猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

アレン・フランセスのDSM-5への警告『〈正常〉を救え』

2020-06-30 18:21:44 | こころの病(やまい)
 
アレン・フランセスは、米国精神医学会の診断マニュアルDSM-IVの作成委員長である。その彼が、『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』(講談社)のなかで、精神医学では診断名に流行があり、また、正常と病気との境目があいまいである、と指摘している。原題は“Saving Normal”である。
 
〈19世紀末に、「神経衰弱」「ヒステリー」「多重人格障害」の診断が精神科医の間で流行したが、いまは、それらみんなはどこかにいってしまった。そのかわり、「注意欠如・多動症(ADHD)」「自閉スペクトラム症」「双極性障害」の診断がいま流行している〉
 
「神経衰弱」はノイローゼや神経症ともいわれ、「ヒステリー」と同じく日常語になっている。別に確たる意味がなく、相手や自分を揶揄する言葉として使われる。私が子どものとき、母が怒ると、兄は母に向かって「ヒステリー」とはやし立てていた。
 
19世紀に起源をもつ近代医学は、病気では何か人体の器官に異常が見いだされるという信念にもとづいていた。さらに、ロベルト・コッホは、1876年に炭疽菌、1882年に結核菌、1883年にコレラ菌を発見し、病気とは細菌に感染することとなった。
 
もともと、病気は体の不調を訴えることで、確認されるものであった。ところが、体のこの部分に異常が生じているとか、この細菌、あのウイルスに感染しているとかから、病気と診断されることになった。診断手段の進歩である。
 
私の場合でいうと、息切れがする、ということで病院を訪れた段階で「病気の疑い」、CT検査で心臓血管を撮影すると冠動脈疾患という「病気」が確定した。
 
新型コロナ騒動の場合、本人が体の不調を訴えなくても、症状がなくても、PCR検査で新型コロナウイルスが発見されれば、感染、すなわち、病人として隔離される。
 
しかし、メンタル不調の場合は、本人が苦しいと訴えることで、または周りが困っていると訴えることで「病気の疑い」とされ、「診療」が始まる。
 
もちろん、DSM-5に「メンタル不調(mental disorder)」の定義がいちおう与えられている。
 
〈精神疾患(mental disorder)とは、精神機能の基盤となる心理学的、生物学的、または発達過程の機能障害によってもたらされた、個人的認知、情動制御、または行動における臨床的に意味のある障害によって特徴づけられる症候群である。精神疾患は通常、社会的、職業的、または他の重要な活動における著しい苦痛または機能低下と関連する。〉(『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』(医学書院))
 
漢字がつらなり、何か意味あるように感じられるかもしれないが、「心理学的、生物学的、または発達過程の機能障害」の部分は単なる枕詞で、CT検査などで見えるものではなく、各学派が病因の仮説をもっているよ、という程度のもので、確たるものではない。
 
「臨床的に意味のある障害」とは、英語の“clinically significant disturbance”を訳したものである。“disturbance”は “disorder”に近く、「困ったもんだ」というニュアンスの語である。診療医師が本当に困ったもんだと思う症候群が、“mental disorder”である。
 
症候群は“syndrome”の訳で、徴候(signs)と症状(symptoms)にもとづくひとつのカテゴリーという意味である。
 
多数のヒトたち、子どもたちを見ていると、確かに変わっているというケースに出あう。これは、平均的なヒトから、平均的な子どもから、大きく外れていることをいう。大きく外れているとは、確かに感覚的にわかる。しかし、優秀なヒトや子どもをみても、ふつうは病気とはいわない。脳の機能に欠陥がある病気だという場合には、価値観がかかわっている。
 
だから、「正常」「病気」ということには、もともと、怪しげなところがある。したがって、本人が苦しいと訴えることで、または周りが困っていると訴えることで「病気」とするしかなく、「治療」とは、頼られた者が訴える人のために何かしてあげる行為となる。
 
また、診断名にも無理がある。平均から外れるにはいろいろな方向がある。ヒトがヒトして生きていくには多数の心的知的機能を用いている。これらの不調を、グループ化して診断名を与えることは無理で、もしかしたら無意味なことをしているかもしれない。偏見や差別を強めているだけかもしれない。
 
しかも診断名と治療法が結びつくわけでもない。
 
「発達障害」の場合は本人の認識と周りの認識が違う場合が多い。親が子を「発達障害」と思い込むと、子の成長に気づかない場合がある。親の期待過剰の場合がある。
 
アレン・フランセスは、DSM-IVに「アスペルガー障害」を載せたことが、「自閉スペクトラム症」をはやらせてしまった、と後悔している。他の精神疾患と比べ、特に正常と病気との境があいまいであるという。精神科医による診断のばらつきがどうしても出てしまうという。
 
私は「自閉スペクトラム症」も疑っている。子どもの1%以上が「自閉スペクトラム症」だということが信じられない。ある人は3%ともいう。
 
子どもの権利が無視され、「集団主義」の価値が尊重され、「同調圧力」に屈するのが良い子とされる日本では、その価値観から「正常」「病気」の境界が作られるのでは、と私は心配する。実際には「知的能力障害(Intellectual Disabilities)」のほうが多いのではないか。「発達障害」の早期診断よりも、「知的能力障害」があっても、プライドをもって楽しく生きていける社会を作ることが、だいじではないか、と私は思う。

精神科医ジョエル・パリス教授のDSM-5批判

2020-06-29 14:45:19 | こころの病(やまい)

私は、米国精神医学会の診断マニュアルDSM-5をいまも愛用している。そして、使うにあたって、ジョエル・パリスの『DSM-5をつかうということ その可能性と限界』(メディカル・サイエンス・インターナショナル)が参考になった。この原題は、”The Intelligent Clinician's Guide to the DSM-5®”である。

ジョエル・パリスは、現在の精神医療の診断カテゴリーは、病理によるのではなく、あくまで、徴候(signs)と症状(symptoms)の観察にもとづく症候群(syndomes)なので、どうしても、併存症が多くなったり、また、正常なのか病気なのかの境目があいまいになったりする、と指摘する。そのため、診断基準そのものが、外部からの圧力を受けやすくなっているという。

ここで、徴候とは客観的な身体的変化のことで、症状とは主観的な不調のことである。私のように子どもを相手にしていると、子どもが自分の不調を訴えることはめずらしく、多くは保護者側からの訴えである。保護者側からの訴えが的を射ていると限らない。DSM-5では、持続的する心的不調(mental disorders)を病気と考えている。そのため、保護者の正確な訴えが大事だが、子どもの「ときおり」のパニックでも、いっぱい いっぱいの母親にとっては「毎日毎日」のことになる。

ジョエル・パリスの言う外部からの圧力とは、患者団体や医薬業界からである。保険業界が取り上げられていない。レイチェル・クーパーのいうように、保険業界からは、心的不調の患者を増やすなという圧力があるはずだと私は思っている。ネットではDSM-IVの改訂の大きな理由のひとつは、心的不調の患者の急激な増大といわれている。

ジョエル・パリスは患者団体の圧力の例として、DSM-5で自閉症とアスペルガー症とを合わせて自閉スペクトラム症としたときのことを書いている。診断基準の境界域にいる患者の家族が、高額な治療と特別な学校教育の費用がなくなることを心配し、また、アスペルガー症がスティグマ(刻印による社会的差別)を伴う自閉症と一緒に扱われることをいやがったという。これは医学的な問題ではなく、社会的政治的問題である。

私自身もDSM-IVのアスペルガー症や高機能広汎性発達障害の存在は疑わしいと思っている。スケジュールを立てられない、提出物のスケジュールを守れない大学生を「発達障害」のせいにするのは、社会的偏見をより強めるだけだ、と私は思う。

ジョエル・パリスが「自閉症は遺伝性で脳機能の障害に起因することが知られるようになった」と書くが、遺伝子が特定されていなく、また、脳機能のメカニズムが解明されていない現段階で、この主張は言いすぎだと思う。「自閉症の一部には遺伝性で脳機能の障害に起因すると思われるものもある」とすべきではないか。

ジョエル・パリスの主張で最も重要なのは医薬品の使用に関するものである。心的不調の重度なものには薬が確かに効くが、軽度や中度なものはブラセボ(偽薬)と同程度の効果しかないという。そして、軽度や中度のものは自然になおったりもするという。同じ事実は医療哲学者のレイチェル・クーパーも精神科医の斎藤環も指摘している。
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私は、中学2年のときにウツになった不登校の高校生をNPOで指導したが、20歳になった彼はいまだに薬を飲んでいる。朝、寝床から出られない、気力がなんとなく湧いてこないという、斎藤環のいうところの「社会的ウツ」である。いくら長くウツの薬を飲んでいてもそれだけでは回復するはずがない。

はじめ、彼の話を聞いても、ウツや不登校の背景に、深刻ないじめがあったように思えなかった。何年かたって気づいたが、プライドが高く、同級生による いじめがあったことを認めることができない、ということに気づいた。

本人の訴えを言葉どおりそのまま信じてはならない。また、深刻に見えなくても、希死の思いを秘めている。プライドのため、本当の自分を見せないよう、演技する。したがって、この子は人間関係が長つづきしない。相手が本当の自分のことを気づく前に、逃げるのである。

気になったのは、両親や先生に強い不信感があり、適切な人間関係がもてないことだった。母親と会うと、しんぼう強く聡明なタイプであった。中学・高校の数学を教えながら、哲学、宗教、言語学、論理学の話しをしながら、それとなく母親のことをほめていたら、母親とは会話するようになった。いまは、家族が生きる支えになっている、と彼は私に言う。

新型コロナ騒動の間に、彼は かかりつけの精神科医を変えたとのことで、今度の医師が自分の話を聞いてくれると言う。今度こそ、うまくいくと いいのだが、と祈っている。
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ジョエル・パリスの”The Intelligent Clinician's Guide to the DSM-5®”の第2版が2015年3月オックスフォード大学から出版された。日本語訳の『DSM-5をつかうということ その可能性と限界』は、第1版に基づいている。第1版は、DSM-5の正式出版前に書かれた、すなわち、DSM-5の草稿に基づいている。

第2版は、2章増え、DSM-5出版後の精神医学会の反応も書かれている。第1版の日本語訳に質の問題があるので、この際、第2版に合わせて改訳したら、どうだろうか。面白い本なのでもったいない。

レイチェルが米国精神医学会診断マニュアルDSM-5を診断する

2020-06-28 21:34:46 | こころの病(やまい)
レイチェル・クーパー

横浜市立図書館では、英文学書が原文で手に入る。例えば、J. D. サリンジャーやカズオ・イシグロが原書で読める。すばらしいことだ。

いっぽう、日本語でも、政治、哲学、医学となると、図書館にそろっていない。1か月前、朝日新聞の書評にあった『鉄筆とビラ』(同時代社)は今、他の市の図書館から取り寄せ中である。

きょう紹介したいのは、レイチェル・クーパーの『DSM-5を診断する』(日本評論社)と『精神医学の科学哲学』(名古屋大学出版会)である。これも横浜市の図書館が購入していないので、他の市の図書館から取り寄せて読んだ。
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ここでDSMとは、米国精神医学学会(APA)が出版している『精神疾患の診断・統計マニュアル』のことである。DSM-5 は、2013年5月に出版された最新版である。DSMはおよそ15年ごとに大きく改訂されている。

1980年のDSM-IIIで、初めて、mental diseasesという用語をmental disordersに改めた。この影響か、日本精神神経学会は2004年に「精神分裂病」を「統合失調症」と名前を改めている。

レイチェルによれば、DSM-IIIで大きな改革が行われた最大の理由は、当時のアメリカでの、精神分析への不信の爆発だという。同じ患者が、精神科医によって、異なる診断名を受けると、メディアは批判した。

米国精神医学学会は、DSM-IIIから、診断アルゴリズムをいれ、診断の客観性をもたすようにした。

そして、大事なことだが、米国精神医学学会はワーキング・グループをいくつも立ち上げ、数年かけて診断基準の公開の討議を行い、さらに1年かけて、異なる精神科医の診断がこのDSM-III診断基準で一致するか検証した。

さらに、DSM-III は、「証明されていない理論的な前提を用いない、純粋に記述的な分類となることを追求し」た。理論とは仮説にすぎない。異なるパラダイムに立つ、精神分析的思考の精神科医と生物学的思考の精神科医とが対話できるよう、理論(仮説)に捕らわれない分類(診断)を作ることができた、ともいわれる。

しかし、レイチェルは、実際には、多くの利害団体の格闘する場にDSM改定作業がなったという。保険業界、薬品業界、患者団体などが、DSMの改訂に影響を与えるようになったという。分類(診断)を増やすことは、薬品業界にとって新しい薬を開発し売る機会を増やすことになり、売り上げが増える。保険業界にとっては逆にサービス出費を増やし利益が減る。米国の保険会社は、DSMに記載されたmental disordersにのみ、支払いをするからだ。

したがって、改定作業にお金と時間がかかるようになり、今後も15年のペースで改定できるか、危ぶまれている。

レイチェルによれば、「アスペルガー症」はDSM-IVで初めて はいったが、患者の親たちは、この新しい診断名と保険会社のサービスが気にいり、患者数が急激に増加した。日本でも、うちの子は「アスペルガー」ですという親が出てきた。

2008年のウィリアムズらの研究によれば、「アスペルガー症」の診断を受けた子どもの大半は実際にはDSM-IVにおける診断基準を満たしていなかった。つまり、臨床現場(clinic)で医師と患者とが組んで新しい精神疾患が作られたことになる。

そして改訂にあたり、DSM-5から「アスペルガー症」を削除しようしたが、親たちが激しく抵抗した。そのため、DSM-5の自閉症スペクトラム症の診断基準に、
〈DSM-IVで自閉性障害、アスペルガー障害、または特定不能の広汎性発達障害の診断が十分に確定しているものには、自閉スペクトラム症の診断が下される。〉
という変な注が加えられた。これによって、学会は「アスペルガー症」を削除でき、「アスペルガー症」の子を持つ親が今まで通りの保険金を受けとれた。

とにかく、DSM-5では「アスペルガー症」という診断名はない。

レイチェルは、さらに、DSMが症状から診断名を与えることに医学会が専念するあまり、本質的な原因にさかのぼって考えることをやめ、患者に差別的烙印を押すことになっている、と警告する。まったく、同感である。

レイチェルは、注意欠如多動症(ADHD)の診断は、すべての責任を子どもにおしつける、と言う。もしかしたら、子どもたちが授業を妨害するのは、教師の教え方が退屈なのかもしれない。いや、小さな子どもは閉じ込められて算数をして日々を過ごすのにそもそも向いていないのかもしれない。単なる行儀の悪さの問題かもしれない。現代の養育スタイルがどこか不適切なのかもしれない。

しかし、ADHDの診断は、現場から、これらの可能性をしりぞけ、授業妨害の原因は子どもの脳の疾患とする。その結果、薬物療法が解決策とされ、教師や両親は悩む必要がなく、薬品会社の売り上げだけが増える。しかし、薬が使われすぎて副作用を生じるかもしれないし、その診断を受けた子どもの「人生上の好機」が減ってしまうこともありえる。

レイチェルのこれらの指摘は、現実に日本にも起きている、と私は思う。個別支援級が子どもたちの「人生上の好機」を取り除く差別的烙印になっている、と心配する。ゆっくりと学ぶ子どもたちがいてよい、と私は思う。

佐伯啓思の『死生観の郷愁』は政府のコロナ対策の擁護

2020-06-27 22:48:48 | 新型コロナウイルス
 
保守の論客、佐伯啓思が、6月27日、ふたたび、朝日新聞に新型コロナ騒ぎを論じていた。3月31日の寄稿では、今日の新型コロナ騒ぎは「少し突き放して」みると、「見事に現代文明の脆弱(ぜいじゃく)さをあらわにして」いる、と論じていた。
 
今回のタイトルは『死生観への郷愁』である。副題は『「無常」が昔は根本に 今では国家に丸投げ私権制限さえ構わず』である。誰がこの副題をつけたのだろうか。こういう新聞の見出しは、本人でない可能性がある。
 
今回の佐伯の寄稿から、いくつかの文を切り出してみる。
 
〈人は神を祀り、鎮魂の祭りを執り行い、大仏や薬師如来を造り、また弥陀の本願にあずかるべく一心に念仏を唱えた。それでも災害や疫病が無慈悲に人の命を奪う時、人は、この不条理を「世の定め」として受け入れるほかなかった。〉
〈この世の不条理な定めを、昔の人は「無常」といった。〉
〈それらは、とうてい受け入れがたい不条理な死を受け止めて、死という必然の方から逆に生を映しだそうとした。〉
 
佐伯は、昔から人はさまざまな思いをいだいて、生き、そして、死ぬという事実を無視している。単に、自分の思いを「昔の人」に託して、「死生観の郷愁」をしているだけである。
 
佐藤弘夫は『偽書の精神史』で、親鸞が弟子の唯円の現世への執着心を肯定し、日蓮が現世ご利益をとなえ幕府を攻撃したことを書いている。「極楽浄土」を願って死に急いだのは一部の学僧(当時のインテリ)だけである。人間は、世の中が不条理だといっても、進んで死ぬわけにいかないのである。支配層を叩き殺せとなるのが普通である。
 
佐伯はつづけて書く。
 
〈常に死と隣り合わせの生をおくった武士にとって、「諸行無常」が生死の覚悟の種になったことも事実であろう。死を常に想起することによって、生に対して緊張感に満ちた輝きを与えようとしたのである。〉
 
死の恐怖のなかで、緊張感に満ちた生を生きるというのは、一種の強迫症ではないか。
 
中世史家の本郷和人は、講義で、庭に生首を置いて酒を飲む武士の話しをしていた。彼らは死の恐怖がないと強がっているのである。そのために、意味もなく、通りすがりの人を殺す。
 
私は、死を意識せずに、日々の生を楽しむので十分だ、と思う。生きる喜びは、なにげない日常に、なにげない人間関係にある、と思う。

佐伯は、このように大上段に構え、一方的に持論を展開した後、突然、つぎのように書く。
 
〈国民の生命が危険にさらされる事態にあっては、私権を制限し、民主的意思決定を停止できるような強力な権力を、一時的に、政府が持ちうるのである。〉
 
そして、世論もメディアも野党さえも、国家権力の発動を訴えていたと書き、つぎのようにいう。
 
〈強権発動をためらっていたのは自民党と政府の方であった。〉
 
これは事実に反する。歴史の書き換えである。「世論」とは何か意味不明であるが、メディアの立場は左右に分かれた。野党も自民党も党内で意見が分かれたが、野党の多数派は政府の強権的行動に反対した。年老いた佐伯は自分の都合のよいように世のなかが見えるようだ。
 
さて、佐伯が『死生観』を持ち出した理由がこの後、明らかになってくる。
 
新型コロナでみんなパニックって、つぎの事実を忘れているというのである。
 
〈国家はわれわれの命を守る義務があり、われわれは国家に命を守ってもらう権利がある、といっているように思える。ここには自分の生命はまず自分で守るという自立の基本さえもない。〉
 
佐伯は、これが言いたいばかりに、大上段に構えて、新型コロナは たいしたことがないとか、昔の人の『死生観』が懐かしいとか、ほざいているのである。
 
「国家」となにか。民主主義では「国家」は解体の対象である。ホッブズがいうように、デモクラシーでは主権は人民(デーモス)にあるのである。民主主義の社会では、国家に代わって、行政サービス機関があるだけである。行政サービス機関に、よりよい「新型コロナ対策」を求めるのは当然のことである。しかも、行政サービス機関が強権を発動しなくても、新型コロナ対策ができるのである。

新型コロナ対策専門家会議を廃止とはトンデモナイ、辞めるべきは安倍晋三

2020-06-26 23:19:57 | 新型コロナウイルス


西村康稔経済再生相が6月24日の記者会見で、新型コロナウイルス対策専門家会議を廃止すると発言した。新型コロナウイルス流行が終わったわけでもないのに、今まで対策を提言してきた、専門家会議を「廃止」するとはどういうことか、安倍政権が気が狂ったのではないかと思う。

緊急事態宣言をしたのは、あくまで、安倍晋三である。新型コロナ対策の不手際の責任をとって安倍晋三が首相の座を降りるならわかる。これまで、最前線で動いてきた専門家会議を廃止して何の意味があろうか。

また、業種別の閉鎖要求をまとめたのは各都道府県の知事をささえる役人である。不満があるなら、都道府県の知事に言うべきである。

5月25日に全国で緊急事態宣言を解除したあと、安倍政権は経済優先で動いている。こんなときこそ、政権と異なる意見をいう、専門家会議こそ必要なのだ。

これまで、政府の諮問会議というと、官僚はイエスをいう人間ばかりを集め、案はすべて事前に官僚が決め、諮問会議はただ了承するだけだった。ところが、今回の専門家会議は自分の意見をいう。

私にとって特に印象深いのは、3月19日夜10時50分からの新型コロナウイルス対策専門家会議の記者会見である。

専門家会議から出席者は、座長の脇田隆字氏(国立感染症研究所所長)、尾身茂(独立行政法人地域医療機能推進機構理事長)、西浦博(北海道大学教授)、川名明彦(防衛医科大学)である。50分間かけて専門家会議の結論を説明し、70分間かけて記者質問に丁寧に答えた。

NHKは記者質問にはいったところで、中継を打ち切った。CS TBSは真夜中の12時を過ぎたところで、打ち切った。私は、YouTubeで2時間の記者会見の全部を見た。安倍晋三の質問に答えない不遜な態度とまったく異なっていた。真摯な受け答えに、私だけでなく、あの頑固じじいの木村太郎もほめたたえた。

尾身は、記者の質問に答えて、その直前の専門家会議がもめたことを認めた。
大規模イベントは制限すべきか否かなどの行動制限のところでもめたが、日本の都市部で爆発的感染拡大(overshoot)が起きるとの危機意識は全員で共有されたと答えた。

こんなに熱心な議論が行われる政府の有識者会議を私は見たことはない。それだけ、専門家会議のメンバーたちは、新型コロナ感染流行に危機意識をもって、真剣に討論したのだ。

このとき、専門家会議は、「気が付かないうちに感染が広がり爆発的に感染が拡大し、医療の供給に過剰な負担をかける」と警告した。新型だからみんなに免疫力がなく、飛沫浴びれば簡単に感染してしまう。いっぽう、無症状の感染者が4割近くあり、気づかないうちに、彼らが感染を広げてしまう。

そのときの専門家会議の提言は、
(1)クラスター(集団感染)の早期発見対応
(2)患者の早期診断、重症者の集中治療
(3)市民行動の変容
である。

すなわち、東京のロックダウン(都市封鎖)は小池百合子の主張であり、学校や大学の閉鎖は安倍晋三の主張である。

この記者会見からまもなく、尾身茂は、「帰国者相談センターに相談するのは風邪の症状や37.5°C以上の発熱が4日以上続いた人」というのは、医学的な見地ではなく、PCR検査が間に合わないからだと言っている。

クラスターの早期発見や患者の早期診断のためには、政府がPCR検査の実施能力を上げなければいけなかった。すなわち、政府は一貫して、専門家会議の提言を蹴ってきたのである。

また、マスコミもいけない。この間、マスコミは右往左往してきた。

3月21日の朝7時のフジテレビのニュース番組で、新型コロナ対策専門家会議がイベントを禁止しなかったことを、国民に判断を丸投げしていると非難した。大規模イベントを禁止すれば感染を抑えられる、しかし、国民の自由を制限することになる。専門家会議に禁止する権限はなく、中止要請は政府の権限の範囲である。

専門家会議がだした提言「市民行動の変容」は、「国民に判断を丸投げ」でなく、国民の自由の制限を最小限にするためのバランスのとれた提言である。

西浦の言っていることも、予測ではなく、ありうる1つのシナリオの話しであり、マスコミの取り上げ方に問題がある。数学モデルを使っているといっても、入力データが信頼できないから、予測できるはずがない。

数学モデルのなかの実効パラメータをいじると、結論がどう変わるかは、IF-シナリオといって、経済政策を立てるときに良く使われる。したがって、人との接触を8割減らすといっても、別に人出が8割減ることとまったく関係ない。マスクするだけで、人との接触を2割減らすかもしれないし、社会的距離を2メートルとれば、4割減らすことになるかもしれない。新規感染者が減れば、「人との接触」という実効パラメータが8割減ったことになる。

社会現象における数学モデルの意味が、マスコミや政府関係者がまったく理解できていない。

新型コロナの爆発的感染拡大は、3月19日の専門家会議の提言で防がれた。安倍晋三の学校や大学の閉鎖、緊急事態宣言はいらなかった。小池百合子の都市封鎖もパチンコ店の閉鎖もいらなかった。

こういう状況で、政府の方針と異なる発言をするからといって、新型コロナウイルス対策専門会議を廃止して良いのか。安倍晋三や小池百合子の失策の責任を専門会議の押し付け、メンバーを侮辱しているのではないか。辞めるべきは安倍晋三であり、小池百合子である。