日々是チナヲチ。
素人による中国観察。web上で集めたニュースに出鱈目な解釈を加えます。「中国は、ちょっとオシャレな北朝鮮 」(・∀・)





 今回は勝手ながら雑談及び楊子削りとさせて頂きます。標題の通りです。

「台湾」
「台湾人」

 という言葉を耳にすると、私はもう無条件で言い様のない情感と好感を覚えてしまうのです。

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 前回の「楊子削り」の冒頭で、
「ときに落ち着いて来し方を振り返ってみたりするのですが、どうも私は典型的な留学生崩れの道を歩んでいるようです」と書きましたが、誰も好んでそうなった訳ではありません(笑)。私だって駆け出しはマトモだったのです。ただ選択を誤ってしまいました。

 当時はバブルの末期で就職戦線は売り手市場。いくらでも口があったのですが、そこは若年客気、できれば小さな会社で自分の働きが会社の業績に反映されるようなところがいいと考え、新卒で中国貿易をメインとする商社に入社しました。他にも色々内定をもらったのですが、
「会社が人を選ぶのと同様に、こちらも会社を選ぶのだ」という不遜な考えでしたから、内定を蹴ることに何の罪悪感も感じませんでした。

 さて入社した商社ですが、上述したように当時はバブルの末期。その会社も御多分にもれず、実は土地を転がして利鞘を稼ぐことで商売が成り立っており、対中貿易も色々やっていたのですが赤字部門のようなものでした。

 小さな会社です。むろん研修めいたものなどなく、私は入社2日目から先輩に連れられて営業をやらされました。後に香港で真価を発揮することになる「口先三寸」技(笑)はどうやら生来のものらしく、ほどなく1人で動くように命じられました。

 むろん得意先を任されるのではなく、それを自分で見つけてこいという飛び込み営業です。でもこれで海外営業の第一歩を踏み出したのだという喜びがありました。……というのは嘘でして、こんなことをやっていて一人前になれるのだろうかというのが本音でした。「こんなこと」が何かは内緒ですが、あまり誇れる内容のものではありません。あ、もちろん法に背く行為ではありませんでしたけど。

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 で、繰り返しますがバブルの末期です。そのころには、いわゆるバブル崩壊はたぶん一部では始まっていたのでしょう。その証拠に土地転がしで稼いでいた私の勤務する会社があれよあれよという間に暗転していき、入社後3カ月で倒産してしまったのです(笑)。いや笑い事じゃありません。倒産、あれは実に呆気無いもので、変だな?妙だな?……と気配の微妙な変化に気付いたときにはもうどうにもならず、片目をつぶっていました(1回目の不渡り)。

 その後は営業どころではありません。債権者が押し掛けてくる前に会社の資産である商品やらリースしたコピー機をあちこちに運んで隠す仕事ばかりでした。士気もすっかり落ちて、勤務時間中に再就職先を探したり、終業後は専務とかがボトルキープしている店に出かけてそれを空にするまでみんなで騒いだり。この間のあれやこれやを具体的に書くだけで読みごたえのあるドタバタ劇になるのですがそれは割愛。

 ともあれ私も就職先を見つけなければいけません。営業部長とその得意先であるアパレルメーカーの社長の酒席に呼ばれて、「上海に工場を出すから現地駐在員になってくれないか」と誘ってもらったのですが、そのときは「もう対中貿易は勘弁」という気分がありましたし、中国語を使えるのは嬉しいものの、仕事でその社長に接していて呆然とするような現地の縫製技術を目の当たりにしていましたから、折角ですがと辞退しました。これは正確な選択だったと思います(笑)。

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 そのうちに新聞の片隅に香港の日系企業の求人広告が出ました。中国語の技術が問われる職種で、それならと思って応募してみました。しかし倒産当時のダラダラ気分が残っていたせいか、面接試験の時間に遅刻する始末。しかも軽い翻訳テストと面接と聞いて案内されたのは大部屋で、いかにも仕事の出来そうな女性や遣り手のビジネスマンといった風情の男性が黙々と翻訳に挑んでいるのです。

 試験は2回に分けて行われたらしいのですが、私のときだけで50人はいました。翻訳自体は鼻歌まじりの楽な文章でしたが、遅刻までした私は競争率の激しさにこりゃもういかん、帰っちまおうかと思いました。

 ところが、これに合格してしまったのです。百数十人受けて採用2名という話なので信じられませんでしたが、これには事情があって、

「中国語も一応できるようだし素直そうでいい(若いころ私が得意とした擬態ですw)。若いから給料も安くて済むし、営業が出来そうだから使えなかったらそっちに回そうと思った」

 と後に社長から直々に聞かされました。仕事に関しては全くといっていいほど期待されていなかったようです(笑)。

 そして7年に及ぶ香港生活(最初で最後の日系企業)がスタートすることになるのですが、意外なことは続くもので、回された仕事が大学時代の専攻と私が関心を持っている分野にドンピシャでした。それで重宝されることとなり、期待されていなかった分だけ過大な評価を受けることとなりました。

 海外に出て来たのに試用期間の3カ月でクビを切られたらどうしよう、と常に不安だったのですが、
「お前はよくやっている」と、正式採用と同時にドーンと給料を上積みしてくれました。それだけではなく、社長に呼ばれて旧正月期間の休暇中に台湾出張を命じられました。何で休み中に仕事?と思ったのですが、

「仕事はしなくていい。エアチケットとホテル代を出してやるからのんびり遊んでこい」

 と豪儀な話です。私はといえば、本当に期待されていなかったんだなあと実感したものです(笑)。

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 ようやく台湾の話となりました(笑)。1990年代初頭のころです。初日は夜遅くの便で台北入りしてホテルにチェックインして寝ただけで終わったのですが、翌日いきなりガツンとやられました。とは、旧正月ですからレストランなどが軒並み休業していて、ホテルの洋食レストランを別とすれば、あとはマクドナルドとかケンタッキー、あるいはデパ地下といった場所しか食べるところがなかったのです。

 いや、最初のガツンは床屋でした。「先生、要不要舒服?」(気持ちのいいサービスの方もいかが?)というアレではなく、正真正銘の散髪屋です(笑)。驚きました。広東語一辺倒の香港と違って、北京語がそのまま通じるのです、北京語が。……台湾なんだから当然といえばそれまでですが、髪型の注文に加えて、カットしてもらいながら散髪屋のお姉さんと北京語で世間話ができた、ということが例えようのない快感であり、広東語によるストレスが一気に散じられる思いでした。

 そのあとに台湾の新聞でも読んでみるかとコンビニに入りました。入った途端、店員に
「歓迎光臨」(いらっしゃいませ)と言われて再びガツンです。大袈裟でなく耳を疑いました。だって当時の香港のコンビニでそんな挨拶をされることは絶対あり得なかったからです。残念ながら新聞は売り切れていたので何も買わずに店を出たのですが、そこでまた一言、中国語は思い出せないのですが「有り難うございました」と言われたのです。

 衝撃でした。香港なら何も買わない客に聞こえるように「チッ」と舌打ちしてみせたりするのが常識でしたから。どうやら違う、台湾は違うようだということに気付きました。日本と同水準の、マニュアル型の受け答えをこなせるレベルのサービスがしっかり根付いているということです。

 そこでマクドナルドに行きました。ああ、やはり香港と違いました。営業スマイルから始まって最後まで日本同様の応対ぶりです。念を入れてケンタッキーにも行きましたが、やはり同じでした。マニュアルをこなせるのです。そういう店と違い、デパ地下の安っぽい食堂や街角でまれに開いていた豆乳の店などでも香港とは正反対の、客を客として丁寧に扱うことがリピーターにつながって長い眼でみると得、という考えに基づいたサービスが根付いていました。

 あるいはそれはサービスの観念とかではなく、台湾人の対人接触に一種の優しさがこもっていることに起因しているのかも知れません。いずれにせよ、私は社長からの御褒美による台湾出張で得難いものに接することができました。そのときの別種の体験(台湾独立派の新聞記者に会ったり、アマチュア専用のライブ喫茶へ行ったり、そごうの喫茶店で隣席のお姉さんたちを捕まえて色々話を聞いたり、コンビニで『non・no』が売られていて驚いたり)も含め、これが私の台湾観、台湾人観の基礎となったのですが、その後仕事で何度足を運んでも不愉快な目に遭うことがなく、台湾は常に香港生活でストレスが蓄積された私を癒してくれました。

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 その後歳月が流れ、私が香港・台湾メディアと関わっていたころ、とある台湾の出版社にスカウトされました。副業で書いていた中文コラムを読んで社長が私の物の見方を評価してくれたとのことで、そんな殺し文句を言われたら私も動揺します(笑)。ただそのころは香港とのつながりが深く、仕事も重要な時期にあったのでそのときは辞退し、様々な経緯から数年後に改めて招請を受け、その台湾企業に入りました。

 最初は社長室付の東京駐在員だったのですが、何年かして社長から台湾本社への異動を打診されました。どうにも元気がなく業績も上向かない編集部があるのでそれを建て直してほしい、ということで、いわば再生工場役なのです。もっとも私も台湾出張を重ねていましたから、会社にいくつかある編集部の中でそこだけは手の付けようがないことはわかっていました。

 その編集部だけ士気も低いし、元気もないし、制作レベルも低いのです。ただそれは責任者の問題によるもので、下っ端にも機会をどんどん与えて、じっと我慢して褒めて伸ばすことで自信を付けさせ、その過程で本当に使えない者を整理しつつ外から人を入れて戦力強化すれば何とかなるだろうという目で私は東京から眺めていました。

 ただ営利企業ですからそう長くは待ってくれません。採算を考えるなら盲腸を切るように潰した方がいいだろうと考えていたのですが、他人事ではなくなってしまったのです。潰せばいいのはわかっているが、草創期に会社の柱として活躍したその編集部に思い入れが深いので何とかしてほしい、というのが社長の弁です。

 私はこの社長が好きで、現在に至るまで、この社長ほど英気溌溂としていて人間的にも尊敬に値する、また人生の師とするに足る人物には巡りあっていません。浪花節ですが、最初にスカウトしてくれたときからの恩顧に応えるべく、討ち死に必定であることを承知しつつ異動を受け入れました。

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 これでまず喜んだのが他の編集部で、着任したところ社内で唯一広東語に通じた人間(笑)と重宝されて、香港からの電話を通訳させられたり、挙げ句は香港誌に載せる広告の広東語コピー作成を頼まれたりしました。「ひとりだけ日本人」状態は相変わらずです。……仕事では苦しいことが多かった割に、頭に浮かぶのは楽しい思い出ばかりです。

 以下はちょっと劇的なのですが、私が赴任して編集部長兼編集長のようなものになり、社長の支持とそれなりのポストであるのをいいことに、かなり無茶な、破天荒なやり方で建て直しと意識改革の手を次々と打つうちに、編集部が生まれ変わったように元気になり、士気も高まって、会議でも開けばみんな下を向いて黙然としていたのが、どんどん手を挙げて積極的に意見を言うようになりました。

 機会を与えられれば嬉しいでしょうし、その仕事ぶりを褒めてやればヤル気も出るのでしょう。その気になれば相応に仕事の質もよくなりますし、それゆえ積極的にもなるもののようです。非常にベタな展開なのですが、現実にこんなマンガみたいなことがあるのかと私自身が信じられませんでした。

 もちろん無茶で破天荒な分だけ秩序紊乱な部分もあるため抵抗勢力による排撃も相当受けたのですが、私はそのたびに白髪を増やしボロボロになりつつ(笑)、辛うじてそれを跳ね返し、編集部を守るという姿勢を崩しませんでした(配下に対する演出・演技という側面もあります。そりゃもう元「漢方医」ですからw)。あるいは、そういう私を間近で見ていたので部下たちが哀れんでついてきてくれたのかも知れません。

 唯一心残りなのは、親が病気になったため1年ばかりで退社して台湾生活を切り上げる破目になったことです。そのため任務も完遂するまでには至らず、社長にも部下にも申し訳ない気持ちがあります。ただ、仕事が忙しくて観光するヒマもありませんでしたが、日常生活で接した台湾人たちはみんな親切で優しく、私の台湾と台湾人に対するイメージは最初のガツンから損なわれることなく、より好もしく強固なものとなりました。

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 そして楊子削りとなる訳ですが、これは紹介するまでもなく皆さんは一読した御経験がおありかと思います。私は文学というものが苦手で、小説といえば故・司馬遼太郎氏の著作ばかり読んでいましたが、散文に傾くようになってから出た『台湾紀行』は氏の著作のベストテンに入れる価値のある名作だと思います。

 もう一冊の『台湾人と日本精神』は討ち死に覚悟で台湾に赴任する際、何かすがるものが欲しくて愛読書たる『台湾紀行』に加えて選んだのがこの本でした。仕事で苦労するたびに、「日本精神」という言葉に勇気づけられたものです。

 長くなったついでに司馬遼太郎の作品の中で私が最も好きで影響も受けた『峠』も加えておきます。深い部分でヲチの基礎にもなりました。ただ御家人を再生産してもロクなことはありませんから、前途のある真面目な学生さんは万一を考えて読まない方がいいかと思います(笑)。

『ワイド版』 街道をゆく 40 台湾紀行

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台湾人と日本精神(リップンチェンシン)―日本人よ胸をはりなさい

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峠 (上巻)

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峠 下  新潮文庫 し 9-16

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