猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

マイナンバーカードの義務化反対、政府のデジタル化とは業務の経済的効率化のはず

2022-10-14 22:16:16 | 経済思想

河野太郎デジタル相が健康保険証をマイナンバーカードに置き換えると突然発表したのに、私は面食らっている。マイナンバーカードは顔写真がついているから、これは身分証明書保持の義務化である。

大きな会社などでは社員書を発行し、出入り口で社員の出入りを監視する。社員以外の出入り管理は、受付でおこなえる。社員証はあくまで社員の管理のためである。社員の出入り管理の目的は勤務状態の管理とともに、会社の機密情報が漏れた場合の実行犯割り出しなどにも使われる。

個人にマイナンバーを振るのは、国家が所有するデータベース群のあいだのひもづけである。マイナンバーによって、国家は、個人の給料、資産を監視するに充分な情報をすでにもっている。

写真付きマイナンバーカード保持を義務化するのは、国家が、国民一人ひとりの行動管理を行うということである。将来、首都などが厳戒態勢になったとき、外出者はマイナンバーカードの提示を求められるかもしれない。

近代社会で、都市に住むことに人びとが憧れたのは、都市の住民の匿名性である。匿名性が都市住民の自由を保障したのである。

デジタル化は、あくまで、経済的効率化のためで、自由を抑圧するためではない。

日本の民間企業はどこでもデジタル化が進んでいる。デジタル化の遅れているのは、政府である。

デジタル化とは、情報をデジタルの形で保持することと、組織内の業務をデジタル情報の流れに置き換えることの2つが主要なものである。政府がデジタル化を行うとき、高い倫理的な判断が要求される。

菅政権で印鑑を廃止する提案されたのは、役所内の承認プロセス(稟議)をデジタル化するためだったはずである。

私自身はIT会社の研究所にいたので、そのときの知識から助言したい。

デジタル化を行うには、まず、現状の業務フローの解析が必要である。業務はどんな情報を扱うのか、業務ではどのように情報が流れ、加工され、承認されていくかを解析しないといけない。承認された内容、変更履歴、時刻は、公文書として保存すべきである。

したがって、デジタル化の前に、政府内の業務フローの分析と改善すべき課題の報告書が、最初に、提出されなければならない。しかも、民主政社会では報告書は公開でなければならない。

つぎに、それを受けて、改善策としてのデジタル業務フローの概要設計書と実装計画書が作成されなければならない。これも、公開で、システムが首相をはじめとする政府の高官によって悪用されないか、また、将来の業務変更に対処できる柔軟性がシステムにあるのかが、チェックされねばならない。省庁改編に耐えるシステムが要求される。実装計画書は、どの部分を先に実装するのか、どの部分を将来にゆだねるのか、の計画書である。

それに、もとづいて、部分システムの詳細設計と実装にはいる。

自民・公明政権によってデジタル庁がつくられたが、これらの報告書がつくられたとは聞いたことがない。しかも、第1段階の業務フローの分析と改善すべき課題の報告書、第2段階の改善策としてのデジタル業務フローの概要設計書と実装計画書は、デジタル庁の職員が中心になって作成しなければならない。高級公務員試験を受けて入ってきた者は、クソの役にもたたない。

河野太郎に、手順を踏んで政府の業務のデジタル化を行っていただきたい。


理論、形而上学、岩井克人の『21世紀の資本主義』から

2022-07-03 23:24:08 | 経済思想

岩井克人の『21世紀の資本主義論』(ちくま学芸文庫)を読むと、彼も子どものとき、ガモフの『1,2,3,…無限大』を読んで興奮したようである。ただ、色々な点で感覚が私と違う。1つは「理論」という言葉がもつニュアンスである。

彼は言う。

〈理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。〉

〈だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論の働きが、真理を照らし出すよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。〉

何か新宗教の教祖さまのお言葉を聞いているようである。超人が頭の中で創りだしたものが、「日常の経験と対立し、世の常識を逆なで」しても、真理を照らすという。

自然科学を探究するものにとって、「理論」とは「仮説」にすぎない。自然を探究するための「作業仮説」である。よくできた他人の「理論」は害にしかならない。体系的な美しさに騙されて、真理を探究できなくなる。ディラックがどう言おうと、アインシュタインがどう言おうと、それは仮説にすぎない。なにか、納得できないものを感じたら、自分の「理論」を信じて探究していくしかない。誰かが言ったことが、真理であったら、それで世界の発展は終わりである。自然の中の一部にすぎない人間が真理をわかる筈がない、人間の知識は常に書き換えられて行く、というのが、私の信念である。

岩井の「資本主義」「形而上学」とかの言葉の使い方も良くわからない。

「metaphysics(形而上学)」は単に「physics」に対抗するものを指すにすぎない。「physics」は自然に関する知識で、「metaphysics」は人間の思考に関する知識である。形而上学を何か素晴らしいものと思うのも滑稽である。

さて、彼は「資本主義の基本原理」についてつぎのようにいう。

〈複数の価値体系のあいだに差異があれば、その差異を媒介して利潤を生み出す。差異性こそが利潤の源泉であること〉

この「基本原理」という言葉の意味がわからない。そして、どうして、これを「資本主義」の概念モデルとするのかも わからない。

この「基本原理」は、金融業界の人がよく口にする「金儲けの秘訣」である。私はIT業界にいたから、金融業界のお金儲けを支援することが、私のビジネスであったので、よく彼らから、どうすれば支援になるのか教えを乞うていた。

「資本主義」とは現実に存在する社会をモデル化したものにすぎない。別に「資本主義」という新宗教や法人のことでもない。「金儲け」だけでなく、現実の社会をいろいろと特徴づけるものがあろう。また、「金儲け」だって、色々なやり方もある。

私が子ども時代に教わったのは、人を雇わないと金儲けができない、人を雇って使いこなすには被雇用者の独立を防ぐ何かの力がいるということだ。コンサルティングの仕事では、人を雇用し管理する技術をアドバイスすることがだいじな項目になっている。

私は「資本主義」を「賃労働」という雇用形態で定義することもできると思う。


ケインズの「美人コンテスト」、岩井克人の『21世紀の資本主義論』から

2022-06-28 23:19:34 | 経済思想

(怪物化した桜の大木、散歩道にて)

岩井克人の『21世紀の資本主義論』(ちくま学芸文庫)は、2000年1月1日出版のエッセイ集の文庫版である。そのなかの巻頭のエッセイ「21世紀の資本主義論ーグローバル市場経済の危機」は書下ろしで、78ページに渡り読みがいがある。商人資本主義、産業資本主義を経て、現在、金融資本主義の時代にあるという認識のなかで、金融資本主義の本質はリスクを売買する世界として議論をしかける。

2000年当時、日本では、1990年の株や土地のバブルがはじけて銀行や大企業が大きな負債をおって、まだ、傷が癒えていない時期である。とくに、銀行はいつ倒産をしてもおかしくない状態であった。

私は外資系IT会社にいたから、金融商品を扱うアメリカやヨーロッパの金融業界の羽振りのよさに目を見張っていた。欧米では、金融業界はIT企業にとって最上のお客さんであった。金融取引を滞りなく、しかも、速く行うために金の糸目をつけない状態であった。2000年のITバブルも金融業界の需要があってのものであった。

岩井は、日本にいたが、アメリカのリスクを売買する金融資本主義、グローバル化する市場を見て、それを批判している。そのキーワードが「投機」である。

そこで、岩井はケインズの「美人コンテスト」を引用する。私はアダム・スミスの著作もジョン・メイナード・ケインズの著作も読んだことがない。それで、ケインズの「美人コンテスト」の話は、株価はみんなの思いこみだけで決まり意味がないという たとえだとおもっていた。岩井はそうではないとする。

ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)の第12章にでてくる「美人コンテスト」は、新聞の読者が投票してきめるコンテストであり、もっとも投票が集まった6名の美人に投票した読者に多額な賞金が出るのであった。

したがって、賞金を得たいと思う読者は、他の読者がだれに投票しようとするかの平均的感性を推測しなければならない。しかし、他の読者も同じように推測してくるとすると、他人の平均的感性をどうとらえているかを推測しないといけなくなる。しかし、これも、みんながそう推測してくると、さらにその上を行く推測をすることが求められている。

ケインズはそんなことを書いていると岩井はいう。金融取引とはそんなものだと岩井はいう。自分のリスクを最小にしようと合理的な判断を各自しているのではなく、相手の戦術・戦略を推測してゲームに勝とうしているだけだという。

したがって、合理的な判断が行われて、市場のリスクが極小化されるというミルトン・フリードマンの主張は、幻想だと岩井は言う。

当時、金融取引の確率論が流行っていて、プログラムによる先物取引などが行われた。プログラムのもととなる金融確率論は大同小異だから、たくさんのデータを収集して瞬時に処理することがゲームに勝つために要求される。また、金融市場の提供者は、それらのプログラムが集中的にアクセスしても、滞りなく高速に公平に処理する環境を提供できなければ、金融会社から見捨てられる。私の業界からすると、最高のネットワークシステム、コンピュータ、高速メモリが金融業界に売れたのであった。

現在は、確率論が行きづまっていて、数量的データによる確率論だけではなく、企業の人事、政治の出来事を集めてAIに瞬時判断させるようになっている。

しかし、それはますます合理的な判断からほど遠くなって、ケインズや岩井が言うように、リスク取引は囲碁や将棋のように相手に勝つという対戦型心理ゲームに陥っているように見える。

2008年にリーマンショックが起きた。同じころ、私のいた会社で人間の非合理的判断を実証的に調べていた経済学研究者が、金融危機のさなかに、モルガンスタンレーに転職した。

金融資本主義は、人間の欲望と同じくしぶといが、どうなっていくか、混迷を極めている。アレキサンダー大王の逸話ように、複雑化してほどけない「ゴルディオンの結び目」はズバッと切り捨てるしかないと私は思っている。


岩井克人の『21世紀の資本主義論』

2022-06-19 22:38:49 | 経済思想

図書館でたまたま岩井克人の『21世紀の資本主義論』(ちくま学芸文庫)を見つけたので金曜日に借りてきた。彼の名前は新聞でこれまでちょこちょこ見ているし、短いエッセイの集まりなので、私でも読めるかなと思ったからだ。

これまで、彼のことを年寄りでもはや過去の人と思っていたのだが、「21世紀の」とあるのが気になり、ウィキペディアで年齢を調べてみた。誕生日が1947年2月13日とあるから、わたしの1学年上に過ぎない。もしかしたら、大学時代キャンパスで会ったかもしれない。

「無限性の経済学」の節を読むと、「私がいわゆる科学少年であった頃、それこそ繰り返し読んだ本は、ジョージ・ガモフの『1,2,3、……無限大』(白水社)であった」とある。じつは、私も中学1年か2年のとき、同じ本を読み、数学者になりたいと思った。「4色問題」や「フェルマーの定理」や「ゴールドバッハの予想」が同じ本に載っていて、私も解けるのではと思ったからだ。大学に入ってから志望を数学から物理に変えたから、私はこれらの問題を解けていないままである。

ガモフは、この本で、有限と無限の違い、無限の中にもいろいろな無限があるというカントールの無限の理論を紹介しようとしたのである。しかし、岩井はガモフの本からくるその驚きが心に刻まれただけで、サミュエルソンの「世代重複モデル」に有限無限をかなり無理やり結びつけている。意味のない含蓄を述べているにすぎない。

サミュエルソンの「世代重複モデル」は、生産能力のない老人世代が貨幣を渡すことで若い世代から消費財を受け取っている、とし、貨幣に貯蓄機能があると主張するものらしい。貨幣は共同幻想だから、信用が失われば、その機能が壊れると岩井は言う。それはそうであるが、老人が生きていけるのは若い世代が老人のことを憐れむ慣習があるからにすぎない。サミュエルソンや岩井などの知識人は言葉遊びをしているにすぎない。

貨幣のない時代も、生活に余裕があれば、長老として、共同体の中にいれただろう。最近の中世日本の研究によると、中世の村の生活は貧しく、働けるものだけで集団を構成しており、核家族が共同体の構成要素であり、家父長制なんてなかった、という。

貨幣で社会が構成されているというのは、現在の社会の一端にすぎない。自分勝手な人間が自由市場のなかで助け合う社会を意図せず実現したという経済学主流の主張は、単なる自己弁護にすぎない。今のところ、岩井の本より、ガルブレイスの『ゆたかな社会』(岩波文庫)のほうが、経済学批判として鋭く面白い。

「資本主義「理念」の敗北」の節では、「社会主義とは、この市場の無政府性を廃棄し、中央集権的な国家統制のもとで、労働をはじめとする生産要素の社会的な配分を資本主義以上に「合理」的に行うことを意図したものである」と岩井は書いている。これもひどい偏見で、社会主義や共産主義は誰かが誰かを統治する「国家」を廃棄し、「国家」を国民への「サービス機関」にすることである。みんなが対等で「respect」される社会を実現するという理念である。共産主義は、「私的所有」を生産現場からなくすという理念が加わる。

「社会主義」とは、決して、生産と消費の経済活動を効率的に管理することではない。

岩井の偏見は、彼の学部学生だったとき、東大の経済学部では「計画経済」の研究が盛んだったことと関係するのではと私は推測する。人によっては数学が出てくるとレベルの高い研究をしている錯角する。

そんなこんなで、私は、岩井が心の欠けているエリートではないかと思ってしまう。


経済安全保障の考え方に根本的な誤り、知識の拡散は抑えられない

2021-12-12 23:24:01 | 経済思想

知識は人類共有の財産であると誰かが言っていた。古代ギリシア哲学の研究者であったと思う。私もそうだと思う。

いっぽう、20世紀以降の資本主義社会ではそうではない。知的所有権という考え方がある。それは、知識さえ私的に所有でき、所有者以外は無償で知識を使用できないとするものである。

約10年前、日本政府がTPP(太平洋を取り巻く諸国の経済連帯協定のこと)を推進したとき、知的所有権を近隣のアジア諸国に守らすことが目玉であった。そのため、日本は農産物の関税をとりはらっても良いと主張した。

私が子どものとき、偉人物語の一人に電話を発明したアレクサンダー・グラハム・ベルがいた。大人になって、ベルの実像を知った。「優秀」な実業家でどんどんと他人の発明を買い取り、それによって、ベルは自分の会社を通信事業を独占する会社に仕上げた。いわゆるベル研である。

似たような作られた偉人にトーマス・エジソンがいる。彼は「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」という名言で有名であるが、研究開発を組織化しただけでなく、やはり、発明を買い集めた。

確かに、20世紀のアメリカの技術的活力は特許を中心に展開された。

しかし、それでも、私は、知識を全人類の共有財産だと思う。エイズが世界に蔓延したとき、エイズの薬の特許があるため安く薬を作れず、貧しい後進国で人びとがエイズで死ぬのを見殺しにするしかないという問題が生じた。

今回の新型コロナだって、知的所有権の問題がなければ、日本でファイザー社と同じRNAワクチンを製造できると思う。

知的所有権より、もっと意味不明で怖いのが、経済安全保障である。知的所有権は使わせない知識の範囲が明確化され、しかも、使わせない期間が限定されている。経済安全保障は、その使わせないとする知識の範囲が曖昧である。

数年前に、アメリカ政府はHUAWEI(ファーウェイ)の製品を使わないよう、自由主義陣営諸国の政府に訴えた。理由は安全保障である。本当はHUAWEIの製品がアメリカの製品より優れており、それに経済的な脅威を感じたからである。知的所有権では、中国の技術的優位を抑え込めないと考えたからである。

知識とは、それを活かす人びとがいるかぎり、広がることを防げない。それは本来望ましいことではないか。

きょうの朝日新聞を読むと、中国からアメリカに留学する人びとを制限するとか、アメリカ人が中国で教育したり研究したりすることを制限するとかが書かれている。

明治時代に日本政府が「和魂洋才」と言って、「日本古来の精神を大切にしつつ、西洋からの優れた学問・知識・技術などを摂取・活用し、両者を調和・発展させていく」としたが、民主主義や社会主義が日本に入ってくるのを抑止できなかった。

ものごとの考え方に交流があることは良いことである。

科学技術の知識は人類の生活水準を底上げするし、科学技術に限らず、いろいろな考え方が混ざり合うことは、人類が新しい生き方を見つけ、資本主義のもっている欠陥を解決するかもしれない。

12月6日の岸田首相 の所信表明演説で、「世界各国が戦略的物資の確保や重要技術の獲得にしのぎを削る中、経済安全保障は、喫緊の課題です」と言っているが、これはオカシナことであり、知識はもともと私的所有にするに無理なものであるし、一国だけがいつまでも技術的に優位であることはできない。知識の共有で全世界が豊かになれば、それでよいのではないか。