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人種平等への戦い

2011年01月13日 09時12分40秒 | 歴史

1942年4月移動させられるカリフォルニアの日系のアメリカ人の子供たち


 今日は、第二次世界大戦前の欧米社会の人種差別についてJJ太郎さんが、以前ブログで書いておられ、それが戦争の原因の一つとなったという風に述べておられますが、それを紹介し、さらにそれに関連する国際派日本人養成講座の記事も紹介したいと思います。現在行われる国際会議では、人種差別の雰囲気はみじんも見られませんし、多くの国が平等に出席して堂々と発言していますが、第二次大戦前は、多くのアジア・アフリカ諸国は植民地であり、出席も発言も考えられないくらいで、世界は白人諸国に握られていたといえます。白人の優越感は、ダーウィンの進化論に同調して、白人優生思想となって、白人が世界を支配することは正しいことだと信じられていました。この白人優生思想が、打ち破られ、多くの植民地が独立し、どんな小さな国でも国連に加盟するようになったのは、第二次世界大戦、特に大東亜戦争という、有色人種の国日本が世界に戦いを挑んだ結果にほかなりません。たとえ負けたとはいえ、これによって多くの植民地で独立の機運が起こり、短期間とはいえ日本の指導を受けた独立軍が各地で戦いました。戦いは多くの人の人命を奪いますが、この戦いがなければ、白人の優生思想を理論で打ち負かそうとしても、多くの白人種の考えを変えることはできなかったでしょう。大東亜戦争が世界の価値観や常識を一変させて、新たな新秩序へと世界を踏み出させたのは事実です。
 当時のオーストラリアの政府高官が次のような予言をしていました。 「白人が自発的に有色人種を対等の者として受け入れることは決してないのだから、人種的劣等という憎むべき汚名を除去するためには力によるほかはない。(中略)潜在的な世界的混乱が予想されるし、やがて欧米世界に重大な結果を招来するおそれがある。」


ここから引用「かつて日本は美しかった」(日本のほっぺたをひっぱたいた排日移民法)

大正13年(1924年)、米国で絶対的排日移民法が成立します。これ以来、米国は日本との外交交渉において強硬姿勢をとり続けています。

1906年(明治39年) 日本人の学童は米国人とは隔離
1907年(明治40年) サンフランシスコで反日暴動
1908年(明治41年) 日米紳士協定により一切の新規労働移民を日本は自粛させられる
1913年(大正2年)  カリフォルニア州で日本人移民の土地所有禁止
1920年(大正8年)  カリフォルニア州排日土地法で日本人移民の子供も土地所有を禁止
1922年(大正11年) 米国最高裁判所で日本人を帰化不能外国人と判断
1924年(大正13年) 連邦法で排日移民法が成立

「日本はあたかも突然、何の前触れもなく、親友に頬を打たれたように感じた」ノンフィクション作家、ジョン・トーランド(大日本帝国の興亡)

昭和天皇は戦後の回想の中で戦争の遠因として以下のように述べています。
「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。又青島還付を強いられたこと亦然りである。
かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」

欧米人の有色人種の差別意識は相当強いもので、例えば、米への日本人移民は「写真結婚」ということを行っていました。写真、履歴書を故郷の仲介者に渡して、文通だけで交際し、入籍して渡米するというものです。こういう文化の違いも奇異の目で見られて攻撃材料にされたのです。

ただ排日運動が起こった当初、日露戦争のときに日本を支援したセオドア・ルーズベルト大統領は排日は日米関係を危うくするものと認識しており、息子宛の手紙で「余は日本の問題(排日)では痛く悩んでいる。カリフォルニア、特にサンフランシスコの大馬鹿どもは向こう見ずに日本人を侮辱しているが、戦争となった暁には、その結果に対して責任を取るのは国民全体なのである」と書いています。そして議会の演説で注意を促し、これ以上、日本人への迫害が続くなら、合衆国軍隊の出動も辞さずとまで警告しました。こうして1908年の日米紳士協定が結ばれます。
1913年になると再び排日が噴出し、1919年のベルサイユ会議で日本が人種平等を提唱したため、排日運動が再燃化します。移民法案が着々と進められ、日本は厳重に抗議します。日本は移民の受け入れ云々ではなく、差別的扱いは日本国民を憤慨させるもので両国の友好のためにならない、と主張しています。

移民法案が上院下院を通過すると日本の反米世論が沸騰しました。日本のマスコミは連名で「排日移民法の成立は内容において人道に背き正義に反するのみでなく、日米両国の伝統的信誼(しんぎ 信用と道義)を無視したる暴挙である・・・」と抗議しました。あちこちで集会が開かれます。そして「米国民に訴ふ」「日本同胞国民に与ふ」と遺書を残し割腹自殺を遂げる人まで出たのです。両国国技館での集会は3万人が集まったといいますから、先月のAPEC4000人デモなど比ではなく、世論沸騰状態だったということです。

ここまでの話だったのか、とちょっと驚きます。おそらくこれも戦後は「日本悪」を刷り込むため言論空間から遠ざけられてきた話なのでしょう。



参考文献
「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
文春文庫「昭和天皇独白録」
「大東亜戦争への道」中村粲著
「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編

ここから国際派日本人養成講座の記事転載

■1.人種差別撤廃への日本の宿命■

 虐待をこうむっている有色人種のなかでただ一国だけが発言に耳を傾けさせるに十分な実力を持っている。すなわち日本である。日本は唯一の非白人一等国である。人種以外のすべての点で日本は世界の支配的大国と肩を並べている。しかし、日本がいかに軍事力で強大になろうとも、白人は日本を対等とは認めることはしないだろう。

 第一次大戦後にイギリスの外務省がまとめた「人種差別と移民」 という報告書の一節である。日清・日露戦争、第一次大戦の勝利を通じて、日本は世界の強国の仲間入りをしたが、それは非白色人種による唯一の近代国家という前例のない、孤独な地位であった。

 当時は「科学的人種主義」が花盛りの頃で、西洋の一流の学者は、日本人の人種的劣等性は経験的に実証できると論じていた。「日本人は身長5フィート(150cm)、肌は褐色、吊り目をしていて、生の魚を食べる」といったあからさまな差別的記述がごく当然のようにされていた。

 米国カリフォルニア州では、様々な法律で日系移民の土地所有を禁止し、その子供を公立小学校から追放していた。オーストラリアのウィリアム・ヒューズ首相は、選挙演説の中で次のような一節を述べている。

 我々の主たる綱領は、もちろん白いオーストラリアだ。これに関しては妥協の余地はない。働き者の有色人種の兄弟は去れ。 戻ってくるな。

 日本は有色人種の先頭に立って、世界の人種差別撤廃を目指さねばならない宿命にあった。

■2.国際連盟への期待■

 1919年、第一次大戦後のパリ講和会議においては、米国ウッドロー・ウィルソン大統領は、永続的な平和の基礎として、国家の平等、権利の平等を唱えていた。ウィルソン大統領の提唱する国際連盟の構築こそ、人種平等の原則を確立する絶好の機会であると日本は考えた。

 このパリ講和会議に日本は、最高のメンバーを全権団として送り込んだ。かつての首相であり、当代の指導的政治家、西園寺公望公爵、外務大臣を務めた牧野伸顕男爵の両名である。

牧野男爵


 朝日新聞は、パリに向かう全権団に、次のような言葉を贈った。

 我全権が最も注意と努力を要するものを問はば、(中略)人種的均等待遇に在ると答ふるならん。(中略)蓋し国際平和を害し、四海兄弟主義を打破する重大なる要素は、人種の不均等待遇若しくは人種的軋轢たり。(中略)世界人口14億5千万中9億即ち6割2分を占める有色人種の為めにも(中略)真実なる実現を期せず可からず。

■3.人種平等条項提案■

 しかし、日本側はパリで欧米諸国の代表と接触して、人種平等に対する反発の激しさに直面する。大英帝国代表ロバート・セシル卿は人種平等に関する日本案には「いかなる形式のものであろうとも、イギリスは絶対に同意しないであろう」と語った。

ロバート・セシル卿

 またアメリカに関しても、「こんな危険な(人種平等)条項を含んでいる規約を批准しようという夢を見るような州はアメリカには一つもないだろう」と言われていた。

 友邦だと思っていた欧米諸国の激しい抵抗を目の当たりにして、日本側は直接、国際連盟委員会に訴えることにした。アメリカ代表のハウス大佐は「ジャップには絶対に喋らせない」と策略をめぐらせていたが、2月13日の国際連盟委員会において、牧野男爵は起立して日本側の提案を正式に表明した。

 牧野は先の大戦において、異なる人種がともに戦い、互いに助け合える事を証明し、この「同情感謝の念が相互の連鎖を固めた」として、新しい国際連盟の規約に次の条項を加えることを提案した。

 各国民均等の主権は国際連盟の基本的綱領なるにより、締結国はなるべく速やかに連盟員たる国家における一切の外国人た対し、如何なる点についても均等公正の待遇を与え、人種あるいは国籍の如何により、法律上あるいは事実上何ら差別を設けざる事を約す

 イギリスのセシル卿は、これは「極度に深刻な難題」を生むので、討議をいっさい延期すべきだと語った。中国代表の顧維鈞は、自分はこの問題に「深い関心」を持っており、日本の提案に「全幅の同情」を表明すると述べた。

■4.ウィルソン大統領の逃亡■

 ウィルソン大統領は、自ら重大な困難を招いた事を悟り、会議を延期して、翌日ワシントンに帰ってしまった。そして日本案を無視した形で、連盟規約案を印刷して配布した。この案文を見たものは、人種平等に関する日本の提案が行われたことなど、知る由もなかった。

 日本とその支持グループは、ペテン師的な手口に激怒したが、牧野男爵は怒りを押さえて、日本は人種問題を世界にとって基本的な重要事項と考えるがゆえに、最も早い機会に修正案を提出する、と発表した。

■5.国民平等の原則を■

 日本代表団は、原案ではとうてい採択の見込みはないとして、「人種」という言葉を削除して、「国家平等の原則と国民の公正な処遇」の支持を求める修正案を作成した。この提案に関する最終決定は、4月11日の国際連盟委員会において、ワシントンから戻ったウィルソン大統領を議長として行われた。

 日本代表は、今回文言を緩和した修正案は、国民の平等と各人の公正な待遇の原則を正式に確認する以外の事を求めてはいない、とし、移民制限の問題とは関係のない事を表明した。

 そしてこの原則を拒否することは、「連盟加盟国の平等が認められないこと」を示すと主張した。「問題提起は見事に行われ、満場の支持を得たように思われた」とアメリカ代表の一人は記録している。その他の参加者も、「説得力があり」「威厳に富み」「賞賛に値し」などと記している。

 フランス代表のレオン・ブルジョワ上院議員は「正義という論争の余地のない原則」を具現するこの案を拒否することは不可能であろうと主張し、さらに中国、ギリシア、チェコスロバキアの代表が強力な賛成演説を行った。

■6.葬られた賛成決議■

 日本全権団の要求により投票が行われ、日本案は16票中11票の圧倒的賛成を得た。

 しかし、議長席のウィルソンは、全会一致の賛成が得られなかったので採択されない、と宣言して、参加者を驚かせた。それまでの2回の票決は全会一致の規則は適用されていなかったのに、とフランスの代表団は抗議を行った。

 しかしウィルソンは、「われわれの一部にとってはあまりにも障害があるので、規約にそれを挿入する事はできない」、と言った。 そして急いで次の議題に進もうとしたが、牧野男爵はそれをさえぎって、大いに遺憾であるが、この会議で過半数の賛成票があったこ
とを議事録に明確に記述するよう要求した。

■7.激化する人種紛争■

 日本の人種平等条項の提案とその失敗は、インドネシア、インド、エジプト、チュニジアなど世界各地における独立運動を刺激した。

 アメリカでは特に第一次大戦に参加した黒人兵たちが完全な市民権を要求していたが、自国の政府が人種平等の原則を支持しなかったことに怒った。この年の6月から9月にかけて、シカゴ、ノックスヴィル、オマハ、それに首都ワシントンで大規模な黒人暴動が発
生した。警察、陸軍、州兵が動員され、100人以上の死亡、数万人の負傷者が出た。

 報知新聞は次のように述べた。

 アメリカの人種紛争は文明世界にとって不名誉なことであり、もしもアメリカが他の国々に正義と人道の原則を説教したいのならば、まず自国内の人種問題を解決しなければならない。

■8.世界的混乱が予想される■

 ウィルソン大統領自身が提唱した国際連盟にアメリカは参加しなかった。その主たる理由が国家主権と人種差別との関係だった。 「日本人や中国人やインド人の労働力が洪水のようにアメリカに流れ込むのを他国の決定にゆだねる用意がわれわれにあるのだろう
か」ということであった。

 1922年には連邦最高裁判所は、日本からの移民はアメリカの市民となる資格がないと判断し、翌年には日本人移民がアメリカの土地を所有することを禁止する判決を下した。続いて議会も、1924年移民法を制定して、アジア人と大部分の非白人に対して門を閉ざし、
日系移民を禁止した。現代アメリカの著名な生物学者スティーブン・ジェイ・グールドはこれを「アメリカの歴史における科学的人種主義の最大の勝利」と呼んだ。

 この移民法こそ日米間の摩擦を引き起こした最初の動きであった。オーストラリアの政府高官は次のような予言をしている。

 白人が自発的に有色人種を対等の者として受け入れることは決してないのだから、人種的劣等という憎むべき汚名を除去するためには力によるほかはない。(中略)潜在的な世界的混乱が予想されるし、やがて欧米世界に重大な結果を招来するおそれがある。

 この予言は、やがて大東亜戦争として現実のものとなっていく。

[参考]
1. 国家と人種偏見、ポール・ゴードン・ローレン、TBSブリタニカ,'95
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■JOG(14) Remember:アメリカ西進の歴史
 アメリカは、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化することに
よって文明をもたらすことを、神から与えられた「明白なる天意 
Manifest Destiny」と称した。
 メキシコ、ハワイ、そしてフィリピンへと領土拡張を進めたアメ
リカ西進の軌跡は、まさしくこの「明白なる天意」の周到着実なる
実行であった。

転載終わり



平和な海