猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

多様性と価値の多元性、言い争って、やってみて、改める

2021-03-17 22:58:44 | 思想


田中拓道は『リベラルとは何か』(中公新書)の中でつぎのように指摘する。

〈1970年代に登場した新自由主義(ネオ・リベラリズム)は、古典的な自由主義とは異なる論拠に支えられていた。それは経済的な自由だけでなく、「価値の多元性」という新たな哲学に支えられたものだった。〉

この多元性は“pluralism”の訳で、多様性は“diversity”の訳である。

今年、私のNPOの研修で、経験豊かなスタッフからつぎのような発言があった。

〈生き苦しさを抱える子供の指導にあたって、いろいろな考え方のスタッフがあっていいのだと思います。〉

驚いたことに、この発言を「子供は色々な考えの大人と接して強くならなければいけない」と理解したスタッフが少なからずいた。そうではない。発言者は、「子供の指導にあたって何が最善かわからない」という難しさを述べているのである。

子どもの抱えている問題も多様であるし、子どもの性格も多様、子どもを囲む環境も多様である。事前にそれらが分析でき、1つの指導方法だけが正しいとわかるわけではない。現実的には、その子に色々なタイプのスタッフをあてて、より良い結果を生み出すスタッフを探し出すことになる。結果が悪ければ担当スタッフを変え、結果が良ければそのまま担当を続けてもらう。

「価値の多元性」は、より良い社会を築くに、良い社会とは何か、また、効率的なその手段は何か、わからないということをついている。すなわち、多数派の中で、少数派が自己主張するために、理性が「良い社会」「良い手段」の問題に答えきれないことを利用しているだけで、自分の唱える価値が一番正しいと各自思っているわけだ。

「多様性」は現実に起きる傾向のことで、価値とは無関係である。遺伝子の本体である塩基配列は常に変異を起こし、多様化が起きる。(進歩とかいう考えは多数派が自己正当化の嘘である。)

何が良いかわからないと言って、すべてが良いで済ますのはおかしい、と思う。「価値の多元性」は単なる政治的デマゴギーだと思う。何が良いかの言い争いが起きるのが正しいありかただと思う。そして、やってみてだめだったら、考えを改めることがないといけない。


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1 コメント

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グローバルな潮流の根底 (軸受ものづくり関係)
2024-03-24 22:19:42
多様性の江戸文化を引き継いだ明治維新、それはサムライの電流と司馬遼太郎がいっていたものにとても近そうな気がします。
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