いま日本で中国語を学んでいる人たちがどの位いるのかは知りませんけど、たぶん私が大学生だった約20年前よりはずっと増えていることでしょう。関東地区の大学で中国語学科を置いているところが随分増えていますし。私のころはあまり選択肢がありませんでした。
その時代の話です。私の在籍していた大学でも中国関連を専攻する者は大抵が1年間、中国の大学に留学していました。真面目に勉強していない連中も春休みを利用した1カ月程度の超短期留学に参加したり。あんなの留学のうちには入りませんけど、とりあえず1カ月滞在する訳ですから、観光を兼ねて現地のニオイを嗅いでくるという意味では意義のあるものだろうと思います。そういう意義を認めて参加した連中がどの位いたかは甚だ疑問ですけど。
日本の大学に在学中の身で留学しますから、中国で本科生になるケースはほとんどありませんでした。いわゆる語学研修です。留学生専門の授業があって、そこで他国の留学生と一緒に実力別にクラス分けされて、1年間とか2年間で中国語を学習するというシステム。いまは中国も大学の数が増えて、留学生大歓迎のところが多いようですから、私のころに比べれば日本人留学生の数も増えたことでしょう。
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当時私のいた日本の大学は北京や上海のいくつかの大学と業務提携のような関係があり、そのパイプを利用して留学することができました。他に民間業者を通じて手続きする方法がありました。
私が選択したのは後者です。理由は値段が安かったのと、プロの斡旋業者という手堅さによるものです。教務課かどこかが片手間で手続きする心許なさに加えて、その割には手数料をせしめる大学の制度を利用する気にはなりませんでした。大学ルートだと単位交換制度というメリットがあった筈ですが、それでもらえる単位はほとんど日本で取ってしまっていたので、私には無意味だったこともあります。
私が選んだ中国の大学は、業務提携関係にあるところのひとつでした。それならなぜ民間業者を通したのかという理由は上に書いたばかりです。なぜその大学にしたかというと、ある意味コネが効くから、ということになります。
亡命といえば大袈裟になりますが、業務提携先から半年単位で交代でやってくる中国人教授には、そのまま日本に居残って帰国しないケースがしばしばありました。ちゃんと帰国する教授でも、子女を日本へ留学させるための仕込みをちゃっかり行ってから中国に帰っていました。
で、「亡命」のために一役買ったり、息子夫婦が留学のため来日したときにアパート探しその他で汗をかいたりしていたのが私です。恩師の親しい教授が学部長のような役付きだったということもあり、ある程度顔が利くというか、一種の保護者が複数いる大学が上海にありました。当時の中国の社会状況に照らせば2年前に発生した大学生の民主化デモが再燃しても不思議ではない雰囲気でした(でもあそこまで盛り上がるとは全く予想外でした)が、「後台」(後ろ盾)がいるその大学なら多少の無茶をやっても大丈夫だろう、と多寡をくくっていたのです。
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ところで私の大学では、中国に長期留学(1~2年)する学生は留学先での様子を綴った留学日記なるものを学校に差し出すことになっていました。命令された覚えがないので義務ではないのでしょうが、慣習というか不文律というか、誰もがそれに従っていました。その留学日記が私の在籍する学科の教員休憩室かどこかに置かれていて、学生でもそれを読むことができました。
私はそれが送られてくるのを楽しみにして熱心に読む方でしたが、毎回毎回、ケッ下らねぇ所詮はこの程度かよ、という感想しか湧きませんでした。当時の私が生意気盛りだったということもありますが、授業と身辺雑記のような内容ばかりで、読み手(例えば留学予備軍)の参考になるような情報が全くありません。それに中国社会などに関する観察や考察が全くみられなかったからです。
ちょうど胡耀邦総書記が失脚したり(1987年)、価格改革による混乱でスーパーインフレが発生して市民の生活が混乱し、趙紫陽ら改革派が窮地に立たされていた時期(1988年)にも関わらず、です。図書館で『九十年代』や『争鳴』といった香港の政論誌、それに霞山会の『東亜』などをいつも読んでいた私は、おれはこんな下らないものは書かないぞ、馬鹿な先人どもや教授・助教授の度胆を抜くようなものを書いてやる、と誓ったものでした。いまから思えば若年客気の一言です(笑)。
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上海という街を選んだのは、当時の中国では改革という意味で最も象徴的な都市だと考えていたからです。そのころ改革開放の最前線といえば経済特区の深セン市でしたが、あんなものは何もないところに外資を呼び込んでビルを建てただけのものだ、と私は決めつけていました。
それよりも「改革」という以上、それまでの古いカサブタを剥がし、何かを壊した上で新しいものを造り上げる難しさを実感できる都市がいいと思い、それなら上海だ、という結論に至りました。外灘(バンド)の洋風建築が象徴しているように、中共政権成立後も租界時代のインフラに頼らざるを得ず、当時もまだ頼り続けていた上海で何をどう壊し、何が造り上げられていくのかをみたかったのです。
市のトップ(上海市党委員会書記)が江沢民で、市長が朱鎔基という時代でした。確か現国家副主席である曽慶紅も下っ端で働いていたころです。上海自体を開発しようという「浦東計画」が総書記になった江沢民によってぶち上げられる前の話で、深センや広東省に比べれば、当時の上海は開発面で大きな後れをとっていました。……そういう街に飛び込んで、いままでにない留学日記を書こうと私は思っていました。
そういう生意気盛りの私でしたから、留学についても自分なりに色々定義していました。昔のことなのでもう忘れてしまいましたが、ひとつには留学するまでに中国語を一応仕上げてしまおう、ということがありました。語学研修の名目だけれど、現地についたら高級班(実力がいちばん上のクラス)の授業を鼻歌まじりにこなせる程度の実力はつけておこうと。
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よくある喩えですが、例えばフランス料理を食べるなら、その味覚を楽しむべきなのに、フォークとナイフの使い方ばかり気になってしまって、ゆったりと余裕を持って料理を味わうことができなければ意味がありません。私にとっては「料理」が上海を対象として改革開放政策を観察することであり、「フォークとナイフ」が中国語ということになります。観るべきものを観るためには、道具の使い方なぞ軽くこなせて当然、ということです。
他に、中国とのチャンネルはたくさん持っておいた方がいいだろうと思い、当時の中国では学習人口がそれなりに多かったエスペラント語(魯迅とエロシェンコです)をかじったりもしました。これは結局留学では役に立ちませんでしたが、後に香港に住むようになってからそれを機縁に有益な出会いを得ることができました。……あ、チナヲチの「チナ」や「Japanio」の由来でもあります。
もちろん、大学図書館にあった留学体験記のような書籍は片っ端から読破しました。という訳で楊子削りになるのですが、その中で最も参考になったのが以下の2冊です。いずれももはや古典なのですが、読み手の姿勢次第ではいまでも十二分に益するところのある名著です。『中国・グラスルーツ』は中国観察の上でも参考になりました。
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(「下」に続く)
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