猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ワクチン接種頼りの新型コロナ感染対策は破綻しているのでは

2021-08-31 22:28:22 | 新型コロナウイルス

横浜市では新型コロナ感染が私の身近まで広がっている。私がいるNPOの放ディサービスでも、来る子どもたちのなかに、陽性になったとか、濃厚接触者で自宅待機しているとかの子が出てくるようになった。

NPOスタッフのかなりは、すでに新型コロナワクチンを接種している。スタッフによっては、接種して1週間して腕がはれたり、腕が上がらなかったりしている。発熱する人は多く、38度、39度、40度と記録を争っている。

接種している子どもたちも増えてきている。

ワクチンは健康な人に接種するのであるから、安全性が高くないと困る。

1か月前の朝日新聞の文化欄に、隠岐さや香が18世紀の天然痘ワクチン接種の死亡率が200人に1人とあった(『18世紀の予防接種論争』)。これは極端だが、現在の新型コロナワクチン接種の死亡率は100万人に1人とどこかでみた。日本の総人口は1億3千万人だから、1億人が接種すれば100人が死ぬこととなる。

推察するに、隠岐さや香の言い分は、統治者にとっては新型コロナの死亡率は0.1パーセントだから接種の死亡率は十分低いかもしれないが、個人にとっては命は1つしかないので確率的に扱われるのは嫌だというものだ。

たしかに確率で話をすますのは乱暴である。どういう人が接種で死ぬのかを解明して、リスクの高い人が接種を避ければ、死亡率をゼロにできる。

それに、日本での死亡例は100万人に1人より高いように見える。接種率が高ければ、政府の責任がはたせたわけでない。

このなかで、モデルナ社のワクチンに混入物があった事件が起きた。これは決してあってはならないことだ。普通、医薬品に不純物が混入しておれば、ただちに製薬会社に業務停止の命令がだされ、医薬品の回収がはじまる。私は、現在、9種の医薬品を服用しているが、ジェネリックの医薬品に、ここ毎年、回収が起き、ジェネリックを供給する会社が変わっている。

ワクチン接種の需要が世界的に拡大しており、技術レベルの低い企業にも委託して製造していると思える。政府は安全だと言っているが、どうして安全だとわかるのか。原因究明を当事者の企業に任しているだけで十分か。日本の企業なら、政府機関が直接工場の査察を行っていただろう。外国の企業であろうとも、少なくとも混入物がなにかを政府の責任で追及しないといけない。

多くの国民は、強い副作用を受け入れて、接種しているのだ。この点を政府は理解して、問題に対しないといけない。

また、気になっているのは、ワクチンが想定された効用がないということである。最近、ワクチンを接種しても、感染しないのではなく、重症化しないと厚労省が言い替えている。

それに「ブースタ接種」をアメリカで推進しているが、これは時間とともに接種効果が薄れるから、3回目の接種をしましょうということにすぎない。

デルタ株が感染力が高くて、集団免疫自体が神話になりつつある。

ワクチン接種しか言わない菅義偉の新型コロナ対策は破綻している。感染のリスクの高い行動を各自が控えるという感染症対策の基本に立ち戻る必要がある。


党利党略のため 自衛隊輸送機3機 アフガニスタンへ派遣

2021-08-30 23:00:47 | 戦争を考える

日本では、8月16日のタリバンのカブール制圧による首都の混乱ばかりが、大げさに報道されている。20年近く、アメリカ軍と援助物資で守られていた砂上の楼閣、カブールの日常が、その日に崩壊しただけで、これから、アフガニスタン人によって、もう一度、国が再建されることだろう。

アフガニスタンは何度もイギリスの侵略をうけ、そのたびに、独立を勝ちとった国である。共和国時代もあり、社会主義国時代もあり、ソビエト侵攻を跳ね返しこともある。

国際社会の総意なんてあるはずがない。タリバン非難の合唱は、単に超大国の一部の人たちがメディアを操っているだけである。ジョー・バイデン米大統領は、正しくも、アフガニスタンの将来をアフガニスタン人に託しただけである。

きょう、朝、国際政治学の高橋和夫がテレビにでてきたが、これからは、彼の指摘するように、タリバン対アメリカではなく、IS対タリバンと国際政治という見方をしていかざるをえないだろう。アメリカは、アフガニスタンから撤退したが、タリバンとの外交をもちつづけ、ISとタリバンとの対立を利用し、ISの抑え込みのためにタリバンを利用していくだろうと、高橋はみる。

指摘されてみると、これまで、アメリカは、ISとタリバンとの戦闘で、タリバンを助けるために、ISを爆撃しており、また、タリバンはアメリカやNATO諸国の撤退が無事に完了するよう、ISから守っている。ただ、アメリカが育てた傀儡政権を効率的でないと見捨てただけで、その点で、バイデンはトランプの外交路線を継承している。

きょうの報道では、日本以外は撤退を完了している。この日本だけが完了していないと、政府がしているこをうさん臭く感じる。

首都カブールにある日本大使館は、8月15日に閉館され、大使館員12人は17日に英国軍機でアラブ首長国連邦(UAE)のドバイに退避した。

ところが、8月23日になって、突然、自衛隊輸送機を3機カブール空港に送ることになった。国家安全保障会議(NSC)を開いて、現地に残留する「日本人ら」退避させるために、C-130輸送機2機と、C-2輸送機1機の計3機を送ることを決め、その日の夕方に、C-2型機1機を飛び立たせ、ついで、翌日に残りの2機を飛び立たせた。どさくさに、武器を身につけて、自衛隊員が飛び立ったのである。

国家安全保障会議とは、なんであるのか。閣僚のうちの9大臣から構成され、別にアフガニスタン情勢の専門家が参加しているわけでない。つぎの9名である。

  • 菅義偉(内閣総理大臣)
  • 麻生太郎(副総理兼財務大臣)
  • 武田良太(総務大臣)
  • 茂木敏充(外務大臣)
  • 岸信夫(防衛大臣)、安倍晋三の弟
  • 梶山弘志(経済産業大臣)
  • 赤羽一嘉(国土交通大臣)
  • 加藤勝信(内閣官房長官)
  • 棚橋泰文(国家公安委員会委員長)

ひとり公明党がいるが、あとは自民党政治家の一部だけが集まって、ほんとうに、どさくさに紛れて、自衛輸送機の首都カブール空港への派遣を決めたのである。自衛隊内の議論、外務省内の議論がなく、派遣をきめたのである。また、アメリカ政府から派遣の要請があったと思えない。誰がアフガニスタン情勢を把握していたのだろうか。

各自衛隊輸送機の定員からすると、一度に300人を輸送できる規模である。しかし、本当に、アフガニスタン脱出の意思表示者が、政府関係者のいうように、500人もいたのか。日本大使館員12人が、すべて、8月17日に退避して、どうして、500人のアフガニスタン人が脱出を希望していると、わかるのだろうか。

自民党政治家の8人と公明党政治家1人が自衛隊輸送機を派遣を決めてから、すべての口実が作られたのではないか。本当の目的は武装兵をカブールに送ったという実績ではないか。

じっさいに起きたことは、8月27日に日本人を1人脱出させたこと、その前日、8月26日、アメリカの要請でアフガニスタン人14人を隣国パキスタンに退避させていたことである。アメリカの要請というが、現地で頼まれたのか、外交ルートをとおしてなのか、はっきりしない。すべて、その場しのぎである。

8月28日の新聞記事によれば、

《外務省は現地に残る日本人は「ごく少数」と説明。今回は退避を希望していなかった、としている。》

NGOはアフガニスタンの再建のために、覚悟の上、アフガニスタンの地に降りたのである。かってに自衛隊輸送機の派遣の口実に使われて迷惑に思っているだろう。

じつは、いまから6年前の2015年、安倍晋三は、安保法制案を強行採決し、自衛隊法を改正し、「邦人等の生命と財産を守るため」に、自衛隊を派遣できるようにしたのである。

そのとき、安倍は、朝鮮戦争が起こり、日本人の救出のために、派遣が必要と言いながら、法律では「邦人等」になっている。今回は、その予行演習といえよう。「日本人ら」と言いながら、自衛隊輸送機3機送った結果、日本人を1人、良く分からない経緯のアフガニスタン人を14人脱出させただけである。

アメリカ政府のほうがずっと冷静に国際情勢を分析している。自民党の安倍と菅は、アフガニスタン問題を選挙対策に利用しているだけである。

[補足]

テレビのキャスターやコメンテーターが、これ以上、イスラムに対する偏見を広めるのは、やめて欲しい。聞いていて、とても、心苦しい。


デジタル・トランスフォーメーション(DX)のうさん臭さ

2021-08-29 22:41:54 | 社会時評

きのうの朝日新聞(売れてる本)に、西山圭太の『DXの思考法 日本経済復活への最強戦略』(文芸春秋)の紹介があった。加藤出が紹介しているのだが、何を言いたいのかさっぱりわからない。仲間内のヨイショなのだろう。

売れている本というが、発行部数が2万5千部である。文芸ものだと100万部を超えると大ヒット。一般書では20万部を超えるとヒット。日本の人口は1億3千人なので、ヒットと言えば、そんなものである。したがって、本書はかなり マニアックな本、ニッチな読者層をターゲットにしたものといえる。このニッチな層とは何であるかだが、私は、日本のバカな会社の上層部を想定した本ではないかと思う。

加藤はつぎのように書く。

《日本企業にとって最大の課題はデジタル・トランスフォーメーション(DX)とよく言われる。だが、進捗は芳しくない》

このDXとの略語からしてうさん臭い。私は外資系IT会社の日本IBMにいたが、1990年に本社IBMがはじめて赤字をだし、株主の意向をうけて、会社外のコンサルタント出身者がCEOになった。それいらい、コンセプトをつくって需要を起こし、企業を顧客に抱え込むというビジネスモデルに変わった。そのこともあって、2000年代になると、世界のIT業界では、毎年、新しいコンセプトが生まれるようになった。

しかし、デジタルトランスフォーメーション(DX)はコンセプトにもなっていない。ゲームソフトからとったネーミングにすぎない。

加藤は書く。

《日本の成長を支えてきた「会社のロジック」はもはや通用しなくなり、「戸惑っている間に、世界はそしてデジタル化ははるか先まで行ってしまった」》

《著者はデジタル化のロジック(DXの思考法)を身につけることの重要性を熱く説いている。》

これでは、新宗教の折伏ではないか。デジタル化のロジックとは、技術的なことに関してしかなく、後は、自分のビジネスに対しての洞察しかないはずである。製造工程のデジタル化は現場の技術者に主導されるしかないはずである。

私が現役時代も、多くの営業マンは戦略的な思考や論理的な思考ができず、「急がないとバスに乗り遅れる」とか「インタネット時代は進化が早く、欧米ではdog yearといっている」とか言って、やたらと危機感を顧客に煽っていた。

私は、研究者として、ほとんどの日本の大企業の現場にはいって、会社の業務のデジタル化を見てきた。そこで見たオカシナ話しを1つ紹介する。

バブル崩壊に伴って20年前に金融界が再編成され、保険業界も過当競争にさらされ、保険商品の多様化複雑化が始まった。とある生命保険会社に起きたことは、これまでのデジタル化されたシステムが、新しい一連の保険商品に対応していないということである。いろいろな条件で保険料の額が複雑に変わるように設定したためである。そのとき、保険会社経営陣のとった判断は、システムを再構築するより、人手で新商品の処理をするほうが安上がりだということである。郊外の大きなビルのなかに、女の人を大量に雇い、流れ作業で、新商品の処理をこなしたのである。

必要なのはデジタル化のロジック(DX思考法)ではない。自分のところのビジネスをどのように考え、どのような体制を整えるかの、論理的戦略的思考の習慣であり、方法としたとたんに陳腐化してしまう。方法があるなんて思うのは、受験勉強に毒されている。

もっとも、勘でビジネスを行うことが悪いとは私は思わない。自分で全責任を負えるような小さなビジネスであれば、自分の感性にしたがってビジネスをするのでよい。失敗したら一からやり直すのでよい。

ところが、株主と経営陣と一般社員とが分離するほどのビジネス規模になると、予測不可能な、不確実性に満ちた現実社会を相手にするとき、無難な常識的な経営手法に落ち着かざるを得ない。みんな、ビジネスに失敗したくないからだ。しかし、それでも、必要なのはDX思考法ではない。

加藤の「DXを進めなければ国が沈む」という国民の覚悟なんて、時代錯誤も はなはだしい。


向田邦子の父親、父権的社会

2021-08-28 23:06:59 | 社会時評

家父長制社会、父権的社会が日本に本当にあったのか、私にはわからないし、あったとしても、実感がわかない。しかし、暴力をふるう父親がいたのは事実のようだ。「女性の権利」で、いっぽう的にタリバンの悪口を言えないようだ。

昔、私の妻のもっている向田邦子のエッセイ集を読んだとき、こんなバカな父親がいるなんて信じられなかった。しかし、向田のエッセイがいまも読まれていて共感されているというのは、向田の父親のような男がそんなに少数派でないのかもしれない。

私は家父長制とか父権とかいうのは、暴力集団である武士階級の末裔が、もたらしものと思っている。日本の人口全体から考えると、暴力しか能がないサムライなんて、ごく少数のはずであるはずだ。働かないで、働く人から物を奪って暮らすヤカラは、少数でなければ、社会がなりたたない。

ところが、向田の父をサムライの末裔だと思っていたのに、ネットで調べたかぎりでは、その証拠がでてこない。父親は、明治生まれで、高等小学校(2年制)しかでていず、保険会社の給仕として務め、幹部社員まで登りつめた「叩き上げの人」であるしか、わからない。

もっとも、私の祖父は高等小学校をでていない。尋常小学校(6年制)を卒業したかも怪しい。歩いて東京に行き、家具修繕の見習いの仕事にありついた。私の母の父は、尋常小学校にも行っていない。親が修験者(山伏)で、全国の山を連れられてさまよっていた。私の母は高等小学校卒であることを私に自慢していたから、庶民からみれば、高等小学校卒は教養人ということになる。

向田邦子の父の話に戻ると、彼は、もしかしたら、下層武士の末裔だったかもしれないし、そうでないかもしれない。乱暴な男になったのは、保険会社に務めたからかもしれない。日本の会社は、権威主義的なサムライ文化を引き継いでいる。合理性がなく、死ねといいたくなるところだ。日本の社会にこのようなものがあるのは、サムライによる暴力革命、明治維新のせいであると思っている。明治にすべての悪がはじまったと私は思っている。

1週間前の朝日新聞の読書欄に、西谷正弘の『中世は核家族だったのか』が紹介されていた。実証的な研究によって、中世の庶民は、家を中心とした生活を送っていず、夫婦を単位として暮らしていたことが、わかったという。

《きっかけは、古代末期疫病や自然災害の多発だった。崩壊した共同体から放り出された民衆は、夫婦間の結合を分業で強めて危機を乗り切る。》

私有財産もなく働くしかない庶民の間では、家父長制や男性社会的な生き方は無理である。明治になるまで、庶民は名字をもっていなかった。どこに住んでいる、あるいは、どんな商売をしている、だれだれ(熊八とかツル)で充分であった。明治に戸籍ができ、名字をもち、家父長制度ができた。

私の母は、「賢い姉」のことをよく自慢した。東京に出て洋裁を学び、田舎にもどり、それで生活の糧を稼いだ。店をもった。美男子と結婚したが、彼が稼いでこないので、自分の残り物を食事に出していたという。魚などは、自分が半身を食べてから、残りの半分を出していたという。そのうちに、子どもを2人残して消えたという。

いまから考えると、「賢い姉」は、ちゃんと食事の準備をしたのだから、意外と男性社会だったのかもしれない。

とにかく、家父長制とか男性上位は、非合理的なものだから、存続は難しいだろう。それに、人間は年をとるほど、脳も体力も衰える。威張っても、それを裏づけるものがない。年をとると、周りの人の情けで生きるようになる。まあ、それは仕方がないことで、私は、それも楽しからずやと思うことにしている。


大阪市が 提言する小学校校長に答えず 訓告処分

2021-08-27 23:22:55 | 教育を考える

今日の朝日新聞〈オピニオン&フォーラム〉に大阪市の小学校校長のインタビュー『「平凡な校長」の直訴』がのっていた。今年の5月17日、大阪市長の松井一郎に提言をだし、教育委員会から訓告処分を受けた久保敬のインタビュー記事である。

なぜ、現役校長が松井の教育行政を批判したら、訓告処分を受けるのかわからない。部下から提言を受けたら、それに答えるのが長の責務でないか、と思う。

いまから、40年前、帰国して、30歳を過ぎてから、日本IBMの研究所に、中途入社した。1980年代は、ジャパン・イズ・ナンバー・ワンとか言って、日本人が根拠もなく威張り始めたころだ。三井信雄副社長が、新しくできた組織を視察に来て、スピーチをし、質問があるか、と集めた社員を前にして言った。誰も手を上げないので、可哀そうに思い、私が手を挙げて質問をした。そうしたら、突然、怒りだし、「犬の遠吠え」と入社したばかりの私をなじりだした。

三井信雄は「糞(くそ)」である。人間は対等である。質問はあるかというから、優しい気持ちで、質問したのである。欧米では、質問を求めた人は、質問に誠意をもって答えるのが普通である。入社してから、アメリカの本社から色々なトップの人びとが来たが、みんな、私のつたない英語の質問に笑って答えてくれた。会社の組織上では上下があろうとも、人間として、技術者として、研究者として、対等である。

三井信雄は糞である。しかし、日本のトップは、三井信雄のように質問や提言に答えないところがある。そんなことをしているから、組織が退廃して腐ってしまう。あにはからんや、1990年に日本のバブルがはじけ、経営の失敗を日本の技術者にしわせよせし、2000年代には、日本の技術水準は、韓国、台湾、中国の後を行くようになった。日本のトップは人の言うことを聞けない。

日本の経営者も行政の長も政治家も糞である。自由な発想は、率直で対等な対話から生まれる。質問や提言に答えなければならない。

松井一郎は糞である。日本維新の会は糞である。

久保の提言は、公教育(義務教育)はなんであるべきかである。いまの公教育は、あれやこれやの何でもを子どもたちに求め、そんなに多くのことを、子どもたちがこなせるのか、ということが考えられていない。そして、その無理な注文は教師にも大きな負担をかけている。

私は教師の免許制や検定教科書にも反対である。何を教えるか、を丁寧に議論していかなければならない。それがわかるのは教育の現場を担当している教師である。教師の意見を聞かずにどうして、誰が教育者の資格を認定し、教科内容を決めることができるのだろうか。

提言のなかで久保はつぎのように述べる。

《学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。》

私は、「学力」に劣等感をもった経営者や政治家が、子どもに無理な要求をしているだけだ、と思う。こんな教育で「グローバル経済を支える人材」になると思えない。それに、権力のおべっかをしている大学の先生たちが審議会で権威付けをしているだけと思う。新型コロナ感染対策専門家会議のように、政治家にNOをいうべきである。

久保は提言でつぎのように言う。

文科省は《グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言う。》

しかし、《 「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。》

何を学ぶのか、何を教えるのか、の議論を抜きに、学力テストをして、子どもたちを競争させ、教師を学校間で競わせ、意味のない疲れと無気力に引き落とす。「グローバルな人材」をつくっているのではなく、助け合わず、権力に従順な、創造性のない大人をつくっているだけだ。

数日前、テレビで、たまたま、放送大学の教育心理学でパソコンのソフトを使っての、理科教育の成功例を紹介していた。いろいろな角度から浮力について質問するから、深く学習できるのだと言う。

そんなことはウソだ。科学は自分の目で観察し、手作りで何かをつくり、何かを発見することだ。教育者は子どもの好奇心を刺激し、見守り、自由な発想を壊さない範囲で、質問に答えたり、行き詰まりから抜けるよう手助けしたりする。決して、枠に当てはめない。私は物理を専攻したが、大学の物理実験は少しも面白くなかった。時間内に決められた結論に行き着くように設計されていたからである。教育とは、予測不可能の、不確実性のなかの可能性を秘めているべきである。

競争と上からのコントロールは、教育にあってはならない。