猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「不自由展」の補助金不交付異論、表現の自由について

2019-10-10 19:15:49 | 自由を考える

きょう(10月10日)の朝日新聞《憲法季評》、蟻川恒正の『「不自由展」の補助金不交付 文化専門職に判断委ねよ』の論旨に賛成しかねる。

文化庁が、一度交付約束した「あいちトリエンナー2019」補助金約7800万円全額を交付しないことには反対するが、「文化専門職に判断を委ねよ」と言う部分には同意できない。

一度、交付を約束した補助金を簡単にひっくりかえすのでは、地方自治体の文化事業がなりたたない。主催者は約7800万円をどこかから調達しなければならなくなる。文化庁がそんな迷惑行為をするには、それ相応の正当な理由が必要だ。

しかし、その理由が「展覧会の開催に当たり,来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実」を愛知県に文化庁に申告しなかったから、「[1]実現可能な内容になっているか,[2]事業の継続が見込まれるか,の2点において,文化庁として適正な審査を行うこと」ができなかったでは、正当な理由とはならない。

「あいちトリエンナー2019」の企画展「表現の不自由展・その後」に不満があるなら、文化庁は、はっきりそういえば良いではないか。しかし、国際芸術祭「あいちトリエンナー2019」の補助申請で、企画展「表現の不自由展・その後」が記載されていたはずである。私は、この企画展は国際芸術祭にふさわしい面白い企画だと思う。

すると、「来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実」とは何かが問題になるが、文化庁はそれを明らかにしていない。

物事をはっきりさせないで、一度約束した補助金を出さないのは、国民への文化サービス機関である文化庁の役割を放棄した、反国民的行為と言わざるをえない。

もし、「重大な事実」が、自民党や維新の会などの一部の政治家や一部の市民の反対や嫌がらせや恫喝なら、表現の自由を妨害する輩を文化庁が非難するのが筋である。

「表現の自由」とは、個人が自分の思いをおおやけにする自由のことである。芸術にかぎったことではない。日本国憲法がそれを国として保証したのは、それなりに理由がある。

私が生まれ育ったのは戦後の間もない頃である。だから、私も腹を立てると「金づちで殴ってしまえ」と叫んでしまう。民主主義が確立していなかった頃、暴力こそが正義であったのだ。だから、みんなが暴力でなく民主主義の実現を求めた。

いまは、時代が違うはずだ。「表現の自由」があるはずだ。

怒りも自分の思いである。怒りには理由がある。その怒りを、暴力へとせず、言葉や絵やモノで表現する場を与えることこそ、人間社会の知恵である。

企画展「表現の不自由展・その後」は、これまで、言葉や絵やモノで表現する場を奪われてきた作品を集めて展示するもので、面白い企画だと思う。

展示を見て、自分はこの作品が気に入らなければ、好みではないと言えば良いだけの問題である。展示とは、見たくない人は見に行かなければ良いだけである。作品を見ずして、作品を他の人に見せるなというのでは、「表現の自由」を奪うことになる。

そして、蟻川恒正の言うように、公費の使用がいけないとするほど、そんなに問題のある作品があるわけではない。慰安婦を可愛らしい女の子の像で表現することが問題とは思えない。また、富山県立近代美術館が天皇のコラージュの作品を含むカタログを燃やした事件を映像化したことも、問題と思えない。一部の政治家や市民活動家が寛容さを失っていると思う。

しかし、「表現の自由」の場を、新たに文化専門職に任せるという案には同意しかねる。文化専門職をどうやって選ぶのか問題になるだろう。

普通の展覧会では、評価の確立した絵画や彫刻を文芸員が選ぶか、または、芸術会派(二科展とか二紀展とか日展)が審査して自分たちの芸術観をプロモートしている。

そこからはずれた企画展「表現の不自由展・その後」のような、面白そうな企画が持ち込まれたら、文化庁は、太っ腹に補助金を認めたっていいじゃないか。

本来、国の文化事業は国民が決めることである。地方の文化事業は地方の人々が決めることである。しかし、国が税の多くをにぎっているのであるから、地方の文化事業にも補助金を交付すべきである。

また、怒りも悲しみも自分の思いで、それをおおやけに表現する場があるのは、民主主義の定着であり成熟である。こんなことで、文化庁の役人も、右翼にかき回されたくないと察する。