猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

チャールズ新国王の戴冠式に各宗教界の長が参加する不思議

2023-05-06 23:35:08 | 宗教

きょうBBCは何時間もチャールズ皇太子の戴冠式(coronation)を中継した。驚いたのは、各宗教界の長が祝福するために集まったということだ。英国教会だけでなく、カトリック、プロテスタント、正教会、イスラム教シーア派、イスラム教スンニ派、ヒンズー教、ゾロアスター教、仏教の長がという。正教会の長は二人いて、二人とも黒い角帽のようなものをかぶり杖をついていた。仏教の長はダライラマのように黄色の布を体にまいていた。

これら宗教界の長は何者だろうか。なぜ。英国の王室のためにあつまったのだろうか。聖職者とは弱い者のために尽くすのであって、地上の権力者を祝福するために集まっていいのか。そんな聖職者はインチキである。チャールズとともにみんな死んでしまえ。

だいたい、BBCもおかしい。英国民の半分が王制に反対なのに、チャールズ皇太子の戴冠式を延々と放映するなんて。偏っている。

英国王室も時代錯誤のような儀式にお金をかけるのは、エリザベス女王の葬式を最後にやめるべきだった。


Eテレ『こころの時代~宗教・人生~』シリーズ「問われる宗教と“カルト”」

2022-10-23 22:32:22 | 宗教

NHKのEテレ『こころの時代~宗教・人生~』で、統一教会問題を受けて、宗教問題の研究者・宗教者6人が一堂に会し、宗教の在り方を議論した。

宗教が危険なものを内在しており、取扱いに注意がいるとの認識を6人とも共有していた。が、論者が宗教関係者に限定されており、私には物足りないものだった。牧師や僧侶に伝統的宗教を守ろうという態度が見え、研究者には信徒のこころを傷つけたくないという態度が見えた。

現代社会では人々は宗教をもはや必要としないと言い切る者が、議論の場にいなかったことが、私には残念である。

カルトにひっかからないのために、公教育で「宗教リテラシー」の授業が必要だと、嬉しそうに、牧師の小原克博(同志社大学部長・研究科長・教授)が話すのに誰も反論しないのが、私は不満である。

小原が自分の主張の裏付けとしたのは、ドイツでは、宗教の教育が公教育で必須になっており、プロテスタント系かカトリック系のキリスト教か倫理を生徒が選ぶようになっている、最近はイスラム教も加ったということである。

現実の「宗教」には、「教団」と「信徒」という実体があり、「信徒」に「信仰」を求める。「信仰」とは、疑念をもたずに、「教団」に従うことである。キリスト教では「信徒」をまとめるのに、教会で一体感を醸し出す「儀式」を行う。

現実の宗教は自分というものを放棄することを求める。自分の頭で考えることを否定する。

なぜ、「宗教リテラシー」の名目で、公教育で宗教を教え、国が権威を与える必要があるのか。

議論に参加した6人は、「宗教」を「科学」の抜け落ちているものを補うものと考えているようだが、「科学」は人間の客観的な世界認識に関わるものであり、それを補うものとして、「倫理」や「哲学」がある。「科学」には価値判断がなく、「倫理」や「哲学」が価値判断に関する情報を与える。

政府が「宗教」にお墨付けを与えて「迷信」を肯定する必要にどこにもない。政府が「教団」を「宗教法人」と呼んで、税制で優遇する必要はない。

現在のキリスト教の「地獄」「天国」も、イエスやパウロの時代にはなかった。キリスト教団が現実の社会での支配者になれなかったことから、社会の権力者と教団との二重権力体制を築くために作った、後の時代の虚構である。

現在の仏教団も、親鸞が否定したにもかかわらず、呪術や呪咀が生き残っている。反論すると急に「嘘も方便」と居直る。生まれ変わり(輪廻)なんて迷信である。

公教育では、宗教を思想史の枠の中で扱うのが、適当であると私は思う。バートランド・ラッセルは『西洋哲学史』(みすず書房)の中で、カトリック、プロテスタントの教義を批判的に取り扱っている。カルトにひっかからないのためには、自分の頭で合理的に考える訓練を施したほうが良い。


インチキ宗教に若者が引っかかるのは日本の政党活動が弱いからでないか

2022-10-02 23:56:40 | 宗教

きょう、たまたま かかっていた、TBSの『サンディ・ジャポン』に、太田光、有田芳生、ひろゆき、ディープがでていた。太田が統一教会の信者が不当なバッシングを受け、脱会を迫られていると言うのに対して、有田が「自分の知っている信者さんは いい人ばかりだ」と言って太田の興奮をいさめようとした。太田のマ インドコントロールを解こうとしたのだと思うが、有田の「いい人」という言葉に引っかかった。

突発的な犯罪が起きたとき、近所の人が、「いつも挨拶をし、おとなしそうで いい人なのに」と言うことが多い。一般に、「いい人」という語にこめられる意味が 曖昧である。

「いい人」とは、慈善活動をする人のことなのか、それとも、相手に丁寧に対応する人なのか、それとも、社会の決まりに従順な人なのか、それとも、無知な人なのか。

本当に 「いい人」なら、宗教団体より前に、政治理念をもって社会を良くしようと思っている政党が、「いい人」をリクルートすべきではないかと思う。

宗教の信者になるのは、親が熱心な信者で子どものときから教えを受けていたか、そうでなければ、非常に困っているとき、たまたま、宗教団体の信者や布教者に優しくされたか、そうでなければ、人のために役立ちたいと思っていたからだ、と思う。

社会を良くしようと思っている政党が、困っている人をほっといていいのか、と思う。ほっとおかなければ、困っている人がインチキ宗教に引っかからずに済む。

また、人のために役立ちたいと思っている人が、社会を良くしたい政党にはいることは、とても良い話しだと思う。

新入生を原理研に任しておくよりも、大学構内の政治活動をおおやけにした方が良いのではないか。統一教会や創価学会の信者ばかりが選挙のボランティア活動をしている現状にとても違和感を覚える。アメリカでは、民主党や共和党の選挙活動に大学生がボランティアとして参加している。

中学、高校で、人権とか三権分立とか選挙とかを教えているが、政党活動を社会にとっていかに大事なことかも教えるべきである。教師や生徒の政治活動を公認すべきである。

政党活動がおおやけになれば、自民党のうらに日本会議や統一教会や経団連がいるとか、公明党のうらに創価学会がいるとか、がなくなるだろう。政党が他の団体に操られているのは、民主主義国として不健全なことである。


怒れる神の手のうちにある罪人、宗教はやばい

2022-09-29 22:16:35 | 宗教

「統一教会」だけでなく、宗教にはヤバくなる要素がある。「信教の自由」を盾に、宗教団体が暴走始めれば、詐欺組織や暴力組織と変わらなくなる。

森本あんりの『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)で、18世紀のアメリカでのエドワーズの説教を読んだとき、これではカルトではないかと思った。

<あなたがたは、怒れる神の手のうちにある罪人です。神は、燃えさかる地獄の業火の上に、今にも焼き切れそうな細い糸であなたをつり下げています。>

<昨晩あなたが目を閉じて眠った後、地獄に落ちることなく再びこの世に目を覚ますことができたのは、まったく何の理由もないことです。今朝あなたが起きて後、地獄に落ちなかったことには、何の根拠もありません。ただ神の手があなたを支えていたにすぎないのです。>

この説教は、教会に集まる信徒に不安を煽っているのではないか。じっさい、アメリカでは、「信仰復興」(リバイバル)といわれている、集団ヒステリーが何度も起きている。

人間はなまじ予測する能力があるから、不安に陥りやすい。そして、言葉で自分の不安を他人に伝えることができる。ここに、「信教の自由」の問題がある。

布教という名で不安を煽る。悪意がなく、集団ヒステリーが起きるだけで、一夜明ければ、収まるかもしれない。

しかし、詐欺集団が不安を煽ってお金儲けをたくらむということは充分ありえる。どうやって、それを防ぐか議論を進めなければいけないだろう。議論を進めれば、いたずらに不安を煽られずに、すなわち、不安に対する抵抗力を、人々が持てるだろう。

このキリスト教リバイバル運動の問題点は、根拠もなく、人を「罪人」だと非難することにある。そういう宗教はカルトである。新約聖書を読むと、パウロの手紙にも、その気配が感じられる。

日曜礼拝において、十戒を全員で唱え、全員で神に許しを求めるのも、カルトに堕ちいる入り口である。

叱る文化も良くない。子どものときから、人間を肯定的に捉える環境においてこそ、本当のやさしさが育つと思う。

もちろん、人間の心に不安があるのは、警戒を怠らないのために必要なことである。地震があれば、津波の襲来を予測するのは正常な反応だろう。問題は不安を煽られてパニックになり、合理的な対応をしないことである。

北朝鮮や中国からミサイルが飛んでくるという自民党や一部の新宗教の言い分には、不安を煽って軍備を増強しようという企みを感じる。話に合理性が感じられない。統一教会と同じくカルト集団ではないか。


「統一教会」だけでなくすべての宗教はヤバいと思うようになった

2022-09-28 23:56:53 | 宗教

7月8日の安倍晋三殺害事件で統一教会(世界平和統一家庭連合)のヤバさが明るみに出た。この事件が契機で、私は宗教全体がヤバいものではないかと思うようになった。

私は、新宗教だけでなく、程度の差があれ、キリスト教も仏教(仏法)もヤバいと思う。それは、宗教というものは、人間の弱さを利用している。信仰とは信じて疑わず、永遠に忠誠を誓うことだからだ。そして、その対象となる教義は、人間の作ったものにすぎない。

現代人は、脳が壊れているのでない限り、自分の心の弱さに甘えてはいけないと思う。何が良くて何をしてはならないのか、自分の頭で真剣に考えるべきだと思う。他人の判断に任してはいけない。

私は、あす、トーマス・レーマーの『ヤバい神 不都合な記事による旧約聖書入門』(新教出版社)を図書館に返さなければならない。最初ぱらぱら全体を読んだが、護教論の印象が強く、それ以上読む気が起きなかった。そして、借りて2週間がたとうとしたとき、ようやく、二度目の精読の意欲が出てきた。レーマーと対決するためだ。

レーマーは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)が書かれた時代背景を語り、現代の価値観から旧約聖書を批判していけないと言う。この主張に私は同意できない。宗教は私たちの行動に影響を及ぼしてくる。したがって、つねに、宗教を自分の価値観に基づき批判的にとらえなければ、宗教団体に洗脳され、利用される危険に陥る。

レーマーの発見の要点はモーセーの六書(ヨシュア記を含む)は、当時のアッシリア帝国の文書作法にもとづいて書かれていることだ。神に忠誠を誓う様式はアッシリアの帝王に忠誠を誓う様式にならっていると言う。しかし、そのことが、旧約聖書の神が好戦的だということを、正当化するわけではない。

モーセの五書にもアラム語の用法が見いだされる。ということは、後の時代の書き換えが頻繁にあったということだ。ヘブライ語辞書を作っているとそれをひしひしと私は感じる。

聖書研究者が、現代の信者を傷つけるからといって、ヤバい神を弁護してヤバくなかったというのは、好ましくないことだと思う。

レーマーがこのような態度をとるのは、ナチスのユダヤ人迫害の事件があったからだと私は思う。確かに、レーマーが序論に書いているように、ドイツには旧約聖書を新約聖書から切り離そうというキリスト教の1つの伝統があった。フリードリヒ・シュライアマハー(1768~1834)、アドルフ・ハルナック(1851~1930)、ルドルフ・プルトマン(1884から1976)がそうである。日本人では田川建三がそうである。しかし、彼らは別にユダヤ人の迫害や抹殺を考えていたわけでない。ナチスのユダヤ人虐殺と キリスト教から旧約聖書の排除とを別個の問題と考えるべきである。

エッカールト・オットーは『モーセ 歴史と伝説』のなかで、律法学者と預言者たちとの対立があった、律法学者のなかに、ユダの地に固守する立場とディアスポラを肯定する立場があったとして、ヘブライ語聖書の多様性を主張する。私はそれに加えて神の存在に疑義をとなえる立場もあったと考える。それなのに、多様性のあるヘブライ語聖書が宗教を規定すると考える人たちがいるから、他の人たちに迷惑をかけるようになる。

宗教をもって、人の弱い心をかたくな心に変えたからといって、何も良いことはない。