一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「平等」を語るときの視線

2012-03-22 | 乱読日記

ひきつづき『アイデンティティと暴力』から

社会主義の古典によく見られる、人を労働者と非労働者に分ける政治的区分にすら、この単純化の特徴が見られる。・・・ドイツ労働党の行動計画草案(「ゴータ綱領」)に対するマルクスの批判にはとりわけ、労働者を「単に」労働者としてしかとらえず、人間としての多様性を無視することへの反論が含まれていた。

不平等な個人(しかも、不平等でなければ異なった個人とは見なされない)は、平等な視点のもとに置かれ、ひとつの明確な側面からのみ見なされた場合、たとえばこの場合なら、労働者としてのみ見なされ、それ以外の面はなにも考慮されず、ほかのあらゆる要素が無視された場合にのみ、平等な基準によって測ることができる。


「不平等でなければ異なった個人とは見なされない」、マルクス得意の皮肉な言い回しですが、これって「平等」を語るときに、その視点をどこに置くかを意識するためには、けっこう大事なことだと思います。

コメント
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