猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

グリム童話はドイツの昔ばなしではない、鈴木晶

2023-11-10 23:08:25 | 童話

妻の本棚で鈴木晶の『グリム童話メルヘンの深層』(講談社現代新書)を見つけた。薄い本だったのに、読むのに、2日もかかった。私も年老いたので、なかなか一気に読めない。

思い出してみると、私は小学校低学年のとき、童話を読むのが好きだった。

近くに児童会館があり、よく通って、一人でごろごろしていた。漫画はドン・キホーテの物語しかなく、しかたなく童話を読み始めたのだが、童話のもつ物語性に引き込まれ、つぎからつぎへと読むようになった。

今回、鈴木晶の本を読んで、自分がグリム童話をほとんど読んでいないことに気づいた。グリム兄弟が出版した第6版から200篇の物語を納めているという。私が読んだのは20篇に満たない。

鈴木晶は、グリム兄弟がドイツの昔ばなしを自分の足を使って集めたのではなく、出版物や知り合いの女たちから素材を得て、書き加えて、出版したと言う。そのせいで、フランスで出版されていた童話もグリム童話に入り込んでいると言う。また、グリム兄弟は、話が短いなどの当時の批判に答えて、版を重ねるごとに、どんどん書き換えたという。

鈴木晶の本を読んで、私は初版のグリム童話を読みたくなり、図書館に予約した。私は、童話に教訓を求めない。また、本当のドイツの昔ばなしでなくてもよい。

子どものときの私は、童話のなかで、話が次から次へと発展していくのが楽しかった。どうなるのだろうと、どきどきしながら、いつも、ページをめくっていた。

私は好奇心が強いのである。

私は、いま、放課後デイサービスで子どもたちに童話の本を読んであげている。物語の展開の面白さを伝えたいのだが、なかなか伝わらない。

子どもによって喜ぶ本が異なる。子どもによって、単純なストリー展開以外は受け付けない子もいる。同じことの繰り返しがある方を喜ぶ子がいる。図鑑のような本の方が好きな子もいる。それでいて、毎回、同じを話しすると、そっぽを向かれる。私は苦労しているのだ。


アンデルセンの童話『火打ち箱』を読んだことがありますか

2021-10-02 23:15:14 | 童話

岩波文庫の『完訳 アンデルセン童話集 1』の最初の物語は『火打箱』である。

私がこれを最初に読んだのは、カバヤ児童文庫である。5つ上の兄がカバヤ児童文庫をそろえていた。1952年から1954年にかけて、岡山市のカバヤ食品(株)がキャラメルのおまけように児童文学の本を出していた。カバヤのキャラメルを買ってその箱にはいっている文庫券をいくつか ためて送ると、本が送られてくるのだ。

カバヤ児童文庫は、いまはデジタル化され、ネット上で『火うちばこ』も読むことができる。

ところで、きのう、たまたま、『火打ち箱』が「悪人がハッピエンドとなる童話」という読者感想文をネット上でみた。私が小学校低学年で読んだとき、主人公の兵隊さんが、悪人だとは思わなかった。当時の私のイメージでは、戦争から帰って身も心もボロボロになった可哀そうな兵隊さんが、やっとつかんだ幸運の物語であった。

アンデルセンの童話には「勧善懲悪」のところがまったくない。リアリストなのである。貧しい人は貧しいままに死ぬのである。神は助けてくれない。デンマークの当時の現実をそのまま童話のなかに閉じこめているのだ。

そのアンデルセンの童話のなかで、珍しく、ハッピエンドなのが『火打箱』なのだ。

主人公の兵隊さんを悪人だと思う人がいるのは、醜い婆さんの頼みで木のほらの奥から「火打ち箱」をとってきたあと、その用途がなにかに答えない婆さんを兵隊さんが切り殺すからである。なんのためらいもなく切り殺すのである。すなわち、乱暴者なのである。

さて、戦争からの復員途中の兵隊さんが身も心もボロボロだと幼い私が思いこんだ根拠は、現在、読み返すと、『火打箱』にはほとんどない。数少ない記述をあげると つぎのようになる。

醜い婆さんを切り殺した後、近くの町の宿屋に泊まるが、その下男が、お金をたくさんもっているのに、靴がボロボロなのを いぶかしく思うとの記述がある。これは、主人公を凱旋した兵士ではないことを思わせる。

さらに、町の美しい姫様は「身分の卑しいただの兵士」と結婚するという予言のため、誰とも会うことのないよう、塔の奥深くに閉じこめられている。その話を聞いて「兵たいは、ちょっとぎくりとしました」とある。だから、主人公の兵隊さんは「身分の卑しいただの兵士」なのだ。

もう1つの記述は、その兵隊さんが、もともと貧乏だったので、お金のないことの苦しさがよくわかり、木のほら奥深くからとってきた金貨を惜しみなく貧しい人に与えたとある。

これらの記述から、私は、哀れな復員兵と思ったのだと思う。

絵本などでは、復員途中の兵士にもかかわらず、きれいな服を着ている。王様の近衛兵のように着飾っているが、これは アンデルセンが抱いていたイメージとは違うのではないか。

物語では、主人公の兵隊さんは、木のほら奥深くから持ち出した金貨をすべて使い果たして、屋根裏部屋に移動し、明かりもないので、火をともそうとして火打ち箱の石を打つと、3匹の大きい犬が現れる。

岩波文庫によれば、1番目の犬は紅茶カップの受け皿のような大きい目をして、2番目の犬は水車の輪のような大きな目を、3番目の犬は丸い塔のような大きい目をしている。カバヤ児童文庫では、2番目の犬はお盆のような大きい目をしており、3番目の犬はテーブルのような大きい目をしている、とあり、ここは違う。カバヤ児童文庫以外は、岩波文庫と同じ訳になっているので、岩波文庫の訳が正しいのだろう。

さて、兵隊さんは、3匹の犬に命令して、木のほら奥深くから金貨・銀貨・銅貨を持ち出す。

そのうちに、兵隊さんは、塔に閉じこめられた姫を犬に連れ出さす。それがバレてつかまり、絞首刑になる。死ぬ前にタバコを吸いたいと言って火打ち箱の石を打つと、3匹の犬が現れ、主人公を救うため、暴れる。兵士たちや王や妃に噛みついたり、宙に放り投げたりする。

岩波文庫では、このとき、恐れた兵士たちが、主人公に「王様になってください」と言う。カバヤ児童文庫だけが、王様が「王様になってください」ということになっている。

ここでも、私は岩波文庫が正しいと思う。王も妃も3匹の犬に殺されたのだ。

そして、町のみんなが、身分の卑しい兵隊さんが美しい姫様と結婚することに、喜んだという。

この童話は、珍しく、アンデルセンの本音がでていると思う。――権力者は犬にかみ殺されればよい。

[補注]アンデルセンの生きていた頃の最初の戦争は、デンマークが、ナポレオン側にたって、ドイツ・オーストリア連合と戦い、負けている。その後も、ドイツと2度戦っているが、2度とも負けている。アンデルセンは、敗戦で ひとり帰ってくる、兵士をイメージしていたと思う。しかも、戦争から解放されて、心ウキウキして、オイチニ、オイチニと手を振りながら歩く兵士である。

☆蛇足☆(眞子さまの結婚の日が決まったとのこと)


トルストイの『イワンのばか』の奇妙な設定

2021-09-15 23:11:41 | 童話

トルストイの童話に『イワンのばか』がある。物語は、裕福な農夫に3人の息子と娘がいて、一番上の兄は軍人のセミョーン、つぎは商人のタラース、一番下がバカのイワンで、娘はおし(啞)であったという物語である。

ヨーロッパの昔話には、3人の息子がいて、兄の二人は失敗して、一番下の息子だけが成功する物語が多いが、トルストイの設定には、よくある物語と違う点がある。

まず、親が裕福な農夫であることだ。財産があるのである。その設定は、上の兄ふたりが、親の財産をとってしまって、イワンとおしの妹に財産が残されない、という展開にいかされている。しかし、奇妙なことに、イワンには身を粉にして働く農地が残されている、そんな設定だ。

兄たちが軍人、商人という設定も、昔話とは異なる。トルストイが生きた時代のロシアでは、軍人が一番威張っていて、商人は楽をしてお金儲けができ、農夫だけが身を粉にして働いている、だから、農夫はばかであるという設定である。これって、私たちの感覚からすると、無理な設定で、政治的プロパガンダのようにも、思えるかもしれない。

「裕福な農夫」の息子たち、イワンに農地が残される設定には、「社会主義」「共産主義」との接点がない。トルストイの設定には、田舎の生活からみた都会の生活への批判のほうが大きいと思う。

セミョーンの妻もタラースの妻も際限なくお金を使うので、彼らがいくら稼いでも足りないという設定になっている。たぶん、トルストイは町の生活をそのように見ていたのであろう。

トルストイには、町の貧困な多数の人たちが見えていない。土地から追い出された人々が職を求めて町に住みついたことが、貴族のトルストイは わかっていない。

イワンが兄たちの言いなりになって怒らないのに 悪魔が腹をたてるというのが、トルストイのいつもの物語設定である。欲のために不和がおきるというのが、悪魔の望むことになっている。この点で、トルストイは とても教訓的な人である。

悪魔はイワンに欲を起こさせようとして、わらから兵隊を作る魔法や、葉っぱから金貨を作る魔法を授けるが、イワンは軍人のセミョーンにその兵隊を、商人のタラースにその金貨を渡してしまい、ただただ働くイワンの心を変えることができない。

童話だから、ばかのイワンは、王様の娘の病気を治し、とつぜん王様になる。ここは、昔話のパターンである。

しかし、ばかのイワンの治める国は ばかな農夫ばかりから成り立っているというトルストイの設定である。こういう昔話は読んだことがない。

外国から軍隊が攻めてくるよう、悪魔が仕向けても、イワンの国民は抵抗しない。略奪や殺戮を悲しそうにみているだけである。攻め入った兵士は戦闘意欲を失い、散ってしまう。

日本が中国に進軍したとき、抵抗しない中国人に嫌気がさして日本兵が戦闘をやめたとは、聞いたことがない。ふつう、兵士は軍事訓練を受けて、無差別に人を殺すよう洗脳されている。逆に、日本が外国の軍事侵略を受けたとき、無抵抗でありえるだろうか。逃げるしかないようにも思える。

失敗した悪魔は、つぎに、金貨を大量に持ち込むが、イワンの国民は金貨をものの売買に使うことを思いつかない。家に金貨を飾ってもありすぎるから欲しいとも思わない。

それで、悪魔は食べ物を金貨で買えなくなり、ひもじさのため、イワンの国民に塔の上から「手で稼ぐのでなく頭で稼ぐのだ」という大演説をする。ひもじさのため よろめき、頭から落ちて死ぬ。イワンと国民は、「頭で稼ぐ」のは大変ことだと、言いあうのが、『イワンのばか』のオチである。

トルストイの『イワンのばか』に蛇足があって、兄たちが職に失敗して、イワンに養われることになるが、働かないから、みんなの食べ残しを食べるという設定である。おしの妹は、働かない人たちに厳しくあたるのだ。

トルストイの滅茶苦茶な設定の童話だが、革命前夜のロシアでは、リアリティがあったのだろう。設定が滅茶苦茶すぎて、これでパロディ映画を作ったら、現代でも、結構ヒットするかもしれない。


成功が欲望という不幸を招く、トルストイの童話

2020-05-01 23:33:38 | 童話

レフ・トルストイの童話は教訓臭さが強く、一般には面白くない。
しかし、彼の『人にはどれだけの土地がいるか』を最近読み直して、小説のようにデテールが書かれており、教訓臭さが弱められていることに気づいた。悪魔がその童話に出てくるが、悪魔が出てこなくても、小説として成立する。主人公のパホームはごく普通の農民として描かれている。

それとともに、中村白葉の訳(岩波の文庫)に誤りがあり、なぜか、ネット上で誤りがそのまま引用されているのに気づいた。それは、「1デシャティーナは約1092ヘクタール」という注釈である。

ほんとうは、「約1.092ヘクタール」である。100メートル×100メートルの土地である。

パホームは、「あまり大きくない女地主」から、林のある15デシャティーナの土地を借金して買うのである。小作農パホームは、ささやかな土地を借金で所有したのだ。「あまり大きくない」とは、女地主がもっている土地が120デシャティーナ(1.1km×1.1km)だということだ。

パホームがその土地を買う動機は、その土地の新しい管理人が、何かといって周りの農民から罰金を取り上げ始めたからだ。パホームもこれに苦しめられ、家でイライラしだす。

〈罰金をとられるたびに、パホームはうちの者を罵ったりぶったりした。〉

とにかく、彼は、借金でささやかな土地を買い、自作農になる。

〈パホームは種子を借りて、買い取った地面に作づけをした。作物はよくできた。1年のあいだに彼は、女地主にも義兄にも借金を返してしまった。〉

このささやかな成功で、彼の欲望がたかまり、また、イライラのもとが生まれる。

〈牛飼いが彼の草場へ牛どもを追い込んだり夜会の馬が作物の中へ踏み込んだりするのであった。〉

とうとう周りの農民と争いになる。

〈こうしてパホームは土地を広く持ったけれども、世間を狭く暮らすようになってしまう。〉

英語訳をみると、「広く(more)」も「狭く(worse)」も比較級である。ロシア語の原文もそうだろうと思う。「パホームは土地をもったけれど、村での居場所がなくなった」という意味であろう。彼の土地はあくまで15デシャティーナで、広くない。

この後、移住し、より大きな土地(50デシャティーナ)を借りる。そこでも一応成功するが、悩みの種ともめ事を抱え、さらに大きな土地を求めて旅たつ。そこの村長は、日没までに歩いて周った土地を1000ルーブルで売ると言う。

結局、ここで、大きな土地を得るために、朝早く起き、ひたすら歩き続け、ついに、日没と争って走しることになる。元の地点に戻った瞬間、心臓が破裂して死ぬことになる。

筋だけ述べると教訓的になるが、デテールがそれを薄める。
教訓は、成功は単なる運で、たまたまの成功が欲望を強め、また、周りとのいさかいを作り、不幸になるだけということである。

勤め人として、私のように成功しなかった者を慰める物語りである。働きすぎてはいけないのだ。偉くなろうとしてはいけないのだ。

コロナのもたらした行動変容、テレワークの意味するものは

2020-04-16 23:19:49 | 童話
 
現在、新型コロナ感染の流行で、「行動の変容」が言われている。「行動の変容」で、どのような社会変化が期待されているのか。働き方が変わるのか。弱者を助けることの大事さを共有するのか。お金が一番、お金を設けて何が悪いという価値観が変わるのか。
 
現状は、日本社会がまだ慌てふためいているだけで、インフラや物流の維持、食料や物資の生産、医療に働いている人たちへの感謝までいっていないように見える。
 
東京に人が集中しているというが、じっさいには、会社が東京に集中していて、周辺の遠くから人々が電車などに乗って集まってくる。
 
テレワークですむとは、そのような仕事は必要なのかと思ってしまう。ハンコを押さないといけないから東京に出勤しないといけないと聞くと、そんな仕事が必要なのかと思ってしまう。営業だからお客さんを接待しないといけないと聞くと、そんな仕事が必要なのかと思ってしまう。
 
日本には、管理や営業などのコミュニケーションの仕事に従事する人たちが多すぎるのではないか。頭を使う仕事より、手を使う仕事のほうが、社会に必要な仕事ではないか。みんなで手を使う仕事をして、労働時間を減らしたほうが良いのではないか。
    ☆    ☆
 
93年前のドイツのSF映画『メトロポリス』は、つぎのメッセージが出て終わる。
  MITTLER ZWISCHEN HIRN UND HÄDEN MUSS DAS HERZ ZEIN!
 
これを日本語にすると、「脳(HIRN)と手(HÄDEN)の仲介者(MITTLER)がいるべきだ」となる。
 
この映画製作者が、考えた「手」とは工場労働者のことである。では、「脳」とは何かというと、銀行員のように、帳簿をつけて計算することである。パソコンが普及した現在では、「脳」を担う人がもっと少しでいいのではないか。東京の本社機構は縮小していいのではないか。
    ☆    ☆
 
115年前に、レフ・トルストイの書いた『イワンのばか』という童話がある。イワンは「手」を使って働くことしか、興味がない。だから、「ばか」と言われる。
 
この「ばか」が王様の娘の病気をなおしたことで、娘と結婚して、王様になる。ところが、手で働くことばかりして、お金に興味がない。賢い人たちは、こんな王のもとにいてもしかたがないと、国を去る。ばかばかりが残って、みんなが自分の手で働いて食べる国になる。誰もお金をもっていない。
 
悪魔の親方にとって、これが面白くない。この国を潰そうと出かけて いろいろなことをするが、うまくいかない。国に残っている人たちは、お金に興味がないから、国を潰しに来た悪魔の親方は食べ物が買えない。キリストの名前で恵んでもらうことが嫌いな悪魔の親方は、お腹をすかして、王のイワンにつぎのように言う。
 
「誰もかも手を使って働かなきゃならないなんて、お前の国でももっとも ばかげた おきてだ。…… 賢い人は何で働くか知っているか?」
「手で働くより頭を使った方がどんなに得だか わかるだろう。」
「頭で働くことは手よりも百倍もむずかしいと言うことをちっとも知らない。時としちゃ、全く頭がさけてしまうこともある。」
 
王のイワンはびっくりして、「頭」で働くことを、悪魔の親方から教えてもらおうと、国のすべての人たちを集める。
 
悪魔の親方は、高い塔の上から、集まったイワンの国の人たちに、「頭」で働くことを説明する。毎日、毎日、悪魔の親方は話し続けるのだが、いつまでも、「頭」で働き出さないので、みんな帰っていく。とうとう、お腹のすいた悪魔の親方は、足がよろめいて、壁に頭をぶつける。いよいよ、「頭」で働き始めたとみんなが再び集まった。
 
悪魔の親方は、塔の階段に頭から倒れて、そのまま、頭を段に打ちつけながら、地面に思い切り落ち、本当に頭が裂けてしまう。
 
童話なので、トルストイの言っていることは極端だが、中央官庁と政治家が役に立たないのを見るにつけ、もっと手や足で働く社会に変容する必要があると思う きょう この頃である。