一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

必要なのは理由より方法なのかも

2008-07-23 | よしなしごと

硫化水素による自殺が後を絶ちません。
我が家にあるアルカリ性洗剤を見ると

まぜるな危険

と大書した下に

酸性タイプの製品と一緒に使う(まぜる)と有害な塩素ガスがでて危険

と説明書きがあります。

かえって自殺をしようとする人にはとってもわかりやすい解説になってしまっていますね・・・



さて、昨日に引き続いて今度はその翌日7/17の朝日新聞夕刊のコラム「底知れない『孤立貧』-自殺者10年連続3万人超過-」筆者は大阪大学総長で哲学者の鷲田清一氏。

コラム全体の内容には同意しかねる部分が多い(というかそもそも論旨がいまひとつ理解できない)のでそれについてのコメントはしませんが、頭に引っかかったのがつぎの部分

昭和のはじめ、自殺者の数が毎年一万数千となったころ、柳田国男はこう書いた。「われわれの生活ぶりが・・・・・・個人の考え次第に区々に分かれるような時代が来ると、災害には共通のものが追い追いと少なく、貧は孤立であり、従ってその防禦も独力でなければならぬように、傾いて来る」

経済発展による世の中の複雑化で単純なセーフティーネットが機能しなくなることと、価値観の多様化で「貧」(不幸)の様相も多様化しているということを示唆しています。

ところで昭和初期の日本の人口は7,000万人弱とちょうど今の約半分でした(参照)。
ということは、自殺者の割合自体はその頃とあまり変わっていないことになります。
割合が同じなら単純に原因も同じとは当然には言えませんが、自殺の背景や原因が多様であることが共通しているとするなら、現代は柳田国男の頃以上に原因が多様で、その予防の困難さも倍以上ということになります。

柳田国男からもう少し時代を遡ると、トルストイ『アンナ・カレーニナ』(1875-77)の冒頭のフレーズに行き当たります(うろ覚えですが)。

幸せな家族はいずれも似通っている。だが、不幸な家族にはそれぞれの不幸のかたちがある。

そういえば近代日本文学においても、自殺はかなりの頻度で描かれています。

では江戸時代はどうだったのか、と考えてみると、江戸時代も近世文学では自殺といえば心中とか色恋沙汰、それに武士の沽券とか商家の身代をつぶした人の自殺というのはありますが、「貧しさ」を理由にした自殺というのはあまり聞きません。
貧しさに直面すると、姥捨て山や間引き、里子に出したりと他人の口減らしはしたものの、自殺した例というのも聞きません(極端な貧困は自殺する前に餓死してしまったからかもしれませんし、民俗学の大家の柳田国男が自殺の論考に「貧」を引き合いに出しているので、実際は貧しさによる自殺というのも昔からあったのかもしれませんが)。

そうだとすると、自殺には貧しいという状況だけでなく、その状況を「不幸」と自覚するというワンクッションが必要なのではないでしょうか。
そして自覚するには「不幸の類型」が必要で、それが昔は比較的定型的ないくつかのパターンに限られていたものが、近代文学やマスコミなどを通じて様々な「不幸の形」が大量に供給され、それが柳田国男が上の文章を書いた時代からさらに加速度的に拡大して今に至っているのかもしれません。

冒頭の硫化水素自殺に代表されるように、(本人にとってはそんなことはないのかもしれませんが)比較的簡単に自殺を選択する人が増えているのだとしたら、現代の情報洪水下においては「不幸だから自殺する」という因果関係の構図自体が崩れて、「自殺することで不幸を検証する」という状況になっているのかもしれません。

では自殺に理由が必要か?と問われたら、僕自身は返事に詰まってしまうと思います。

必要なのは方法だけ、なのかもしれません。
ある意味「お金を稼ぐこと」と同じように。


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