ここ数年アメリカにおける貧富の格差や社会保障の脆弱さなどについての本は多く出されましたが、本書は様々な社会現象の背景を、建国の理念にまで遡って考察しています。
「独立独歩」や「自助」といった個人主義的な価値は、本来、それ自体としては常に尊いものだろう。しかし、現実の状況は、むしろ「自己」を道徳的判断や社会的実践のリファレンス(参照)とすることを個人に余儀なく迫るものである。その結果、社会的な諸関係は、各個人の一人称的な視点から評価・判断されることになる。
それは、ある意味では、アメリカにおける個々の行為者が、人生においてより多くの自由と選択肢を持つこと(ないし持ち得ること)を示唆するものである。しかし、高度に近代化した社会--あるいは、かつて文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースが「熱い社会(hot society)」と称したような、社会的・文化的な移動性・流動性・変化が奨励される社会--に生きる個人は、自己と社会との絶え間ない緊張感や不確実性を背負わされた存在でもある。人生はまさしく「ハイリスク・ハイリターン」であり、光り輝く「アメリカン・ドリーム」の陰には、無残に砕け散った無数の夢が横たわっている。
「「自己」を道徳的判断や社会的実践のリファレンス(参照)とすることを個人に余儀なく迫る」というのは、議論をわかりやすくする反面、触れ幅が大きくなる原因にもなりますね。
最近のTwitterでの原発関連のtweetでも、発言者を親原発/反原発か決め付けて反論する議論が散見されますが、そもそも140文字というのは自分の立場を明確にした上でのツールというアメリカ的なものなのかもしれないですね。
自分のような「半原発」の意見は140文字では言いにくいのも仕方ないか。
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