猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

エバがアダムに一方的に尽くすという根拠は聖書のどこにもない

2022-09-05 23:52:49 | 誤訳の聖書

統一教会の教義では、韓国がアダム国で日本がエバ国であるという。これには正直驚いた。どうして、そんなことを人は信じるのだろう。洗脳の恐ろしさを感じる。

アダムとエバは旧約聖書(ヘブライ語聖書)の『創世記』から取られた語である。アダムはヘブライ語「אדם」からきているが、エバはラテン語訳からきており、ヘブライ語では「חוה(ハゥワー)」である。

アダムとエバというと、『創世記』の2章と3章のエデンの園の物語を思い浮かべるだろう。エバが、蛇にそそのかされて、エデンの園の「善悪を知る木の実」を食べるという物語である。しかし、どうして、そのことが、統一教会の教義では、エバがアダムに かしずかないといけないことになるのか、私には不可解である。

『創世記』では、神の命令にそむいて知恵がついたことで、神のペットであることをやめ、アダムとエバは自分で働いて生きることになるだけである。以前に、ブログ誤訳の聖書『エデンの園の「善悪を知る木の実」は誤訳』で書いたが、旧約聖書(ヘブライ語聖書)では、「善悪を知る木の実」を食べたことを罪としていない。子どもが自立して男と女になることを寓話にしただけである。

男と女になることで、子どもを授かり、生命の連鎖が永遠に続くことになる。永遠の生命を得たのである。

最近、この寓話を「アダムとエバの物語」と呼ぶのは適切でないかもしれない、と気づいた。

日本語聖書協会のサイトにはいると、聖書本文検索ができ、その単語が聖書のどこで使われているか知ることができる。「エバ」を検索すると聖書に2カ所しかなく、『創世記』の3章20節と4章1節である。これは、ヘブライ語聖書を「חוה」で検索してもこの2カ所である。

「アダム」で同じ検索をかけると、「新共同訳」の創世記では14カ所、最新の「聖書協会共同訳」では5カ所だけである。「聖書協会共同訳」では、しかも、「アダム」という語は「エデンの物語」の2章と3章とに出てこない。

これは、「聖書協会共同訳」では「האדם」を「ひと」と訳すことにしたからである。「ה」は定冠詞で、定冠詞がつくと普通名詞だと解釈するというヘブライ語の文法規則にもとづいている。

もう1つ、創世記2章の「女は男のあばら骨から作られた」というのが、単にそう訳しているだけで、本当の意味はよくわからないということを、最近知った。トーマス・レーマーは『100語でわかる旧約聖書』(白水社)の「アダムとエバ」の項目に、「あばら骨(צלע)」の訳は伝統的にそう訳しているだけで、根拠がないと書いている。「צלע」をあばら骨と訳しているのは『創世記』2章21節と22節の2カ所だけで、ヘブライ語聖書の他の39カ所では「対になった側面」という意味で使用している。「女は男のあばら骨から作られた」というのは、もしかしたら、偏見から生まれた誤訳かもしれない。

エバはアダムに尽くさないといけないというのは、聖書のどこにも根拠がない。男と女は1つになる「対」であるだけで、対等な関係である。1つになる「対」であることで、人は永遠の生命を得たのである。


私は悪くないという「回心」、森本あんりの『反知性主義』

2021-04-02 00:01:05 | 誤訳の聖書

森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)で、頻繁に「回心」という言葉が出てくる。

《アメリカのキリスト教は、教派ごとの教理や聖職者の行う儀式を中心としたものではなく、信徒各人が直接経験できる回心と新生を中心とした実践的な性格を持っている。》

《彼(19世紀の信仰復興運動のチャールズ・フィニー)の説教は人びとの心に届き、彼の生涯を通して50万人が回心を遂げたと言われている。》 

みんなは、これらの「回心」をどう理解して読んでいるのだろうか。仏教用語の「回心(えしん)」と違うことを知っているのだろうか。

新約聖書の聖書協会共同訳にも、共同訳にも、口語訳にも、「回心」という言葉が一度もでてこない。いま私の手もとにある日本語聖書の中で、佐藤健・小林稔訳の『新約聖書 福音書』(岩波新書)だけが、「回心」という言葉をつかっている。ギリシア語の“μετανοέω”を「回心」と訳している。彼らは、「補注 用語解説」でつぎのように説明している。

《かいしん 回心(metanoia, 動詞はmetanoeo)
普通「悔い改め」と訳されるが、原意は必ずしも悪行を「悔いて」「改める」の意ではない。認識と心性の方向を180度逆転し、「神」の方向を向くこと。》

その通りだと思う。聖書協会共同訳も、共同訳も、口語訳も、ギリシア語 “μετανοέω”や “ἐπιστρέφω”を「悔い改める」と訳しているが、“μετανοέω(メタノオー)”は「向きを変える」ことであり、“ἐπιστρέφω(エピストレフォー)”は「振り帰る」ことである。

それなのに、聖書協会共同訳、共同訳、口語訳が「悔い改める」とするのは、ルターやカルヴァンの影響だと思う。彼らの系譜をひく牧師は、たとえば、ジョナサン・エドワーズは、つぎのように説教する。

《あなたがたは、怒れる神の手にうちにある罪人です。神は、燃えさかる地獄の業火の上に、今にも焼き切れそうな細い糸であなたをつり下げています。》

さてカトリック教徒の山浦玄嗣は『イエスの言葉 ケセン語訳』 (文春新書)で “μετανοέω”を「心をきっぱりと切り替える」と訳している。たとえば、彼は『マルコ福音書』1章15節をつぎのように訳している。

《まぢにまってだ ときァ きている。
 こころォ きりげァで、
 これがらぁ ずっと このよい たよりに
 そのみも こころも ゆだね つづげろ。》

いま私の手もとにないが、新約聖書の研究家、田川建三の訳も「心を切り替える」だったと思う。

「回心」とは、「悔い改める」どころか、これまでの「しがらみ」や苦しみから解き放たれて、すがすがしい気持ちになることではないか。新宗教で起きる「心直し」の感情ではないか。だから、自分が救われたという感覚になるのだと思う。

アメリカ映画『グッド・ウィル・ハンティング』で、マット・デイモンの演じる天才児が、ロビン・ウィリアムズの演じるセラピストに「あなたは悪くない」「あなたは悪くない」と迫られて、突然、涙を流してセラピストに抱きつくが、これこそが「回心」であると思う。

私がNPOで不登校や引きこもりやウツの子どもや若者に向き合うとき、「あなたは悪くない」という態度をとることにしている。彼らは、社会の重荷に十分に苦しみ、周りから責め続けられている。この重荷をとり除くことこそ、彼らを救うことだと思っている。

人びとを救う宗教が人びとを苦しめてはならないはずだ。

森本あんりは、著書の第2章で、信仰復興運動が起きた理由を「ニューイングランドの人びとにくすぶっていた、回心体験への強い希求である」という。それは、保守派のプロテスタンティズムは「あなたが悪い」「あなたが悪い」と迫るからである。本当に求めているのは「私は悪くない」という確信ではないか。

森本あんりは、18世紀の信仰復興運動の担い手、ホイットフィールドについて面白い話を紹介している。

《彼は、同じ言葉を40回まで繰り返し、しかもその一回ごとに感動が高まることができた。ある日の観察によると、それは「メソポタミア」という一語だったという。》

《移住してきたばかりのあるドイツ人女性は、英語が一言もわからないのに、ホイットフィールドの説教を聞いて感極まり、「人生でこれほど啓発されたことはありません」と叫んだとか。》

そうなのだ、あなたは悪くない、悪くない、悪くない、アーメン(異議なし)。

「天国」は誤訳、「天の国」または「天の支配」である

2020-09-17 22:10:45 | 誤訳の聖書


日本人の多くは、キリスト教を、死ねば「天国」か「地獄」に行くという宗教だと思っているようだ。

この誤解は日本人だけではない。ウディ・アレンのコメディ映画に、悪さばかりしている息子がユダヤ人一家にいて、つかまって死刑囚となる物語がある。その息子が刑務所のなかでユダヤ教からキリスト教に改宗するので、ユダヤ人一家が大騒ぎとなる。母が改宗の理由を息子に尋ねると、ユダヤ教には死後の世界がないが、キリスト教には死後の世界があると、その息子は答える。

確かにユダヤ教には死後の世界はない。神は「生きている者の守り神」である。生きていないと神の恩恵を受けられないのである。しかし、初期のキリスト教徒が死後の世界を別に思い描いているわけではない。

新約聖書の福音書によれば、イエスは、「神の国」がすぐに来る、そして、来ていると言って、病気を治して歩いていたのである。だからこそ、福音書なのである。「良い知らせ(εὐαγγελίον)」なのである。

『マタイ福音書』は「神の国」の代わりに「天の国」ともいう。「天国」のあいだに「の」がはいるということである。口語訳の「天国」は誤訳で、新共同訳や聖書協会共同訳では「天の国」に正されている。

新約聖書はもともとギリシア語で書かれていた。「神の国」は“ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ”(ヘー バシレイア トゥー テオゥー)である。「天の国」は“ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν”(ヘー バシレイア トーン オゥラノーン)である。

さらに、ギリシア語 “βασιλεία”(バシレイア)は、佐藤研、田川建三、山浦玄嗣によれば「支配」「統治」という意味である。“βασιλεία”は、「治める」「支配する」という意味の動詞の“βασιλεύω”の語尾を-ίαに変えることで、女性名詞に転換したものである。

『マタイ福音書』3章2節は、口語訳では「悔い改めよ、天国は近づいた」となっているが、別に、しだいに天が地上に近づいた、すなわち、空が低くなったわけではない。「天の支配が近づいた」ということである。なお、「悔い改めよ」は「スパーと心を切りかえよ」という意味である。

(ただし、プロテスタント保守派のカール・バルトの本を読むと、イエスの時代に天が地上に近づいたと、本当に思っているように見える。)

「神の国」は「神による統治」または「神による支配」のことである。「神による統治」が行われるというのが、新約聖書の中心メッセージである。

「神の支配」によって何が起きるのかだが、悪い人が裁かれるというのが「神の審判」という理解である。

田川建三は一連のパウロの手紙を読み解いて、パウロは、死んだ人も眠りから生き返り、「神の支配」を楽しむことができると信じていたと言う。

ただ、「生き返る」という表現は新約聖書では使われておらず、「立ち上がる(ἀνίστημι)」という言い方をしている。ユダヤ人の考え方からすれば、神は生きている者の神であるから、そのとき、眠りから覚めて生きていないといけないのだ。

加藤隆は神が個々人の心に直接語りかけるのを「神の支配」の初期の理解であるという。

エーリック・フロムは、「神の支配」がなかなか来ないなか、キリスト教徒は「神の国」を「教会」(エクレーシア、ἐκκλησία)と解するようになった、と言う。フロムは、同じように共産主義の国がいつまでも実現できなくて、「共産党」に属することで、満足することで、国家主義への変質の罠に落ち込んだと考える。

深井智朗は幽霊を信じる北方ヨーロッパ人がキリスト教徒になることで、「神の国」が現世でなく、死後の世界になったと言う。また、「神の支配」が来ていないのではなく、到来が始まったが終わっていないのが神学者の説明であるという。

20世紀初頭のドイツ人マックス・ヴェーバーは、カルヴァン派は死後の世界を意識して現世では禁欲すると言う。

とにかく「天国」は誤訳であるが、「神の国」が来ないため、聖書を読まない人たちが「天国」と誤解することが、聖職者に都合が良かったようである。

「隅の親石」といったイエスに、なぜエルサレムの神官が怒るのか

2020-04-29 22:39:11 | 誤訳の聖書

聖書に意味の解らない言葉がよく出てくる。わかったと思っても歳のせいか、しばらくすると、また、わからなくなる。その一つがつぎである。

〈家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。〉(聖書協会共同訳)

これは、新約聖書の『マルコ福音書』12章 10節、『ルカ福音書』20章 17節、『マタイ福音書』21章 42節、旧約聖書の旧約聖書の『詩編』118編 022節に出てくる。原文は、次に示すギリシア語である。

〈 λίθον ὃν ἀπεδοκίμασαν οἱ οἰκοδομοῦντες οὗτος ἐγενήθη εἰς κεφαλὴν γωνίας 〉

最後の“κεφαλὴν γωνίας”が「隅の親石」と訳したところだ。
“κεφαλὴν”(ケファレーン)は、「長(おさ)」とか「頭(かしら)」とか「首長」の意味で、“γωνίας”(ゴーニアス)が「隅の石」である。聖書協会共同訳も新共同訳も「隅の親石」と訳しているが、口語訳では「隅のかしら石」と訳している。

じつは、この「隅の石」、ヘブライ語で “פנה”(ピンナー)は、民衆をまとめて戦うリーダーのことをいう。たとえば、旧約聖書の『ゼカリヤ書』10章04節に、つぎのようにある。

〈彼らから隅の石が/彼らから天幕の杭が/彼らから戦いの弓が/彼らからすべての指揮者が共に出る。〉

一度、わかったつもりになったのは、ある日、「隅」が「角」であることを発見したからだ。英語の聖書は「隅の石」をcornerstoneと訳している。

「隅」は、すみっこ、めだたないところだ。それは内側から見ればの話しだ。

神殿の土台を考えると、内側からみることはない。外側から見ると、「角」である。神殿をささえる石作りの土台を思い浮かべれば良いのだ。石組みが崩れないように抑えているのは角の石である。だから、「角の石」はリーダーなのだ。

今、わからなくなったのは、エルサレムの神殿前の広場で、イエスがそう言ったことで、どうして、祭司長、律法学者、長老が怒ったのか、ということである。かれらが、イエスを「隅の石」と思ったのであれば、イエスは「神の子」ではなく、リーダーの一人であると思ったことにある。「隅の石」は1つでなく、いくつもあるからだ。

すると、もし、イエスが本当に言ったなら、この句は、「家を建てる者」が「支配者たち」を、「隅の石」が「それに逆らう叛乱のリーダー」を指し、「次々と現れる反乱者の一人」だ、とイエスが自分を考えていたことになる。この解釈でいいのだろうか。

「エクレーシア」は「教会」か、ネットで聖書を読むことのすすめ

2020-04-12 22:45:40 | 誤訳の聖書

新型コロナ緊急事態宣言で外出自粛になっている。本をじっくり読む絶好のチャンスだが、図書館は閉じているし、この辺の本屋はショッピングセンターやモールに入っているので閉じられている。こんな時、ネットで本が読めるとありがたい。

USAやドイツなど海外では、著作権のきれた本がネットに上がっていて無料で読める。ドイツ語で良ければ、カントとかニーチェとかエンゲルスとかカウツキーとかが、読める。英語なら、フロムとかラッセルとかアーマンとかが読める。

だが日本語では無料で読める本がネット上では少ない。このなかで、聖書だけは、いろいろなサイトからタダで読める。おすすめは、日本聖書協会の「聖書本文検索」だ。3種類の翻訳、『聖書協会共同訳』『新共同訳』『口語訳』を読み比べることができる。ただし、このサイトでは、語句の説明とか、聖書のなかの参照関係とかが、紙の聖書と異なり、ついていない。

これについては、他のサイトで調べるか、紙の本を買うしかない。
        ☆       ☆       ☆

読み比べてみると、相変わらず、エクレーシア(ἐκκλησία)が 3つの翻訳とも、新約聖書では「教会」と訳されている。訳語「教会」は間違っている、と私は考える。

紙の本の『聖書協会共同訳』の付録の用語解説に「会衆」という項目がある。

〈 ヘブライ語エダー(עדת)の訳語で……成人男子の公的集会をさす。また、……集合した人々を指すカハル(קהל)も、翻訳では「会衆」という訳語があてられている。この両語は聖書でも厳密に区別して使用されているわけではない。なお前者のギリシア語訳には「シナゴゲー(συναγωγή)」、後者に「エクレーシア(ἐκκλησία)」(新約では主に「教会」を指す)という訳語があてられている。〉

ギリシア語「シナゴゲー」も「エクレーシア」も、それぞれ、「集める」という意味の動詞 “συνάγω”、 “ἐκκλησιάζω” の名詞形である。意図をもって集められた、あるいは集まった人々を指す。違いは、新約聖書では、「シナゴゲー」はユダヤ人の「集まり」、「エクレーシア」はイエス・キリストによって招かれた「集まり」を指す。多分、キリスト教徒の集まりは、最初、ユダヤ教徒の分派だったから、「エクレーシア」を使ったのだろう。

[補足]ギリシアでは、「エクレーシア」は都市国家の民会(都市国家の最高意思決定の市民全体集会)のことだった。自分たちの集まりのほうが平等で素晴らしいというキリスト教徒の自負から、「エクレーシア」と呼んだのかもしれない。

ルターは、旧約聖書の「エクレーシア」も「シナゴゲー」もドイツ語で “Gemeinde”と訳した。この語は意図をもって集められた人々を意味し、日本語で「共同体」と訳されることが多い。『新共同訳』では、旧約聖書のエダーを「共同体」と訳し、カハルを「会衆」と訳した。ルター訳を意識してのことだろう。ルターは、新約聖書の「エクレーシア」だけを “Gemeinde”と訳し、「シナゴゲー」をそのまま “Synagoge”とした。

「教会」は英語の“church”の訳である。なぜ、「教会」となったのかは、私は知らない。以前書いたように、ホッブスは“church”の語源を「主の家(οἰκία κυριακή)」だとしている。しかし、「主の家」と「教会」の距離も遠い。もとの「イエスキリストに集められた人々」という意味が消えてしまう。

「エクレーシア」を「教会」と訳す根拠はない。

それでは、初期キリスト教では、「エクレーシア」はどんなものだったのか。パウロは『コリント人への手紙1』 12章28節で次のように書いている。

〈 神はご自身のために、教会の中でいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に癒やしの賜物を持つ者、援助する者、管理する者、種々の異言を語る者などです。〉聖書協会新共同訳

当時の「エクレーシア」にいろいろな人がいたことがわかる。聖霊に導かれて好き勝手に騒ぎ飲み食う場所だったのである。パウロは、この手紙で「エクレーシア」のみんなに節制をもとめ、秩序を求めている。他人にわからない異言を慎むように言っている。パウロはローマ帝国風の社会に染まっており、組織化を目指している。組織化が、キリスト教団を大きくしたが、いっぽうで、信者の間に上下関係と、抑圧の種をまいたことになる。

〈食事のとき、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の「エクレーシア」を軽んじ、食事を持参しない人々を侮辱するのですか。〉

〈異言を語る者がいれば、二人か多くて三人が順番に語り、一人は解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、「エクレーシア」では黙っていて、自分と神に対して語りなさい。〉

〈神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、女は、「エクレーシア」では黙っていなさい。女には語ることが許されていません。律法も言っているように、服従しなさい。〉

さて、新約聖書にもどると、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』、『ヨハネ福音書』には「エクレーシア」が出てこない。『マタイ福音書』では2カ所だけである。あとは「シナゴゲー」である。福音書は、生きていたイエスの言動を扱うので、まだ、「エクレーシア」は成立していないのだ。イエスは野外や「シナゴゲー」で病人をいやしたり、話しをしたりした。この当時、「シナゴゲー」のための家が村や町にあって、イエスも利用できたのである。

最後に、新約聖書の英訳は現在非常に多数あるが、「エクレーシア」をどう訳しているか、ネットのbiblehub.comで調べてみた。

『マタイ福音書』の18章17節で「エクレーシア」が出てくるが、30種の英訳聖書のうち、“the church”が22の英訳聖書で、“the congregation”が 1つの英訳聖書で、“the assembly”が4つの英訳聖書で、“the community”が1つの英訳聖書である。訳 “the community”はルターの “Gemeinde”と同じ解釈である。

このサイトbiblehub.comは、ギリシア語テキスト、ヘブライ語テキストの文法解析もあるので、便利であり、私は使用している。

[補足]
ルター訳にしたがうドイツ語聖書は下記で読むことができる。
https://www.academic-bible.com/en/online-bibles/luther-bible-1984/read-the-bible-text/