猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

辞意を表明したからといって、安倍政権の責任がなくなったわけではない

2020-08-31 14:34:41 | 安倍晋三批判
 
先週金曜日の安倍晋三の辞意表明で、急速にメディアは総理の後継者問題に集中している。しかし、安倍の長期政権は選挙に勝つということだけで「正統性」を確保してきたのであり、選挙に勝てたのは党内反対派の締め付けと、電通と一緒になってのキャッチコピー対策だけでもってきたのであって、安倍がいかに日本人のモラルを崩壊させ、強権的な法律をとおし、いかに軍事的緊張を利用してきたか、を批判しなければ、誰が後継者になっても、政治の劣化が進むだろう。

そのときそのときのキャッチコピーを、思い出すまま、ひろいあげてみた。

「決まらない政治から決まる政治へ」「美しい国、日本」「日本を、取り戻す。」
「アベノミクス」「三本の矢」「機動的な財政政策」
「大胆な金融緩和」「異次元金融緩和」「成長戦略」「国家戦略特区」
「私がドリルになって規制という岩盤を打ち破る」
「経済で、結果を出す」「経済の好循環を、さらに加速。」
「この道を。力強く、前へ」「景気回復、この道しかない」
「この国を、守り抜く」「積極的平和主義」「力強い外交・防衛で国益を守る」
「世界の中心で、動かす外交。」「地球儀を俯瞰する外交」
「国難突破解散」「日本の明日を切り拓く」「地方創生」
「働き方改革」「女性活躍」「一億総活躍」「人づくり革命」

安倍は言い出したままで、その後、どうなったのか、追及されずに、7年8カ月、総理の座を守り続けた。日本人はそんなに寛容なのか。怒るべきではなかったか。

安倍は情緒的にものを言う。私がびっくりしたのは、2016年12月27日に真珠湾奇襲攻撃の米軍側の死者の慰霊碑の前で行ったスピーチである。

〈耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入り江〉
で始まり、
〈The brave respect the brave. 勇者は、勇者を敬う〉
と、お互いによく頑張ったなぁという感傷で終わる。感傷の末、自分は悪くないと居直るのである。

日本の代表的保守論者、保阪正康は、その2日後の朝日新聞のインタビュー記事で次のように言った。

〈真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まり、アジア太平洋地域で1千万単位の人々の命が失われた。私たちの国はどんな教訓を学んだのか。首相の演説の眼目はそこにあったが、真珠湾という「点」からしか語られず、深みはなかった。
「和解の力」という言葉は美しいかもしれないが、日本は米国とだけ戦争したわけではない。「点」から「面」へと拡大した戦場では東南アジアや中国の人々らが犠牲になった。首相の演説は戦争の一部だけを切り取り、ポエムのように語っている感じだった。〉
 
安倍は「私がドリルになって規制という岩盤を打ち破る」と大げさに、「成長戦略」「国家戦略特区」をうたったが、どうなったのか。結局、ゴリ押して、愛媛県の今治市にオトモダチの学校法人の獣医学部をつくっただけではないか。獣医学部をつくることのどこが「成長戦略」なのか。
 
「国難突破解散」はもう忘れている人も多いと思うが、「少子高齢化」が「国難」として2017年に衆議院を解散したのである。しかし、選挙で自民党が勝って、なにか「少子高齢化」が解決したか。人間は家族をもちたがるから、「少子化」とは異常な状態である。「少子化」は「家族をもてない状況」にある人が多いからだ。安倍は「経済で、結果を出す」といいながら、株価を作為的に上げ、好景気を装っている。実態景気には安定感がなく、普通の人は、職を失う不安に日々おびえているのが実情だ。いっぽうで、株価操作は大企業の経営者のモラル崩壊をうんでいる。
 
安倍後継の総裁レースにみとれていないで、安倍政権がキャッチコピーだけで、約束を守らなかったことを忘れてはならない。

今野元によるもう1つの『マックス・ヴェーバー』(岩波新書)

2020-08-30 21:54:58 | 思想

Max Weberの死後100年の企画として、2つの評伝が、中央公論新社から野口雅弘によって、岩波書店から今野元によって、出されている。横浜市図書館は、野口雅弘の評伝を8冊購入し、今野元の評伝を3冊購入している。最初に野口雅弘の評伝が私の手元に届き、きょう、25日遅れて、今野元の評伝をうけとった。

今野の評伝のタイトルが『マックス・ヴェーバー』となっているのは、Max Weberをドイツ語読みしているからだ。そういう意味で、言葉にこだわりがある。

今野によると、Weberの日本人研究者に3世代あるという。大塚久雄、丸山真男、青山秀夫、内田芳明を「近代主義的な第1世代」で、安藤英二、折原浩、山之内靖を「近代批判的な第2世代」で、自分は「理念先行のヴェーバー解釈」に批判的な第3世代であるとする。

私の学生時代、「学園闘争」の時代であるが、第1世代の大塚久雄の翻訳が出まわっており、第2世代が大塚らを批判していた時代である。そして、マルクス主義に対抗する思想として、Weberが右翼学生にもてはやされていた。わたしは、Weberに「国家主義」の匂いを感じ、読みもしないのに、大嫌いだった。定年退職後、Weberの著作を読めば読むほど、もっと嫌いになった。

今野も、Weberを「国家主義者」と言い切っているので、親近感を感じる。

大塚久雄の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店、1988)を読むと「市民的」と言葉がところどころに出てくるが、これは “bürgerlich”の訳である。「ブルジョアの」というのは、貴族でも僧侶でも農民でもないという意味でもあるが、エーリック・フロムが『自由からの逃走』で述べているように、普通の平民ではない。お金のある市民のことである。12世紀以来、お金持ちの市民は貴族といっしょに城塞都市で暮らし、貴族とオトモダチであったのだ。Weberが「市民」というとき、上流市民を意識しており、普通の平民ではない。

日本で「市民運動」というとき、いったい何をさしているのかが、私は気になる。

扱っている話題では、野口の評伝と今野の評伝と重なるものも多いが、今野の評伝のほうが踏み込んでいる。

ここでは、Weberの教授就任講義の「プロイセンのユンカー批判」を取り上げよう。

Weberは、プロイセンのユンカ(地主貴族)が、条件が悪くても働くポーランドからの出稼ぎ労働者を雇うことを、「ドイツの国益が損なわれる」と批判した。

野口はつぎのように書く。

〈ウェーバーは「上から」の政策として、国民国家の防衛のために東部国境を封鎖し、ポーランド移民の流入を食い止めることを主張する。〉

野口の評伝を読んでも「国民国家の防衛」とは何かの意味がわからない。
今野の記述のほうが詳しい。

〈自作農が多いドイツ西部・南部に対し、ドイツ東部では農業労働者を雇用する大地主が多かった。〉
〈経済のグローバル化で穀物の価格競争に晒されたプロイセン・ユンカーは、農業経営改善のために旧来のドイツ人農業労働者に代えて、低賃金のポーランド人移動労働者を雇用しようとする。〉
〈こうしたユンカーのポーランド人雇用によって、旧来のドイツ人農民共同体が崩壊し、ドイツ人労働者流出によりドイツ東部の「ポーランド化」を招き、「ドイツ国民」の利益を損ねているというのが、ヴェーバーの見解である。〉

「国民国家の防衛」とは「ドイツ的価値の防衛」ということがわかる。今野はさらにつぎのように書く。

〈ヴェーバーのユンカー批判は異民族への嫌悪感とも結び付いていた。前述のように、彼は軍隊でポーランド兵士に接し、ポーランド人移住地域での演習に参加する中で、ポーランド人は粗野で田舎臭いとの見立てをするに至っていた。〉
〈「ポーランド人がドイツの二級国民に貶められているなんて人は言ったりしましたが、その反対が真実でしょう。我々がポーランド人を獣から人間にしてやったじゃないですか」。この(Weberの)発言は、中世のポーランド人支配者がドイツ人入植者を招き、西方の高度な文化を受容したという歴史観を前提としている。〉

「ドイツ的価値の防衛」とは、多分にポーランド人に対する偏見に基づいていることがわかる。Weberは軍隊につとめたとき、貧しいポーランド人を見、「豚」とののしっている。Weberの偏見は、ポーランド人に限らず、アジア人も貧しくて汚らしく愚かな人々としてみている。Weberはそういう人である。

ドイツとポーランドの関係は、韓国と日本との関係に似て根深い。中世では、ポーランドが強国・文明国でドイツが弱小国、後進国であった。両国間の小競り合いがよくあったが、ポーランドの勝利であった。ドイツの哲学者ニーチェは自分がポーランド人貴族の末裔であると自称したのは、ポーランドを肯定的に捉えるドイツ人もいたということだ。

Weberは強国プロイセンの時代風潮の中でブルジョアの一員として育ち、西欧以外を蔑視している。

今野の記述に「ドイツ人農民共同体」とあるが、“Markgenossenschaften”のことである。ゲルマン人はもともと原始的農業共産制をしており、農地は共有であった。それが分化して、ドイツ東部では暴力集団の貴族(ユンカー)が土地を所有し、農民がそこで共同で働く小作農になった。西部、南部では共有地を分割して自作農になった。そのユンカーが金もうけを考えるようになり、ドイツ人小作農を追い出して、ポーランド人の移動労働者を雇うようになった。ブルジョアのWeberがどれほど真面目にマルク共同体のことを考えていたか疑わしい。

今野の記述で気になるのは、西欧(ドイツ、フランス、イギリス)を先進国とする考えである。西欧が脚光を浴びたのは、西回りの航路が発見されて以来のことで、そのことで、ヨーロッパの沿岸国が経済的に繁栄できただけで、大量輸送手段が当たり前となった現在、西欧の優位性は明らかに崩れている。

今野は5頁に
〈このように19世紀末のドイツは、当時の世界を見渡すならば、いかなる意味でも先進国の1つであって、後進国では全くなく、欧州の周縁でもなかった。〉
6頁に
〈絶頂の西洋・勃興するドイツはヴェーバーの知的営為の前提となった。〉
とかく。また、オーストリア(エステルライヒ)をドイツの一部として捉える。大ドイツ主義の立場をとる。

今野の留学先がドイツであったことで、ドイツの歴史観に染まっているのではないか、気になる。ドイツは世界の後進国であったことこそ強調すべきである。また、ドイツ語圏が統一した国を作ることは、けっして当然なことではない。だからこそ、日本と同じく、ドイツに国民国家主義者が現れるのである。

安倍晋三、キャッチコピーと党内敵対者つぶしで7年半も政権を維持した男

2020-08-29 22:29:28 | 安倍晋三批判
 
辞意を表明した安倍晋三のヨイショ記事がメディアにあふれているが、もう少し厳しく日本の政治の現状を批判しないといけないだろう。8年近く前に、日本国民は、トンデモナイ男、安倍晋三を選んで、日本全体にモラル崩壊を蔓延させた。もし、彼が潰瘍性大腸炎を悪化しなければ、このどうしようもない政治状態がもっと続いたかもしれない。
 
彼の『新しい国へ 美しい国へ完全版』(文春新書)を読むと、彼の原点は、保守政治家の父や祖父や大叔父に対する「誹謗中傷」への復讐にある。
 
〈小さなころから、祖父が「保守反動の権化」だとか「政界の黒幕」とか呼ばれていたのをしっていたし、「お前のじいさんはA級戦犯の容疑者じゃないか」といわれることもあったので、その反発から、「保守」という言葉に、逆に親近感をおぼえたのかもしれない。〉(22頁)
 
〈日米安保を堅持しようとする保守の自民党が悪玉で、安保破棄を主張する革新勢力が善玉という図式だ。……
とりわけ祖父は、国論を二分した1960年の安保騒動のときの首相であり、安保を改定した張本人だったから、かれらにとっては、悪玉どころか極悪人である。〉(24頁)
 
〈列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化するなか、マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか。……
こうした国民の反応を、いかにも愚かだと切って捨てていいものだろうか。……
この国に生まれて育ったのだから、わたしは、この国に自信をもって生きていきたい。〉(30頁)
 
強い被害者意識をもって、「革新」を徹底的につぶす、それが安倍晋三の政治家としての原点である。そして、安倍晋三は、幹事長時代に、共産党ではなく、見事に日本社会党をつぶしたのである。
 
日本社会党がつぶれた代わりに民主党が生まれ、その民主党は2009年に自民党から政権を奪った。自民党がふたたび「悪玉」となったわけである。
 
安倍晋三は、自民党総裁として、2012年12月に民主党政権を破って、ふたたび「革新」をつぶしたのである。
 
民主党政権をやぶるのに、メディアと一体になって「非効率的な民主党の政治」キャンペーンをはった。政治に「効率」を求めれば、独裁制にならざるをえない。それなのに、メディアは「効率的な政治」の考えに何の批判もしなかった。
 
何がこの7年半に起きたのか。日本に大きな政治の空洞化が起き、モラルの崩壊が起きたのである。官僚は矢継ぎ早に膨大な長文の法律をつくり、自民党・公明党連立政権は多数派としてムリヤリそれを通したのである。自民党議員、公明党議員はその法案をちゃんと読んでいたのか、単に官僚の説明で了承したのではないか。そして政権は、法案の命名だけに神経を払った。
 
法律は専門家しか理解できないものであってはならない。簡明でなければならない。
 
安倍晋三は理想のない、頭の空っぽな男である。政権をとったこともない「革新」を仮想敵視した「保守のプリンセス」である。「革新」をつぶすという目的のもとに、国家権力の強化、軍事同盟の強化を進めてきた。そんなことをして、誰が幸せになるのだろう。
 
考えてみるに、電通だのみのキャッチコピーだけの7年半であった。日本の経済力は着実に低下した。韓国政府を罵倒して、米国政府にひざまづいていただけではないか。
 
昨年の参院選では「世界の真ん中で力強い日本外交」をキャッチコピーにした。どこが「力強い日本外交」だ。
日本人の誇りはどこにいったのか。
 
総理の後継者がいないというが、安倍晋三は党内の反対論者をつぎつぎと「なきもの」にして、絶対者に登りつめた結果である。国盗り物語から権力の把握の仕方を学んだだけである。
 
安倍は、『新しい国へ 美しい国へ完全版』(文春新書)で、自分を「闘う政治家」というが、闘えばよいというものではない。単なる権力闘争に打ち勝ってきただけではないか。「国益」というものがあるわけではない。「保守」は既得権益者を守ることにすぎない。世の中には「格差」「不平等」があるのだ。
 
「革新つぶせ」しかない安倍晋三が日本の政治の頂点を7年半も居つづけたことに、日本国民も反省しなければならない。

安倍晋三の「政治は結果」は「勝てば官軍」と同じく理想の否定

2020-08-28 22:09:17 | 安倍晋三批判
 
きょう(8月28日)、安倍晋三は総理大臣の辞意を記者会見で表明した。NPOで仕事をしていたので、辞意表明の演説はリアルタイムで聞いていない。YouTubeで見ると、演説は約10分で、記者質問が50分である。記者会見そのものは何がなんだかわからない低調で、国民にあやまったり、謝意をのべたりであった。
 
NHKは記者質問を含めて、安倍の言ったことをコンパクトにまとめている。さすが、NHKである。
 
フジテレビは、記者会見の前から、安倍晋三の後継者として、河野太郎をヨイショしていた。英語堪能と言っていた、私の妻は河野の英語のスピーチの稚拙さに笑いこけていた。彼は中身がない。目をむいて強そうに見せているだけだ。「外国に卑屈でない河野太郎」と、フジテレビが流していた映像は、河野が韓国の駐日大使に「無礼だ」と言ったシーンであった。こんな劣等感の塊の男が、安倍のやってきたトランプ大統領にすがりついて媚びまくる卑屈外交を変える力があるはずがない。
 
安倍は辞任会見で「政治においては、最も重要なことは結果を出すことだ」と言ったが、政府は国民へのサービス機関であるから、自由で楽しい日常を維持することで、「結果」出すことではない。何かレガシーをつくることでもない。
 
安倍政権は、民主主義や平和主義を壊す法律をつぎつぎと通してきた。これは、負のレガシーではないか。もし、劣等感の塊ような男が権力を握れば、2017年成立の改正組織的犯罪処罰法で敵対勢力を共謀罪で潰せる。また、2013年成立の特定秘密の保護に関する法律でメディアを規制できる。2015年成立の平和安保法制で国会審議なしに自衛隊を海外に派遣できる。
 
安倍は辞任会見で、「憲法改正4項目」が心残りといっていたが、そんなものは、認めてはいけない。4項目とは、①自衛隊の明記②緊急事態対応③合区解消・地方自体④教育充実であるが、自衛隊の明記は、軍隊をもつという宣言になり、緊急事態対応は独裁制を正当化する。
 
安倍政権の経済政策は、見掛けの景気を高揚することである。国の借金をしまくり、株価を上げる。カジノを合法化するIR法案まで成立させてしまった。
 
安倍晋三はちゃらいが、人の評判を気にするところがまだある。現在、安倍のもとで起きていることは、モラルの崩壊である。忖度する公務員は出世する。まじめ公務員は自殺に追い込まれる。これが、「モリカケ」事件である。
 
しかし、安倍政権の行ってきた法改正で、民主主義を停止できる仕組みが出来上がっている。安倍政権の「結果」、民主主義がもろくなっていることに気づかないといけない。独裁政権ができてもおかしくない。
 
政治には「効率」も「レガシー」もいらない。敗戦によって、私たちが得た民主主義を手放すようなことがあってはならない。

アメリカにかつて禁酒法があった、とても驚くことである

2020-08-27 22:00:04 | 社会時評

いま、私は、たばこを吸わないし、酒も飲まない。

じつは、約25年ほど前までは、ヘビースモーカーであった。タバコ依存症だった。子どもや妻に飲むなと言われても辞めなかった。タバコを辞めた理由は、タバコにかかる税金があがり、日本政府にこれ以上税金を払いたくないと思ったからである。税金を払いたくないという感情はタバコの誘惑に打ち勝った。

お酒は、結婚する前、私の妻がレストランのワインで吐いたので、結婚して以来、家では飲まないことにした。私だけが酔うのは良くないように感じたからだ。したがって、お酒は外でおつきあいで飲む程度だった。

カナダで生活したり、外資系の会社で働いたりして、お酒を飲まない人びとが世界に結構いることを知った。定年退職を機会に、おつきあいでも飲まないことにした。私は、糖尿病だったので、それを口実にお茶を飲むことにした。集まりで飲まないことは、まわりに受け入れられている。

タバコも酒も飲まない利点は、お金がかからないことである。お金がかからない利点は、お金のために人に おもねなくてすむことだ。私は自由になる。

タバコが健康に悪い、タバコの煙が人の健康を害する、と日本社会はタバコを悪かのように言う。いっぽう、日本社会は酒をおつきあいの場で強要する。お酒で乾杯する風習がある。お酒も体に悪いように思える。私の知っている酒飲みには、肝臓がん、食道がん、胃がんになった人たちが結構いる。お酒を人に強要するのは、やめたほうが良いと思う。

タバコや酒は他人に強要することはない。タバコや酒を飲んだからといって別に大人ぽいわけではない。村上春樹の『一人称単数』で、気取ってお酒を飲むシーンが多いように思える。

お酒に頼らないと人づきあいができないのも何か変だ。

新型コロナ感染で、緊急事態宣言下の4月5月にパチンコ屋が理由もなく目の敵(かたき)にされた。緊急事態宣言が終わっても、居酒屋だけは、まだ、叩かれているようだ。お酒を強要することも不要だが、居酒屋を叩くこともなかろう。

アメリカにかつて禁酒法があった。日本では、禁酒法が人間性に反し、組織犯罪者を増やすだけだと、簡単にかたづけられている。しかし、イスラム教が多数派の社会では、禁酒が実際上守られている。禁酒法が組織犯罪者を増やすだけというのは、ずいぶん安易な見方だと思う。

アメリカに禁酒法ができたのは、ただの法律ではなく、「憲法」にそれが書きこまれたのは、私にとっては驚くべくことである。

私は、誰かから、夫が飲んで暴力をふるうのを嫌った女の禁酒運動が、禁酒法を生んだと聞き、それを長らく信じていた。しかし、きょう読んだ日本語版ウィキペデイアには、そうでなく、アメリカの禁欲的プロテスタンティズムの運動が禁酒法を生んだとある。カルヴィニズムでなくメソジスト派が中心になって禁酒法を成立させたとある。

禁欲や節制を他人に強要できるのであろうか。アメリカ国民の多数が、一度、それにYesと言った。アメリカを自由の国、個人主義の国と、単純に言って良いのだろうか。

マックス・ヴェーバーはそのことを一言も取り上げていない。アメリカに禁酒法があったということは、しかも、100年前にあったということは、とても、驚くことだと思う。研究に値する。