一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「安全な日常生活」についてのコンセンサス

2006-03-25 | 法律・裁判・弁護士

PSEなし中古家電の販売、事実上容認
(2006年 3月24日 (金) 22:31 読売新聞)

電気用品安全法の安全基準を満たしたことを示す「PSEマーク」のない家電製品(259品目)が4月から販売禁止になる問題で、経済産業省は24日、マークのない中古家電について、当面の間、レンタル扱いすることで事実上、販売を容認する見解を表明した。

PSE法については、メディア(特にラジオ局など)でも反対の大合唱だったわけですが、個人的にはそんなに電子楽器が特権的な地位を持つものなのかなぁ、という疑問があります。

(この手のことになると必ず出てくる坂本龍一の自称「インテリ」「クリエイティブ関係」の人々に対するポジションが、「庶民」に対するみのもんたのポジションに似ているように思えるので、なんとなく胡散臭く感じられてしまう、ということは置いておくとしても)マスコミやブログなどの論調でも「音楽文化」を守ろうとか「中古品流通業者が可哀相」というようなこの件に関してだけは妙に感情的な議論が多いように見受けられます。

僕自身は口三味線以外の楽器をたしなまないので特にそう思うのかもしれませんが、生活をめぐる安全については車検制度(利権の問題ならこれも議論されるべきだし、逆に構造偽装問題とのからみでは民間委託の是非という論点もあります)とか玩具のSTマークとかいろいろあるわけで、それらと比較して日常生活に不合理な制約を与えるものか、ということをまず検証すべきだと思います。

また、「万が一感電してもそれは本人が承知」というような部分については、白物家電についてもそれが言えるのか、とか、日本には失火責任法という法律があって隣家に延焼しても故意か重過失の場合以外は責任を負わないので、エレキギターマニアの漏電事故だからといって単に「自己責任」で済む訳ではない、という問題もあります。

言ってみればこれは

国民の安全を配慮するために日常生活についてどこまで国が規制をかけるか

という枠組みで議論すべき問題なのではないかと思います。


その意味で注目すべきは

志賀原発の運転差し止め命じる 金沢地裁判決
(2006年 3月24日 (金) 20:47 朝日新聞)

井戸謙一裁判長は「電力会社の想定を超えた地震動によって原発事故が起こり、住民が被曝(ひばく)をする具体的可能性がある」として巨大地震による事故発生の危険性を認め、住民側の請求通り北陸電力に対して志賀原発2号機の運転を差し止める判決を言い渡した。
 井戸裁判長は判決で、志賀原発2号機の敷地で起きる地震の危険性と耐震設計について検討。耐震設計が妥当といえるためには、運転中に大規模な活動をしうる震源の地震断層をもれなく把握していることと、直下地震の想定が十分であることが必要だと述べた。
 その上で、国の地震調査委員会が原発近くの邑知潟(おうちがた)断層帯について「全体が一区間として活動すればマグニチュード7.6程度の地震が起きる可能性がある」と指摘したことを挙げ、「電力会社が想定したマグニチュード6.5を超える地震動が原子炉の敷地で発生する具体的な可能性があるというべきだ」と述べた。

僕自身は原子力発電の是非については「まだよくわからない」というのが正直なところです。

化石燃料による火力発電の温暖化問題
水力発電もダムが流砂で容量が加速度的に減ってしまい耐用年数が意外と短いという問題
原子力発電の事故の場合の被害の甚大さ、使用済み燃料の核兵器への転用可能性
はたまた、そもそも遠隔地に発電所を置く現状のシステムの送電コストや送電ロスを考えると、利用者の近くで小口で発電するコ・ジェネレーションの方がいいのではないか
などの問題をどう評価すべきかの意見がまだ持てていないからです。


ところで、僕が今回の判決を注目するのは、いままでの住民訴訟とそれを容認した判決に見られるような「憲法上の幸福追求権」などだけから大上段に違法、とした(言うなればおおざっぱな)判決ではなく、言ってみれば「隣家の塀が傾いてきて危ないので取り壊すなり建替えるなりしてくれ」という訴えと共通する民事訴訟の枠組みの中で、安全性と事故の際の危険性を評価して判断を下しているように見えるからです。

建築当初の国の安全基準さえ満たしていればいい、というわけでないのは、不特定多数のお客さんが出入りする商業ビルで、築年数が古く建築当初は適法だからといって、耐震性能等について全く配慮しなくていい(耐震補強促進法上は努力義務に過ぎないのですが)というわけでないのと(ざくっと言えば)同じです。

そういう他の施設と同様の法的枠組みの中で、原発の事故の際のリスクの高さとその有すべき安全性の基準を検討した結果、この原発は危険だ、と両当事者の主張を比較して裁判所が判断(実際は裁判官の信条によるバイアスがかかっているのかもしれませんが)した結果、専門知識も資料も弁護士を雇う財力も持っているはずの北陸電力が負けたわけです。
ひょっとして北陸電力側としては、国の基準に準拠していれば民事上も免責とタカをくくっていたのでしょうか。まさか運転停止までくらうまい、という慢心があったのかもしれません。


北陸電力は(もちろん)控訴するようですが、高裁でも、普通の民事事件の枠組みの中できっちり判断してもらいたいものです。「今更元に戻せないから仕方ないではないか」というような事情判決は避けて欲しいと思います。


これらの話題を契機に、そもそもの生活の安全を守るためにどういう制度的枠組みが重要なのかを考え直してみる必要があるように思いました。


<追記>
PSE法については経済産業省も妙に弱腰ですね。
それに上記記事の対応策だと、法律としての安定性に欠けるような気もします。
それでも、法律自体はかなり前に出来ていたのですから、中古業界の自助努力不足もあるのでは、とか、ディーゼル車の排ガス規制はよかったのか(この規制で戦後ウイリス社からライセンス生産たとこから始まった三菱JEEPは乗れなくなってしまったんですよね)というようなひっかかりが残ります。

 


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