猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

入管法改正に反対の意思を示した小泉今日子の勇気

2023-05-08 16:56:26 | 自由を考える

けさ、朝日新聞に小泉今日子のインタビュー記事『言い続ける強さ 見せなきゃ』がのっていた。政治的な発言を彼女がインターネットに投稿したら、中傷の標的になったという。

「〔コロナ禍〕そんな時に、何だか勝手に事が進んでいることがあるってことに、よりみんなが不安になっているって見えて、これはちょっと小さな風穴を開けた方がいいのではないかなと思って、それで自分も意見を言ってみようかとな思った」

日本は国民主権の国のはず、民主主義の国のはず。誰でも思ったことが自由に言えるはず。

政治家でないと政治に自分の意見を言えないなんてあっていいはずがない。

ところが、自分の意見をネットにのせたら、「芸能人のくせに」とか「アイドルのくせに」とか、ツイッターで中傷がたくさん来たという。「しんぶん赤旗」の取材を受けたら、「共産党員」と決めつけられ、「真っ赤っかになったおばさん」とか「共ン共ン」とか書き込まれたという。

ところが、彼女は、「色々言われるのも仕事のうち」「ドラマに出ても、下手だ、ブスだ、太った、老けたとか、何をやっても言われる立場で仕事をしている」と言ってめげない。「私はもう50歳も過ぎた人間だし、言い続ける強さみたいなものを見せてあげないと」と闘志を燃やす。

息子の話だと、いま、彼女は政治的発言のため仕事から干されているらしい。彼女のように、おかしなことはおかしいと言える社会でないといけない。みんなで、自由に本当のことを言うことで、彼女を応援しよう。


思うがままに話し振るまうことがスラブの自由である

2022-03-31 23:04:32 | 自由を考える

(1906年、長崎でロシア語新聞が発刊された)

自由とは何か。中学の『公民教科書』を読んでも何がなんだか、わからない話が出てくるだけである。教師は、どうやって教えるのだろう。

それに対し、土肥恒之の『ステンカ・ラージン : 自由なロシアを求めて』(山川出版社)の冒頭に、もっと、わかりやすい「自由」の説明がでてくる。

《 「ヴォーリヤ」(自由)、それは行けども行けども果てしがなく、大きな河の流れに乗ってどこまでも旅をすることができ、自由の息吹、見はるかす大地の息吹を吸い込み、風で胸を一杯にふくらませ、頭の上に大空を感じ、足の向くまま気の向くままに、どこへでも行くことができる大きな空間です。》

これは、中世文学史家ドミトリィ・リハチョーフの言葉の引用だという。まさに、私が50年以上前に求めていたものだ。

「ヴォーリヤ」とはロシア語でどう綴るのだろうか。ネットで、日本語の「自由」をロシア語に翻訳させても、「ヴォーリヤ」という語は出てこない。仕方がないから、「ヴォーリヤ ロシア語」でネット検索をかけた。ほとんどカスばかりだったが、ついに、1906年に長崎で「ヴォーリヤ」というロシア語の新聞が発刊されたという観光紹介を見つけた。その写真から綴りがわかった。

「воля」である。

Wiktionaryで調べると、ブルガリア語にもロシア語にもウクライナ語にも「воля」があり、「will, freedom, desire」の意味だとある。「ヴォーリヤ」とは人や国家に左右されず、自分の思いを述べ、行動することである。

Wiktionaryには音声ファイルがあり、聞いてみるとロシア語では「ヴォージャ」に近く聞こえ、ウクライナ語では「ヴォーヒャ」に近く聞こえる。語尾の「я」は二重母音でなく、短母音である。「ヴォーリャ」と記したほうが良いようだ。

ロシア語版、ウクライナ語版ウィキペディアで、「воля」の項を見ると、ロシア、ウクライナ、ポーランドのいたるところで、それが地名として使われていることがわかった。逃亡農民が住みついた地である。

「それは行けども行けども果てしがなく、大きな河の流れに乗ってどこまでも旅をすることができ」は、シベリヤのことではなく、ウクライナの地だったのである。じっさい、19世紀につくられたウクライナ国歌の第1節に「воля」が出てくる。

 Ще не вмерла України і слава, і воля.

1991年ウクライナが再度独立したとき、この国歌が復活する。日本の「君が代」よりずっとマシな歌詞である。

土肥恒之は、先ほどの書で、ウクライナ東部のドネツク州のコッサク(スラブ語ではカザーク)のモスクワに対する反乱の物語、ステンカ・ラージンの物語を伝える。


支配することと支配されること、『パージ:エクスぺリメント』を見て

2022-01-29 22:31:21 | 自由を考える

自由とは何か、人に命令されずに、自分の思いにしたがって行動することである。フロムの『自由からの逃走』という本もあるが、本来、「自由」は、少しも難しいことではない。人間は生まれたときから、周囲から切り離され、自分の脳で判断し、行動するようにできている。ところが、経験や教育を通じて、人間は自由を失っていく。

人に命令されることは嫌だという人は意外に多い。しかし、人に命令することにためらう人は意外に少ない。人に命令されることの不満をわが子にぶつけている親もいる。

支配する人びとと支配される人びとは、歴史上、いつも、支配される人びとが圧倒的に多数だった。

少数者が多数を支配するには、何かのトリックがいる。

古代ギリシアで、スパルタがこの問題に出くわしたとき、恐怖を利用した。スパルタは征服した民を、自分たち共有の奴隷(ヘイロタイ)とした。闘う以外の労働はすべて奴隷にさせた。ウィキペディアによると、約1万人のスパルタ人に対し、20万人のヘイロタイがいたという。反乱を防ぐため、支配を維持するため、スパルタ人の間では徹底的な平等をつらぬき、いっぽう、ヘイロタイに対しては恐怖で徹底的に抑え込んだ。

たとえば、若いスパルタ人がヘイロタイを度胸試しに軍事教練として殺すことを認めていた。また、1年に一度、公式にヘイロタイに向かって戦線布告をし、殺しまくった。忠誠を誓うヘイロタイを解放し自由民にするといって、申し出たヘイロタイを密かに殺したという話しも伝わっている。歴史的に確実なのは、スパルタ人共同体は、涙ぐましい努力にもかかわらず、滅びたことである。

スパルタに負けたアテナイでは、プラトンは、スパルタの影響をもろに受け、家族の廃止を含む支配者層の間の徹底的平等を著作『国家』で「理想国家」としてる。

歴史をみると、スパルタを除いて、支配者層の間の徹底的平等をつらぬいてないように見える。反乱や内戦を防ぐために、なんらかの権威が使われた。古代ローマでは法などの権威に、ヨーロッパでは血筋や神などの権威にもとづいて、少数者が多数を支配した。もちろん、恐怖は依然として利用されている。

近代において王権の権威が衰えるとともに、少数者が多数者を支配するにあたって、「能力の差」が新たな権威として使われてきた。100年前のドイツ映画『メトロポリタン』では、「頭」が「手」を使うことが当然のように描かれている。

能力差を作ることは、教育によって何とでもなると、プラトンは『国家』で言っている。

また、古代ローマの「法による秩序」も安倍晋三や中国の政権などによって使われている。「法」の権威が依然として続いている。

岸田文雄が口にする「資本主義社会」では、生産手段をにぎった者が支配者になり、他の者を賃金労働者として支配する。生産手段をにぎるにはお金がいる。だから資本主義という。賃金労働者の反乱を防ぐために、能力の差、法による秩序を錦の御旗にし、支配者層は、学校教育で子どもたちを徹底的に洗脳している。

支配者層が子どもたちを洗脳するのでなければ、国による教科書検定は不要である。

資本主義社会には、お金儲けの「自由」があるというが、それは神話で、お金儲けは「奪うこと」であり、奪わない「自由」を求める者には貧しさへの道しかない。

映画『パージ:エクスペリメント』は、少数者が多数者を支配するのは大変だから、少数者が多数者の何割かを殺して、負担を軽くしようという映画である。かなり無理があると思う。支配という構造をなくすほうが簡単だと私は思う。


眞子と圭、結婚おめでとう、アメリカでの自由な新生活が始まる

2021-10-26 21:50:49 | 自由を考える

眞子と圭の結婚をなぜ悪く言う人がいるのか、私にはわからない。そのことのために、何年も結婚できなかった。辛かったと思う。苦しかったと思う。きょうから、愛し合うふたりは思い切り抱き合うことができる。

結婚おめでとう。

これまで、眞子様には戸籍がなかった。皇室に属する男女、いわゆる皇族には戸籍がないのである。無国籍者なのである。日本国民ではないのである。

オカシイではないか。天皇家に属すると人権はなくなるのか。憲法のいう「国民は」「何人も」から、なぜ除外されるのか。

憲法は「皇室」を定義していない。

日本国憲法第2条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」

これは、誰が天皇になれるかを、法律「皇室典範」が定めるということであって、天皇家を「国民」から除外すると憲法が決めているわけではない。

これまで眞子様に戸籍がなく、憲法の定める人権が剥奪されていることを、どうして、憲法学者は問題視しなかったのか。同じ人として生まれた者を、人として認めない社会は間違っている。たまたま、平成天皇の孫にうまれたばかりで、自由が剥奪されるのはオカシイ。

小室圭の母親が婚約者と400万円の金銭トラブルを起こしたからといって、なぜ、小室圭と眞子様は結婚していけないのか。そのことを騒ぎ立てる週刊誌編集者の見識を私は疑う。

また、きょうの結婚記者会見の質問を宮内庁が事前に求めたとき、質問が、圭の母親の金銭トラブルにどう責任をとるのか、圭が米国のフォーダム大学の法科大学院に入学できたのは皇室の力ではないか、など悪意に満ちたものだったようである。日本雑誌協会の人権意識の低さを示すできごとだ。

きょうの結婚記者会見はやって良かった。眞子の賢さが はっきりと うかがえた。

眞子は、小室圭がアメリカに渡って法科大学院に入ったのも彼女の意思であると述べていた。圭がさきに行って、アメリカでの生活の足場を作ってもらうためだと 彼女は はっきり 言っていた。

眞子と圭、自由を剥奪する日本から自由のアメリカへの脱出、おめでとう。ぜひ眞子と圭に幸せになってほしい。きょう、50年前に私と妻が結婚したときのワクワク感を思い出し、心がぱっと明るくなった。愛し合うことは素晴らしいことだ。


公民の中学教科書の「自由権」について東京書籍と育鵬社を比べる

2021-05-28 23:27:08 | 自由を考える


横浜市では、2011年から一律に市立中学校で、育鵬社の歴史と公民の教科書を使ってきた。私は、その内容に違和感あるいは異議を抱いていたので、昨年8月、市教育委員会が2021年度から使う教科書として、歴史は帝国書院版、公民は東京書籍版を選んだことを、単純に喜んだ。

今月、東京書籍の公民の教科書をNPOが購入したので、早速使ってみたが、問題はそんなに単純ではないと思った。

私がNPOで担当しているのは、知的か精神的に何らかの問題をもっていて、社会に参加できない若者たちである。公民の教科書が、社会に出ていくのを助けるのに役立てば、と思ったのである。

今回、選んだのは、「自由権」である。東京書籍の公民教科書の「自由権」の項を声を出して読んでもらい、何らかの対話を行いたいと思ったのである。

X君が読み終わったので、「自由とはなんだと思う」と尋ねたら、即座に「自由気ままにふるまうこと」と答えられ、「早くパソコンで動画を見たい」と言われ、言葉に窮した。X君の問題は、読むことはできるが、その趣旨がつかめず、いつもうわの空で、すきあれば、自分のしたいことだけをしようとする二十歳過ぎの子どもである。

しかし、東京書籍にも問題がある。「自由権」の説明はつぎで始まる。

《私たちが個人として尊重され、人間らしく生きるためには、自由に物事を考え、行動できることが重要です。これを保障しているのが自由権です。》

これは、普通の中学生でも理解できる内容とは思えない。

いっぽう、育鵬社の教科書は、「自由権」をつぎのように説明する。

《独裁者による一方的な支配や社会的な抑圧からのがれて、自由に考え自由に行動することを求めるのは、人間としての切実な願いです。……。日本国憲法はつぎのよう自由権を手厚く保障してしています。》

育鵬社の言葉が一見難しいように見えても、教師が内容を説明しやすいのは、やはり育鵬社の教科書だろう。

教師は育鵬社の記述をつぎのように説明できる。

「昔から、世の中は、支配するものと支配されるものに分かれたり、抑圧するものと抑圧されるものとに分かれたりする。支配するもの、抑圧するものは、自由気ままにふるまうが、支配されるもの、抑圧されるものには、なんの自由もない。こんなことでは、不公平だから、不公平をなくすために、日本の憲法は、みんなに「自由権」があると、言っているだよ。」

いっぽう、東京書籍の「自由権」を説明しようとすると、「個人として尊重」「人間らしく生きる」を理解してもらう必要がある。しかも、それらのために「自由に物事を考え、行動できることが重要」という理屈が、説明しがたい。

「個人としての尊重」は「人間ひとりひとりの思い、例えば何が好きだとかは、それぞれ違うが、違っていいのだよ」と説明できる。

「人間らしく生きる」となると、道徳的なことを言うのか、経済的なことをいうのか迷ってしまう。道徳的となると、「人間とはどう生きるべきか」から説明する必要がある。他人に優しいとか、他人の悩みを共感するとか、自分だけ いい思いをしてはいけないとか、いう話しになる。

ここは、「自由に物事を考え、行動できること」に結びつくためには、どうも、「人間らしく生きる」は「ゆたかに生きる」ことを意味するようだ。これだと、あとに出てくる、憲法が「経済活動の自由を保障」という文と整合性がとれる。

しかし、そうだとすると、「自由権」とは金持ちだけのためのものになってしまう。

また、「精神の自由」の説明は、育鵬社の説明のほうが単刀直入で子どもにわかりやすい。

《特に重要なのは表現の自由です。表現方法には言論、出版、音楽、インターネットデモ行進などが含まれます。》

不思議なことに、東京書籍の「精神の自由」には、これに対応する記述がない。表現の自由とは、「インターネット」や「デモ行進」などで、みんなが「自分の意志」を表示できることなのだ。

「精神の自由」とは「精神」という言葉が新鮮で輝いていたときに意味があったので、現在では、「こころの自由」と誤解される。「こころの自由」なら、奴隷でも、強制収容所にいても、本人の努力で持てる。そうでなく、憲法がのべているのは、自分の意志をもち、その意志を表現することの肯定である、と思う。

東京書籍の記述は、何か自己規制をしていて、白々しいのである。