりに伝えたが、強い反対をうけなかった。自分が殺せばヒーローになれると思い、実行した。

要約すれば、こうなると思う。きのうの公判でのやりとりを書き抜いてみる。

 裁判員「大学卒業後、就職した会社をやめてしまった理由は何ですか」
 被告「仕事が大変だったからです。下請けという仕事は割に合っていないと思いました。本社からの下請けというのは搾取されてしまうと思いました」
    ☆
 遺族「(事件が起きた)津久井やまゆり園に、どうして入った(就職した)のですか」
 被告「たまたまです」
 遺族「コンプレックス(劣等感)が事件を引き起こしたのではと思えますが、いかがですか」
 被告「うーん、確かに、うーん、こんなことはしないでよい社会に…」
 遺族「ゆっくりどうぞ」
 《答えにくい質問だったのか、植松被告は混乱した様子を見せた》
 被告「歌手とか野球選手になれるならなっています。ただ自分ができる中で、有意義だと思います」
 遺族「野球選手になるのと(今回の事件は)かけ離れています」
 被告「なれるならそっちになります」
    ☆
 遺族「(被告が『障害者はかわいい』と友人に言ったということについて)そう思っていたんですか」
 被告「そう思ったほうが仕事がしやすかったのかもしれません」
 遺族「(その後、障害者は必要ないという考えに)変わったのはなぜですか」
 被告「彼らの世話をしている場合ではないと思いました」
 遺族「どういうことですか」
 被告「不幸な人はたくさんいますし、それどころではないと思いました」
    ☆
 裁判官「かわいいと思った方が仕事がやりやすいという言葉もあったが、それは今振り返ってそう思うということか」
 被告「そうです」
 裁判官「素直にそう思っていたのか」
 被告「特に重度障害者の子供はかわいいこともあるのですが、その一瞬はかわいいけど、全体をみたら違うと思いました」
 裁判官「働く中で変わったのか」
 植松被告「はい」
    ☆
 裁判員「入所者家族から感謝の言葉などはありましたか」
 被告「ありましたけど…『若いのにえらい』とか言われても、何がえらいのかと思いました」
    ☆
 裁判員「施設に勤めていなければ、事件はやらなかったかもしれないということはないですか」
 被告「そうかもしれません」
    ☆
 裁判長「捕まることへの恐怖心は」
 被告「ありました。捕まれば楽しいことができなくなってしまう恐怖心がありました」
    ☆
 遺族「責任能力とは、どういうことですか」
 被告「意思の疎通が取れるということだと思います」
 遺族「甲E(私の姉)を殺してどう責任を取ってくれるんですか。私に対して」
 被告「長年育てられたお母さんのことを思うといたたまれなく思います」
    ☆
 裁判長「あなたは自分で責任能力があるといっているが、法律上どういう意味か分かりますか」
 被告「はい」
 裁判長「善悪の責任能力があるということですか」
 被告「はい」
 裁判長「それはなぜですか」
 被告「自分は善悪の判断ができるからです」
 裁判長「自分のしたことは正しいことだと思っていますか」
 被告「事件を起こしたことが正しいかは分かりませんが、考えは正しいと思います」
 裁判長「今日、謝罪をしましたけれど、それは悪いと思ったからですか」
 被告「そういうことです」
    ☆
 裁判長「最後の人を刺して自首をする。後悔したという気持ちは?」
 被告「達成できた安堵(あんど)感がありました」
 裁判長「後悔は全くない?」
 被告「今後のことを考えると嫌な気持ちになりますけど」
 裁判長「今後のこととは?」
 被告「捕まって不自由な生活になるのは嫌だなと思いますけど」

被告を確信犯と思ってきたが、公判での発言をみると、「捕まれば楽しいことができなくなってしまう」という現実に内心かなり動揺しており、自己の崩壊を防ぐために、「安楽死させても仕方がないと思う」と強がっているのが、現在の被告の心のように見える。

こんな男に愛する人が殺された遺族の「せつなさ」を共有できる。

しかし、この軽薄さは、彼ひとりではない。電車に乗っても、スマホでゲームをやっていたり、ネット販売のサイトを見ているヒトばかりだ。生きている喜びがなく、一時的享楽にふけろうとする。

人間って愚かしいものだろうが、もう少し、ものを考えてほしい。