猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

〈耕論〉性交同意年齢の波紋、年齢で一律に禁じるのはおかしい

2021-07-31 22:38:46 | 社会時評

性行為の同意能力があるとみなす「性交同意年齢」を、一律に13歳から16歳に引き上げるべきかどうかについて、島岡まな、嘉門優、阿部守一がきょうの朝日新聞〈耕論〉で論じていた。

島岡まなは引き上げるべきとの意見で、嘉門優と阿部守一は慎重論である。

私自身は、一律に13歳から16歳に引き上げるのは乱暴な考え方だ、と思う。

気になったのは、慎重論の形でしか、反論できないことだ。性のタブーが横たわっている。性行為は快楽の源であるはずなのに、それを堂々と言えない日本社会の問題がある。

性行為は生殖行為でもあるので、子どもが生まれても育てるだけのお金があるのか、という問題が確かに生じる。いっぽう、性行為は快楽を生むし、男女の愛を深めたり、壊したりする。

刑法で性行為を年齢で一律に禁じて、性行為が罪悪のように扱って、それが女性を本当に守るのだろうか疑わしい。

いまから、20年前、娘をもっているアメリカ人の社員と一緒に仕事をしていていたとき、私は、突然叱られた。彼は、向こうの新聞記事を読んで、日本人の男はみな援助交際をやっていると誤解したからである。私はそんなことがあると知らなかったから、最初意味がわからず、叱られたことにびっくりした。

「援助交際」とは売春そのものである。お金のために性行為をビジネスとするのを許していいのかという問題であって、年齢の問題でない。

いまから、35年前、カナダで外国人向けの英語教育に出席してた時、台湾か香港かからの移民の女の子と思うが、討論の場で、“sexial intercource”という言葉を使ったので、びっくりした。「性交」が公の場で議論される日本での経験がなかったからである。

いまから、60年前、教室で教師が板と板とを「はめ込む」といって、教室中の女の子と男の子が大笑いをした。女の子も男の子も、大人が性行為にふけっていることを知っており、どんなに楽しいことなのか、興味深々であったのだ。

嘉門優のインタビューを読むと、ネット交際を通じて、子どもを騙し、性行為を強要することが起きているようだ。NPOの子どもたちの保護者からも、私は似たような事案を聴く。

お酒やたばこは有害である。これを二十歳まで禁止するのは、単に、酒タバコを生業にする人々や、酒の出る会合を伝統と考える人々との妥協にすぎない。本来は、酒タバコは、年齢と関係なく、たしなむべきでない。

私は、性行為を年齢で禁じることは、酒タバコを禁じること、本質的に異なると思う。

性行為自体は本来何も悪くない。ただ、快楽が快楽であるために、男の子は、上手に女の子を高まりに導くよう、努力すべきである。

問題は、暴力で、騙されて、あるいは、お金につられて、性行為が強要されないように、性行為にともなう人権問題を教育すべきということである。お金につられての問題は、貧富の差がどうしてあるのか、どうすれば解消できるのか、まで論じられないと不十分である。

また、恋愛というものとともに性行為を論じないといけない。いま、女がしたくないのに、男がしようといったとき、女は断れば捨てられるかもと思い悩む。本当にそんなことで捨てられるのか、そんな男は女から捨て方がよいのか、それとも、うまい断り方があるのか。

いまの教師がそれに答えられるとは思わない。子ども自体が賢くなれば良いのであるから、子どもたちで討論するのを大人は助ければよい。そして、法的な手段、公共サービスなどを脇からおしえていけばよい。性を起点として、倫理、法、政治を子どもたちが討論を通じて実践的に学ぶことのほうが、道徳教育より、ずっとだいじである。

それにしても、島岡まなの主張はあまりにも乱暴である。


分科会会長の尾身茂は緊急事態宣言の記者会見で何を語ったか

2021-07-30 23:53:54 | 新型コロナウイルス

今晩、神奈川県・埼玉県・千葉県・大阪府の緊急事態宣言の発出と東京都・沖縄県の緊急事態宣言の延長に伴い、菅義偉と尾身茂の記者会見があった。

菅義偉は、会見中、つねにあたりをうかがっており、終わったら嬉しそうにいそいそと帰っていった。菅の発言は、責任逃れに終始し、ワクチン接種を進めている、重症化は抑えられており、新しい治療法も承認され、新型コロナの感染爆発は何も怖くないというものであった。新型コロナの感染爆発が怖くないなら、緊急事態宣言の発出や延長をする必要がない。この感染爆発を危機で早急に抑え込まなければ、ならないという認識がなく、いかに総理大臣の座を守るかに終始していた。

どうしようもなく人間がぼろい菅をおいておき、ここでは、分科会長の尾身茂の発言を追おう。

尾身は、これまでにない危機のなかに私たちがあるという。火事が燃え盛っているので消さないといけないという。どうすれば、感染拡大を下火にもっていけるか、わかっているのだと言う。人と接触しないことだという。普段会わない人と会わないことだという。

緊急事態を宣言しても効果がないのは、社会で危機が共有されていないことだという。みんな感染対策が重要だと思いながら、元の生活に戻りたいと思っている。複雑な気持ちでいるのだ。このようなとき、政府の発する言葉は重要だが、政府の行動が言葉と一致してないといけない。ワクチン接種、感染検査、医療体制に一生懸命に働いていないといけない。ちょっとでも心配なら、PCR検査・抗原検査が気楽にどこでも受けられるのでなければならない。ワクチン接種だけでは、現在の感染爆発は抑えられない。

欧米ではロックダウンをおこなっている。接触する人数を減らすために、一般市民に強力してもらために、強い法的規制が検討されないといけない。最低でも10人以上の人が集まってはいけない。上限を5人にするか2人にするかは、都道府県で決めてもらわないといけない。

その通りだと思う。いっぽうで、私は、きょうの尾身の発言だけでは、危機意識を社会に共有してもらうのは難しいと思う。菅は、尾身の発言と反対の方向を向いているからだ。

また、ワクチンがすぐに解決策にならないことを具体的に警告する必要がある。

きょうのTBSの『報道1930』で、新型コロナのデルタ株の基本再生産数が8~9であると言っていた。基本再生産数は、免疫も行動規制もない状態で、一人の感染者が周りの人のうち、何人に感染させるかという数字だ。8~9とはとてつもなく大きな数だ。

実際には感染が拡大すると、人は外出しなくなるので、この数が小さくなる。それを実効再生産数という。

ワクチンを接種推し進めるのは、保菌者が8~9人にうつしても、ほとんどの人が免疫をもてば、発症者が1人未満になるかもしれない。そうすれば、感染が下火になる。そのためには約90%の人が免疫をもたないといけない。菅が国民の4割がワクチン接種すればというのは全く根拠がない。

しかも、ワクチン接種をうければ、すべての人が免疫をもつわけではない。ファイザ社やモデルナ社のワクチンは緊急承認時に95%が免疫をもつとされた。しかし、デルタ株には約70%程度とも言われている。したがって、2回の接種では、デルタ株の新型コロナ感染の拡大を抑えられず、イスラエル政府は3回目に接種に踏み切った。

デルタ株に対しては、ワクチン接種とともに、国民の行動変容が依然として要求されている。したがって、総理大臣ともあろうものが、安全安心と国民に向かって言ってはいけない。そして、政府は、ワクチンの確保、供給体制の整備、感染検査の普及、医療体制の確保に、危機意識に支えられて、全力でとりくまないといけない。

医療体制の確保といっても、人材の育成は2,3年でできるものではないので、結局、感染しないための「行動変容」が、医療崩壊を防ぐのに、一番重要である。

人混みの中に出かければ感染のリスクを冒すことを徹底させる必要がある。混んだ公共交通機関の利用も感染のリスクを冒す。飲食だけが問題ではない。市中感染が起きていることを強調すべきである。


18世紀のワクチン接種論争

2021-07-29 22:37:53 | 新型コロナウイルス

今日の朝日新聞の文化蘭に面白い寄稿があった。隠岐さや香の『18世紀の予防接種論争』である。

予防接種とはワクチンのことである。隠岐さや香はつぎのように書く。

《18世紀のフランスでも予防接種論争があった。当時は天然痘の予防接種が試されつつあったが、致死率の高い危険なものだった(低く見積もっても200人に1人は死亡)。学者が賛成派と反対派に分かれて争った。》

昔のワクチンがこんなに危険なものとは知らなかった。

《賛成派には、統計モデルを用いて長期的にみて死者がどのくらい減るかを論じるものが現れた。》

「長期的」の意味は、短期的にみれば、健康な人がワクチンを受けるメリットがないということである。いま健康な人が、なぜワクチンを受けて200分の1の確率で死なないといけないのか、という問題があるのに、「統計」「長期的」にみれば、メリットがあると言ったのである。

これに対して反対派のダランベールがつぎのようにいった。

《「接種は国家にとって国民の人口の分だけ試せる賭けだが、個人にとっては1回しか試せない賭けである。何が起きるかが心配なのは非合理的な反応とは言えず、無理強いはできない」》

今も昔も、統治者の立場からすると、個々の人の命はどうでも良いのである。ダランベールは、統治される側に立って、反論したのだ。

なお、ダランベールは当時の数理物理のフランスの第1人者だが、古典解析力学のなかに名を残すだけで、科学史家以外、今では忘れられた人である。

それでも、ダランベールは、とってもまともなことを言ったのだ。

この寄稿はつぎで終わる。

《なお、フランスでは若き国王ルイ16世が学者の説得に従い接種を受け、高熱に苦しんだ。》

菅義偉は、「GOTOキャンペーン」「安全安心オリンピック」といって、「人流」を煽って、いま、史上最多の新型コロナ感染拡大を迎えている。その責任追及をのがれるために、新型コロナがたいした病気ではない、ワクチンがある、治療薬がある、と言いまくっている。ワクチンの安全性はこれから検証されるものである。治療薬も、入院を要しないインフルエンザの治療薬と異なり、入院して点滴で投薬されるものである。

政府は「安全安心」を言うのではなく、いまなお、感染の危険をいうべきである。きのうのTBS『報道19:30』で、コメンテーターの堤伸輔は「たしかに65歳以上の感染率は減っているが、その絶対数は増加している」と指摘した。65歳上の何パーセントがワクチン接種がすすんだか、自治体の自己申告であり、本当のことはわからない。たぶん、ワクチン不足とワクチン不信のこともあり、諸外国と同じく70%以上は進まないだろう。

[補遺]

天然痘ワクチンの確立者、エドワード・ジェンナーについて、ウィキペディア参照して書き記そう。

彼が8歳の子どもに、牛の天然痘(牛痘)を接種して、天然痘の予防効果があると示したのは、1796年である。上の18世紀の接種論争の半世紀前である。ジェンナーの開発したワクチンは安全であったのである。安全なワクチンを開発すれば良いのである。

私の子ども時代のジェンナーの伝記では自分の子どもに接種したとなっているが、ウソで、使用人の子どもを実験台に使ったのである。偉人伝は作家の作り話であることが多い。

さらに、ジェンナーの牛痘によるワクチンは、20世紀になって牛の天然痘ではないことがわかった。21世紀になって、遺伝子解析から馬のかかる天然痘のウイルスであることがわかった。ワクチンの難しさである。

 

[関連ブログ]


感染恐怖こそ究極の新型コロナ感染対策、そしてオリンピック中止

2021-07-28 22:22:10 | 新型コロナウイルス

いま、新型コロナ感染が急拡大している。東京都の新規感染者数は過去最多の3177人、神奈川県も過去最多の1051人、埼玉県も過去最多の870人、千葉県も過去最多の577人、全国の新規感染者数も1日9576人で過去最大である。

打つ手なしで、東京都が過去最多の2848人となった昨日、「いたずらに不安をあおらないでほしい」と、東京都福祉保健局長の吉村憲彦が報道各社に伝えた。

逆でしょう。人びとの感染恐怖で、「人流」がとまり、「三密」が避けられ、「マスク着用」を守り、公共交通の利用もへり、テレワークが進む。

これまで、緊急事態宣言の発出で感染が抑えられたのは、自治体による居酒屋の閉鎖よりも、国民の感染恐怖による自主的行動変容によるところが大きい。だから新型コロナの感染が拡大しても恐れるに値しないと言っていいはずはない。

東京都はエクモや人工心肺をつけている人だけを重症者といっているが、酸素呼吸器をつけている人、点滴による治療を受けている人びとがいま急拡大している。治療技術の進歩によって重症化が防げているが、感染拡大が急増すれば、このような医療を受けられない。治療を受けられなければ、重症化、死亡ということになる。また、多数の感染者が病院に押し寄せれば、心臓病や腎臓病や肝臓病などの患者に確立した通常の医療が行えなくなる。

感染の恐怖心からの行動変容が依然として重要なのだ。

打つ手がないと政府は言うが、打つ手はある。オリンピックの中止である。みんなの行動変容しかないという、政府の強い意思表示である。全国民に危機感を共有してもらうためには、恥を忍んでの政府によるオリンピック中止の決定しかない。新型コロナに感染しても安全安心と言っているようでは、感染がこのまま拡大して、医療崩壊が起きるしかない。


東京オリンピック開会式のショーが面白くなかったのはなぜか

2021-07-27 22:20:47 | 社会時評

7月23日の東京オリンピック開会式が、少しも面白そうでないので、私は整数論の問題を解くに専念し、ときどき、ちらっと見た程度である。

だいたい、スポーツの祭典のはずのオリッピク開会式で、選手やスポーツとなんの関係もないショーを、テレビ放映のためにやるのかわからない。開会式のショーは2008年の北京オリンピックからの悪い慣習ではないか。北京オリンピックのとき、中国政府は、自国の宣伝を目的に開会式に国民を動員して華々しいショーを全世界に配信した。これは、自国文化に対する中国政府のもつ劣等感の現われではないか。

東京都は、自民党・公明党政権は、開会式にショーをやって、何を世界に発信したいのか。大会の理念「多様性と調和」は何を言いたいのか、わからない。石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一、小池百合子、安倍晋三、森喜朗、武藤敏郎は何を考えているのか。だいたい、なぜ、元大蔵・財務事務次官の武藤敏郎が東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長をやるのだ。

この「多様性」は、小池百合子が都知事に立候補するとき、diversityとcityをかけて選挙公約を述べたことによる。diversity自体は、アメリカ社会が雑多なルーツをもつことを肯定的に捉えるときの標語である。いっぽう、小池百合子の公約は、東京を国際金融シティにするというものであった。diversityを「国際的」と勘違いしていたようだ。

東京オリンピックの理念は、小池百合子に受けるように、なんにも議論することなく、それに「調和」をくっつけたことのように感じる。「多様性と調和」では、「多様性」は対立・混乱を生むもので、「調和」をはからないといけない、と言っているようにも聞こえる。

アメリカ社会で言われている“diversity”は、国民を、無理やり、ピューリタン文化にさせるのではなく、異なる文化の存在をそのままで良いと肯定し、それこそがアメリカ社会の活力を生むという考えである。だからこそ、私は「調和」と組み合わされると、えッと思ってしまう。

開会式のショーが理念「多様性と調和」とどのような関係にあるのか、誰も語っていないように思える。

東京オリンピック関係者は、開会式のショーの目的が、それより、「素晴らしい日本」の宣伝であると考えたのではないか。それが、ゲーム音楽やアニメ音楽を多用したことと関係するのではないか。これは政府から要請で流しているNHKのクールジャパンの番組と同じ日本理解である。日本は、本当に、ゲームとアニメしか誇るものはないのだろうか。

日本は農地解放が成功している数少ない国である。小作農に地主の土地を細分して分配したのである。農地解放の偉業と農業協同組合を世界に伝えてよかったのではないか。

また、ソニーのトランジスターラジオの開発や、本田のバイクから自動車開発の転身など、日本が世界の産業の先端に躍り出たときの活力を思い返しても良かったのではないか。

ノーベル賞だって受賞者がたくさんでるようになった。

それに、軍事力で国際紛争を解決しないという憲法も世界に宣伝したらよかった。

日本の何を誇るのか、日本社会で議論すると面白かったと思う。

2012年のロンドン・オリンピックの開会式のショーは、英国が世界に先駆けて国民皆保険など福祉国家を実現したことをテーマにした。日本の平和主義も世界に誇れるものである。

立命館大学の上久保誠人は、開会式のショーが面白くなかった理由を、ショーの担当者の人選に求めている。開会式の楽曲担当の小山田圭吾、総演出の小林賢太郎など、「身体検査」が甘すぎたのではないかという批判があるが、上久保は「逆身体検査」のような人選を行っていたのではないか、と、つぎのように言う。

《人権侵害、人種差別、民族蔑視などに反対してきた人や、女性、LGBT、障がい者などの権利拡大に熱心に活動してきた人たちをむしろ「言動が危険な人物」として、クリエイターの候補者から外してきたのではないか》

すなわち、自公政権に反対しない無難な人を集めて、ショーを企画したのではないか、ということである。それでは、日本が誇るものはアニメとゲーム、オタク文化となる。安倍晋三夫婦を喜ばすだけだ。開会式には安倍のオトモダチ、吉本新喜劇まで出演していた。

それでは、農地解放、トランジスタラジオの開発、ノーベル受賞者、平和憲法を世界に発信しようとする発想なんて、ショー担当者からでてくるはずがない。