猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

精子の減少や奇形はNHKの人類の進化か、BBCの内分泌かく乱物質によるか

2022-02-14 23:17:24 | 自然環境

きのうの夜遅く、NHK ETVとBBC World Newsとが、同じできごとにまったく異なる説明をしていた。男性の精液の精子の数が減ってきた、奇形の精子がの割合が増えたという全世界的現象についてである。

午後11時半からのNHKのサイエンスZEROは、その現象はホルモンの分泌が変化してきたからだと言う。人類に起きている体や心の性差が縮まる「中性化」は進化の流れで、変えることができないという。進化の過程で、男性に特徴的な目の上の額のもりあがりもしだいになくなってきたのと同じだと言う。手の指も、男では人差し指より中指がずっと長かったのが、人差し指がどんどん長くなっていると言う。

スペシャルナビゲータの井上咲楽が「私は男っぽい性格だが、確かに私の手の中指は人差し指より長い」といって、みんなを笑わせていた。

人類が中性化で、どんどん子づくりをしなくなり、人類は滅亡の危機にひんするという井上の心配に対し、ISP細胞から精子や卵細胞をつくったり、人工子宮で受精卵を育てたりする、男と女によらない「新たな生殖の仕組み」を作り出そうという研究も始まっていると答えていた。

ジェンダは生物学的性の問題ではなく、文化の問題だという立場からすると、暴力的であることが男だという番組の雰囲気は、我慢がならないものであった。井上が素朴にしゃべっているというより、番組プロデューサーやディレクターが脚本を書いてしゃっべているのだから、番組の発言の責任はNHK側にある。

午前0時10分からの BBC “Why Plastic? “シリーズの “We The Guinea Pigs”をみた。日本語への翻訳がなく聞き間違いもあるかもしれないが、プラスティックが「内分泌かく乱物質」と働いて、精子の減少、奇形を招いているというものである。海外の研究についてはBBCはNHKと同じ映像を用いていた。

guinea pigとは日本語のモルモットのことである。種としてはネズミの仲間だが、顔が豚のような雰囲気だから英語でそういう。人類は「内分泌かく乱物質」の実験動物になっているというのが、タイトルの意味である。

プラスティックとは、いろいろな用途に使われる形の成型が容易な石油系の人工物質であり、加工目的から色々な化合物が添加されている。

ビスフェノールA、PBCフェノール、フタル酸エステルなどが女性ホルモンのエストラゲンと同様な働きをしているという。海洋にプラスティックのゴミがさまよい、砕かれて微粒子となって海洋生物が「内分泌かく乱物質」を吸収し、最終的に人間が体内に取り入れるようになっていると、BBCの番組は警告している。

NHKのサイエンスZEROの「人類の進化の流れ」より、BBC  “We The Guinea Pigs”の「内分泌かく乱物質の吸収」という仮説のほうが、私には本当のように思える。また、マッチョが男性の本質だとするサイエンスZEROの主張は納得できない。他のヒトに優しくできるかは社会機構や文化の問題である。ホルモンのせいにするのは短絡的すぎる。


近所の小さな湿地に カルガモのひなが かえった

2020-05-24 21:52:56 | 自然環境

きょう、私の住んでいる集合住宅の崖の下の、水たまりのような小さな湿地に、人ごみができた。カルガモのひながかえったのである。8,9匹のひなが嬉しそうに足で水をパシャパシャさせながら、泳いでいた。

この湿地には背の高い葦が はえていて、カルガモがひなをかえし、子育てするのに適してる。3年前の今頃、横浜市が業者に葦を刈らせてしまった。カルガモのひなが隠れる場所がなくなったのである。恐れたとおり、カラスにおそわれて、その年のカルガモは全滅した。それいらい、おととし、去年の2年間は、カルガモをなんぴきか見たが、ここでひなをかえさなかった。今年は、葦を不用意に刈らないで欲しいものだ。

そこから4キロほど離れた大きな池に行くと、そこは、赤や白の蓮の花が咲き誇っているのだが、きょうは、母カモが羽の下にひなをつつみながら、大きな蓮の葉のうえにしゃがみこんでいた。カルガモは人なれしていて逃げない。
  ☆   ☆   ☆

横浜には丘陵が多く、緑地が多く残り、野鳥も多い。他の地域と比べ、カルガモとセキレイが多いように思える。

そのほか、ハシボソガラス、ハシブトガラス、ハト、スズメ、ツバメに加え、シジュウカラ、ウグイス、カワセミ、オナガ、カワウ、アオサギ、ダイサギ、マガモ、キンクロハジロなどをみることができる。
  ☆   ☆   ☆

横浜市当局には、緑道、公園などの緑地に、あまり、手を加えないで欲しいと思っている。近くに住むボランティアが自主的に手入れをしているので、任してほしい。横浜に緑地が残っているといっても、宅地化が押し寄せ、大きな農家には造園業に転じているものが多い。彼らは、人を雇っていっきに、緑地の草の伐採とか小枝打ちを行うが、どうも利権化しているように見える。緑地に生きる小動物や、野生の樹や草花への愛情が感じられない。昨年は、美しいノアサガオの群生が刈り取られてしまった。

[追記]
6月8日現在、崖の下の湿地の葦がまだ刈られていない。
カルガモのひなも大きくなった。水をけって水面を走ることができるようになった。
母カモに連れられて8匹の子ガモが緑道を歩くことも見られるようになった。
面白いのは、いっせいに子ガモが母カモの行動をまねることだ。母カモが羽ばたけば、子ガモがみんな羽ばたく。母カモが長い首をかしげて羽をくちばしで手入れすると、子ガモもみんな首をかしげて羽をついばむ。
鳥も親鳥をまねることで、学んでいくのだ。

[追記]
6月21日現在、崖の下の湿地の葦がまだ刈られていない。
カルガモのひなは、もはや、母カモの半分を超えるようになった。
8匹の子ガモが確認できる。全部のひなが生き残っている。
離れた公園の蓮の花のある大きな池では、子ガモが水面すれすれだが、空を飛ぶことができるようになった。

[追記]
7月12日現在、崖の下の湿地の葦がまだ刈られていない。
8匹の子ガモが母ガモと同じ大きさになって、いっしょに暮している。

環境問題を論じるにマルクスに学ぶ必要があるのか

2019-11-03 20:27:27 | 自然環境

10月30日の朝日新聞《オピニオン&フォラム》の『再びマルクスに学ぶ 気候変動や格差 資本主義の代償だ 若者たちは訴える』は悩ましいインタビュー記事だ。マルクスに学ばないと、資本主義がわからないと、環境問題が論じられないならば、私のように厚い本を読めないものは困ってしまう。斎藤幸平がインタビューで本当にこう言ったのだろうか。

ここでは、あえて、フリードリヒ・エンゲルスの『空想から科学へ』(新日本出版社)を読んだだけの知識で、この記事を検討してみる。

16歳の環境活動家、グレタ・トゥンベリさんの国連でのスピーチは「資本主義システムが深刻な異常気象を引き起こしており、経済成長が必須の資本主義のもとでは気候変動問題に対処できないというメッセージ」だ、と斎藤は言う。

ここでの問題は、「資本主義システム」とは何か、気候変動問題に対処できないのは、「資本主義」のためなのか、「経済成長が必須の資本主義」のためなのか、そして、「資本主義では経済成長が必須」なのか、である。

『空想から科学へ』で、エンゲルスは、「資本主義」を「生産手段の私的所有」としている。『資本主義』では生産手段の所有者どうしの競争の結果、機械化が歯止めなくすすみ、労働者が職を失い、賃金が低く抑えられる、と言っている。

しかし、斎藤は、「資本主義では経済成長が必須」と思っているようである。マルクスの『資本論』でも丁寧に読めば、その言葉が発見できるのであろうか。

斎藤は、「『足るを知れ』といった精神論ではありません。行き過ぎた資本主義を人間と環境を破壊しない形に変えよう、という議論なのです」と言う。

「経済成長が必須」というのは「人間の思い込み」ではないのか。ところが、「精神論」ではないというから、やはり、「資本主義」が「経済成長」を必須とすると斎藤が思っているようでもある。

また、ここで「行き過ぎた資本主義」という言葉がわからない。適度な「資本主義」なら良いと言っているようにも聞こえる。

ところが、斎藤は、「資本主義ではこの人間と自然の関わり合いが徹底的にゆがめられ、両者の破壊が起こります。これは資本主義である以上、不可避だというのがマルクスの主張です」という。

「不可避」だとすれば、どうすれば良いのだろうか。

エンゲルスの『空想から科学へ』は、当時の組合運動を批判するために書かれたものである。賃金などの労働環境の改良運動ではだめで、プロレタリアート革命で権力をにぎり、生産手段の私的所有から国家の所有に変えるべきである、と主張している。

この主張は、生産を国家が計画的に管理すれば、問題が解決するとの仮定にもとづく。ことは、そんなに簡単なものだろうか。計画を立てるのは誰なのか。頭の良い奴を信頼して大丈夫だろうか。

斎藤は、旧ソ連の誤りが「成長第一主義」で「政策で『上から』経済を成長させようとした」からだという。

しかし、みんなが貧しければ経済成長はしかたがないだろう。「『上から』経済を成長させた」ことが問題でなく、「プロレタリアート独裁」が問題である。

「プロレタリアート」は、語源では、古代ローマ帝国の市民の最下層をいう。当時の市民の90%以上は「プロレタリアート」、奴隷ではないが、何ももたず、セックスしか生きがいがなかった、という。古代では「労働」は奴隷の仕事である。

現代では「プロレタリアート」は貧民のことをいう。とくに、「マルクス主義」では生産手段をもたない、雇われの貧民のことをいう。

斎藤は、「資本主義」に替わるものとして、「グリーン・ニューディールです。公共事業で各産業分野での再生可能エネルギーへの転換を後押しし、新しい雇用を生みだそうとします。生活に欠かせないものは気候変動対策の観点から『公有化』していく」という。

ここで、またまた、わからなくなる。まるで、頭の良い誰かが科学的に政策を立てていけば良いように、斎藤が思っているように見える。

私は、贅沢をするより、働かないことを好む。エネルギーを使わない、知的な楽しみにふけることを選ぶ。
私の子ども時代とくらべ、生活が十分に豊かである。大変だった冬の洗濯も電気洗濯機によって楽になっている。また、私の子どものときは、母親が夕方市場に出かけ、半分傷んでいる食べ物を買ってきて、傷んでいるところを取りのぞき、食べさせてくれたが、いまの私は、そんなことがなく、餓えに直面してもいない。
車を使わず、公共交通を使うにも賛成である。そもそも、私は運転免許をもっていない。

しかし、しかし、……。

現在の温暖化を止める運動の問題点は、人間の行為によって温暖化が進んでいるのだ、という意見を、多くの人が信じていないことにある。政治は、生産手段の所有体制によって変わるというものではなく、集団としての人間がどう思うかに依存している。

社会の多くの人間が、頭の良い人間のいうことは信用できない、と思うのは理解できる。いつも、いつも、口のうまい人間にだまされてきたからだ。したがって、マルクスに学ぶと言われると、かまえてしまう。

温暖化の予測もみんなが本当だと思ったら、規制に向かうはずである。トランプ大統領は、温暖化を信じられない人々を政治基盤にしている。

私は物理で博士号をとったが、私も、じつは、心の片隅では、人間が温暖化を起こしたとか、炭酸ガスCO2を規制すれば解決する、というのが今一つしっくりこない。多くの科学者がそういっていると、ますます疑ってしまう。

温暖化ガスが夜間の熱放射を抑え込むから、温暖化ガスは温暖化の一要因であることは、うなずける。しかし、科学者たちの温暖化の速度の予測が互いに一致しているのは、納得いかない。本質的には、モデル計算しているにすぎないのに、たんに答えが一致しているのは、彼らが、答えが合うように、パラメータを調整しているからである。頭の良い奴らは信用できない。事実よりも、自分の属しているコミュニティに意見を合わせるからだ。そういう奴らは人を裏切る。 

また、温暖化ガスの制御する政策も信用できない。地球の炭酸化ガスは、古代には今よりはるかに多かった。それを植物が、吸収し炭水化物として固化し、死んで埋没して、現在の石炭や石油になっている。したがって、植物を育てるというのが、水資源の多い、日本がとるべき政策である。

横浜市では、緑道や公園が多い。しかし、実際には道路幅が大きすぎる。二人が、ようやく、すれ違うだけ幅があれば十分なのに、車が通れる幅がある。そして、周りの草を年に何回も刈り取るのだ。刈り取った草はトラックに詰めてどこかにもっていって焼却してしまう。あきらかに、これは、造園業者にお金がいくように、すなわち、選挙対策のために、利権を配っているのだ。

横浜市には、ノアサガオが自生していて、大輪の鮮やかな紫色の花を、初夏から秋の終わりまで、次々と咲かせる。ところが、これらの造園業者は、人を雇って草を刈るだけで、野の草花を愛していないから、ノアサガオを刈り取ってしまう。

マルクスだなんていう前に、書斎から町に出て、汗をかかないと、頭のいい奴は信用されない、と私は思う。