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国際的評価の高かった日本の修身教育

2011年01月03日 05時12分48秒 | 歴史
 ここに引用したのは、戦前の旧制中学校の修身教科書の中の一項目です。自重とは、今では行動を謹んで、軽はずみなことをしないことという意味に使っていますが、本来は、自らを重んじること、自分の品性を保ち、卑下しないこと、つまり自尊を意味しました。

      自 重
  よく見ればタズナ花咲く垣根かな(芭蕉)
 「よく見れば」寸余のタズナにも春の花が咲いている。至って貧弱な、目にも留まらぬようなタズナでも、その根をしっかと大地に据えて、雄々しくも自分の生命を伸ばしている。
 我等は我等みずからの内に潜んでいる貴い本性を「よく見」なければならぬ。自分自身の力を自覚し、これを尊重して外物のために動かされず、よくその面目を保つことを自重という。
 マーデンはその「勇往邁進論」のうちに、マーデン
 弱き者、人に依頼する者、独立の出来ない者、心の動き易い者、決断のない者は――自重する者の心のなかに輝く気高い誇(こころ)を知らず、且また永久知ることは出来ない。
 自重心ある人の悦びは、月桂冠を得たことでなくて、月桂冠を得る力が自分の力であるということである。
 と歌っている。
 
 自ら重んずる事を知る者は、事をなすに当たって、色々の立場から考えてその是非善悪を判断し、さて「これでよい!」と決めたときは、万難を排してこれが断行を期し、どんな困難があっても決して中止変更するようなことはなく、もちろん他人の誘惑や甘言に動かされて軽挙妄動するようなことはない。韓退之(韓 愈かんゆ、768年- 824年唐宋八大家の一人)が「士の特立独行するは義に適うのみにして、人の是非を顧みず。」と言ったのは、よく自重の神髄を捉えた言である。
 自分の有する尊ぶべき本性に気づかず自ら軽んじ自ら卑屈にするを自棄という。孟子は「それ人必ず自ら侮(あなど)りて然る後に人之を侮る。」と言っている。自分のいささかの長所をたのんで、他に対して傲慢な態度を取るのはよくないけれども、自重心の欠けているものは、その言行に何等の節操がなく、必ず人の侮りを受け、世の物笑いとなるに至るものである。
 佐久間象山はかつて「予、年二十以後、すなわち匹夫にして一国に繋(かか)るあるを知る。三十以後、すなわち天下に繋るあるを知る。四十以後、すなわち五世界に繋るあるを知る。(私は、二十代では、大して偉くもない人間ではあっても一藩につながっているのを知った。三十代では国家に繋がっているのを知った。四十代では五大陸〈世界〉に繋がっているのを知った。)」と言って大いに自重した。我等も自分の力を自覚して自重自尊、以て国家のために貢献しなくてはならぬ。

佐久間象山

          ◯
 天の我に与うる所以(ゆえん)は必ず我を用いんとするなり、我これを知って行うことを得ざるを名づけて天を棄(す)つという。(蘇洵―唐宋八大家の一人)
 誰でも自分を虫にするものは、他人から踏まれても怒る権利はない。(カント)

 修身は、このように、子供たちが社会に出るために、立派な人間に育つようにと、日本の伝統的な道徳を世界中の偉人の言動を紹介しながら、教えました。こうした修身教科書は、江戸時代の寺子屋や、武士の家庭での教育で論語を基本的道徳として教えてきた、そうした伝統に基づいて、より近代的に編纂されたものではないかと思います。

  ところで、前鳩山首相はワシントン・ポスト紙によってルーピーと言われましたが、このルーピーとはループ(輪)から来た言葉で、日本語の近い言葉はクルクルパーだそうです。辞書でもルーピーという訳語は「変わった、狂った、混乱した」という意味だそうです。評論家の櫻井よしこ氏が「鳩山首相は戦後教育の失敗例」と指摘したそうですが、知識が足りない、とか、思考力がない、という「愚か」さではなく、知識も思考力も超一流だが、人間らしい常識や思いやりを欠いているという意味で、クルクルパーなのだそうです。そしてこの点が、まさに「戦後教育の失敗例」そのものなのです。

 人間らしい思いやりの心を育てることは、我が国の人作りの伝統の根幹であった。その中心的なテキストであった『論語』には、次のような一節がある。  (国際派日本人養成講座より)

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 師冕(しべん)見(まみ)ゆ。階(かい)に及ぶ。子(し)曰(いわ)く、階なりと。席に及ぶ。子曰く、席なりと。みな坐す。子之(こ)れに告げて曰く、某(それがし)はそこにあり、某(それがし)はそこにありと。師冕出(い)ず。子張(しちょう)問いて曰く、師と言うの道かと。子曰く、然(しか)り。固(もと)より師を相(たす)くるの道なりと。

 目の不自由な楽師冕(べん)が訪ねてきた。先生は自ら出迎えて案内し、階段に来ると「階段ですよ」と言われ、席に来ると「席ですよ」と言われた。一同が座ると、「誰それはそこに。誰それはここに」と一人ひとり丁寧に教えられた。師冕が帰った後で子張が「あれが楽師に対する作法ですか」と訪ねた。先生が答えられた。「そうだ。あれが目の不自由な楽師を助ける作法なのだ」

     ○

 目の不自由な者の身になって、きめ細かに対応する孔子の温かな配慮が伝わってきます。相手の身になって行動する、まさに仁者の在り方を具体的に学べる章です。

 子張が質問したのは、一盲目の楽師に対して、孔子の取った対応があまりにも丁寧で、礼に過ぎるのではと思ったからです。「然(しか)り。固(もと)より師を相(たす)くるの道なりと」ときっぱりと答える孔子の言葉に、まごころからの思いやり、「忠恕」を「一以て之を貫いた」孔子の確信ある生き方を髣髴(ほうふつ)とさせます。
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 これは小田原市立小学校の校長を務めた岩越豊雄氏が退職後に開いた寺子屋「石塾」で、子供たちに語った一節である。子供にでも分かるこういう一文から、「相手の身になって行動する」「まごころからの思いやり」を学んでいれば、鳩山由紀夫氏もルーピーなどと呼ばれずに済んだはずだ。

『論語』は16百年ほど前に、海外から我が国にもたらされた最初の書物であった。そしてその「忠恕」や「仁」を核とする思想は、民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、すべての生きとし生けるものが「一つ屋根の下の大家族」のように仲良く暮らしていくことを理想とした我が国の国柄には、まことに相性の良いものであった。

 そして我が先人たちは『論語』に学びつつ、我が国の国柄を深めていった。聖徳太子は、『論語』の「和」を深めて、「十七条憲法」の第一条に「和を以て貴しと為す」と説いた。鎌倉時代の「曹洞宗」の開祖・道元禅師は、世を治めるのは『論語』がよいと推奨していたという。

『論語』は、まさに我が国を発展させてきた先人たちのバックボーン(背骨)であった。だから、戦後教育で『論語』が忘れ去られた途端に、きちんとした価値観、原理原則という背骨を持たないルーピーな人間が増え、その一人が総理大臣にまでになってしまったのである。

 空手の達人で、子供たちに論語を教えている瀬戸謙介氏は、その著書でこう述べている。

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 でも、世の中には命よりも大切なものが絶対にある、と先生は思います。そして、自分の命より大切なものがあると知ったときに、その人の人生は輝きを増して、人間として素晴らしい人生を歩むことができるのです。

 だから先生は、君たちには命よりも大切なものがあることを絶対に知ってほしいと思います。
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 自分の命が一番大切だとしたら、結局、自分はいつかは死んでしまうのだから、どうせ何をしても後には何も残らない、というニヒリズムに陥ってしまう。そこそこ豊かな生活ができれば、それで満足してしまう。現在の多くの青年や子供の元気がないというのは、ここから来ているのだろう。

 それよりも、自分の命が現在あるのは、先人や世の人々のお陰と考え、少しでも恩返しをして行こう、という心のある人は、自分の人生をそのために使おうと頑張り、それが結局、その人の人生を耀かせ、幸福にするのである。

 この道こそ、『論語』や『武士道』を通じて、日本人が大切にしてきた生き方であり、そういう人物を育てることが我が国の人作りの正道であった。国民を幸せにできる国家を再建するには、もう一度、この正道に立ち戻るしかない、と思う。
 国際派日本人養成講座「人作りこそ国家再生への道」より引用

 戦前の教育で行われていた修身教育が世界でどのように評価されているかを、さらに国際派日本人養成講座から引用したいと思います。

 教育学者・小池末次氏は、修身教育の研究をされ、『修身の教科書』を出版されている。『致知』2005年11月号に掲載された記事『修身こそ人間を開く』の中で、日本の修身教育が欧米の教育界で高い評価され、影響を与えている事実を指摘されている。

 明治四十一年にロンドン大学で国際道徳教育会議が開かれました。そこに提出された日本の修身教育は各国の注目を集め、道徳教育の粋として絶賛されました。以来、多くの国が範を日本の修身教育に求め、修身を参考に道徳の教科書を編んでいるのです。このことは各国の道徳教科書を見れば、容易に跡づけることができます。そのことを知らないのは日本人だけです。

 修身を研究し、その素晴らしさを知れば知るほど、マッカーサーの占領政策の遠謀深慮も分かってきます。

 歴史学者のアーノルド・トインビーは古代ローマ帝国の興亡を研究して、明解にこう言っています。「一つの国が滅びるのは、戦争によってではない。天変地異でもなければ、経済破綻によってでもない。国民の道徳心が失われた時にその国は滅びる」と。

 日本の修身教育の素晴らしさを知っていたマッカーサーは、これを狙ったのです。手強い日本を骨抜きにするために、修身や歴史の授業停止を指令し、教育勅語を退けて、教育基本法を制定しました。

 そのアメリカも、現代では日本の修身教育から学んでいる。

 アメリカも学校に暴力がはびこり、学力が著しく低下し、麻薬さえ蔓延して、教育現場が荒廃した時期がありました。時のレーガン大統領は日本に使節団を派遣し、その代表のベネットは『道徳読本』を書きました。それは三千万部という大ベストセラーになり、それを基盤にアメリカは再建に向かったのです。その『道徳読本』を読んで驚きました。私が戦前の修身と国語の教科書からいい話を百話選んで編纂し、昭和五十一年に自費出版した『修身・日本と世界 - 今こそ日本も考えるとき』と中身がそっくりだったからです。戦後、西ドイツのアデナウアー首相は日本の修身に学んだ道徳教育を推進して復興を果たしました。イギリスのサッチャー首相は道徳教育を強化する教育改革を行ってイギリスを蘇らせました。ロシアや中国でも国民教育に力を入れているのは、教科書を見れば明らかです。

 道徳教育の豊かな開発力を多くの国が知り、力を注いでいるのです。「自由にのびのび」などと馬鹿なことを言っているのは日本だけです。

 わが国の教育改革でも、まずは、わが先人の知恵を活用すべき時だろう。 

 自由にのびのびというゆとり教育から学級崩壊が加速した経緯については、本ブログ「学び続けること ~子供たちの生きる力を育てる」をお読みいただければと思います。