猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

安倍晋三とその信者の研究――その7、戦後70年安倍談話

2019-07-31 22:45:38 | 安倍晋三批判


4年前の8月14日、終戦70年を迎えるにあたり、安倍晋三は、閣議決定のうえ、内閣総理大臣談話を出した。

いま読むと、構成もよいし、情感あふれる名文である。しかし、本当のことではなく、聞いて心地の良いことを言っているだけだ。ここに、安倍晋三に騙される人たちの出てくる要因がある。

安倍晋三の話を注意深く聞くか、彼の行ったことで検証しないといけない。

談話は29の段落からなる。

書き出しの第1段落は次である。

《 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。》

非常にまっとうなことを言っている。しかし、「心静かに」という語句が、安倍晋三の巧妙さを表わしている。「振り返り」だけで充分なのに、この語句を付け加えることによって、聞き手の心に、自己の正当性を訴えている。

この後、第2段落から第10段落までが「先の大戦への道のり」の振り返りである。第2段落から第4段落の初めまでは、日本が欧米による植民地政策に抗し、アジアやアフリカのヒーローのようにも読めるが、現実の歴史は異なる。

日本は、1895年に台湾を植民地化し、1910年に韓国を植民地化し、1932年に中国北部を「満州国」と称して植民地化した。

第1次世界大戦では、中国のドイツ領を占領し、戦後、日本領土にしようとしたが、欧米から非難され、手放した。

1917年のロシア革命にともなう内乱では、日本は欧米とともに白軍(反革命)支援の名目でシベリアに派兵し、シベリア南部を占領しようとしたが、失敗に終わった。

この時代の日本は欧米による植民地政策に抗したというよりも、欧米の領土拡張競争に加わったという方が適切である。

第4段落では、1931年の「世界恐慌」にともなう「経済のブロック化」によって「日本経済は大きな打撃」を受け、「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しよう」とした、と歴史を振り返る。

これは、経済的に追い詰められたから武力をふるったような表現だが、米国との戦争の直接的な理由は、1928年に始まる日本の中国侵略を米国にたしなめられ、1941年に日本側から米国に開戦したものである。

第11段落は次のように、戦争の時代を総括する。

《 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。》

これも不思議な表現で、「尊い犠牲」とは何のことを言っているのかわからない。第7段落から第10段落にかけて、それを定義しているつもりだろうが、具体的に何を言っているのかわからない。

第9段落は
《 戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。》
で閉じるが、誰が何のために「傷つけた」のかが書かれていない。

第10段落は
《 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。》
で始まるから、「傷つけた」のは「我が国」とも読める。しかし、「苛烈なものです」がすぐ後に続くので、「戦争が悪い」という感傷で終わる。

すると、「尊い犠牲」とは、「戦争は苛烈なものです」という認識を共有するためのものになってしまう。そんなことのために、みんなが死ななければならないのか、兵士の性欲を満たすために膣を捧げなければいけないのか、あまりにも馬鹿げている。腹だたしい。

第12段落から第29段落からは、日本の決意を述べたものである。

このなかで、注目すべきは、第17、18段落と、第19~22段落、第23段落である。

第17段落はつぎのように適切なことを言っている。

《 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。》

それなのに、安倍政権は、現在、韓国の慰安婦や支援者が慰安婦像をつくったことで、韓国政府を非難し、また、徴用工やその支援者が裁判所に賠償を訴えたことで、韓国政府を非難する。「辛い記憶は癒えることない」のだから、日韓政府の争い事項にしてはならないのである。

第19~22段落では、日本から損害や苦しみを受けた人々から、戦後、日本が「寛容な」扱いを受けてきた、という事実を語っている。ならば、韓国国民にたいして、日本政府も寛容な態度を取れないのか。

慰安婦像を日本大使館前に立てたって いいじゃないか。「癒えることのない辛い記憶」が、それで、少しでも軽くなれば、すばらしいことではないか。

韓国の最高裁で賠償の判決が出たのだから、訴えられた日本企業が賠償金を払うことを日本政府が邪魔しなくたって いいじゃないか。

「辛い記憶」は「新しい喜び」によってのみ風化していくのである。

第23段落は次である。

《 あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。》

そうなら、戦争の記憶を引き継いだ「私たち」は、歴史を書き換えることなく、「癒えることのない辛い記憶」の人々に、「寛容なこころ」で向き合って、争わないことがだいじではないか。

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次の官邸のウェブサイトで、戦後70年安倍談話は、いつでも読める。
 https://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html

「国」という漢字が嫌い、「国家」という語はもっと嫌い

2019-07-30 22:46:56 | 国家


安倍晋三は、「国に自信をもて」「国に誇りをもて」という。彼のいう「国」とは何か、何に自信をもてというのか、何を誇りとするのか、彼の著作『新しい国へ――美しい国へ完全版』を読んでも わからない。

よくわからないのに、「大義に殉ぜよ」という。

第一、私は「国」という漢字が好きでない。戦後、「國」から「国」に字体が変えられた。この事実を子供のとき知ったが、「口」の中にどうして「玉」と書くのか、いまでも納得いかないままである。戦後の国語教育改革で、王党派による陰謀があったのではないか。

私の学生時代は、みんなは「国」という字体を使わず、「口」の中に「ヽ」を書いた略字を使っていた。

それに、もともとの日本語の「くに」とは、自分の生まれた土地、すなわち、自然をいい、「国家」という意味はなかった。英語の“country”に近い。したがって、「くに」に「邦」の漢字をあてた。「國(こく)」には、縄張りの争いのイメージがあり、「戦國時代」にぴったり合う。

トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』では、「国家」にあたる英語として、 “COMMON-WEALTH”や“STATE”を、または、ラテン語の“CIVITAS”(キウィタス)を使う。プラトンの『国家』は、原語では“πολιτεία”(ポリテイア)である。英語に翻訳されると“The Republic”となる。いずれにせよ、日本語の「国家」とイメージが大きく異なる。

英語の”common wealth”や“state”や“republic”やラテン語の“civitas”の訳に、明治時代に、なぜ「國家」を当てたのか、わからない。「國家」の「家」は、もともと王朝を意味する。ホッブズは、「多数の人間が、約束にもとづき、一体となって意志をもつもの」を”common wealth”と定義する。

ホッブズは17世紀の人である。明治は19世紀の後半である。安倍晋三は「国誇りをもて」というが、どうして、日本のような文化的後進国に誇りがもてるのか。誇りは自分にもつので十分である。

先日、安倍と付き合う吉本興業の岡村社長は、自分と所属芸人の関係は「親子」の関係だと言った。17世紀のホッブズは、人間は対等、同じ能力をもっている、という。21世紀の岡本社長は、自分と6000人の芸人は親子という。そこには「対等」という概念がない。
首相が情けないバカであれば、まわりに集まるものもバカである。

戦争の文脈で聖書の「殺すなかれ」はどう理解すべきか

2019-07-29 11:45:42 | 戦争を考える


聖書の「殺すなかれ」の理解に、2つの立場がある。絶対的に殺してはならないと、条件つきでの殺してならないと、である。

第2次大戦中、日本の「灯台社」(現在のエホバの証人)の信者らは、戦争で人を殺すこと、銃をにぎることを拒否した。灯台社の信者らや指導者は、当時の日本政府により1939年に一斉に逮捕され、敗戦後の1945年10月まで釈放されなかった。指導者の明石順三と同時に逮捕された妻、明石静栄は1944年に獄死している。

他の多くのキリスト教会も、「人を殺すなかれ」の立場から、戦争に反対した、と私は長らく思っていたので、灯台社が例外的であることを知ったとき、驚いた。国家が人殺しを命令する戦争に反対しない教会がなぜ多かったのか、納得いかなかった。

私は、キリスト教の信仰に、「殺すなかれ」を絶対的に殺してはならないと理解する立場と、条件つきでの殺してならないと理解する立場があるのでは、と疑うようになった。さらに、この立場の相違は、現在のキリスト教の聖典に旧約聖書と新約聖書とがあることに起因する、とも考えるようになった。

旧約聖書とは、イエスの出現の以前にあった、エルサレムの祭司が聖典としていた書物である。日本で「律法」と呼ばれるものは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のモーセの5書をさし、旧約聖書の重要な一部をなす。

旧約聖書では、条件によっては、人を殺しても良いのである。神を冒涜するもの、神に従わないもの、占いをするもの、まじないをするもの、姦淫するもの、隣人から盗みをするもの、安息日に働くもの、などなどは殺さなければならないとする。

旧約聖書は世俗的権力の一翼を担う祭司階級によって編集されたと現在は考えられている。統治者は、対外的には戦争を行って人を殺し土地を収奪するし、対内的には権力に逆らう者を殺害したり拷問したりする。そうする必要があると考えた人たちが編集した旧約聖書は、当然、条件つきの「殺すなかれ」となる。戦争する権利、人を殺す権利を主張する。

新約聖書は、イエスの行いと言葉を記す4つの福音書、イエスの使徒の行いと言葉を記す使徒行伝、イエスの弟子たちが記したと考えられる手紙、黙示文学からなる。

新約聖書で描かれる、下層階級のイエスや使徒たちは、権力者をののしり、安息日にまじないで病人を治そうとするから、旧約聖書の立場の人たち、すなわちエレサレムの祭司たちや統治者からは、殺害しなければならない対象になる。このことは、4つの福音書と使徒行伝に共通して繰り返し記述されている。

したがって、新約聖書の「殺すなかれ」は、絶対的な「殺すなかれ」である。

田川建三は『書物としての新約聖書』(勁草書房)の中で、新約聖書が旧約聖書を引用するのは、イエスの出現と死が予言されたものであることを示すためにだけだ、と指摘している。すなわち、イエスや使徒たちは、旧約聖書が自分たちが守るべき掟の集まりとは考えていなかった。

コリント教会の信徒へのパウロの手紙2(コリント書2)の3章6節に「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(口語訳)とある。
ここでの「文字」は、元の新約聖書では、ギリシア語γράμμα(グラマ)と書かれており、正しくは「書物」あるいは「証書」と訳すべきである。4つの福音書とも強烈に批判する「律法学者」はγραμματεύς(グラマテウス)の日本語訳であり、γράμμαを語源とする。したがって、「文字」ではなく、「律法」すなわち「モーセの5書」に仕えることをパウロは批判しているのである。

さらに、田川建三は、この節を言葉どおり、パウロが書物に頼るな、聖典をもつなと言っている、と読み取る。

新約聖書が聖典とされたおかげで、イエスや使徒がどのように考えて生きたか、死んだか、が今わかる。それで、聖典を持ったこと自体を非難しないが、旧約聖書を聖典としてありがたがるのはやめた方が良いと思う。

「異端者」を焼き殺したのも、「魔女」を焼き殺したのも、国家が起こす戦争に若者を追いやったのも、旧約聖書を倫理規範として読むことに起因する。神父や牧師は、イエスや使徒のように、「律法」の誤りを教会で述べるべきである。さらに、新約聖書も旧約聖書も文学書として読むことを勧めるべきである。

感傷的に戦争を振り返る、あるいは振り返りもしないテレビ

2019-07-29 11:17:22 | 戦争を考える


つぎは4年前に書いたブログ『感傷的に戦争を振り返るテレビ、「軍神」や「特攻隊」』である。もしかしたら、今年、テレビは戦争を振り返りも しないかも しれない。

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暑くなり、8月を迎えるようになると、例年、日本陸軍の関東軍や日本政府の起こした戦争を感傷的に振り返るテレビ番組が多くなる。「軍神」や「特攻隊」の感傷的賛美が始まる。理性的になって、戦争とは何で、どうして起きたのか、振り返る必要がある。

その前に私も感傷的になって言わしてもらえば、私の母の実家は、戦前のことだが、戦争を讃美しなかったため、近くの神社の目の敵とされ、祭りのたびに、神主が先頭に立ち、祭りの神輿を引き連れて、家を壊しに来た。
私の父は、兄が母の胎内にいるとき、赤紙で徴集され、関東軍の一員として、中国戦線に送られた。当時の徴兵は、20歳になった若者だけが駆り出されるのではなく、父のように兵役が終わって市民生活を送っていた者までも、戦場に送られるのである。戦地で人を殺すのも殺されるのも嫌だった父は、出世と関係なく万年二等兵で、殴られっぱなしだった。戦後、一年以上して、負傷兵として、中国から日本に帰還した。
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さて、先日の『時事小言』で藤原帰一は、「第2次世界大戦」と言わず、「日中戦争、そして太平洋戦争」と書いていた。日中戦争とは1937年9月の「支那事変」を指す。当時は「戦争」と言わず、「事変」と言った。戦争をしていることを隠していたのである。日本の軍隊に逆らうから自衛のため武器を使用していただけだが、当時の政府の見解である。日本兵も中国の兵も民間人も「事変」で死んだ。
父は、誰を殺したとは言わなかったが、戦争の前線に物資の補給はなく、食べ物を求め、民家を壊して、隠している食べ物を奪っていたと言う。父は日本兵として集団で強盗をしていたわけである。強盗殺人もあったのではないかと私は思っている。
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半藤一利は『昭和史1926-1945』で、戦争の始まりを1928年6月4日の張作霖爆殺事件におく。これは日本陸軍の関東軍参謀の河本大作大佐の暴走であったという。当時の首相は、天皇からの質問に、シラをきってごまかしたという。よくわからないのは、日本政府が、関東軍の暴走を放置し、やりたいようにやらしたことである。これは、日本の陸軍の統制がきかないということであり、明治憲法に定める、天皇が軍を統帥するというのが、無視されていたことになる。1931年9月18日に「満州事変」が始まるというが、実質的な中国東北部への侵略は、張作霖爆殺事件に始まる。

日本の陸軍が中国侵略を始めるのは、ヒトラーが政権を握る1933年より前である。日本政府が中国と戦争していることを認めた1937年(「支那事変」)でさえ、ヒトラーがポーランドに侵略する1939年の前である。

半藤一利によれば、日本軍の中国からの撤退を米国政府が求めたとき、経済封鎖になる前に反撃をと、日本政府が1941年12月8日ハワイの軍港に奇襲攻撃したことが、太平洋戦争の発端であるという。
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丸山眞男は、戦後、1946年からの東京裁判の戦犯を含め、誰も自ら戦争を起こしたとは言わないことを問題として指摘する。日本陸軍、日本海軍は、組織的に、敗戦の1945年8月25日から、あらゆる資料を焼却した。資料を償却するとは、戦争犯罪に関与していたことを自ら認めている行為なのに、戦争を起こしたのは自分でないとするのは、明らかに卑怯者である。
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戦前の日本政府および日本軍の歴史的責任に無自覚な、現在の政権担当者に懸念を感じるとともに、メディアでの感傷的な戦争の取り扱いをやめて欲しい。「軍神」とは軍官僚がでっち上げた概念であり、日本古来の「神」とは全く異なるものである。「特攻隊」とは、敗け戦の中で軍官僚が考え出した、「自爆テロ」で、「特攻隊」の隊長も20歳そこそこで、若者見殺しの作戦である。

単一の意志をもって動く人間集団の怪物リヴァイアサン

2019-07-28 17:15:53 | 国家

リヴァイアサン(Leviathan)は、旧約聖書(ヨブ記3章8節、40章25、27、29節、詩編74編14節、104編26節、イザヤ書27章1節)に登場する水陸の怪物レビヤタンのことである。

ところが、17世紀のイギリスの法哲学者トマス・ホッブズは、ひとびとが集まって1つの意志をもつ「人工の人間」のようになる、COMMON-WEALTHあるいはSTATEのことをリヴァイアサンと呼んだ。

上の図は、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の扉絵の部分で、ひとりひとりのヒトが怪物レビヤタンの鱗をなしている。

安倍晋三も豊永郁子もこのホッブズの『リヴァイアサン』を引用しているが、それが大きく違う。

安倍晋三は『新しい国へ――美しい国へ完全版』(文春文庫)の第4章で次のように書く。

《 『リヴァイアサン』には次のような1節がある。

 人間は生まれつき自己中心的で、その行動は欲望に支配されている。人間社会がジャングルのような世界であれば、万人の自然の権利である私利私欲が激突しあい、破壊的な結末しか生まない。そんな「自然状態」のなかの人間の人生は、孤独で、貧しく、卑劣で、残酷で、短いものになる。だから人々は、互いに暴力をふるう権利を放棄するという契約に同意するだろう。しかし、そうした緊張状態では、誰かがいったん破れば、また元の自然状態に逆戻りしかねない。人間社会を平和で、安定したものにするには、その契約のなかに絶対権力を持つ怪物、リヴァイアサンが必要なのだ。

 ロバート・ケーガンは、このリヴァイアサンこそがアメリカの役割であり、そのためには力をもたなくてはならないという。そして力の行使をけっして畏れてはならない。》

最初の行「『リヴァイアサン』には次のような1節がある」は、安倍の記憶違いだろう。続く段落の節は、『リヴァイアサン』にない。多分、ネオコンのロバート・ケーガンが『リヴァイアサン』を要約したものを、安倍が書き抜いたのだろう。

17世紀のホッブズは、国のことをCOMMON-WEALTHあるいはSTATEを書く。王国( Kingdom)と書きたくなかったからだ。一人の人が権力を握るのではなく、人間の集団が1つの意志をもち行動する人工の人間(artificial man)を怪物というのである。

いっぽう、豊永郁子は、去年の11月7日の朝日新聞〈政治季評〉に次のように書く。

《このように社会と国家に先行し、社会契約を生む「万人の万人に対する闘争」を、ホッブズは一貫して強者を諫める観点から、つまり強者に恐れを抱かせ、生存のために社会契約を受け入れさせるものとして論じている。自然状態では、強者の支配はすぐに覆され、強者は天寿を全うできず、強者が常に勝つとも限らない。つまり、それは「弱肉強食」の状態ではないのである。

 むしろ人間が平等だから、そして人間同士の欲求が競合するから、「万人の万人に対する闘争」は起こる。平等だから決着もつかず、「闘争」は永遠に続く。ここでホッブズが言う平等は、人間の総合的な能力の平等である。つまり、人間の間には大した能力の差はないということだ。

 これには驚かされる。規範として、希望として、平等を論じる思想は多数あっても、事実としての平等を告げる思想は稀(まれ)だ。さらにホッブズは、「最も弱い者が最も強い者を殺すことができる」ことを、人間のそうした平等の根拠とする。ギョッとするが、そうかもしれない。ホッブズが好んで引く旧約聖書では、少年が大男を倒し、か弱い女性が英雄を滅ぼす。これらは勇気や奸智(かんち)の物語である以前に、人間の平等を伝える物語であったのだろう。

 要するに、ホッブズはこう言っているようである。「弱者と強者は平等であり、強者は弱者をなめてはいけない」。これは「弱肉強食」の主張を封じ、弱者に尊厳を取り戻す論に他ならない。》

私は、豊永の「弱者と強者は平等であり、強者は弱者をなめてはいけない」に共鳴する。

しかし、国家が1つの意志をもって行動することは、ホッブズの言うように、やはり、怪物ではないか、と思う。