数日前、朝日新聞の《耕論》に『「趣味は」と聞かれても』というテーマで3人のインタビューが載っていた。オピニオン&フォーラムで取り上げるような話題のように思えないが、無趣味だと体裁が悪いと思う人が増えたのか、それとも、生きていく意味がないと感じる人が増えたのであろうか。どうも、新聞がこのテーマを企画したのは、無趣味でいいのだというメッセージをみんなに伝えたかったのではないだろうか。
私の母は、生活に余裕ができたとき、私の父に趣味を持てとよく言っていた。子どもの私としては母の意図がわからなかった。今でも、母がどうしてそんなことを父に言っていたのか、謎である。
父は兄の作ったラジオで落語や講談を聴いていた。子どもの私は父のそばで一緒にそれを聞いていた。聞こえてくる話はじつに面白かった。落語や講談を聴くことは立派な趣味だと思う。
父は探偵小説を読むのが好きであった。また、芥川龍之介を大作家だと思っていて、出版があると、買ってきて読んでいた。それも立派な趣味ではないか。
父は映画を見に行くのが好きであった。チャンバラでも西部劇でもなんでも良かったようである。それも立派な趣味ではないか。
母が趣味と考えるものは、落語や講談を聴くことでも、小説を読むことでも、映画を見ることでもなかった。母自体の趣味は手仕事である。絵を描いたり縫物をしたりすることである。
母が父に勧めていたのはコレクションである。砂浜で貝殻を集めること、川で石を集めること、切手を買い集めること、古銭を集めることなどである。こんなに珍しいものを集めたと自慢できることが、趣味を持つということらしい。
母の勧める趣味はなんとなく田舎臭い感じがする。旦那衆の趣味である。
父は東京育ちだから、そういう趣味を持ちたいという気持ちがなかったと思う。しかし、父は母に従ってコレクションを始めた。
母はなぜ父にコレクションを勧めたのだろうか。ひとつは父が老人性ウツになるのが怖かったからではないのか。また、東京育ちの父を理解できなかったからではないのか。また、女道楽を始めるのを防ぐためだったのではないか。
母はブスであった。父は美男子だった。母が父を手元において置くために、父をリードして自分の方が優越していると思わせたかったのではとも思う。
私は別に趣味はいらないと思う。私にはやりたいことはいっぱいあるし、齢をとるとのろまになるので、時間がいつも足りない。もちろん、何か成し遂げねばとも思わないので、このまま、いそがしい、いそがしいと言いながら、死ぬのだと思う。死を迎えてだいじなのは、みぢかにいる人をいつも大切にすることぐらいである。