猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

新型コロナ禍の路上飲みに、異なる2つの意見と、さらに私の意見

2021-05-31 22:46:27 | 新型コロナウイルス
 
きょう、「路上飲み」について、教育評論家の尾木直樹がブログで、玉川徹や山口真由がテレビ朝日の『羽鳥慎一モーニングショー』でコメントしていた。
 
尾木直樹の批判は、メディアがあたかも若者の多くが路上飲みをしているかの誤解を与える報道をしているということ、報道のあり方に関する批判で、路上飲みそのものに関するものではない。テレビは現状の事実を報道するのでなく、絵になるものを事前に予測して映像をとっており、ステレオタイプ的な偏見に基づいて事実を捏造しているというのである。
 
これに対して、『羽鳥慎一モーニングショー』のコメントは、新型コロナのまん延にもとづく私的制限が若者の路上飲みを増加させているとし、若者が我慢の限界に達していることに、同情の弁を述べるものである。
 
尾木と『羽鳥慎一モーニングショー』のコメントは全くすれ違うというか、あるいは反対の方向ともいえる。
 
尾木は東京都の調査のデータをもとにしており、一部の若者しか路上飲みをしていないという尾木の主張はまちがいないだろう。
 
《今年に入って『路上飲み・公園飲み』をしたことが『ある』は〈7.4%〉。【よくしてる】はわずかに〈3.1%〉。約8割の人は『経験はないし、今後もやらない』》
 
そのうえで、一部の若者の路上飲みをもとに、私的権利の抑制が我慢の限界に達していると、『羽鳥慎一モーニングショー』のコメンテーターが同情の弁を述べたことの是非について考えたい。
 
自分が私的権利の抑制をもはや我慢できないというのは、表現の自由に属し、言うのは勝手である。しかし、一部の若者をだしに使って、同情しているフリをして、自分の不満を言うのは、メディアのコメンテーターとして情けない。それに、アナウンス効果で、それなら自分も路上飲みをしようかという若者が現れるかもしれない。
 
私は老人だから、飲みたければ、家で飲めばよいと思ってしまう。そして、お酒を飲むことは浪費であると思う。また、新型コロナで楽しみがないから酔っぱらいたいとなると、アルコール依存症になる危険もある。
 
酔っぱらわなければ生きていけないのでは不幸である。若者がそうであってはいけない。私の兄の妻はキッチンドリンカーになって、家庭が崩壊し、本人も死んでしまった。兄も悪いと思うが、妻も酒に走らず、権威的な兄と争うべきだったと思う。
 
いまの日本は閉塞感がある。若者に限らず、声を挙げたいというのはわかる。あの右翼の育鵬社の中学公民教科書にさえ、「表現の自由」が書かれ、「インタネットやデモ行進」での意思表示が書かれている。自分の私的権利を訴えることは当然の権利の主張であるが、それは「路上飲み」につながらない。
 
「路上飲み」によらないでも、マスクしたままで、人間と人間とが心を通わすことができる。孤立していないことを確認するに、酒などいらない。正面切って思想や政治的意思を表示すればよい。酒がなければ本音を吐けないのはオカシイ。
 
「路上飲み」は、袴をはいてや振袖を着て成人式に参加して騒いだりするのと同じく、既成社会に対する若者の反発である。しかし、その権威に対する反抗を、もっと政治的意識をもって、現実の自民党・公明党を叩き潰すことに向けられないか、と思う。

全国植樹祭に国民がリアルで参加なのに、天皇はオンラインで参加

2021-05-30 21:35:29 | 天皇制を考える


きょう、全国植樹祭に、天皇夫婦がオンラインで参加したという。新型コロナウイルスの感染拡大防止に配慮したためだという。私には、天皇の参加がオンラインになったからといって、感染拡大防止になると思えない。

記事をよく読むと、
《招待者は当初の約4千人から約1千人に縮小した。》
《樹種の紹介係を務めた子どもたちに「緑を守り、育てる気持ちを大切にしてください」と声をかけられた。》
とある。

なんだ、約1千人も集まったのか。そして子供まで駆り出したのか。リアルで集まった人々の感染リスクはどう考えているのか。

天皇は新型コロナにかかっても、ちゃんと治療が受けられる。また、天皇がかかれば、新型コロナのリスクの認識が広がる。

天皇がリアルで参加しないよりも、式典参加の約1千人がオンラインになったほうが良かったのではないか、と思う。

しかし、オンラインの天皇というのは、生きた天皇が要らなくなったということではないか。
天皇制の廃止を日本人も真剣に議論しないといけない。

ここで、タイ国の現状を、しっかりと見つめないといけない。

タイ国は立憲君主制であったが、2014年に軍部によるクーデターが起こり、現在、王室による独裁制になっている。今年2月1日に、ミャンマー国でも軍事クーデターが起き、すでに約800人の国民が殺され、多くのひとびとが逮捕されたり、殴られたりしている。ミャンマー国の軍事政権が強気なのは、隣のタイ国に軍事政権があるからである。

日本をはじめとする国際社会はタイ国に制裁を加えるべきである。少なくとも、日本の皇室は、タイの王室と関係を切るべきである。

生まれながらにして、皇族とする身分制があるというのは、民主政社会にあわない。天皇制を残したのは、日本国憲法の欠陥である。

愛すべき子供たち、白いマスクの彼

2021-05-29 21:26:23 | 愛すべき子どもたち


昨年から、新型コロナ対策で、NPOの対面指導は、ともにマスクをつけて行うことになっている。といっても、二十歳過ぎのひとりは、目を離すとマスクがあごにある。お願いするとマスクを また あげてくれる。彼の場合はひとりで外に出かけることはないので、感染しているリスクは低いと思っている。

私自身は、去年より、マスクが苦痛でなくなっている。それでも、マスクをはずすとホッとする。

私のところにずっと通ってくれる子に、ずっと、白いマスクをつけていた子がいた。8年前にはじめて会ったときから、彼はマスクをつけっぱなしだった。こんな窮屈なマスクをしないと、彼が外にでることができないとは、私は、新型コロナのまん延でまで気づいていなかった。外の人びとの目が彼をひどく苦しめていたのだ。

下記は、2年前に、彼がマスクをはずしてNPOに通うことができるようになって、私がうれしくなって書いたブログである。

   ☆    ☆     ☆

私が指導を頼まれたときは、彼はもう25歳をすぎていた。いまは31歳のはずである。

彼の父親がアドビ社のイラストレーター(グラフィックス作成ソフトの一種)を教えるよう、私のNPOに頼んできた。
が、誰も引き受けない、それで、私がIT会社にいたということだけで、私に話しが来た。もちろん、私も使ったことのないソフトだが、断り切れず、引き受けた。

その子は、白いマスクをして、両親とともに来た。父親はニコニコした気さくな人で、イラストレーターの導入DVDを持ってきた。
私は会話のないまま、パソコンの指導を始めた。

彼は、それまで、私のNPOで、ピクシブ(pixiv)を使ってアニメの絵をかいていた。その日も、以前と同じくピクシブで描き始めた。騎士の格好をした少女たちのイラストを、上手に描き始めるのでビックリした。少女たちの顔が、どこか、彼の母親の面影に似ていた。

心から絵が上手であると思ったことが良かったようだ。会話のないまま、私と彼の間に居心地の良い空間が生まれた。

DSM-IVの「自閉症」の診断では、会話が重視される。この定義では、彼は「自閉症」となる。DSM-5では、「対人的情緒的相関係の欠如」と「限定された関心とか奇妙な行動」が重視される。初めて出会った私と、会話のないが居心地の良い人間関係が生まれたということは、DSM-5の「自閉スぺクトラム症」にあてはまらないのでは、思った。

彼が白いマスクをはずさないということのほうが私には気になった。
社交不安症か強迫症があるのではないかと疑った。そのため、彼が嫌がる行為をしないように気をつけた。とにかく、物事を教えるというような、上から目線の態度を取らない、すなわち、指導しないことにした。
相手が困ったときにだけ、少し助けることにした。

ピクシブとは、画面を画素の集まりとして画素を塗りつぶしていくソフトである。これに対し、イラストレーターは、線や図形の集まりで絵を作る。線や図形は、削除はもちろん、位置、大きさ、形、色の修正や、重ねる順序の変更ができる。全く、異なるタイプのソフトである。

どうして、ピクシブからイラストレーターに切り替えできたのか、私は全く覚えていない。
あるときから、突然、切り替わった。
それまでは、彼は、毎回、ピクシブで母親そっくりの少女たちの群像を描き、残りの時間に、私は、イラストレーターの機能を少しずつ使ってみせた。

イラストレーターに切り替わると同時に、描く内容も、まるっきり変わった。花や草や虫や小鳥や動物や魚や蟹を描くようになった。私を感動させるために描いているようだった。

2 年ほどして、彼の母親から感謝された。家では暴れなくなったという。私としては指導なんて何もしていないのに。

父親から、今度は、英語の指導をも頼まれた。同僚が引き受けてくれた。英会話の練習教材、ステップアップ・イングリッシュを使った。DVDを聞いて英語を話すので、白マスクをはずさざるを得ない。しかも、それ以上に同僚の教材選択が良かった。
教材は、DVDで、短い会話を聞いた後に、質問への最適の答えを選ぶようになっているのだが、正解以外は、会話に出てきた単語を使っていても、質問とは脈絡がないようになっている。
会話とは脈絡があるやりとりである。教材は会話の練習になっている。

今は、英語の指導も私が引きつぎ、イラストレーターと英語とを交互に週一回やっている。
気づいたら、彼は白マスクをもうしていない。

この前、私が教室のカギを忘れ、入れない事態が生じた。妻にカギを届けてもらったのだが、そのとき、私と彼とで、駅の改札口で妻を待った。
パニくっているのは私だけである。

カギを届けてもらった後、彼は私にこう言った。
「先生、今度から鍵を忘れないようにしてください。」

白マスクがとれただけでなく、いつのまにか、二人の間に会話が成立していた。

公民の中学教科書の「自由権」について東京書籍と育鵬社を比べる

2021-05-28 23:27:08 | 自由を考える


横浜市では、2011年から一律に市立中学校で、育鵬社の歴史と公民の教科書を使ってきた。私は、その内容に違和感あるいは異議を抱いていたので、昨年8月、市教育委員会が2021年度から使う教科書として、歴史は帝国書院版、公民は東京書籍版を選んだことを、単純に喜んだ。

今月、東京書籍の公民の教科書をNPOが購入したので、早速使ってみたが、問題はそんなに単純ではないと思った。

私がNPOで担当しているのは、知的か精神的に何らかの問題をもっていて、社会に参加できない若者たちである。公民の教科書が、社会に出ていくのを助けるのに役立てば、と思ったのである。

今回、選んだのは、「自由権」である。東京書籍の公民教科書の「自由権」の項を声を出して読んでもらい、何らかの対話を行いたいと思ったのである。

X君が読み終わったので、「自由とはなんだと思う」と尋ねたら、即座に「自由気ままにふるまうこと」と答えられ、「早くパソコンで動画を見たい」と言われ、言葉に窮した。X君の問題は、読むことはできるが、その趣旨がつかめず、いつもうわの空で、すきあれば、自分のしたいことだけをしようとする二十歳過ぎの子どもである。

しかし、東京書籍にも問題がある。「自由権」の説明はつぎで始まる。

《私たちが個人として尊重され、人間らしく生きるためには、自由に物事を考え、行動できることが重要です。これを保障しているのが自由権です。》

これは、普通の中学生でも理解できる内容とは思えない。

いっぽう、育鵬社の教科書は、「自由権」をつぎのように説明する。

《独裁者による一方的な支配や社会的な抑圧からのがれて、自由に考え自由に行動することを求めるのは、人間としての切実な願いです。……。日本国憲法はつぎのよう自由権を手厚く保障してしています。》

育鵬社の言葉が一見難しいように見えても、教師が内容を説明しやすいのは、やはり育鵬社の教科書だろう。

教師は育鵬社の記述をつぎのように説明できる。

「昔から、世の中は、支配するものと支配されるものに分かれたり、抑圧するものと抑圧されるものとに分かれたりする。支配するもの、抑圧するものは、自由気ままにふるまうが、支配されるもの、抑圧されるものには、なんの自由もない。こんなことでは、不公平だから、不公平をなくすために、日本の憲法は、みんなに「自由権」があると、言っているだよ。」

いっぽう、東京書籍の「自由権」を説明しようとすると、「個人として尊重」「人間らしく生きる」を理解してもらう必要がある。しかも、それらのために「自由に物事を考え、行動できることが重要」という理屈が、説明しがたい。

「個人としての尊重」は「人間ひとりひとりの思い、例えば何が好きだとかは、それぞれ違うが、違っていいのだよ」と説明できる。

「人間らしく生きる」となると、道徳的なことを言うのか、経済的なことをいうのか迷ってしまう。道徳的となると、「人間とはどう生きるべきか」から説明する必要がある。他人に優しいとか、他人の悩みを共感するとか、自分だけ いい思いをしてはいけないとか、いう話しになる。

ここは、「自由に物事を考え、行動できること」に結びつくためには、どうも、「人間らしく生きる」は「ゆたかに生きる」ことを意味するようだ。これだと、あとに出てくる、憲法が「経済活動の自由を保障」という文と整合性がとれる。

しかし、そうだとすると、「自由権」とは金持ちだけのためのものになってしまう。

また、「精神の自由」の説明は、育鵬社の説明のほうが単刀直入で子どもにわかりやすい。

《特に重要なのは表現の自由です。表現方法には言論、出版、音楽、インターネットデモ行進などが含まれます。》

不思議なことに、東京書籍の「精神の自由」には、これに対応する記述がない。表現の自由とは、「インターネット」や「デモ行進」などで、みんなが「自分の意志」を表示できることなのだ。

「精神の自由」とは「精神」という言葉が新鮮で輝いていたときに意味があったので、現在では、「こころの自由」と誤解される。「こころの自由」なら、奴隷でも、強制収容所にいても、本人の努力で持てる。そうでなく、憲法がのべているのは、自分の意志をもち、その意志を表現することの肯定である、と思う。

東京書籍の記述は、何か自己規制をしていて、白々しいのである。

あまりにも情けない日本の新型コロナワクチンの配布・接種体制

2021-05-25 23:12:06 | 新型コロナウイルス


2週間前に新型コロナワクチン接種の整理券(接種券)が横浜市から届き、先週の月曜日から予約受付が始まったのに、73歳の私も妻も予約できていない。予約できないのは、どこかがおかしい。この問題に、メディアが声を挙げないのもオカシイ。

私たちが老人だからと言って、パソコンやiPadやスマホが使えないからではない。集団接種の枠が少なすぎる。月曜日ごとにしか、予約枠が増えない。そして、月曜日の朝、9時にシステムが受付を開始し、5,6分で新規枠がすべて埋まってしまう。

いっぽう、今週から始まった個別接種は、パソコンやiPadやスマホから予約できない。横浜市は個別接種の医療機関の名前を公表しているが、近所の1軒をのぞき、予約の電話番号を公表していない。そして、電話をかけないでください、となっている。予約の携帯電話番号を公表している近所の医療機関はずっと電話がつながらない。個別接種の枠は、どうなっているのだ。

新型コロナワクチンの配布体制、接種体制に問題があるのではないか、と思う。こういう問題は、私の昔の職業からすると、簡単に解決するものである。なぜ、みんな怒らないのであろうか。

菅政権では、選挙対策のその場しのぎで、すべてが動いているのではないか。メディアが声を挙げようとすると、政府から恫喝されてだまってしまうのではないか。

基本的には、配布・接種体制の問題は、プロセス管理の問題であり、ボトルネックを見いだし、プロセスを改善する問題である。解決が既知の分野である。

すると、プロセスを測定し、分析し、問題を改善しようとする意志の持ち主が、現状では、日本にいないということになる。本来、その意志の持ち主は中央政府であるべきであるのに。

何週間前に、テレビで「新型コロナ五大臣」いうのを聞いて笑ってしまったが、担当大臣の数が多ければ良いのではなく、それぞれの担当の使命あるいは役目が明確にされなければいけない。

「新型コロナ五大臣」というのは、昔の「佐藤派五奉行」「竹下派七奉行」からのパロディであろう。日本の政治は、親分・子分の関係を作り、多数派をにぎることを目標においてきた。佐藤栄作から見た五奉行、竹下登から見た七奉行は、単に競うライバルに過ぎず、担当の使命が与えられていない。

私は外資系会社にいたから、違う世界をみている。20世紀の初めに資本制社会の頂点にたったアメリカの企業は、勝ち続けるための組織論を研究した。企業を機能中心の組織とし、それぞれの社員の役割を明確にし、その使命をどれだけ果たしたかで評価する社員を評価する。単なる仕事量でない。

叩き上げの菅義偉は、朝早く起きて、多くの人と会うことをだけしか、しなかったから、すなわち、あまりにも教養がないままで、人の扱い方を知らないのではないか。働いたことがないから、プロセス管理が必要なことを知らないのではないか。

私の祖父も新潟の水のみ百姓のせがれ(三男)で、尋常小学校も卒業しないうちに、歩いて東京に行き、丁稚奉公から、自分の店を持つまでに至った。学校を出ていないから、いつも自分で勉強していた。本当の叩き上げである。

菅義偉は、高校を出たが働くの嫌で東京に行き、結局、大学まで行ったが、何も勉強しなかった。叩き上げではなく、ただの不真面目人間である。

中央政府が接種体制、配布体制を分析も改善もできないのは、菅が「五大臣」の使命と役割を明確にせず、単に競わせているからでないか、と思う。厚労省と総務省の担当役割を明確にせず、自分の生きのかかった総務省の官僚を直接動かそうとしただけではないか。

確かに、老人がどこにどれだけいるかの把握に、旧自治省系の総務省官僚の力がいる。しかし、プロセス管理の知識がある官僚が総務省にいると思えない。経済産業省の官僚だろう。とすれば、ワーキング・グループを河野太郎のもとに結成し、ワクチン配布と接種体制のプロセスを管理、評価、分析し、改善しつづけなければならない。

ところが、河野は、地方自治体に配布するまでが自分の責任であり、みんな一生懸命に仕事をしているのだから批判しないで欲しいと言っている。

菅義偉が前代未聞のバカ総理なら、河野太郎は彼を張り倒しても、配布・接種のプロセスを一貫して管理し、改善しなければならない。逃げ口上をいうのは卑怯である。河野太郎はアメリカに留学して何を勉強したのか。

そして、プロセスが機能しているかどうかを把握するために、各地方自治体にどれだけの老人やエッセンシャルワーカーがいるのか、どのようなスケージュルで各自治体にワクチンが配布されるのか、どこにワクチンを保存し、どう どれだけのワクチンを毎日接種会場や医療機関にとどけるか、現在、各自治体がどれだけワクチン接種能力があるのか、どれだけの人に接種したのか、接種予約はどれだけはいっているか、把握し、ガラス張りにして公表しなければならない。

政府がすべきは、7月までに65歳以上の老人の接種を済ませろ、と自治体の長に命令することではない。政府がプロセス改善の支援をすればよいだけである。

日本の製造業には、トヨタのように、ジャストインタイム方式の伝統がある。接種に必要なワクチンを接種会場や医療機関に届ければ、余って無駄になることはない。自治体の長と職員が先に接種するなんて起きない。

そのために全国のワクチン保管・配送センターを政府が直接管理し、適切に配布しなければならない。物理的に届ける配送は、地方の流通会社に任せても良いし、クロネコヤマトや佐上急便や日通や日本郵便と総括的に契約しても良い。政府のプロセス管理には必要な量と配布した量の把握がだいじなのである。

予約システムも全国共通のものにすべきであった。政府が予約システム開発の経験ある会社と契約し、共同で設計開発し、運営を多くの会社に分割して任せばよい。そして、だいじなのは、政府の保管・配送センターにリアルタイムで予約状況が入り、ジャストインタイムが実現するようにすることだ。

大手の旅行会社の経験はその社員が予約するシステムであって、一般国民が予約するシステムではない。ソニーのようなゲーム会社や株やFXの松井証券のほうが経験がある。そして、作るべきは、誰がいつどこで接種するかどうかだけの簡単なシステムであるから、IBMやオラクルの標準製品を組み合わせて作ることができる。

残念ながら、「残念な」予約システムを作ってしまったが、少なくとも、予約状況を政府がリアルタイムでそこから吸い上げれば、地方自治体へのワクチン配布に活かし、ジャストインタイムを実現できる。そのためには、地方のワクチン冷凍保存のできる保管・配送センターの情報をも政府が管理し、配送を透明化すべきある。

そうすれば、誰の目にも公平で効率的なワクチン配布・接種体制が実現する。

腹がたつ。菅義偉はバカだ、バカだ、前代未聞のバカ総理だ。

[補遺]
調べてみたら、現在の日本のワクチン配布・接種体制は、年寄りやエッセンシャルワーカーや基礎疾患を持つ人がどれだけいるかのデーターにもとづくのでなく、国は都道府県の希望に応じて配布し、都道府県は、市町村の希望にもとづいて配布しているだけだ。配送時間を考えて、拠点となる保管・配送センターを作るのではなく、箱単位で ばっさと 市町村に送っているだけである。(1箱は 6 回接種換算で 1,170 回接種分のワクチン。)

あまりにひどい。効率的プロセス管理以前に、戦略的発想やデーターにもとづく計画ということを政治家や官僚ができていない。製造業や流通業で働いている人たちの知恵に学んだらどうなんだろう。総務省の役人なんて不要だ。菅義偉のバカがうつった官僚や政治家を日本から追放したら良い。

[補足]
「五大臣会合」とは何かと思って調べたら、菅義偉総理、加藤勝信官房長官、田村憲久厚労相、西村康稔経済再生担当相、赤羽一嘉国交相のことで、新型コロナについての会議であるにもかかわらず、ワクチン担当相である河野太郎が外されているとのことである。
菅のイエスマンだけで、日本の新型コロナ対策が決められているのに、びっくりした。河野太郎が気の毒である。菅は、人迷惑なバカとしか言いようがない。