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NHKスペシャル「日本はなぜ戦争に向かったのか」

2011年01月11日 23時29分16秒 | 現代日本


日曜日のNHKスペシャルを見られた方はいるでしょうか。私は見なかったのですが、このNHKスペシャルについて、さくらの花びらさんが記事を書いておられます。日本が間違った戦争をしたという結論に向かってその過程を当時の資料を使って都合よく利用して編集してあるといっておられます。そして日本軍の行動に関して、その理由を説明することなく述べているために、日本軍がいかにも悪いような印象を与えるようになっているそうです。このような日本を悪くする印象操作について、さくらの花びらさんはかつて、次のように言われていました。

大東亜戦争はいきなり日本が真珠湾奇襲からはじまったと言われています。
しかし、なぜ日本は奇襲をしたのか。
そこに至るまでの歴史の積み重ねを見ずして生きた歴史は語れません。

たとえば忠臣蔵というのがあります。
あれがいきなり吉良邸への討ち入りからはじまったらどうでしょうか。
赤穂浪士が予告もせずに、土足で吉良邸を奇襲し、老人の首をはねた、となると
物語としては忠臣どころか武士の風上にもおけぬ狼藉者たちです。
しかし浅野内匠頭の殿中での刃傷事件による、主君を思う赤穂浪士の討ち入りとなればこそ、
観客は溜飲を下げるのです。

大東亜戦争も真珠湾からではなく、三百数十年にわたる欧米諸国のアジアを植民地にした
その背景と搾取、弾圧などを含めて見ていかなければなりません。
・・・・・・


「我が国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
私は、未来に過ちを無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明いたします。・・・」

このように言った首相がいました。
また、

「私はあらためて今世紀前半の歴史を振り返り、多くのアジア・太平洋地域の人々に耐え難い苦しみをもたらした我が国の行為を厳しく反省する・・・」

と言った首相もいました。

しかしアジア諸国からはこのような声が上がりました。
「日本はあれだけの大戦争を勇敢に戦いながら、その国の首相が、先輩の業績を否定するような発言をするのは無責任だ」

かつて日本軍と共に自分の国の独立のために戦い、サムライ精神を教えてもらった彼らはお詫びする日本人は歴史を否定する者として軽蔑しています。

インドネシアのサンバス将軍はこう述べました。

「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。
その目的の大半は達成したがまだ残っている。
南アフリカもそうだし、ソ連は最後の植民地主義国だ。
中国もチベットや新疆を併呑した植民地主義国だ。
これから我々が取り組まねばならない植民地一掃の大事業は中・ソが相手になる。
そんな時に日本の首相が行った演説は植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。
日本の首相は日本の先輩たちが果たしてきた歴史を踏まえ、
アジア・アフリカ諸国の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。
かつての日本はスカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル、アキノ、汪兆銘、
チャンドラ・ボーズを応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは残念である」

我々日本人は、先輩の行なってきた大義を忘れ、
その先輩たちを悪いやつだと批判し、散華した先輩たちに感謝することもせずに、
日本は平和憲法で平和を謳歌していると錯覚してしまいました。

中国がチベットや新疆を併呑した植民地主義に対しても何も言えず、
それどころか同胞を北朝鮮から救い出すこともできない日本。
そんな今の日本人が先輩たちを、悪い、悪い、と責めることができるのか・・・ 考えて欲しい。


さて、日曜のNHKスペシャルは、まさに日本の戦争を批判し糾弾する番組です。いかに愚かで間違った戦争に突入したかという経緯を探る番組です。それについてさくらの花びらさんは引用した以下の記事で書いておられます。そしてその最後に出てくるキーワードはコミンテルンです。このコミンテルンの工作は、アメリカ政府の内部にも及んでいたことが最近べノナ文書でも明らかになっていますが、日本も中国もアメリカも操ったコミンテルンの工作のすごさを感じます。
以下引用です。


昨夜、NHKスペシャル「日本はなぜ戦争に向かったのか 外交敗戦孤立への道」をやっていました。
内容は1931年の満州事変から、支那は国際連盟に提訴、
日本は国際連盟を維持したかったが結局は脱退。
それにより日本は外交的孤立を余儀なくされ、
さらに日本は政府と軍部の二重外交となり、それが蒋介石をはじめ世界から信用を失う中、
ドイツと接近し、三国同盟と歩んでいく。
やがて大東亜戦争(NHKはアメリカの呼び名の太平洋戦争を使う)となっていく、ということです。

番組全体を見終わった後は「やはり日本は間違っていた」と思えるようにできています。
この番組は最初に「結論ありき」で、その結論に持っていくために、
当時のテープや資料を都合よく利用する、いつもの通りでした。
・・・・

当時、ドイツと接近と言い出したのは陸軍です。
これはソ連を牽制するためでした。
しかし海軍の米内光政のような親ソでソ連に愛人とその子供もいる彼にとって、
ドイツと結ぶことはソ連のために猛反対でした。

ドイツは第一次大戦後にソ連からユダヤ人の共産主義者が大量に入り込み、
共産主義革命が起きましたが、革命は成功せずに民主主義のワイマール憲法が出来ました。
その後、マルキストがフランクフルト大学を拠点に活動をしていましたが、
ドイツ人にとってユダヤ支配は屈辱でした。
その時、ユダヤドイツを打倒するナチスがドイツ国民から支持され、
民主主義のワイマール憲法のもとで選挙があり、ナチスは第一党となりました。
これによりユダヤのマルキストたちはアメリカに亡命し、ハーバード大学やコロンビア大学を拠点にして、
今度はアメリカの権力内部に入り込み革命を起こそうとしました。
ルーズベルト政権の中枢にはこのようなニューディーラーと呼ばれたコミンテルンが多くいたのです。
彼らは戦後、GHQとして日本に入り込んできました。

番組ではこのような解説がありました。
「1935年5月、現地の陸軍は思わぬ行動に出ました。
対ソ防衛を理由として国民政府を相手に中国北部からの退去を要求するという
外交上の越権行為に出たのです。
現地軍の行動は政府にとって寝耳に水でした。
外務省は軍とは逆に、国民政府への支持を軸に日中関係を改善し、
国際的孤立を回避しようと考えていたからです」


1932年に満州国が建国され、その後、関東軍は満州国の南西方面に緩衝地帯を
築き上げようとしました。
NHKはなぜ関東軍がそのような行動をとったかを説明しないので、
関東軍が無謀な行為を働いたようなつくりになっています。

満州国周辺では不穏な反日事件が多く、
特に親日家への暗殺事件を含み反日事件が50件も起きて日本人居留民たちは不安でした。
関東軍はこの不安を解消するため国民政府が華北をきちんと抑えて、こういう事件をなくさなければ、
我々軍が実力を持ってこの地域の治安を担当する、と通告し「梅津・何応欽協定」を結びました。

さらに非武装地帯をチャハル省まで広げた「土肥原・秦徳純協定」も締結します。
このように関東軍は満州を安泰にし、居留民たちの安全を確保するため、
満州国の南西部の国境に緩衝地帯を設ける華北工作を行っていきます。

これを「軍の外交上の越権行為であり、日支間の関係改善を目指した外務省と逆の事をやった」
とNHKは指摘しています。
日本国民の生命・財産を守ることは無視して、軍を単に非難するNHKなのです。

そして、このように続いていきます。
「軍と外務省。ひとつの国家に全く相容れない外交方針が並存する二重外交が生じていました。
なぜ、この時期に外交の分裂が生じたのか。特に中国大陸では軍の独断行動が顕著でした。
・・・1936年10月、蒋介石と川越茂大使の間で防共協定をめぐる交渉が大詰めを迎えます。
だが、この時点で国民政府が日本の呼びかけに応じる可能性はなかった。
・・・1935年の暮れまでに、中国が日本を見限りソビエトとの関係強化に踏み出していたことがソ連側の資料で初めて確かめられました。(1935年10月19日のソ連大使の報告文より)
・・・日本の出方を注意深く見守っていた蒋介石。日本が外交方針を統一できないと見るやついに決心を固めました。12月15日、ソ連と提携に傾いた、提携した」


ここでポイントは「12月15日」です。
最後の部分で蒋介石がソ連と提携とありますが、1935年なのか1936年なのか、
はっきり表示していません。それがミソです。
1936年12月12日に西安事件が起きています。
その3日後の12月15日にソ連と提携したならば、
日本の外交方針に関係なく蒋介石の命がスターリンと引き換えだったのです。

ここが支那事変で重要なところです。
支那事変の大本は盧溝橋事件ではなく西安事件にあるからです。
この西安事件は中共では教えられません。
日本の侵略ではなく日本を戦争に引き込んでいったことになるから都合が悪いのです。
今回NHKも触れませんでした。

張学良は1931年の柳条湖事件で満州から逃げ、錦州に仮政府を作りましたが、
ここも関東軍に攻撃され、ついには満州から逃げ去りました。
その後、張学良は2年間パリに行き歓楽生活を送ります。
この時にモスクワと接触して、共産党と連絡を取り合い、
1934年に上海に戻って蒋介石から共産主義者の平定を任命されますが、
張学良は共産主義者を平定せずに西安に駐留し、
共産党の周恩来らと連絡を取り合い、日本打倒を掲げて共同抗日となり、
1936年12月に蒋介石が西安に入ると監禁しました。
ここでスターリンも関与し、蒋介石は命と引き換えに対日戦争を約束したのです。

この時、スターリンは華北を占領した日本軍に脅威を感じていました。
脅威である日本軍を南下させるため、上海方面で日・支の全面戦争をさせるようにします。
そのために蒋介石に張治中をスパイとしてつけて、
張治中は蒋介石の許可なく1937年8月9日に大山事件を起こします。
前日の8月8日には日本政府と蒋介石の南京政府が、
川越大使と高宗武による停戦案で日本は大いに譲歩して早期解決をはかろうとしていましたが、
この大山事件で停戦案が止まり、
ついに8月13日から日本と支那は上海で戦火を交え、戦争回避の機会は失われてしまいました。
スターリンの思う通りでした。
・・・・・・



NHKは番組の最後にアナウンサーにこう話させました。
「なぜ日本は孤立化への道を歩んだのか。
それはその時代の選択の一つ一つが、
きちんとした長期的な計画のもとに行われたのではなかった、むしろ見えてきたのは、
はっきりした国家戦略を持たずに、甘い想定のもとに、
次から次へと起こる自体の対応に汲々とする姿で、
一体誰が情報を取りまとめ、一体誰が方針を決めるのか、
そしていったん決まったことがなぜ覆るのか、
そういったことが何も見えない日本がやがて世界の信用を失っていくことになるのです。
方針も情報も一本化できず、内向きの都合のいい現実だけを見続けた果てに、
日本はあの所謂 太平洋戦争を迎えます。
外交敗戦ともいうべき国家の誤算は、開戦に向かうその時まで繰り返されたのです。・・・」


当時、日本は「政府」と「陸海軍」と参謀本部と軍令部の「統帥部」がありました。
そういう中で日本の外交政策は確かにおかしな事が多かった。
支那と和平工作をしようとしても軍が独断で進攻してしまうこと、
軍は防共のためソ連に備えるべきを南進に向かったり、・・・

ここは当時、誰も気づかなかったのですがコミンテルンの存在がありました。
日本の軍部内にも、政府の中にも多く紛れ込んで工作活動を行っていました。
彼らは共産主義とソ連の勝利を願い、日本を敗戦から革命へと導くためにスパイ工作を
行っていたのです。

梅津美治郎の側近に池田純久少将がいます。
池田が企画院時代に作成したものに
「計画的に支那事変を起こし、日米戦を始めさせるように仕掛けて、
日本の社会制度を一新してソ連のようにする」と書いてありました。
支那事変不拡大の近衛内閣の方針が実行できなかったのは梅津の存在があります。
池田は企画院調査官の時に国家総動員法を推進し、新官僚グループの代表的存在でした。
この企画院は軍の統制派が反ソ・反共産の皇軍派と対立して革新官僚を育てたものです。
二・二六事件以降、皇道派は弱まり、統制派が力を付けました。
これ以降、皇道派で閣僚に入るのは戦後の東久邇宮内閣の小畑敏四郎が国務相に
起用されるまでありませんでした。

さて、この国家総動員法はソ連の計画経済の影響を受け、
人やモノを政府が統制する社会主義そのもので、
マルクス主義の研究をしていた企画院が作り出したものです。
だからこそ平沼内閣の時には企画院事件が起きたのです。

ここで、首相だった近衛文麿がいいところを突いた発言をしていますので記しておきます。
1945年2月14日に近衛が陛下にこのように上奏しました。
「敗戦よりも、敗戦に伴う共産革命が深刻です。
軍部内や民間有志のソ連共産主義者である革新論者を排除せねば
日本は取り返しがつかなくなります。
敗戦必至で勝利の見込みのない戦争を継続するのは共産党の手に乗ってしまうだけです。
この一味を一掃し、戦争を止める御勇断が望ましいものです」

さらに戦後の1945年10月4日、近衛は日比谷の第一生命ビルにマッカーサー元帥を訪問しました。
この時、近衛は次のように話しました。
「軍閥と極端な国家主義者が世界の平和を破り、
日本を破局に陥れたのは一点の疑いもないが、
皇室を中心とする封建的勢力と財閥が演じた役割と功罪については
米国に相当観察の誤りがある。
彼らは軍国主義者と結託して今日の事態をもたらしたとみられているが、
事実はその反対で、常に軍閥を抑制するブレーキの役割をつとめたのである。
軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実はマルキシストである。
日本を破局に陥れたものは軍閥と左翼の結合した勢力であった。
日本では財閥と封建的勢力を除いて安定勢力はない。
今日直ちにこの安定勢力を除去すれば、
即ち日本がすぐ赤化に走るということを強く指摘したい」


「何者か目に見えない力によって日本の歴史は動かされてきた」
とも語っていた近衛文麿は、戦後間もなく自殺をはかりましたが、
彼の評価が戦後悪くなったのも、マルキストたちに都合の悪いこのような発言があったからでしょう。

NHKは「日本がなぜあのようなおかしな外交をしたのか、日本が間違っていた」と言う前に、
もう一度調べ直してほしものです。
日本がおかしな外交をしてきたのは、共産主義とソ連の勝利を願ったやつらが、
日本を敗戦させて、革命へと導くために工作活動をしていたのであり、
それが戦後も革命や闘争という名のもとに続いていた、ということを。


ところで、このNHKスペシャルについて、正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現では、やはり同じような考えを述べておられます。

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支那の反日集会の映像を流しながら、ナレーション(松平)

2010年9月18日、瀋陽で行われた反日集会

ナレーション
今なお日本に突き付けられる憎悪と不信。

満州事変は、世界と日本の関係を決定的に変えた大事件でした。


9NHKスペシャル日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道 満州事変

1931年9月18日、瀋陽郊外の柳条湖で日本の経営する南満州鉄道の線路が爆破されました。

これを中国側の仕業として関東軍は武力による攻撃を開始。

5か月でほぼ満州全域を制圧し、翌年には傀儡国家の満州国を独立させました。


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上の映像とナレーションだけだと、全て日本が悪かったように思える。

NHKは、満州事変に至る過程や背景などを全く説明しなかった。

日本は、日露戦争の結果、1905年にロシアと締結したポーツマス条約や清国と締結した北京条約などにより、満州において関東州の租借地(遼東半島)と南満州鉄道などの権益を獲得していたが、それを張学良らによって侵害されていた背景を全く説明しなかった。

また、張作霖、張学良親子は、武装盗賊の頭領として、強盗殺人をやりたい放題し、特に朝鮮人(当時は日本臣民)を虐待した。

清国衰弱と共に満州には多くの中国人が流入し、日本の後援を受けた張作霖が独立国とした(張作霖、張学良が満州の民衆を搾取していた実態や、張作霖の度重なる危機を関東軍が救った話は古野直也氏著の近著「張家三代の興亡」が好著である)。
 張作霖父子は中国征服に乗り出し、20年先の税金まで一般人から取り、日本や朝鮮人にも法外な税金を徴収したり、土地、会社などを没収したりしたので日本に対する忘恩行為と言われたが、特に朝鮮人は虐待された。
(略)
 当時、朝鮮人は日本人だったが、(張作霖父子は、朝鮮人の)日本人としての権益を認めず、朝鮮語、朝鮮服の使用を禁止したり、朝鮮学校の没収を行い、帰化を強制し、あげくには帰化朝鮮人まで追放し、殺害、略奪の対象になった。

『ノモンハン事件の真相と戦果――ソ連軍撃破の記録』小田洋太郎・田端元著



このような背景があったからこそ、関東軍(1万人の警察)は張学良率いる武装盗賊(30万人)の追放に動いたのだ。

にもかかわらず、NHKはこのような背景を全く説明することなく、冒頭から
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1931年9月18日、瀋陽郊外の柳条湖で日本の経営する南満州鉄道の線路が爆破されました。
これを中国側の仕業として関東軍は武力による攻撃を開始。
5か月でほぼ満州全域を制圧し、翌年には傀儡国家の満州国を独立させました。
―――――
とナレーションで述べた。

これでは一般の視聴者は、「日本は満州で悪い事をしたんだなー」と思うしかない。

引用終わり