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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

宇野重規の『西洋政治思想史』は薄くて便利だが注意深く読んだ方が良い

2025-03-13 23:04:18 | 思想

宇野重規の『西洋政治思想史』(有斐閣アルマ)は薄いわりに古代から現代までの政治思想の展開の見通しを与えてくれる便利な書である。

しかし、内容に私は満足しているわけではない。私と宇野との間にいろいろな意見の相違がある。

宇野は、民主制(デモクラシー)を攻撃したプラトンやアリストテレスの思想に、好意的な記述をしている。私はプラトンやアリストテレスは西洋の政治思想に悪影響を与えてきたとみている。こういう見方は私だけでない。バートランド・ラッセルは『西洋哲学史』の中で、M. I. フィンリーは『民主主義 古代と現代』の中で、プラントやアリストテレスを徹底的に批判している。

プラトンは、『国家(Πολιτεία)』(岩波文庫)の中で、理想国家は守護者と補助者と一般の働く市民からなり、政治は教育のある守護者が行い、補助者は戦士で、一般の市民は黙々と働くだけで良いと言っている。この身分制を一般の市民に納得させるには、神が守護者を黄金で作り、補助者を銀で作り、農夫や職人を銅や鉄で作ったというウソを広めれば良いとまで言う。

これには、10年前『国家』を初めて読んだとき、びっくりした。

のちにフィンリーを読んでわかったのは、この3階層が古代ギリシアの都市国家にじっさい存在したことだ。金持ちの子息は働くことがなく、広場に集まって議論して毎日を送る。守護者のモデルである。少し余裕のある市民は、いざ戦争のとき、自分で重武装をして参加する。補助者のモデルである。一般の市民、農夫や職人はお金がなくて自分で楯や槍を準備できない。

フィンリ―は、貧しい市民は自分のお金で武装できないが、船の漕ぎ手として、海戦に参加していたという。

民主制の都市国家は、この3階層を区別することなく、市民の全体集会である民会が最高議決機関であった。プラトンは民会を否定しているのだ。自分の出自、金持ちの子息だけが政治を担当するのが理想だと言っているわけである。

プラトンは、民主制では「自由放任」のため貧富の差が拡大して、金持ちからお金を奪いとろうと扇動するものが現れ、僭主制(独裁制)になるから、良くないと主張する。じっさいには、アテネがスパルタに負けた一時期を除いて、アテネの民主制は安定して続いたとフィンリ―は主張する。

ラッセルは、プラトンの理想国家はスパルタをモデルにしていて、プラトンの一族がスパルタに敗戦したあとの30人政権(寡頭制)に関与していたと、指摘している。

政治思想というと、どうしても、書物に引きずられ、文字を書きつづるインテリの声が大きくなるが、社会の実態を調べ,当時、どのような考え方で社会が動いていたかを考察すべきである。

宇野に東大法学部卒の薄っぺらさを感じとってしまう。


マイケル・サンデルの訴え「働くことの尊厳」「共通善への貢献」

2025-02-24 18:14:16 | 思想

ちょうど1カ月前の朝日新聞オピニオン&フォーラムに、政治哲学者マイケル・サンデルへのインタビュー記事が載っていた。

とても懐かしい名である。私は、15年前にNHKの「ハーバード白熱教室」で彼の討論型講義に、夢中になった一人である。

今回のテーマは「働く尊厳を取り戻す」である。私は、まったく同意見であるが、これはほかの人になかなか伝わりにくい。多くの人にとって、「働くのは働かないと生きていけないから」である。

サンデルは言う。

「エリートが自分たちを見下し、〔自分たちの〕日々の仕事に敬意を払っていないという労働者の憤りが、〔昨年の大統領選での〕トランプの成功の根本にあります」

「〔新自由主義者〕のメッセージはこうです。競争に勝ちたければ大学に行け。どれだけ稼げるかは、何を学ぶにかかっている」

サンデルは、新自由主義者が、職によって格差を設け、働く人びとを侮辱しているというのである。

職に貴賤があってはならない。社会は色々な職の人々によって維持されているのだ。働くということは、それによって、みんながみんなとつながっているのだ。

私はNPOで多くの若者と接してきたが、彼らは、働ける場が見つかったとき、喜びに満ち自信を回復する。働くことで仲間ができるのだ。そして、自分が社会を支えていると実感できる。

サンデルは言う。

「自らを生産者と位置づけるとき、……、私たちは共同体の『共通善』に貢献する役割を担っていると気づきます」

今の日本社会は『共通善』という理想を忘れている。


佐伯啓思のいう「リベラルな価値」は変である

2024-10-05 23:56:41 | 思想

佐伯啓思は欧米の思想・文化にコンプレックスをもっていて、自分の被害妄想を広めているので、私は彼が好きでない。今回の朝日新聞〈異論のススメ〉も、タイトルが『自民党は保守なのか』なのに、副題は『米と「リベラルな価値」を共有しても 異なる歴史観』である。多義的な意味をもつリベラルという語を持ち出して、自分の妄想をもって欧米の思想・文化を排斥するというのは、160年前の「尊王攘夷」の論者と何も変わらない。

単語「liberal」をOxford英英辞書を引くと、

  1. giving generously, 2, given in large amount, 3. not strict, 4. broadening the mind in a general way, 5. tolerant, open mind

とある。ここには「自由主義者の」という意味はない。英国では、リベラルは、「太っ腹の」「こころの広い」という意味である。トマス・ホッブスの『リヴァイアサン(Leviathan)』を読んでも、自由はlibertyで、liberalは「太っ腹の」の意味で使っており、金持ちは太っ腹でないと殺されるとの文脈で使っている。

日本語の「リベラル」は、どうも米国のliberalから来ているようだ。

J. ガルブレイスの『ゆたかな社会(The Affluent Society)』では、liberalsはconservativesと対になって使われている。みすず書房の鈴木鉄太郎訳では、liberalsを「自由主義者」、conservativesを「保守主義者」と訳している。しかし、対になっているから、「改革派」と「保守派」というニュアンスであろう。自由市場に政府が介入するニューディールの推進派をリベラルと呼んでいる。

また、岡山裕の『アメリカの政党政治』(中公新書)を読むと、1868年の大統領選挙の後、共和党のリベラル派は「共和党は改革の党であることをやめたとして、リベラル・リパブリカン党を立ち上げ」とある。この場合も「改革派」である。

「リベラル」は、その時点までの主流に対抗する政治的あるいは経済的立場を表わすだけなので、どうしても多義的になる。しばしば反対の思想的立場さえ、リベラルと称することがある。「リベラル」でひとまとめにするのは控えるべきである。

もとに戻ると、佐伯は「リベラル」をつぎのように使っている。

「冷戦における自由主義陣営の勝利は、米国を中心とした世界規模の市場を生み出し、また、自由・民主主義・法の支配、といったこれも米国流の「リベラルな価値」の世界化をもたらした。」

「米国にとって、近代の戦争はすべて「リベラルな価値」を守るための「正義の戦争」なのである。」

「このような歴史観を表明したのは、「ネオコン(ネオコンサーバティブ)」つまり「新保守派」と呼ばれる知識人や政治家であった。」

佐伯は、コンサバティブ(conservatives)がリベラルな(liberals)価値を表明したと言っている。完全に、日本語の理解で語っていて妄想である。また、「自由・民主主義・法の支配」が「米国流のリベラルな価値」だというのも変である。

さらに、「自由主義陣営」というのも日本の保守派のことばで、liberal blocもliberal campも和製英語である。英語では「Western Bloc」「Capitalist Bloc」を使う。これらは、冷戦期に共産主義陣営に反対する諸国のことを言う。

佐伯はこう結論する。

「日本の指導者は、ことあるごとに「日米は価値観を共有している」という。それは、「リベラルな価値」の普遍性を実現するという「ネオコン型」の歴史観の共有ということである。」

確かに自民党執行部が「日米は価値観を共有している」というが、これは、「米政府の意図に日本政府は逆らわない」という言明にすぎない。日本企業が米国市場から締め出されないために、自民党執行部がなさけない発言を繰り返している点については、私は佐伯と同感である。自民党は本当になさけない。


政治不信、代議制民主主義の機能不全をどう克服するのか

2024-07-21 21:50:43 | 思想

1週間前にドナルド・トランプが銃撃されてから、メディアでは、政治の場で暴力に訴えてはいけないという論調が増えている。確かに暴力で正義が実現されるわけではない。しかし、現状の代議制民主主義で正義が実現されているわけでもない。

現在の政治不信は、多くの人にとって自分の意見を代弁する代表が政治の場にいないことと私は考える。政治家にたいする不信である。

2年前の安倍晋三殺害事件の直後の参議員選では、NHK党から立候補したガーシーが当選した。私がNPOで7年間担当している青年は、安部の死に動揺し、はじめて投票権を行使したが、ガーシーに投票した。このときの投票率は52%である。

今月初めの都知事選は彼は投票しなかった。誰に投票したら分からないから棄権したという。選挙結果は、蓮舫を抑えて、石丸伸二が2位になった。

1週間前の朝日新聞に、石丸の選対事務局長のインタビュー記事が載っていた。それによると、街頭演説では具体的政策を何も言わずに、自己紹介に徹したという。ガーシーと同じ戦術である。

現在の政治不信は、政治家に対する漠然とした不信かもしれない。政策なんて誰も聞いていないようだ。

しかし、そもそも、政策で代表を選ぶなんて、できるのだろうか。議会で審議される内容は多岐にわたる。自分たちの代表を選ぶということは、自分たちの利益を守ってくれるだろうという期待しかない。誰にも期待していなければ、目立つオカシナ奴に投票するということになる。

ハンナ・アーレントは、このような状況を階級社会の消滅と言っている。社会には格差が蔓延しており、資本家や経営者は現に存在し、経済や法律の専門家を雇って、自分たちの利益を最大化する政策を立案し、政権に要請している。そのために、自民党にお金があつまる。

階級社会の消滅とは、抑圧されている集団、不等な扱いを受けている集団が、集団としての自己意識を持たず、政治の舞台に参加していない状態である。

正しくは、階級は消滅したのではなく、階級意識をもっている集団と階級意識をもたない集団とで社会が構成されただけである。現実には、社会に不正が蔓延しているが、集団としてそれを抑える意志が政治の場で働かない状態に陥っている。この中で、組織性をもたない「テロ」という暴力事件が起きていると私は考える。

この代議制民主主義の機能不全は、政策で代表を選びましょうでは、解決しない。集団としての自己意識を育てるような文化活動が社会に必要であると考える。


佐伯啓思の『異論のススメ』に異論、彼は偏見を広めている

2024-06-29 22:39:46 | 思想

私は、どうして朝日新聞の編集部がいつも佐伯啓思に戯言を述べさせるのかわからない。彼は、『異論のススメ』と言って、いつも、欧米の民主主義、普遍的価値、一神教の悪口を言って、社会に偏見を広めている。今回は「一神教」を非難している。

彼が悪く言う「民主主義」とは、「代議制民主制」であり、「民主主義」でない。歴史的には、ヨーロッパの議会制は人々を抑え込むために導入したものである。しかし、暴力が政治の前面に出るよりは、選挙と言う平和的なやり方のほうがましである。ハンナ・アーレントの言うとおり、人々の政治への無関心を打ち破る地道な努力が求められる。統治者と統治される者は政治的にも社会的にも経済的にも対等ではない。統治される者は、より高い自己意識と権利意識が求められる。

人間社会は利害の対立する集団からできている。その集団を階級と呼んでも良いし、民族と呼んでも良い。それらの間で妥協が成立するには、何か「普遍的な価値観」が必要となる。したがって、「普遍的価値」の中身が問題で、「普遍的価値」を求めること自体が悪いのではない。「普遍的価値」は「絶対的真理」ではない。

「一神教」も「多神教」も優劣があるのではない。問題は宗教を信じるという行為の危険性である。統治者は人間の宗教を信じる特性を利用するからだ。

「一神教」といっても、いろいろある。

ユダヤ教の神は「民族の守り神」である。ユダヤ教の神は「ヤハウェ」という個人名がある。ユダヤ人はほかの神に尽くしてはいけないというのが、ユダヤ教の本質である。長谷川修一やトーマス・レーマーが述べているように、国を失ったユダヤ人が団結を保持するためにヘブライ語聖書書(旧約聖書)は書かれたものである。いわば、偽書である。

20世紀前半に生じたユダヤ人問題は、ユダヤ人社会が取り巻く社会に同化を進めていたにもかからわず、中欧、東欧で起きた民族主義運動が、ユダヤ人の同化を拒否し、排除し、絶滅に手を貸したことである。ドイツのナチス政権だけでない。ポーランドやウクライナの民族主義者も手を貸したのである。

このとき、英国や米国の政府は、ユダヤ人の避難民に冷たかった。受け入れを絞った。それが、1948年のパレスチナのユダヤ人の国、イスラエルの建設につながったのである。国連はその前年にパレスチナの地をユダヤ人とアラブ人に2分すると決議している。この国連決議を破って、イスラエルはパレスチナの全土を占領しており、先に住んでいたアラブ人を高い塀に囲まれた狭い土地に閉じこめている。これがガザやヨルダン川西岸の現実である。

「平等」「自由」は人間にとって普遍的価値であるはずに、守られなかったことに、現在のパレスチナ問題がある。

これは「一神教」という問題もでない。「多神教」のヒンドゥー教のモディ政権もインド国内でイスラム教徒を抑圧するという問題が起こしている。40年前に、インドから来ているポストドクターからインド政府の横暴の話を私はカナダで聞いている。

人間の心には強欲さや残忍さが潜んでいる。いや、潜んでいるのではなく、それに突き動かされている人間もいる。民族の歴史意識の問題ではない。

佐伯啓思の次の結論は、私にとって、決して受け入れることのできないものである。

「日本の歴史意識の希薄さをわれわれは自覚すべきである。と同時に、21世紀おいてもなお一神教的世界が作り出した歴史観が世界を動かしていることを知るべきである。」

彼は偏見を広めるデマゴーグである。