猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

映画『オッペンハイマー』はなぜ欧米でヒットしたのか

2024-03-15 02:45:14 | 映画のなかの思想

先日の、奇しくも東日本大震災の13周年の3月11日の、第96回アカデミー賞で、作品賞を含む最多7部門で受賞を果たしたのは、クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』であった。

これは、世界初の原子爆弾を開発したロスアラモス軍事秘密研究所の所長、ロバート・オッペンハイマーの伝記映画である。すでに世界で10億ドル近くの興行成績をあげている。伝記映画で歴代1位の興行成績だという。これから、今月末、日本でも公開される。

去年はハリウッドで俳優組合のストもあって、ろくな作品がなかったと言うコメンテーターもいたが、それだけでは、映画『オッペンハイマー』の大ヒットは説明ができないと私は思う。

私はなぜ大ヒットしたかネット上で調べてみたが、納得のいく理由が見当たらなかった。ノーラン監督がすぐれた娯楽映画に仕上げたと思うしかない。とにかくこの映画は多くの人の感情を揺さぶり、口コミで観客層を広げたのだろう。昔のスターウォーズの大ヒットを思い出させる。

NHKは、アカデミー賞授賞式の翌日の12日に、『クローズアップ現代 果てしなき“問い”の先へ 映画監督クリストファー・ノーランの世界』で、ノーラン監督へのインタビューをテレビで流した。そのなかで、監督が、「映画は、自分自身を見失い、観客と一緒に物語を語り、その物語の世界に没頭できる媒体だと思います」と語っていた。この訳だと、「自分自身を見失い」「没頭できる」の主語が誰だかわからないが、監督は「映画を見る人が他の観客とともに没頭できる媒体」と言いたいのだと思う。

ノーラン監督は、「私は映画を通して特定のメッセージを伝えようとは思いません」「映画を通して、観客に彼(オッペンハイマー)の考えや、彼が見ている視点を経験してもらえるように工夫しました」と言う。多数の研究者を率いて原子爆弾を世界で最初に開発した誇りと喜びと、また、そのことで人類の新たな危機を作ってしまったことへの苦悩を、観客自身がオッペンハイマーであるかのように、感じとれる映画になっていたのだと思われる。監督が自分のメッセージを観客に押しつけるのではなく、歴史の荒波を観客に体験させる映画となっているのだと思う。

53歳のノーラン監督は、また、「10代の息子にこの作品について初めて話したとき『若者は核兵器に関心がないし、脅威だと思っていない。気候変動の方がもっと大きな懸念だと思う』と言われ、それがとても衝撃的でした」と言う。

この映画は核兵器の脅威だけでなく、アメリカでかつての「赤狩り」も扱っている。アメリカの恥ずべき歴史を扱っている。アメリカ共産党を自由社会の脅威だと称して公聴会で党員やシンパや進歩的知識人を社会から追放したのだ。ハリウッドの喜劇俳優・監督のチャプリンもアメリカから追放になっている。また、イギリス人の核物理研究者も原子爆弾関連の機密をソビエト連邦に漏らしたということで、死刑にされている。

私は「赤狩り」はアメリカ人の良心を封殺したと思っている。この映画は、娯楽映画としてだけでなく、アメリカ人の心奥深くに眠っている「良心」に揺さぶりをかけたのではと期待している。

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こころあたたまるイギリス映画『ラスト・クリスマス』

2022-08-09 23:01:15 | 映画のなかの思想

きのう、テレビで、2019年のイギリス映画『ラスト・クリスマス』(Last Christmas)を見た。この映画は、アメリカでまったくヒットしなかったが、心あたたまるクリスマス映画と私は思う。

物語は、緑色の妖精の衣装を年中つけた店員ケイトが、トムと出逢って、半分死んだような だらけた生活から しだいに抜けて出て、ホームレスの人たちのためのボランティア活動も始める。ケイトはトムの部屋に訪れたとき、たまたま いた不動産屋に、この部屋の住人は去年のクリスマスに交通事故で死んだと知らされる。そして、ケイトは、自分の心臓が脳死のトムから移植されたものと気づく。ケイトはトムがいつも自分の中にいると知り、みんなとともに生きていくことの勇気を得る。

そう、last Christmasは「去年のクリスマス」という意味である。

ウィキペディアを見ると、映画評論家のつけた評価は、10点満点で5.52点となっている。「『ラスト・クリスマス』の主演2人には好感が持てるし、スタッフにも才能豊かな人が揃っている。また、音楽の使い方も巧みだ。しかし、それらを以てしても、お粗末なストーリーという欠点を相殺できていない」と評されている。

ケイトもトムも魅力的だし、ロンドンの下町が美しく撮れているのに。

アメリカ人やアメリカの批評家に受け入れられなかったのは、「お粗末なストーリー」というより、イギリス人にとってはあたりまえのことが、平均的なアメリカ人にとっては、許せない現実なのである。

トムは中国系イギリス人なのである。しかも、背が高くてかっこいい。アイススケートをケイトに教える。自転車に乗ってケイトの前に現れる。自動車ではないのだ。アメリカ人には、ケイトのヒーローが、中国人であるだけでなく、自動車も買えない貧乏人なのが許せない。

ケイトの両親はユーゴスラビアからの難民である。ケイトの父親は故国では弁護士であったがロンドンではタクシーの運ちゃんである。(ケイトを演じたエミリア・クラーク自身はインド人の血が混じったイギリス人である。はじめて映画で見たとき、私はイラン人かと思った。)

ケイトが働いているクリスマス飾りを年中売る店の主人は中国系女性である。彼女に思いを寄せるのはオランダ系男性である。

ケイトの女友だちは、アフリカン(黒人)と同棲している。

ケイトの姉(弁護士)はどうもレスビアンらしい。しかも相手はアフリカンである。

ホームレスの世話をしているのは教会ではない。貧しい人たちの自立組織だ。アメリカ人は左翼だと警戒する。

ケイトは歌手にあこがれていたが、結局、ホームレスの人たちとともに企画したクリスマスの集会で、無料で歌って踊るのだ。アメリカ人の大好きな成功話しでない。

しかも、福音派の期待するキリスト教の教えが一切出てこない。キリスト教徒の決まり文句が出てこないから、聖なる気分になれないのだ。

クリスマス映画にしては、アメリカ人の期待するおとぎ話ではない。

この映画の監督、脚本家、出演者はイギリス人なのである。アメリカ文化とイギリス文化との違いをおもわず見てしまった。


映画『アンダーグラウンド』は監督の妄想で描かれたユーゴスラビアの鎮魂歌

2022-06-01 22:43:54 | 映画のなかの思想

1995年の公開の映画『アンダーグラウンド』は、旧ユーゴスラビア出身のエミール・クストリッツァ監督による、いかにもヨーロッパ映画らしい映画である。監督の妄想が、大音響のブラス楽器のバルカン半島特有の音楽とともに、171分の長さで繰り広げられる。ユーゴスラビアに内乱が起き、国が消滅したときに、クストリッツァ監督は悲しみと怒りを笑いの中に押し込めて、この映画を作ったのである。

妄想のシナリオを説明するのは私には難しい。つじつまの合わないことの連続である。

舞台は、ドナウ川のほとりの、ベオグラードの地下豪(アンダーグラウンド)である。ベオグラードはクストリッツァ監督の祖国、旧ユーゴスラビアの首都である。

ナチスドイツの軍事侵攻の1941年、詩人で共産党員のマルコが、大きな地下豪に一族や親友クロをかくまい、武器を製造させる。ここから、もはや妄想である。クロの妻は息子を生んで地下で死ぬ。戦争が終わっても、マルコは地下豪で武器を製造続けさせ、富を築くとともに、チトー体制のもとに共産党の中で出世していく。

ドイツ侵攻から20年後、マルコはクロをパルチザンの死んだ英雄に仕立てて映画まで製作する。その撮影の最中に、クロは息子とともに外の世界に飛びだして、俳優を本当のドイツ人将校と思って殺してしまう。クロの息子は初めて知る外の世界でドナウ川で溺れ死ぬ。

それから30年後に、すでにチトー大統領も死んで、ユーゴスラビアに内乱が起きる。クロは隊長として行方が分からなくなった息子を探し続けている。武器商人のマルコとその妻は、クロの部下と遭遇し殺されてしまう。いっぽう、クロは国連軍の質問に答える。「あなたはクロアチア勢力なのか? セルビア勢力なのか?」「どの部隊に所属しているのか?」に「俺はペタル・ポパラ・クロ(本名)だ」「俺の部隊だ」「祖国だ」と答える。クロは昔の地下豪に逃げ、そこで井戸の中から息子の声を聞き、飛び込んで死ぬ。

論理的には死んだはずの者たちが、ドナウ川のほとりに集まって宴会を行って、映画は終わる。

ウイキペディアを見ると、公開されたとき、アメリカでの評判は悪かった。チトー体制のユーゴスラビアを懐かしむような作りだったので、悪者のセルビアを肯定していると批判された。当時、アメリカは国連軍の名目でセルビアを爆撃していたのである。そして、セルビア軍のリーダーは収監され裁かれ有罪にされた。私は、ソビエト連邦の影響下に属さなかった共産国ユーゴスラビアに内乱が起きたのは、アメリカのCIAの陰謀ではないかと、根拠なく疑っている。

じつは、私がこの映画をみるのが、きのうのBSプレミアが初めてだ。偶然、面白い映画を見させていただいた。YouTubeにこの映画の断片が最近多数上がっているのは、ウクライナ軍事侵攻の影響ではないか、と思った。


映画『市民ケーン』、自分が生きたいように生きた男の物語

2022-04-26 23:17:58 | 映画のなかの思想

今日の午後、思わず、BSプレミアムで白黒映画『市民ケーン』を見入ってしまった。じっさい、立ちすくしたまま、見入ってしまった。

あとでウィキペディアで調べてみると、25歳のオーソン・ウェルズの初映画監督の作品である。1941年に公開されたアメリカ映画である。「主人公のケーンがウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにしていたことから、ハーストによって上映妨害運動が展開された」とあるが、映画ではウェルズが主人公ケーンを非常に魅力的に描いている。もし、ハーストが偏見なくこの映画を見ていたら、自分の伝記映画として満足したのではないか。

映画のケーンは自分の生きたいように生きたのだから、世間的には偉人ではないが、まさに、アメリカン・ヒーローではないか。映画では、妻との関係がうまくいかなく、一番目の妻からも「愛がない」、二番目の妻からも「人の評判を気にしている」となじられ、離婚される。が、自分の思いを新聞に書きたて、発行部数をどんどん伸ばし、全国の新聞社を配下に納めていく。これも、生き方の選択としてはあり得る。

ハーストは、妻をだいじにしないといけないという、世俗的なドグマを気にしていたのだろうか。

映画は、ケーンが死ぬときの最後の一言「バラのつぼみ」が何であるかの謎を追い求めて関係者の証言でケーンの一生が描かれる。そして、「バラのつぼみ」を女のことではないかと想像しながら、誰も真実を解明できないまま、最後のシーンで映画の観客だけに真実が伝えられる。ケーンの所有物の整理が行われ、がらくたが燃やされるのだが、そのなかにケーンが子ども時代に遊んだ雪そりがある。その商品名が「バラのつぼみ」だったのだ。女のことではなかったというオチである。

ウェルズはジャーナリストとしての市民ケーンを描いていない。アメリカの労働者の不満を満足させるべく、ケーンは政治家の不正を暴き、大衆の心をつかんでいく。しかし、ウェルズは思想に立ち入っていない。社会主義者でも共産主義者でもない。目立ちたり屋の腕白なガキとしてケーンを描いている。

きのう、イーロン・マスクはツイッター社から買収の同意を得た。買収の前の段階で、ツイッター社の自主規制は、アメリカの言論の自由に違反している、とマスクは攻撃した。トランプや共和党はマスクの主張に喝采した。『市民ケーン』と似た構図に感ずる。ポピュリズムを梃子(てこ)として、自分の思いをとげようとしている。目立ちたり屋の腕白なガキである。

20世紀は新聞は社会に影響力をもっている。とくに20世紀前半はそうであっただろう。20世紀後半はテレビが影響力をもっている。21世紀はSNSが影響力をもっている。だから、イーロン・マスクは自分が21世紀の市民ケーンだと思っているのではないか。


YouTubeに見るコサック(Козаки)を扱った映画

2022-04-12 22:56:20 | 映画のなかの思想

(ポーランド映画『火と剣』)

ロシア軍のウクライナ侵攻を契機に、多くの人がウクライナの歴史に急に興味を持ち始めたようだ。黒川祐次の『物語ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』(中公新書)は、横浜市の図書館で、現在予約数128人である。私も予約をしており、94番目である。

私のウクライナのイメージはコサック(Козаки)である。が、じっさいのウクライナは多民族国家であり、みんながコッサクの末裔というわけではない。ロシア革命後の内乱時代にコサックは大弾圧を受けたというから、過去と現在がどうつながっているかは、黒川の本を読むまで、私にはわからない。

ウクラナイでコサックを思いうかべるのは私の勝手なロマンである。コサックに関する私の知識は、ウィキペディアとYouTubeによる。

コサックを主題にした映画で、その一部が頻繁にYouTubeに利用されるものにつぎがある。

  • 1962年のアメリカ映画『Taras Bulba(タラス・ブリーバ)』
  • 1972年のウクライナ映画『Пропала грамота(失われた手紙)』、
  • 1999年のポランド映画『Ogniem i mieczem(火と剣)』
  • 2009年のロシア映画『Тарас Бульба(タラス・ブリーバ)』

意外なことに、モスクワやワルシャワから自由であった時代のコッサクの映画が製作されていない。

『失われた手紙』と『タラス・ブリーバ』の原作はニコライ・ゴーゴリの小説である。

『失われた手紙』は政治性がなく、悪魔や魔女が出てくる幻想的冒険談で、ウクライナの農村の風景がでてくる。ウクライナがソ連の一部であった時代に、ウクライナのキエフにあるスタジオが制作した映画である。

『タラス・ブリーバ』は、ポーランドと戦うコサックの隊長、タラス・ブリーバの物語である。この映画で、タラスが火あぶりの刑になるとき、ロシアの大地を讃える言葉を発する。1962年にアメリカが映画『タラス・ブリーバ』を作ったのが不思議である。私が子どものとき、父に連れられて、ユール・ブリンナーが主演したこの映画を見た記憶がある。

『火と剣』はヘンリク・シェンキェヴィチの小説を原作とする物語で、ポーランドへのコッサクの反乱において、ポーランド側にたって戦うコサックを主人公とする。この映画に関しては、ウクラナイ側から色々な文句がでた。たとえば、コサックが酔っぱらって戦いでドジを踏むことなんてありえないとかである、

コサックがモスクワと戦ったという映画がないのが不思議である。ドン川のコサックは、昔、モスクワに対する反乱を何度か起こしている。ロシアが言うほど、現在のウクライナは民族主義的でないのだろう。しかし、きっと、今回のロシア軍のウクライナ侵攻で、いずれ、コサックがロシアと戦う映画が製作されるだろう。歴史は、現在起きていることで、再解釈されるからだ。