猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

宇野重規の『〈論壇時評〉戦争への想像力 平和主義の行方 どう語るか』

2023-08-31 23:30:56 | 戦争を考える

宇野重規が けさの朝日新聞の《論壇時評》に、『戦争への想像力 平和主義の行方 どう語るか』という見出しで、戦争の歯止めになってきた「戦争は嫌だ」という日本人の感情が希薄化したが、「国家の決定によって国民が死ぬということへの想像力は依然として重要である」と言う。

私より20歳も若い宇野の言い方は、どうも、控え目すぎて、若い人にはわかりにくいのではないか。

宇野は戦争をすべきでないと考えている。だから、みんなに、戦争とは何であるかの認識をもってもらって、こころから戦争に反対してほしいのだと思う。宇野は、中立ぶらず、ハッキリ言うべきである。

宇野は、論壇時評で、防衛研究所の高橋杉雄の指摘「戦争を防ぐためにも軍事の常識が重要である」をとりあげた。しかし、この「軍事の常識」とは何かについては、宇野は「軍事力は人を殺すもの」「一度使い始めるとなかなか止められない」としか引用していない。高橋は何を「軍事の常識」と言わんとしたのか、彼の著作『日本で軍事を語るということ──軍事分析入門』(小社刊)を読まないとわからないのだろう。宇野は文献として中央公論9月号をあげたが、これは、中央公論編集部による高橋のインタビュー記事である。

ネット上にあらわれたインタビュー記事を読むと、戦争は大量のお金と労力と人の死を要することを、高橋は軍事の常識と言いたいのだと思う。戦争は大量のお金と労力と人の死を要するから、戦争をはじめたら、戦果を挙げて相手を屈服させないと、政府は戦争をやめたと言えない。戦果はなかなか挙げられないから、戦争を終えられない。

高橋はミサイル攻撃の例を挙げている。ミサイル攻撃をかけても、建物を破壊するが、人はまだ生き残っている。相手国の政府が降伏するか、核兵器を使ってすべての人を殺さない限り、戦果を挙げたことにならない。核兵器を使わないなら、地上部隊に市街戦を行わせ、住民を皆殺しにするか、降伏した住民を別の土地に移送して、反撃能力を皆無にしなければならない。

「軍事の常識」とは、民間人からすれば、自分が殺されるか、自分の住む所を奪われるか、しかないということである。戦争は善意の人を不幸のどん底に突き落とす。

高橋は戦争に反対かどうかは言わないが、「軍事の常識」を覚悟して、国民は戦争を決断せよと言っているように思える。

宇野は「台湾有事」にも論壇時評で言及している。

「米外交政策の専門家であるハル・ブランズや、元航空自衛隊の尾上定正らが台湾の侵攻のリスクが高いと分析し、日本がそれに備えることを説くのに対し、エコノミストのリチャード・クーや台湾出身の劉彦甫らの分析は、有事に可能性についてははるかに慎重である。」

宇野は「双方の議論を検討することが大切である」と言うだけで、検討した結果、宇野はどう考えたかを言わない。宇野は逃げているのではないか。

「日本がそれに備える」とは何を言うのか。侵攻があったとき、日本はどう行動せよというのか。日本は中国と戦争をせよというのか、そのとき、アメリカは日本をバックアップするのか。日本国内のアメリカ軍の基地がミサイル攻撃を受けると想定しているのか。日本はアメリカ兵を守るべきなのか。

また「リスクが高い」と「はるかに慎重」とは具体的にどう違うのか。「慎重」の主語は中国なのか、それとも、リチャード・クーや劉彦甫らなのか。

今回の宇野の論壇時評は説明不足で、読み手に判断を求めるものとしては、私は不満である。


西垣通の『AIと私たち 本質を理解する』に異議あり

2023-08-29 22:13:21 | 脳とニューロンとコンピュータ

先週の金曜日、朝日新聞に、西垣通のインタビュー記事『AIと私たち 本質を理解する』が載った。副見出しは『人知の代わりにはなりません 日本の焦りに心配』だ。

西垣は「人知」という言葉を使っていない。「知性」と言っている。「知性の代わりに決してなりません」と言っているのである。

「知性」は「知識」とは異なる。知識を生んだり知的な判断をしたりする「脳の機能」のことである。

「代わりになる」かどうかは、何を「知性」というかによって、変わる。現状でも、部分的には「人の代わり」になるだろう。チャットGPTはAIが「物知りだけの人」の代わりになることを示した。しかし、「学習」で得られる「知性」は「知性」のほんの一部である。

私は、ヒトの知性とは何か、どのようにしてヒトの知性がはたらくのか、などを研究する上で、AIの研究は役にたつと考える。AIの研究から得た知見は人類共有の財産であり、公開すべきと考える。

ところが、西垣のいうように、日本政府はAIで金儲けをすることを考えて焦っている。金儲けするのは企業であり、政府が企業の金儲けを助けるべきでない。それより、企業や政府のAIの利用が暴走して、善意の個人を騙したり、抑圧したりしないよう、法整備を図るべきである。

西垣の主張の心配なところは、「その際に本質を理解することです」と言いながら、いつのまにか、「東洋的世界観」と「西洋的世界観」との違いの話に すり変わっていることだ。科学の話がオカルトになっている。

西垣はつぎのように言う。

「神の創った宇宙には本来、論理的な秩序がある。その有様を正しく認知することが真理の獲得だというのが、西洋の伝統的な考え方です」

こんなのまったくのウソ。西洋の伝統的な考え方ではない。

ヨーロッパから始まった近代の科学は神の否定、神からの解放であった。「神の創った宇宙」を信じる人々はアメリカにいまだ居るが、「科学」を否定する側に立っている。近代の科学は、ヒトもマウスもおなじ生き物と考え、ヒトを特別視しない。

AIは科学である。「ヒトの知性とは何か」の挑戦から生まれた。ヒトの知性を機械で再現しようという試みが間違っているとは私は思わない。

科学に宗教の話を持ち出すべきでない。西洋、東洋という話しを持ち出すべきでない。

西垣の言う「西洋的世界観では、要素の論理的組み合わせとして対象を分析しますが、東洋的世界では、要素同士が互いに関連し、共鳴し合うと考える」も誤った戯言。科学はあくまで仮説のあつまりで、それぞれの科学者個人がそれぞれの立場から、「より確からしい真理」を求めて研究している。西洋とか東洋とかで「真理」が異なるなら、それは「真理」でない。

なぜ、西垣は間違った考えをもつにいたったのか。

明治維新以降、日本は欧米の文化を急速に取り入れた。そのとき、あきらかな文明の遅れを前にして、知識人の多くに劣等感という心の傷を負わした。82年前、日本はアメリカに開戦したとき、多くの知識人が「東洋が西洋に戦う」と歓喜した。当時の日本の知識人の多くが劣等感にまみれ知性が足りなかった。そのときの愚かな集団記憶がまだ残っていて、西垣の妄想を生んだと思う。

日本で育った科学者がノーベル賞をとり、数学者がフィールズ賞をとる時代になったのだから、もう、劣等感を持つ必要がない。コスモポリタンのひとりとして自分の頭で科学を考えよう。


福島放射能汚染水の海洋放出に抗議する中国人は正常である

2023-08-27 23:19:21 | 原発を考える

テレビを聞いていると、日本政府と東電が放射能汚染水を海洋放出していることを抗議している中国人を、日本政府が抗議するという、不思議なことが起きている。「聞いている」のは、私はテレビを背にして食卓に座っているからだが、「見ている」より客観的に問題をとらえられる。

テレビは、中国人が抗議することを「科学的」でないと非難している。私は、本来、日本人が海洋放出の日本政府を抗議すべきであるのに、日本人があまりにもおとなしいから、中国人が日本人に代わって抗議してくれている、と感謝している。

海洋は人類みんなの財産である。海はすべてつながっている。そこに、わざわざ、薄めてまで放射能汚染水を捨てる必要があるのか。日本政府が海洋に捨てることを国策として推し進めると、これから海洋に放射能汚染物質を捨てる他国を非難できなくなるではないか。薄めれば捨てて良いなどということを許してはならない。日本人は日本政府や東電を非難して実力行動をとるべきである。

    ☆          ☆          ☆          ☆          ☆          ☆          ☆

東電の計画では、ALPS処理水を海水で約100倍に薄めて、トリチウム濃度1500Bq/リットルで海洋に放出するとなっている。いっぽう、きょうの薄められた放出水は、トリチウム濃度は200Bq /リットルだという。

東電のホームページには、きょうのALPS処理水の移送流量19m³/h、薄めに使った海水移送流量が15260m³/hだと公表している。すなわち、803倍に薄めて海洋放出したのであるだから、計画よりトリチウム濃度が低くて当然。しかし、これからも、ずっと、そうするのだろうか。

だが、トリチウム200Bq/リットルでも、EUの飲料水の許容濃度100Bq/リットルの2倍である。中国人が海洋放出を抗議するのは無理もない。

テレビでは、付近の海洋でトリチウムがほとんど検出できなかった、と言っている。

これは、陸から1000メートル離れた地点の海の表層に薄めたALPS処理水を放出し、計測しているのは陸から3000メートル以内の10箇所であるからだ。水の拡散スピードはとっても遅いから、場所が異なれば検出できないのは当たり前である。放出水はほとんど拡散せずに、潮流にのって流れていく。私の直観では、宮城県沖の親潮と黒潮がぶつかる地点にこれから溜まっていくのではと思っている。

なにか、東電と日本政府は意図的に国民を欺こうとしているように思える。どうして、日本人は立ち上がって抗議しないのだろう。

[追記]

8月28日、きょうも、テレビでは、中国人の海洋放出を反日運動だとしている。これは誤りである。薄めても海洋に汚染水を放出してはならない。放出する放射能物質の総量は薄めても変わらないからである。

また、環境庁の調査結果、トリチウムが検出できなかったと報道している。環境庁は30kmないの10か所で調査したという。拡散のスピードは遅いから、きょう、あすでは、放出口から離れたところで検出できるはずはない。

とりあえずは、汚染水がかたまりのまま、潮流にのって移動しているだけである。しかし、今後、50年も60年も毎日毎日休みなく大量に汚染水を放出すれば、巨大な汚染水のかたまりが どこかに 生じるだろう。

同じ現象が大気放出でも起きる。

2011年の福島第1原発事故で、放射能汚染の空気の塊が拡散せず、風船のように関東、東北に流れた。偶然、それに遭遇して、原因不明の病気とされた人もいたのではないかと思う。とくに、事故直後には、半減期の長いセシウムやヨウ素でなく、半減期が短い核種の放射能気体が最初に大量に放出される。メディアはこれに言及しないが、とても危険である。事故直後すぐは、屋内にいて、この放射能汚染の空気の塊をやり過ごした方が良いと、当時、原子力の専門家から注意を受けた記憶がある。


「あきらめること」が「人間になる」ことなのか、斎藤環・与那覇潤を批判

2023-08-26 18:49:43 | こころ

双極性障害になると、躁とうつとを繰り返す。苦しいのはうつだけでない。躁状態になると自分を止めることができなくなり、気づいたときは疲れ果てた状態の自分を見いだし、一気にうつに落ち込む。

5,6年前に、放課後デイサービス利用の親との面談で、自分の凄惨な双極性障害の体験を書いた本をもらい、私は、双極性障害というものの苦しみをはじめて理解した。そして2,3年前から、私の担当のうつの子(20歳すぎ)も双極性障害を示すようになった。幸いに、どちらも、双極性障害の症状が、薬でコントロールできている。

   ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆

斎藤環と与那覇潤は『心を病んだらいけないの?』(新潮選書)で、「あきらめ」が人間になるために必要であると語っている。私は必要とは思わないが、双極性障害を体験している彼らがそう思うのも無理もないとも思う。

与那覇〈1998年の『社会的引きこもり』ではひきこもり脱却のカギとして、適度なあきらめが大事だと書かれていますよね。〉

斎藤〈自己肯定感を伴う適切なレベルのあきらめが回復には必要なんです。〉

ここまでは、「あ、そう」とも言える。

ところが、ふたりは戦後民主主義や日教組や岩波書店や朝日新聞の非難をしはじめる。

与那覇〈戦後日本は政治的には自民党の家父長主義が主流で、しかし文化的にはある時期まで圧倒的に左派が優位でした。岩波書店や朝日新聞が権威を持ち、学校の教員にも熱心な左翼活動家が多かった。結果として「お前らはその程度だ、あきらめろ」「いや、あきらめるな」と二重の声が聞こえてくる、ダブルバインド的な状況に日本人が置かれてきた〉

斎藤〈「社会的ひきこもり」で指摘したのは、ある意味身でダブルスタンダードの問題で、口では「無限の可能性」を言いながら一方で「協調第一主義」によって支配する教育が強すぎた〉

こうなると、私はほっと置くわけにいかない。私は戦後生まれである。その私より彼らはずっと若い。斎藤は14歳若い。与那覇は22歳若い。彼らが戦後民主主義がどんなものかわかっていない。彼らが初等教育を受けたときは、日教組はすでに日本政府の前に政治的には負けている。また、岩波書店や朝日新聞が偏向していて「去勢」を否認させたと思えない。

だいたい、あきらめることが成熟にそんなにだいじなのか。それよりも、自分の「好き」をだいじにして、ちょっとした障害にくじけず、成長し続けることではないか。

   ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆

斎藤環はもともとオカシイ。斎藤環は『社会的ひきこもり―終わらない思春期』(PHP新書)では、つぎのように書いている。

〈精神分析において「ペニス」は「万能であること」の象徴とされます。しかし子どもは、成長とともに、さまざまな他人との関りを通じて、「自分が万能ではないこと」を受け入れなければなりません。この「万能であることをあきらめる」と言うことを、精神分析家は「去勢」と呼ぶのです。〉

「万能感」で突っ走ることは、普通ではありえなく、病的な躁状態である。「万能感」をあきらめることで、普通は悩みを解決できない。

引きこもりの子の多くは劣等感で悩んでおり、周囲に「承認」を求めている。引きこもることで、イジメられなくなっているにかかわらず、自分が肯定できず、苦しんでいる。

私は、彼らを承認するようにしている。周りが「あなたは悪くない、そのままでいいのだよ」と承認することがだいじだと考える。

つづけて斎藤環は書く。

〈(学校には)明らかに二面性があります。「平等」「多数決」「個性」が重視される「均質化」の局面と、「内申書」と「偏差値」が重視される「差異化」の局面です。子どもはあらゆる意味で集団として均質化され、その均質性を前提として差異化がなされます。〉

「個性」の重視が「均質化」でないことは明らかであろう。「平等」は、宇野重規が言うように「民主主義」の基本であり、すべての人が対等であることだ。「平等」と「均質化」とはむすびつかない。「多数決」は確かに多数が少数を抑圧するという側面があるが、政治的決着の便宜的なつけ方で、これが本当に正しいとするのは自民党ぐらいではないだろうか。

「偏差値」は、単一の価値基準のもとの競争結果の評価手段である。「個性」を重視するなら、単一の価値基準はあるはずがなく、「偏差値」もありえない。いわゆる知能テストのIQも偏差値であり、そんなものでお金を得る業者は社会から駆除すべきだと日ごろから私は思っている。

「均質化」「差異化」は自民党政権がもたらした弊害であり、そのことで、左翼や日教組や岩波書店や朝日新聞が責められるいわれがない。

はっきり言おう。斎藤も与那覇も頭がいかれている。

   ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆

左翼とはあらゆる権威、人が人を支配することを拒否することである。私が子ども時代、日本の敗戦によって、あらゆる権威が崩れ、自由がいっぱいあった。60年代の終わりの学生の反乱は、戦後が終わりを迎え、自由が狭まったことに対する反抗であった。それは、当時、日本だけでなく、全世界の若者が思ったことである。

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メジャーリーガの大谷翔平の靱帯損傷は防げなかったか

2023-08-25 11:44:10 | 働くこと、生きるということ

きのう、メジャーリーガの大谷翔平は、ダブルヘッダー第1試合に投手兼DHで出場し、わずか26球なげたところで交代した。試合後の検査で、右肘の靱帯損傷がわかった。

私は、大谷の過労による故障から、過労死の問題を連想した。

けさのテレビでは、なぜ、監督が大谷を適度に休ませ、故障を防げなかったに、話が集中された。そのなかで、ひとり、誰だったか覚えていないが、アメリカ社会では故障の大谷個人の責任も問われるだろうと言った。大谷は非常に体調管理に厳しく、あらゆる享楽や友人関係を拒否していたように見える。

むずかしい問題である。

斎藤環・與那覇潤の対談集『心を病んだらいけないの?』(新潮選書)のなかで、日本人のあいだで「承認は職場で仕事を通じて得るものだと、する発想がまだ根強い」と与那覇が問題提起している。いっぽうで、彼は、「勤勉だとされる日本人がその実、潜在的には自分の仕事を憎みだしている」「今日の平均的な日本人にとって、理想のライフスタイルは『働かないで稼ぐ』ことなのでは」と指摘している。

私も、去年「働かないで稼ぐ」という宣伝ビラが東急の電車内で見て、驚いた。資産活用の宣伝である。多数の日本人にとって、「仕事」とは、与那覇のいう通りなのだろう。だからこそ、メディアは、そのアンチである、修行僧のような大谷を称賛したのであろう。

私も、40年以上前、自分の作ったプログラムが市場に売り出されるというので、ひと夏、その仕上げに一人で専念した。無事、日本の市場に売り出されたが、その秋、坐骨神経痛で、足が痺れ歩けない状態になり、1カ月以上、会社を休んだ。上司から病欠でなく有給休暇を出せと言われた。

大谷はトミー・ジョーン手術を受ければ、少なくとも1年は復帰できない、投げれるまでに2,3年はかかるのではないか、という。

問題は、大谷は好きなことをして、故障したということである。それが、個人の責任と言えるかである。あるいは、監督の責任と言えるかである。

大谷は、周りからのヒーロー視に毒されていたとみることができる。誰にもできない努力をして結果をだすことに快楽をみいだしたのは、それが、大谷の承認欲求を満たしたからと考えられる。メディアは、毎日毎日、大谷と騒いでいたが、それに、今回の故障の責任があると思う。

人は、躁状態に陥ったとき、倒れるまで、走り続ける。倒れるまで走ったことを称賛するのではなく、倒れるまえに休むよう説得することが必要である。