猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

壊れかけている高浜原発を動かし続けてよいものか、制御棒の落下事故

2023-02-19 22:52:42 | 原発を考える

今年の1月30日に関電の高浜原発4号機が、中性子の急減を検知し、自動停止した。2月15日なって、関電は制御棒が少なくとも1本 原発の炉心に落下したとの可能性を発表した。

中性子は核分裂連鎖反応によって出てくるものであり、その急減は炉心の異常で核燃料が燃えにくくなったということだ。制御棒の駆動装置が壊れて、炉心の異常が引き起こされたのだ。この4号機は、去年の10月に再稼働する予定であったが、1次冷却水の加圧機の不具合で冷却水の温度上昇があり、再稼働が12月にずれ込んだ原子炉だ。

なんでも、古くなるとガタがくる。私の住んでるURの集合住宅は30年たち、あちこちに不具合が生じている。配管系、電気系にガタがくる。それで、毎年、点検が行われ、補修が行われる。

高浜原発4号機は1985年に稼働したから、37年経過している。私の住んでいる集合住宅より、古参である。いろいろなところが壊れてくるのは仕方がない。問題は、点検が信頼できるか、補修できるか、ということである。

福島第1原発事故の沸騰水型原子炉(BWR)に比べ、高浜原発の加圧型原子炉(PWR)のほうが安全だと誤解している人がいるが、事実は反対である。沸騰水型原子炉のほうが構造が簡単なので、より壊れにくい。

加圧型原子炉は、発電効率を上げるため、原子炉の水(1次冷却水)を加圧し、水の沸点を300℃以上にあげている。その高温の水で2次冷却水を急激に沸騰させ、蒸気タービンを回して発電する。構造が複雑なのである。

私が若いときは、加圧型原子炉の不具合報告の方が多かった。

関電は、高浜原発3号機、4号機の40年超えの稼働を申請すると去年発表している。ところが、公になったものだけでも、点検で発見されなかった不具合が続いておきている。大丈夫なのか。

加圧式原子炉を開発したアメリカのウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニーは2017年に経営破綻している。日本の加圧式原子炉の点検、補修は三菱重工が単独で行うしかない。

いっぽう、昨年9月28日に、原子力規制委員会の山中伸介委員長は、就任して2日後、原子炉運転の上限(60年)を撤廃すると言い出した。モノが壊れるのは何年と予測できるものでないから、原子炉稼働の年数制限を撤廃すると言うのだ。現実は、原子炉周辺機器は中性子を浴びるなどして通常より早く壊れている。点検と補修でかろうじて稼働してきたのが実態である。

老朽化に伴う原子炉の壊れが点検できる、補修できるというのが 明らかでなければ、原子炉を稼働させないことが、原子力規制の原則だと私は考える。明らかにできなければ、老朽化した原子炉を年数で廃炉にするほうが合理的であると考える。

それなのに、2月13日に山中委員長は、60年超の原子炉を動かせるとすることを原子力規制委員会で多数決で決定した。5人の委員のうち、4人は原発稼働で利益を受ける組織の出身であり、ただ一人の反対者は日本地質学会会長の石渡明(東北大教授)だった。そんなことで、原子炉の安全性を保証できるのか。多数決の結果は政府による委員の選定で決まることである。

いま、岸田文雄は、原発推進政策をとっている。しかし、原発の安全性を無視し、原子力規制委員会のメンバーを入れ替えてまで、原発を稼働しなければならない理由が、私には見当たらない。パブリックコメントを求めると、その大半が60年超の原発稼働に反対であるという。国民の代表たる国会議員に、岸田の狂信的な原発推進政策を止めることを願う。


一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志に違和感、その3

2023-02-09 22:42:14 | 思想

一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志の批判を昔のブログの再録で続ける。

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親鸞主義の「絶対他力」は怪しい   (2016/9/25(日))

中島岳志は、『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)で、親鸞の「絶対他力」について何度も述べてている。

「絶対他力」は「ありのまま」でいいんだのことらしい。わたしの関係している問題で言えば、摂食障害を起こした子どもや引きこもっている子どもに対し、「ありのまま」の自分を肯定して欲しいと親のほうは願う。しかし、うまくいかない。

「競争社会」にのめり込んでいる子どもたちをそこから抜け出させるためには、「ありのままでいいんだよ」が、「競争社会」に対峙する思想として、意味がある。

しかし、社会には利害の対立があり、争いが現実にある。豊洲移転問題だって、安全問題だけでなく、根底には経済的利害の対立があったはずである。

すると、「ありのままでいいんだよ」では、子どもたちはいずれ納得できなくなる。社会的差別を受けている子どもたちにとって、それは「我慢しなさい」の別の表現になる。社会の利害の対立に気づいたとき、自分の思想的立場をもつことが必要になる。それが自立である。

親鸞主義の「絶対他力」は親鸞の教えではなく、戦前の大正時代にできたウソの教えではないか、と私は疑う。

私の出身地の北陸では、戦国時代に、浄土真宗の農民が村単位で自治を行っており、織田信長の配下が攻めて来たとき、命をかけて戦った。谷という谷は血の海に埋まったという。農民がバカだから念仏を信じていたから戦ったのではない。守るべきものがあったからである。

だから、「絶対他力」は後世のウソだと思う。恵まれている知識人の創作であろう。

子どもたちと接していると、庇護を求めてくる。愛されることを望んでいる。私は、無条件の庇護、愛を与えるようにしている。子どもたちが求めているのは安心できる人間関係である。

しかし、庇護される人がいることは、庇護する人がいることである。愛される人がいることは、愛する人がいることである。

私が望んでいることは、いずれ私がいなくなるから、また、人を庇護する立場、人を愛する立場をとる人が出てくることである。立場の違いは、論理では埋まらない。最終的は、バートランド・ラッセルが言うように、政治で解決する問題である。


一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志に違和感、その2

2023-02-09 22:31:44 | 思想

これは、ブログ『一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志に違和感』の続きである。やはり、6年前のYahooでのブログを再録し、中島岳志への批判とする。

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ナショナリズム、宗教、一君万民   (2016/9/24(土))

『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)で、中島岳志が次のような問題提起をしている。

「極度の競争社会が拡大すると、高所得者であれ低所得者であれ、不安定な日常に不満と不安を感じる人たちがナショナリズムに傾斜する傾向があります。そして、ナショナリズムの他にもう一つ、そこが抜けてしまった個人の実存を強力に補てんするものがあります。宗教、つまり信仰です。」

この問題提起に全く同感できない。

「極度の競争社会が拡大」という見方は、ウツになる、あるいは、イジめる、イジめられる子どもたちの間にも見られる。「競争社会」とは単なる妄想であり、否定すれば良い。ところが多数の人がこの妄想を共有すれば現実となる。

働いている人の多くは、一所懸命に、しかも長時間働かないと、解雇されると思っている。平日は子どもと顔を合わせない正社員の父親もいる。見ていると、本当につまらない仕事をしている。これでは、奴隷労働である。反乱を起こして、会社の窓ガラスという窓ガラスをどうして割らないのか。

ナショナリズムや宗教に傾斜する前に奴隷労働を否定すべきである。

超越的な天皇のもと、すべての「国民」は平等だと言う思想、「一君万民」を中島岳志がどうして取り上げるのかわからない。超越的な天皇とは何者なのか。

「一君万民」を掲げて反乱を起こし失敗した二・二六事件がある。1936年2月26日に大日本帝国陸軍の青年将校らが、農村の困窮を憂い、「昭和維新」を天皇に訴えるために、1,483名の下士官兵を率いて皇居を包囲した。このとき、昭和天皇は、自分に刃向かう青年将校に腹を立てて、「反乱軍」として処罰せよ、と言い、「一君万民」を掲げた青年将校らは大義名分を失って、投降し、銃殺された。

「超越的な天皇」とは、凡人なのか、天才なのか、超人なのか、神なのか。

明治維新をなしとげた不良サムライ、不良クゲは、「一君万民」など信じず、言うことのことの聞かない天皇を引き下ろし、カイライの天皇をかかげて、権力を奪った。

現在の「象徴天皇」も同じである。象徴天皇を装うのに疲れたと今上天皇(平成天皇)は言う。これって、「象徴天皇制」に無理がある、ということではないか。

中島岳志の問題意識は理解しがたい。天皇はいらない。ナショナリズムも神もいらない。


一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志に違和感

2023-02-09 22:19:45 | 思想

けさの朝日新聞に一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志のインタビュー記事が載っていた。「一水会」とは、美術団体のような名前だが、鈴木邦男が創った右翼団体である。

20年近く前、鈴木邦男は河合塾で大検を目指す高校中退者の講師をしていた。私は、中退した息子をそこに通わせた。息子は彼の暴力的な言動に恐怖を怯え、河合塾に通いたくと訴えていたが、河合塾の講師がそんなことを言って高校中退者を脅すとは私は信じられなかった。私は鈴木邦男という名も聞いたことがなかったからだ。

しかし、完全に引きこもった息子と対話を続けるうちに、本当であると思うようになった。三島由紀夫と森田必勝の自決に共感する鈴木邦男に、私は好感をもてない。自分勝手な理屈で若者に暴力を煽る鈴木邦男を危険な男だと思う。

そういう鈴木邦男を悼む中島岳志も、怪しい男だと思う。その中島岳志を「リベラル保守」の政治学者と紹介する朝日新聞の真田香菜子も、頭がおかしくなっていないか、私は心配である。日米安保反対、格差社会反対であれば、右翼の鈴木邦男が左翼に近づいたと言えるのか、とても、安易である。もともと中島は、国家あるいはその象徴たる天皇のもとの平等を唱えている男である。個人というものがぶっ飛んでいる。

左翼とは、人間に序列をつけることに反対する考え方である。個人を抑圧するあらゆる権力に反対するのが左翼である。エンゲルスが言うように、国家は廃止すべきものと考えるのが左翼である。左翼にいろいろな集団があるのは、国家廃止の道筋に、考え方の違いがあるからである。

ここでは、6年前、『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)を読んだときの私の感想(Yahooブログ)を再録し、中島岳志への批判としたい、

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愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか(2016/9/22(木) )

6ヵ月前に予約した本がようやく図書館から届いた。中島岳志と島薗進との対談、『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)である。

待ちくたびれたのもあるが、つまらない本であった。対談が深まらないのである。対談とは、二つの異なる精神が接触し、化学反応を起こすのが面白いのである。

島薗進は1948年生まれ、私の1年下で、東大闘争を体験した世代である。中島岳志は1975年生まれ、東大闘争が終わってから生まれた、すなわち、新左翼を知らない世代である。二つの世代が接触したとき、何かが起きるべきだった。

本の表題に「信仰」があるが、二人とも、政治的で宗教的ではない。中島岳志は、自分だけが知っているかのように、右翼思想を自慢げに語る。それを島薗進がやさしく諭す。中島岳志が訂正するでも反論するでもなく、話が転じていく。

島薗進は、6年前の『国家神道と日本人』(岩波新書)で、明治政府の儒学者によって「国家神道」が作られて行く様を実証的に書いた。これは読みごたえがあった。

儒学は、中国の戦国時代に生まれた、国を統治する技術である。『論語』などは簡潔に書かれているので愛読者が意外と多く、学校での漢文の教材に必ず取り上げられる。儒学は、人間の特質を理解し利用すれば、人民を統治できる、と言っている。具体的には「礼」と「儀」である。

「礼」は、上下の秩序を国家から家庭までの貫き、「忠」や「孝」によって人間の心まで支配することである。明治政府が「礼」を意識的に利用したことは、丸山眞男が繰り返し述べている。

島薗進が見出した視点は「儀」である。明治政府は天皇制を「国家儀礼」とすることで、外来のキリスト教と両立するものかのように装い、一方で天皇を神格化した。天皇制があるということは、戦前の非理性的社会体制が続いていることだ、と島薗進はみなす。「象徴天皇制」になっても天皇が「国家儀礼」の頂点にあることには変わらない。

対談では、島薗進が色々と教えるにもかかわらず、中島岳志は「国民国家」、「一君万民」、「他力本願」をまくしたてる。

私の世代は、戦前の右翼思想を知らないのではなく、支持しないだけである。戦前の右翼思想は、明治政府が「礼」と「儀」による教育を徹底したために生まれた妄想である。

私の世代は、戦後の民主主義教育が文部省の力に抑え込まれ教育界が右傾化していく様を目撃した。中島岳志の世代は完成した右傾化教育の中で育った。当然、愛国主義が復活するだろう。これは不幸なことである。


当初の「新しい資本主義」にあった「再分配」はどこに行ったのか、岸田文雄くん

2023-02-06 00:13:26 | 政治時評

けさの朝日新聞に、「首相を支える秘書官が、性的少数者や同性婚について差別発言をして更迭」との記事がのった。彼は「演説の執筆やメディア対応」を担ってきたとある。すると、ことしの1月23日の岸田文雄の施政方針演説も彼が書いたのかもしれない。それは書き出しこそ格調が高いが、各論に入るとめちゃくちゃであった。

施政方針演説の「五 こども・子育て政策」を読み返してみよう。

演説は、「新しい資本主義は、『持続可能』で、『包摂的』な新たな経済社会を創っていくための挑戦」とし、「こども・子育て政策」を「我が国の経済社会の『持続性』」の「最重要政策と位置付けている」と述べる。

演説が「急速に進展する少子化により、昨年の出生数は八十万人を割り込むと見込まれ、我が国は、社会機能を維持できるかどうかの瀬戸際」「こどもファーストの経済社会を作り上げ、出生率を反転させなければなりません」と大上段に述べるにもかかわらず、「年齢・性別を問わず、皆が参加する、従来とは次元の異なる少子化対策を実現したい」、「本年四月に発足するこども家庭庁の下で」検討するとしか言わない。具体策がない。

なぜ、出生数が減少の一途をたどるのか、それは国民の貧困化だと、私は考える。国会で与野党が「貧困化」の視点から「出生率の低下」をとらえないのが不思議である。

「貧困」という問題は相対的なものである。子どものとき、私の家には、給湯器、洗濯機、冷蔵庫、エアコン、風呂がなかった。しかし、私は自分が貧困だと思わなかった。ほとんどの家庭になかったからである。

ところが、いつのまにか、これらがあって当たり前になった。貧困か否かのラインがあがったのである。この新しい文化的生活を維持しようと思うと、結婚や子どもをもつことをためらうようになる。

それに加え、都市では子どもの塾通いが多くなっている。子どもの教育に使う費用が増えている。みんなが大学に押し寄せても、高等教育に見合う仕事があるはずがない。

「貧困化」と「子育て費用の増大」がなければ、多くの人は子どもをもちたいと思うはず、と私は考える。したがって、「こども・子育て政策」の基本は、「貧困」の解消と「子育て費用」の抑制しかない。しかし、このために政府ができることは限られる。

政府が「賃金をあげろ」と叫んで、それが実現するとは思わない。賃金上昇を価格に転嫁せよというが、そんなことをしたら、際限のないインフレが進む。結局、大企業の社員の給料だけがあがって、経済格差が拡大する。

政府ができるのは税制と福祉を通じた「再分配」である。

戦後しばらくは、公営住宅の供給に政府は力を入れていたが、現在、資産家の反対で、公営住宅の供給を抑えている。これはいけない。

公営の安い賃貸がふえれば、みんなが、そのお金を洗濯機、冷蔵庫、エアコンにまわせる。給湯器、風呂をつけた賃貸公営住宅を供給すれば良い。昔と違って、温水の給湯を外にできるから、外気を遮断できる。そうすれば、冷房費、暖房費が節約できる。国のエネルギー使用量が減らせる。

子どもを育てるには子どもとともに住む場所が必要である。

「子育て費用」が増大しているのは、共稼ぎと教育費の増大が大きい。

共稼ぎを減らすことは、社会が女性の労働力をも必要としていることもあり、むずかしい。それなら、社会は集めた税金で保育所・幼稚園を大幅に資金援助すべきである。また。育児を共同で行う親たちを援助すべきである。私は、「保育所」「幼稚園」が企業として存在することに疑念を持っている。幼い子どもは親の愛情を必要としている。幼い子どもをもつ親たちが協力し合って共同で子育てをするのが一番良いと考える。

ここでもキーは「再分配」である。

教育費がかかるのは、現在の教育機関が、子どもに競争させ、将来の経済的格差を正当化する役割を担っていることにある。「教育が貧困を解消」というのは妄想であって、現実には、「教育によって格差を正当化」しているのである。このような教育のありかたを変えるには、公立大学は学びたい子どもを誰でも受け入れ、大学卒を何かのパスポートにさせないことである。また、公務員の採用をくじで行い、障害者や貧困家庭出身者や高齢者や中・高卒の人を積極的に雇うようにすることである。

入試制度や雇用習慣を根本的に変えなければ、競って塾に行かせる、有名中学校、有名高校に行かせるという、現在の愚かな行動パターンは変わらない。

岸田文雄の施政演説は見かけだけの格調で、資産家や経営者の利益にくみし、根本から間違っている。当初の「新しい資本主義」にあった「再分配」はどこに行ったのか、岸田文雄くん。