猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「発達障害」が個性なら「障害」と呼ぶべきでない、NHK番組

2019-10-31 23:15:16 | 奇妙な子供たち

きょう(10月31日)のNHKテレビ『所さん!大変ですよ』で「発達障害スペシャル」をやっていた。番組は、「発達障害」のひとには健常者にない特性があるのだから、短所を長所と考えましょうというものであった。善意の番組である。

しかし、素晴らしい特性に恵まれた者をなぜ「障害者」と呼ぶのだろうか。「障害者」呼ばわりをするのを、社会や精神科医や教師はやめるべきだ。

4年前、ひきこもり問題に取り組む精神科医の斎藤環が、「発達障害」とは精神科医が自分の扱いにくい子どもにつける悪口のレッテルだ、と講演会で言っていた。私も、多くの場合はそうである、と思う。

番組で、ハリウッドのスタジオに務める自閉スペクトル症の男が、動画の見えてはならないモノ、たとえば、ワイヤなどを消す作業に集中していた。あってはならないものにすぐ気づくこと、集中して作業することは、たしかに良い特性である。私が問題だと思うのは、なぜ、それを「障害」と呼ぶのか、ということだ。また、番組では、彼だけがキチンと12時にランチを食べることを取り上げていた。

私も、毎日、ここずっと、スキャンした子どもの絵を修正している。
その絵は、非常にうまく描けているが、罫線付きのノートに色鉛筆で描いていた。スキャンすると罫線がくっきり見えてしまう。無料ソフト、ペイントを使って罫線を消すのに毎日集中しているのだ。色鉛筆の手描きの絵は、一様に色が塗れているわけでなく、ざらざらの肌合いになっている。そのザラザラ感が同じ部分をコピーして罫線にかぶせることで、違和感がなくなるようにしている。

NPOにくる子どもたちの絵や工作の写真や詩やエッセイを集めて文芸誌を私は発行しているのだ。

私は集中して作業するのが好きなタイプだが、「発達障害」と呼ばれたくない。毎日、同じ時刻に同じ仕事をするのも、おかしなことではなく、脳の負担を軽くするためだ。興味ないことに脳を使う必要がない。これは、私だけでなく、ドイツの哲学者カントもそうだった。毎日、昼の同じ時間に起き、同じ時間に同じ道を散歩し、同じ時間に同じ物を食べたという。

番組では、発達障害のおもなものは、ADHD、自閉スペクトラム症、学習障害と言っていたが、これもおかしい。

じつは、大きなジャンル、知的能力障害を抜かしている。年齢相応な知的行動がとれないとき、知的能力障害を疑う。例えば、独りで食事ができない、排せつができない、道順が覚えられないことを言う。軽い症状では、買い物ができない、電車やバスが利用できないことをいう。

「知的能力障害」を「障害」と呼ぶのは、アメリカの知的能力障害者の親がそう望むからで、オバマ大統領の時代に法律で決まったことである。親が「障害」と呼ばれるのを選んだのは、社会が障害者を責任をもって支援しろ、という権利意識からである。

また、アメリカの精神医学会の診断マニュアルDMS-5では、コミュニケ―ション症があるが、これも、だいじなジャンルである。
たとえば、吃音も周りがはやし立てると、人と会うことが怖い社交不安症をひきおこす。吃音をとがめてはいけない。
耳やのどが正常で記憶力があっても、すなわち、オウム返しができても、話せない子どもたちもいる。しかし、支援していくうちに、その子が生きていくのに、最低限必要なことをいえるようになる。この場合は話したいことを意識化するように指導する。

私が言いたいのは、本当に支援がないと生きていけない人に「障害者」と呼び、支援していくことに賛成だが、じつは、社会の対応に問題があって、過度の競争社会になっていて、また、思い込みの規範を全員に押しつけ、精神科医のビジネス繁盛のために、あるいは、学校教育の効率の追求のために、障害者でない者まで「障害者」と呼ぶのは、やめて欲しいということだ。

いっぽう、支援でなくても、気遣いが必要なことはいくらでもある。
たとえば、読字障害(ディスレクシア)の人が読める文章を書くということは だいじなことである。
また、ひとに指示するときは、わかるように具体的にいうことも だいじである。
とにかく、健常者、健常者と いばるな。

教師が、子どもたちを愛し、同僚との仲間意識をもてるには

2019-10-29 21:09:06 | 教育を考える

神戸市の小学校で、中堅の教師たち4人が、なりたての若い教師に暴力や暴言を繰り返すという事件があった。周りが傍観しているということで、すなわち、黙認したり容認したりすることで、いじめと同じ構造である。なぜ、こんなことが起きるのだろうか。

2年前、高校のときの同窓生が4人、下町のすし屋に集まったとき、子供のときの学校の先生たちの話がでた。いい思い出である。具体的なエピソードはちがっていても、先生方への感謝の気持ちでいっぱいだ。

私が小学校1年のとき、運動場で転んで膝に血がにじんだとき、担任の中年の女の先生が、とっさに、傷口をなめてくれた。じつに素朴な愛である。
放課後も、先生方は残って、子どもたちの遊び相手をしていた。子どもたちに交じって、ソフトボールをしたり、雨の日は、その当時まだ珍しかったテレビを集会室で一緒にみていた。
私の2年、5年、6年の担任の先生は、音楽の授業で、クラシック音楽のレコードを聞かせてくれた。今でも、クラシック音楽が好きである。

当時の年配の先生方には負い目があった。戦前の大日本帝国の権威主義、集団主義、規律主義の手先になったことへの反省である。先生方は、子どもたちを愛することで、聖職者との誇りを再生させようとしていたのではないか
授業も楽しかった。雑巾縫いや木工細工や料理も教わった。

とにかく自由を満悦して私は育った。宿題をした記憶がない。

私が子どものときは、9割以上の先生が日教組(日本教育組合)に加入していた。

1960年代にはいると急激に組合加入率がさがり、新規採用の教師の加入率は1990年から約20%になっている。
私は、組合が不人気になったというより、組合に入らない人間を意図的に採用しているからだと思う。

先生の仕事が忙しすぎるというのは、先生に不要なレポートを提出させすぎるからではないか。私は、先生同士が仲良くならないように、また、権力に逆らうようなことを考えないように、わざと忙しくしているのではないかと思う。

提出レポートが多いというのは、教師の人事管理の強化のためであり、何かあったときに校長が教育委員会が言い訳をするためのものである。その時間を、子どもとの接触に、同僚との情報共有に使うべきである。

教師同士に仲間意識があり、子どもたちをいとしく感じるのが自然である。

先生が忙しすぎるなんて、おかしい。組合の力で解決すべき問題である。

現在の、学校に日の丸が掲げられ、国家が歌われるなんて、愛国の道徳教育がおこなわれるなんて、異常な風景である。
自民党や文部科学省が、公立学校を自分たちの統治の手段、洗脳教育の場としてきたのである。教師のことも、子どものことも想っていない。

良い教育とは、勉強ができて勤勉であり上に逆らわず空気を読む人間を作ることではない。
詰め込み教育は子どものこころをむしばむ。
スポーツなど部活は学校の名誉のためにするのではない。遊びの場であるべきだ。
運動会は、学校の統制力、しつけを保護者に見せるためではない。先生方、保護者たち、子どもたちがいっしょに遊び、コミュニケーションを滑らかにするためのものだ。

不思議なのは、いじめ問題が発覚すると、学校単位で組織防衛に走る。本当に仲間意識があって助け合って教育に当たっていれば、もっと、初期の段階でいじめを防止できたはずだ。問題が起きると、単に責められたくないから、組織防衛に走るだけで、個々人のモラルが崩壊しているままだ。

私は、現在の、教師の資格、採用儀礼を疑う。放送大学で教育学の講義を聞いていると、公的教育というものは政府の方針に忠実であるが第1で、ことがあれば校長を中心に組織を防衛せよと言っているにすぎない。また、児童心理の講師は、現実の子どもの教育にあたったことがないように見える。個々人の多様性を教えていない。

公立学校の教師は毎年春に移動の対象となる。職場移動は、戦前の大日本帝国が官吏をこき使うときのテクニックである。下級官吏に仲間意識が芽生えるのを防ぐためである。下級官吏が地域住民と仲良くなるのを防ぐためである。

神戸市の場合は、教師の移動がなかったが、そのぶん、校長の権限が強かった。校長のお気に入りの教師がのさばっていた。

結局、戦前の大日本帝国の時代と同じく、現在の先生の資格は、政府の優秀なロボットであるというお墨付きにすぎない。そして、恐ろしいことに、AI 技術を使って、生きている教師を、感情のない本当のロボットに置き換えようという話まで出ている。

自民党や文部科学省は、自分たちのしてきたことを恥ずべきである。

日本の基礎研究は危機、政府は研究の「選択と集中」をするな

2019-10-28 22:48:14 | 科学と技術
 
きょうの朝日新聞に、嘉幡久敬が《記者解説》『後退する基礎研究 0から1生む力、競争政策で弱まる』を書いていた。論旨は、現在の日本政府は大学などの基礎研究費を低く抑え、有用だとする研究を選択し、集中的に投資することで、かえって、日本の科学技術のレベルを引き下げているというものだ。
 
私はそのとおりだと思う。
 
大隅良典や本庶佑や吉野彰など、ノーベル賞受賞者も、毎回、記者会見で、政府に実用研究より基礎研究にお金を出すように訴えている。そして、彼らは、自分のノーベル賞の賞金をこれからの若い研究者たちを支援するための基金にした。
 
朝日新聞は、昨年の9月26日から10月6日まで、『教えて!日本の「科学力」』という特集を計8回連載した。この記事も日本の科学力を誇るものではなく、日本の科学・技術界の寒々とした実情を語るものであった。
 
特集では、日本は、2003年から2005年にかけて、重要論文数が、世界4位であったものが、10年後の今、世界9位に落ちているという。各国別の順位変動で見ると、中国だけが急に上昇しており、いっぽうで、日本だけが急激に順位を下げている。
 
これは、ひとえに、日本の政府の政策の誤りから来る。
英科学誌ネイチャーは、日本の低迷の原因を、運営費交付金が削減されて人件費が減り、若手研究者は正規雇用のチャンスが少なくなったことなどを挙げた。
 
日本が貧乏な時代のノーベル賞は、理論物理(湯川秀樹、朝永振一郎)や理論化学(福井謙一)であった。江崎玲於奈だけは例外的でソニーでトンネル効果を実験で確認した。その後、IBMの研究所に移り、エキゾチックな性質をもつ無機物固体を次々と合成した。
 
1987年のノーベル生理学・医学賞の利根川進は、アメリカに渡り研究した結果が評価された結果である。
 
2000年後、日本人のノーベル賞受賞者は急激に増えるが、基本的には海外で研究した成果が多い。日本に戻ってこない,あるいは、これない受賞者も少ない。青色ダイオードの中村修二や素粒子論の南部陽一郎はアメリカ国籍をとった。日本が豊かになったはずなのに、非常に寒々とした風景である。
 
経済的基盤が下がり、ギャンブル化した金融だけが突出している現在のアメリカに、日本の若い研究者を養ってもらうという期待を、もはや、すべきでない。日本経済は、中国に追い抜かれ、韓国に迫られている といえども、まだ、国民総生産(GDP)では世界3位である。若い研究者に研究に専念できる職を提供すべきである。さもないと、研究者を志望する若者がいなくなるだろう。
 
私は、「基礎研究」という言葉を良いと思わない。英語でいえば、Research(研究)かDevelopment(開発)かの違いが本質である。開発とは、市場を見込むことができ、技術的にも解決できる見込みがあることがらを、解決することを言う。1年で成果が問われる研究とは開発にすぎない。
 
もちろん、研究は別に大学でなくても企業でもできるべきである。企業も太っ腹になって、第二の江崎玲於奈、田中耕一、中村修二、吉野彰を育てないといけない。
 
私がIBMにいたころ、40年前になるが、「日本の企業は研究文化の破壊している」とアメリカ企業の研究者によく責められた。日本の企業は、革新的な技術の創造に投資せず、ほぼ確立した技術を寝るのも惜しんで開発しつづけて、市場で大儲けをしている、その余波で、アメリカの企業研究所が閉鎖に追い込まれている、モラルに反する、という非難である。その通りである。
 
日本政府は、市場を見込むことができ、技術的にも解決の見込みがある開発は、企業に任すべきである。開発は利益に直結するからだ。
政府は、もっと研究にお金を回すべきである。研究とは公的な仕事である。日本が貧乏というなら、「選択と集中」をするな。「選択と集中」を行うと、口がうまくて結果が見える処にお金が行く。
 
いちばんよい例は、ビックサイエンスである。ビックサイエンスにお金を出すな。2002年にノーベル物理賞をとった小柴昌俊は、昔、私ら学生にお金でノーベル賞をとれると豪語していた。大きな装置をつくって、だれもやらなかった実験をすれば、ノーベル賞がとれるという論法である。この考えは、当時、別に彼に限らず、海外では公然と語られていた。彼は、自民党や役人を説得して実行し、予定通りノーベル賞をとった。
 
私は、日本が貧乏なら、ビックサイエンスをやめて、研究者の職を安定させることに投資すべきだと思う。少なくても、研究者が食べることができ、寝るところがある生活を保障すべきである。正規雇用もされず、奨学金の返還で極貧生活を送るような環境で、1年ごとに成果が求められるのは異常であると思う。

神戸市の小学校同僚への暴力や嫌がらせは管理体制が生んだ歪みか

2019-10-27 22:09:02 | 教育を考える


神戸市の小学校で起きた、教師4人が同僚に暴力や嫌がらせを繰り返す事件は、正直、理解しがたい。これまで、こんなことは見たこともないし、聞いたこともない。

特に理解しがたいのは、この暴力や嫌がらせがおおぴっらに行われていたのに、だれもとめなかったことだ。

小学校というのは密室なのだろうか。子どもたちが各家庭から来ているから、親たちに話が伝わるはずである。親たちは、自分の子どもに火の粉が飛ぶのを恐れ、黙認していたのだろうか。

教師も、暴力や嫌がらせをした4人とその対象になった同僚(複数のようだ)だけでなく、どちらにも属さない教師たちがいたはずである。とめなかったということは、容認したのである。彼らは、親たちより罪が重い。

校長や副校長は教師を管理していたはずである。繰り返し暴力や嫌がらせを受けた教師は、校長や副校長に訴えたという。みんなが暴力や嫌がらせを目撃していたのだから、わからないはずはない。黙認した親たちや容認した同僚の教師より、はるかに、罪が重い。

市教育委員会にその話が伝わらないはずがない。教育委員長は神戸市長が任命した。すると、不適切な人を神戸市長が任命したことになる。校長の任命権は教育委員会にあるはずだ。

政治学者の姜尚中は「AERA」2019年10月28日号で、戦前の古参兵が新兵をいたぶり、しごき、リンチするのに似ていると言う。暴力を、将校たちは容認し、仲間の兵士は黙認していたのだ。

私の記憶の小学校では、このようなことを目撃しなかったし、聞いたこともない。私の子どもの頃は日本に戦後民主主義がまだあった。学校の教師たちは、平等だったし、仲間意識があった。

現在の小学校の教師は、上司から評価を受け、賃金格差がある。上司とは、校長や副校長や学年主任である。昔と違って、教師の中に上下関係が出来上がっている。今回の暴力や嫌がらせは、この上下関係の中で、上が下に行う形で行われている。

しかも、神戸市では、校長が自分の好きな教師を引き抜くことができるから、昔より、権力が強い。校長が新人教師を虫けらのように思っていたのだ。自分の経歴に傷つくのを恐れ、教育委員会に解決しているかのように報告したのだろう。

文部科学省が導入した教師の管理体制が、学校の教師のモラルを崩壊させたと思える。子どもたちを教える教師同士の仲間意識が崩壊しているから、暴力や嫌がらせが起きても、とめない。

本事件は、事実をちゃんと調べて裁判に付すべきである。校長も教育委員会も裁かれないといけない。

津久井やまゆり園殺傷事件の裁判員裁判への注文

2019-10-26 22:37:52 | 津久井やまゆり園殺傷事件

2016年7月26日、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、当時26歳の元職員が、入所者19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせた。翌年の2月に起訴されたが、裁判員裁判のための公判前整理手続で論点整理がつかず、3年近くたっても、公判が始まらなかった。

ようやく、横浜地裁は、来年の1月8日に初公判、25回の審理を経て、3月16日に判決を言い渡す、と この10月2日に発表した。

この短い期間の裁判で津久井やまゆり殺傷事件が裁けるのか、私は疑問に思う。裁判長と検察と弁護側が3年近くかけて論点整理をし、一気に裁判員裁判を行うのでは、民間から選ばれた裁判員は他なる置物になる、すなわち、裁判員制度が儀式になる、と危惧する。裁判の公正性は、公開の場で議論されることからくるもので、非公開の場での議論はあくまで密室のはかりごとである。
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どうも、裁判で争う論点が、被告が「心神喪失」か「心神耗弱」かに整理されたようであるが、これはおかしい。

被告は、遺族に悲しみを与えたこと、安楽死を選らばなかったことを反省しているが、生きていても役にたない人間は殺すことが正義だと、いまなお、主張している。

であるならば、裁かれるべき第1の論点は、「重度障害者を生かしていくと社会はやっていけない」とか「重度障害者は生きていても幸せなことはない」という被告の信念である。

第2の論点は、どうして、元職員がそういう信念にいたったかである。それは情緒酌量になるのか、ならないのかである。

第3の論点は、元職員が殺傷事件を行うのを、津久井やまゆり園側で、防ぐ手立てを尽くしていたかである。

短期間の裁判となると、裁判員裁判を行っても、裁判長と検事と弁護士がしめし合わせた地点に着陸する危険がある。これを防ぐためには、裁判の前に、メディアが本当の論点を示す必要がある。
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知的障害児にかかわっている者からすると、津久井やまゆり園で重度障害者への虐待が日常化していたのではないか、という疑いがある。少なくても、これまでの証言から、夜間は、重度障害者を外からカギをかけて部屋に閉じ込めている。精神科病棟で法が保証する、利用者(患者)が外部へ連絡する自由も、施設が与えていなかったように見える。当日、被害者は、どこにも連絡できていない。

また、横浜市のNPOぷかぷかは、施設が障害者に身体拘束をほどこしていたのではないか、という質問状を神奈川県に送っている。この質問状に対して、県は正面から答えていない。私のNPOでは知的障害児の子育てを助けているが、NPOぷかぷかは大人になった障害者に働く場所を提供している。働くことは障害者に誇りを与える。

弁護側が被告を勝手に頭がおかしいとせず、被告の信念を述べさせ、その信念はどこから生まれたか、学校教育に責任があるのか、それとも、津久井やまゆり園に責任があるかを、証人証言を利用して明るみださないといけない。

検事側は、被告の信念を否定する論理を述べるべきである。刑罰の重さで殺傷事件が防げるという安易な考えに陥らず、なぜ重度障害者を殺していけないとするか、社会に向かって発信しなければならない。

裁判長は、裁判をとおして、このような事件の起きる日本社会を告発しなければならない。