猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

政治不信、代議制民主主義の機能不全をどう克服するのか

2024-07-21 21:50:43 | 思想

1週間前にドナルド・トランプが銃撃されてから、メディアでは、政治の場で暴力に訴えてはいけないという論調が増えている。確かに暴力で正義が実現されるわけではない。しかし、現状の代議制民主主義で正義が実現されているわけでもない。

現在の政治不信は、多くの人にとって自分の意見を代弁する代表が政治の場にいないことと私は考える。政治家にたいする不信である。

2年前の安倍晋三殺害事件の直後の参議員選では、NHK党から立候補したガーシ―が当選した。私がNPOで7年間担当している青年は、安部の死に動揺し、はじめて投票権を行使したが、ガーシ―に投票した。このときの投票率は52%である。

今月初めの都知事選は彼は投票しなかった。誰に投票したら分からないから棄権したという。選挙結果は、蓮舫を抑えて、石丸伸二が2位になった。

1週間前の朝日新聞に、石丸の選対事務局長のインタビュー記事が載っていた。それによると、街頭演説では具体的政策を何も言わずに、自己紹介に徹したという。ガーシ―と同じ戦術である。

現在の政治不信は、政治家に対する漠然とした不信かもしれない。政策なんて誰も聞いていないようだ。

しかし、そもそも、政策で代表を選ぶなんて、できるのだろうか。議会で審議される内容は多岐にわたる。自分たちの代表を選ぶということは、自分たちの利益を守ってくれるだろうという期待しかない。誰にも期待していなければ、目立つオカシナ奴に投票するということになる。

ハンナ・アーレントは、このような状況を階級社会の消滅と言っている。社会には格差が蔓延しており、資本家や経営者は現に存在し、経済や法律の専門家を雇って、自分たちの利益を最大化する政策を立案し、政権に要請している。そのために、自民党にお金があつまる。

階級社会の消滅とは、抑圧されている集団、不等な扱いを受けている集団が、集団としての自己意識を持たず、政治の舞台に参加していない状態である。

正しくは、階級は消滅したのではなく、階級意識をもっている集団と階級意識をもたない集団とで社会が構成されただけである。現実には、社会に不正が蔓延しているが、集団としてそれを抑える意志が政治の場で働かない状態に陥っている。この中で、組織性をもたない「テロ」という暴力事件が起きていると私は考える。

この代議制民主主義の機能不全は、政策で代表を選びましょうでは、解決しない。集団としての自己意識を育てるような文化活動が社会に必要であると考える。


佐伯啓思の『異論のススメ』に異論、彼は偏見を広めている

2024-06-29 22:39:46 | 思想

私は、どうして朝日新聞の編集部がいつも佐伯啓思に戯言を述べさせるのかわからない。彼は、『異論のススメ』と言って、いつも、欧米の民主主義、普遍的価値、一神教の悪口を言って、社会に偏見を広めている。今回は「一神教」を非難している。

彼が悪く言う「民主主義」とは、「代議制民主制」であり、「民主主義」でない。歴史的には、ヨーロッパの議会制は人々を抑え込むために導入したものである。しかし、暴力が政治の前面に出るよりは、選挙と言う平和的なやり方のほうがましである。ハンナ・アーレントの言うとおり、人々の政治への無関心を打ち破る地道な努力が求められる。統治者と統治される者は政治的にも社会的にも経済的にも対等ではない。統治される者は、より高い自己意識と権利意識が求められる。

人間社会は利害の対立する集団からできている。その集団を階級と呼んでも良いし、民族と呼んでも良い。それらの間で妥協が成立するには、何か「普遍的な価値観」が必要となる。したがって、「普遍的価値」の中身が問題で、「普遍的価値」を求めること自体が悪いのではない。「普遍的価値」は「絶対的真理」ではない。

「一神教」も「多神教」も優劣があるのではない。問題は宗教を信じるという行為の危険性である。統治者は人間の宗教を信じる特性を利用するからだ。

「一神教」といっても、いろいろある。

ユダヤ教の神は「民族の守り神」である。ユダヤ教の神は「ヤハウェ」という個人名がある。ユダヤ人はほかの神に尽くしてはいけないというのが、ユダヤ教の本質である。長谷川修一やトーマス・レーマーが述べているように、国を失ったユダヤ人が団結を保持するためにヘブライ語聖書書(旧約聖書)は書かれたものである。いわば、偽書である。

20世紀前半に生じたユダヤ人問題は、ユダヤ人社会が取り巻く社会に同化を進めていたにもかからわず、中欧、東欧で起きた民族主義運動が、ユダヤ人の同化を拒否し、排除し、絶滅に手を貸したことである。ドイツのナチス政権だけでない。ポーランドやウクライナの民族主義者も手を貸したのである。

このとき、英国や米国の政府は、ユダヤ人の避難民に冷たかった。受け入れを絞った。それが、1948年のパレスチナのユダヤ人の国、イスラエルの建設につながったのである。国連はその前年にパレスチナの地をユダヤ人とアラブ人に2分すると決議している。この国連決議を破って、イスラエルはパレスチナの全土を占領しており、先に住んでいたアラブ人を高い塀に囲まれた狭い土地に閉じこめている。これがガザやヨルダン川西岸の現実である。

「平等」「自由」は人間にとって普遍的価値であるはずに、守られなかったことに、現在のパレスチナ問題がある。

これは「一神教」という問題もでない。「多神教」のヒンドゥー教のモディ政権もインド国内でイスラム教徒を抑圧するという問題が起こしている。40年前に、インドから来ているポストドクターからインド政府の横暴の話を私はカナダで聞いている。

人間の心には強欲さや残忍さが潜んでいる。いや、潜んでいるのではなく、それに突き動かされている人間もいる。民族の歴史意識の問題ではない。

佐伯啓思の次の結論は、私にとって、決して受け入れることのできないものである。

「日本の歴史意識の希薄さをわれわれは自覚すべきである。と同時に、21世紀おいてもなお一神教的世界が作り出した歴史観が世界を動かしていることを知るべきである。」

彼は偏見を広めるデマゴーグである。


「日本人」を決めるのは、血?国籍?それとも見た目?

2024-04-13 20:33:23 | 思想

3日前の朝日新聞〈耕論〉で、『「日本人」を決めるのは』をテーマに3人が論じていた。めずらしく3人の論者の方向が一致していた。

17年前から日本に暮らす文筆家のマライ・メントラインは「多様なルーツを持つ日本人が増えた現在、こうした「ザ・日本人」像の押し付けは、マイクロアグレション(何げない差別)」であると言う。

カメルーン生まれの星野ルネは「(僕は)あえて言うなら「アフリカ系関西人」」「いろいろな日本人がすでにいるのだから、その人たちの人生を見て、それから「日本人とは」という話しをすればいい」と言う。ステレオタイプな色メガネを通してみるのではなく、個人としての自分を見て欲しいと言っているのだと思う。

私と同じ年に生まれた老人の社会学者の福岡安則は「日本人とは何か。それは定義不能」と言う。

私も、定義不能なのに「自分が典型的な日本人だと信じる」のは集団妄想だと思う。精神分析家のウィルフレッド・ビオンが、自己愛の未成熟な人々の集まりは、強烈な自信の持ち主に引きずられ、集団妄想を抱きやすいと言ったらしい。ヒトラーに率いられた1930年代のドイツ、ネタニヤフ政権下の現在のイスラエル、プーチン政権下のロシアも、そうではないか、と思う。

集団妄想は、国のレベルでも起きるし、町や村のレベルでも起きるし、学校や塾や会社でも起きる。差別やいじめの要因となる。

私は、ナショナリズムは自己愛の欠如からくる個人の劣等感の現われ、と思う。早速、確認のために、ビオンの著作を図書館に予約した。

メントラインは「(ドイツも)1999年の法改正で出生主義の要素も採り入れました」と言う。これも、大事な指摘で、国籍を「血統」で決めるべきではない、ということである。

ナチスは、何代も前にキリスト教に改宗していても、ユダヤ人の血が流れているとの理由で、一緒に暮らしていたユダヤ人を強制収容所に送った。

日本人か否かを、血統で決めるべきでも出生地で決めるべきでもない。

民主主義(democracy)の語源 δημοκρατία の δημο は、もともと「地域」を意味する言葉であった。「血統」と対立する言葉である。どの両親のもとに生れたかでなく、同じ地で暮らすものはみんな平等であるというのが民主主義である。

メントラインは、日本の首相が「国民の皆さん」と呼びかけるが、ドイツの政治家は“Mitbürger”と呼びかけると言う。その意味は「ともに暮らす人々」と言う。血統や出生地が日本人であることを決めるのではない。ともに暮らしているという事実が大事なのである。ともに暮らしているのだから、その地の政治に参加できねばならない。


佐伯啓思の『トランプ現象と民主主義』

2024-04-02 18:28:58 | 思想

佐伯啓思が、また、朝日新聞の〈異論のススメ〉で「民主主義」を批判している。前回は「民主主義は非効率で滅びの道に進む」と批判していた。

今回も、佐伯は、民主主義は価値の相対主義を前提とし、最終的に数のよって意思決定する政治体制とする。このことが、大衆に媚びるポピュリストや大衆をだますデマコーグや不寛容な正義の絶対化(ポリティカル・コレクトネス)が生じると批判する。

この佐伯の論理は、大衆がバカだ、とする伝統的な西洋の保守思想に基づいている。大衆がバカなら、だれがバカでないか、私は、彼に聞き返したい。逆に、私は、大衆がそんなにバカでないから、自民党政府が小中高を通して道徳教育を強制し、「君が代」と「日の丸」に涙するよう、子どもたちを洗脳していると思っている。

佐伯は、今回、プラトンも民主主義を相対主義として批判していると書いている。ちょっと違うのではないか、と私は考える。また、プラトンはソフィストを批判しているとする。これも、本当はプラトン自身もソフィストだと思う。プラトンも平気で詭弁を使う。

バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』(第12章~第17章)によれば、プラトンは、戦争で勝ったスパルタに仕えるアテネの有力一族に属し、スパルタを理想に『Πολιτεία』(岩波文庫では『国家』)を書き上げた、という。

プラトンは『Πολιτεία』の中で確かに民主主義を批判している。しかし、プラトンの視点は佐伯のそれと異なる。プラトンは言う。

「貧しい人びとが闘いに勝って、相手側の人々のうちのある者は殺し、あるものは追放し、そして残りの人々を平等に国制と支配に参与させるようになったとき、民主制(δημοκρατία)というものが生まれる」(第8章557A)

「この人々は自由であり、またこの国家には自由が支配していて、何でも話せる言論の自由が行きわたっているとともに、そこで何でも思いどおりのことを行うことが放任されている」(同557B)

「さまざまの国制のなかでも、いちばん美しい国制かも知れない」(同557C)

そして、プラトンは、民主制国家は「自由」を善と規定するので、その自由放任が民主制を崩壊させると言う。一番うるさく話す奴が指導者になって、もてる人々から財産を取り上げて、大部分を自分で着服したあと、民衆に分配し、僭主(独裁者)となると言う。

すなわち、民主制の自由放任が独裁者を招くからいけないとプラトンは言っており、「人々を平等に国制と支配に参与させる」自体を悪いとは言っていない。

民主制国家は人びとにとって居心地が良いのだから、大衆をバカにするより、どうしたら、独裁者を招かないようにしたらよいか、考えた方がよいと私は思う。

実際には、プラトンの言うほどは、民主制が自発的に崩壊して、独裁制に移行することはなかった。

M.I.フィンリーは『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)で、ギリシアの民主制は約300年近く続いたと言う。

また、ローマ帝国は君主政ではなく、共和政なので、これを民主政に含めれば、地中海沿岸の古代民主制社会は民族移動の波に飲み込まれるまで続いたともみることができる。


ハンナ・アーレントの歴史観は間違っていると思う

2024-03-19 20:44:00 | 思想

(1848年のドイツ市民革命の失敗)

ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』(みすず書房)を読みだして、すでに3か月になる。読みだした動機は、ユダヤ人がどうしてガザやヨルダン川西岸でアラブ人を虐待したり殺害したりするようになったのかだったが、彼女の「国民国家の衰退と階級社会の崩壊が全体主義運動と全体的支配とを招いた」の論理がわからず、いまだに読み続けている。

前者の問いは、ユダヤ人のエリート層はいまだに選民意識をもっていて、アラブ人、スラブ人、アジア人を劣った民族とみていることにあると、いま、思うようになっている。

後者の問いに答えるために、ドイツ史関係の書を読み続けてきた。

オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落 』 (中公クラシックス) は読むに堪えない馬鹿げた本である。こんな本が第1次世界大戦後のドイツで大ヒットしたということは、当時のドイツに知的レベルの低い人が多数いたということを示していると思う。ナチスが台頭する土壌をうかがわせる。

フリードリヒ・マイネッケの『ドイツの悲劇』(中公文庫)やセバスチャン・ハフナーの『ドイツ現代史の正しい見方』(草思社文庫)は、それぞれ、ヒトラーが台頭した理由をブルジョワジーの立場から分析するエッセイである。私の立場からすれば、こんなバカな知識人がドイツにいたのかと思ってしまう。アーレントも同じ立場にいるのではと私は考え始めている。

マイネッケとハフナーの違いは前者がプロイセンに批判的、ハフナーが好意的であることだ。アーレントはハフナーに近い。マイネッケとハフナーとの共通点は共産主義に対するすさまじい嫌悪感である。

ドイツの外からみたドイツ史、阿部謹也の『物語 ドイツの歴史』(中公新書)、メアリー・フルブロックの『ケンブリッジ版世界史 ドイツの歴史』(創土社)のほうが、本質をついていると思う。阿部やフルブロックはそもそもドイツ人という民族がいたのか から疑っている。言語が互いに近いというだけで歴史的に文化を共有していたわけでない。

17世紀の30年戦争終結以降は、ドイツは大小100以上の国に分かれて、人々が暮らした。それ以前は、形式上の皇帝は存在したが、カトリックの教皇に権威付けられた象徴であって、ザクセン、バイエルンとか部族単位の社会があっただけだ。皇帝は居城を持たず、家臣を連れて、国内を移動して歩いた。

「国民国家」とは、18世紀後半から20世紀にかけてのドイツのブルジョワジーの幻想である。したがって、国民国家が衰退したというよりも、もともとなかったのだ。アーレントの歴史観は間違っている。

「ブルジョワジー」とは、日本では、ときどき、「市民」と訳されるが、この訳は誤解を受ける。ブルジョワとは城塞都市に貴族とともに住んだ裕福な市民をさしていたのが、城塞都市でなくても、裕福な市民をさすようになった。ブルジョワジーは「有産市民」のことである。「無産市民」は、古代ローマ帝国にならって、「プロレタリア」と呼ばれることが多い。

「国民国家」という幻想がドイツの知識人にあるのは、ばらばらの君主国家がプロイセンのもとにドイツ帝国に統合されていったからである。マイネッケもハフナーも、「国民国家」が市民階級と労働者階級の対立を解決するものと考えている。

アーレントが言う「階級の崩壊」とはこの階級対立の解消を言うようにみえる。第1次世界大戦後のドイツでは、社会民主党が政権を担った。この時代のドイツをワイマール共和国という。

アーレントの両親も社会民主党の支持だったとウィキペデイアにある。社会民主党がドイツ共和国の憲法を作った。しかし、ドイツ帝国軍は解体されず、皇帝の復帰を画策した。ヒトラーははじめドイツ軍の諜報員として働いていたという。また、ドイツ軍は義勇兵と一緒に行動して共産主義者の運動を暴力的に鎮圧した。社会民主党はそれを黙認した。ワイマール共和国は非常に脆い政治的基盤の上にあった。厳然とした「階級社会」である。

マイネッケは、プロイセンを軍人と官僚とブルジョワジーとが支配する国家としてみて、プロイセンの軍国主義を非難する。プロイセンでは軍人=貴族=地主と考えてほぼ正しい。ハフナーはベルリン生まれだから、プロイセンを理想化し、プロイセンが他のドイツを急いで統合したがゆえに、ドイツの悲劇が起きたとする。

どちらにしろ、ブルジョワ知識人の戯言である。しかし、戦前の帝国日本はプロイセンをお手本として「富国強兵」の道を歩んで、過ちを犯したのにもかかわらず、天皇制を残し、知識人はいつまにか資本主義を称賛するようになっている。第1次世界大戦後のドイツと同じ誤りに日本が落ちいる可能性があると危惧する。

[補遺]

「階級社会の崩壊」はもしかしたら、第1次世界大戦後のドイツのインフレーションによる小市民階級(小規模の資産をもつ人々)の没落を言うのかもしれない。アーレントの『全体主義の起源』第9章「国民国家の没落と人権の終焉」に「戦争に続いたインフレーションは所有関係を根底から変えてしまい、階級社会はそこから立ち直れないでいる」とある。大製造業の所有者・経営者は戦後のインフレーションを生き残り、ブルジョワジーと労働者階級の対立は以前として残っており、階級社会は残っている。映画『メトロポリタン』は、SFの形をとって、この事実を当たり前のことかのように描いている。