小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

『論語』が元気な脳を育てる

2011年01月06日 18時14分32秒 | 現代日本
 少し前の記事で、修身について書きましたが、この修身という教育は、長い日本の歴史の中で、日本人の徳育のバックボーンとなって来た論語をもとにしていますが、この論語のような公を大事にする精神が、脳に良い影響をあたえることが、わかりました。

以下国際派日本人養成講座の記事を転載します。


■1.生き方が脳の健康に影響?

 脳外科医の篠浦伸禎(しのうら・のぶさだ)さんの所に認知症の治療で通っていた患者がいた。
__________
 その方は会社の社長さんでしたが、時代の変化に伴って業績が下がり、そのストレスによって認知症になってしまいました。奥さんに元気なときの行き方についてお話をうかがってみたところ、次のようなことがわかりました。

 子供の頃に戦争を体験したため貧しい中から這い上がろうとする向上心が強かったこと、自分のことしか考えない傾向があったこと、他人受けはよかったが面倒な仕事になると他人任せにすることが多かったこと、本はほとんど読まないこと・・・など。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 残念ながら、この患者の認知症は治療の糸口もみつけられないまま進行してしまったという。

 この患者と対照的な一例として、篠浦さんが挙げているのが、渋沢栄一である。90余歳の長い人生の中で、明治・大正期の近代国家建設のために第一国立銀 行、日本鉄道会社、日本郵船会社など企業5百、公共・社会事業6百の設立に貢献した。幼少期から学んだ『論語』を指針とし、80歳近くになっても『論語と 算盤』などの著書を著して、道徳と経済を一致させる必要を説いた。

 本を読まず、自分のことしか考えない傾向があった社長は、認知症になった。一方、幼少期から『論語』に学び、世のため人のために尽くした渋沢栄一は、90余年の長い人生を活き活きと過ごした。

 どう生きるか、という姿勢が、実は脳の健康にも大きく影響しているのかもしれない、というのが脳外科医としての篠浦さんの研究テーマである。


■2.「私」の動物脳、「公」の人間脳

 篠浦氏の著書[1]には、脳のいろいろな部位の説明があるが、その中で特に示唆に富むのは「動物脳」と「人間脳」の部分である。篠浦氏は次のように説明している。
__________
 次に脳を上下に分けてみます。脳の中心下方には大脳辺縁系という動物的な本能、保身にかかわる脳があります。これを便宜上「動物脳」と呼びます。

 一方、大脳辺縁系の上方・外側には大脳新皮質という進化の過程で新しくできた脳があります。人間はこの大脳新皮質が他の動物に比べてより発達しているため、これを便宜上「人間脳」と呼びます。
・・・動物脳は本能的に自分の身を守る働きをしています。この動物脳は自分の身を第一に考えるという点で、人間学的にいうと「私」、『論語』でいえば「小人」的なあり方として表される行動にかかわります。

 一方の人間脳は、組織を作ったり技術を進歩させたりすることにかかわります。動物脳に対して人間脳は外に目を向けて全体を考えるという点で、人間学的にいうと「公」、『論語』でいえば「大人」的な態度にかかわる脳ということができそうです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 冒頭の認知症になってしまった会社社長は、自分のことしか考えない傾向があった、というから、「私」の動物脳中心の生き方をしていたのだろう。逆に、世のため人のために尽くした渋沢栄一は「公」の人間脳をよく使っていたと言えそうだ。


■3.動物脳中心の小人の生き方

『論語』で小人の生き方として戒められている項目は、動物脳による保身本能から説明できる。

 たとえば学而篇で出てくる「巧言令色(こうげんれいしょく)鮮(すく)なし仁」。「言葉巧みに、表情を取り繕っている人には仁が少ない」という意味である。

 篠浦氏はいろいろな人と接するうち、「巧言令色は動物脳が主体になって自分かわいさのあまり出るものだ。そのような人は仁のない人間であり、信用してはいけない」と痛感するようになったという。

 子路篇の「君子は泰(ゆたか)にして驕(おご)らず」は、「立派な人物は、ゆったりとして驕ったところがない」という意味で、逆に小人ほど驕り高ぶるとされている。これを篠浦氏は次のように解説している。
__________
 驕りほど進歩を阻害するものはありません。それは、動物が自分より弱いものを見ると威嚇して大きく見せようとしているのと全く同じで、動物脳が脳の主役となって働いている証拠です。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 動物脳中心に保身本能で生きている人は、自分より強い人に対しては巧言令色でゴマを摺り、弱い者に対しては驕り高ぶって見せる。どちらも小人の生き方である。


■4.動物脳が阻む「仁・義・礼・智・信」

 篠浦氏によれば、『論語』の中心思想である「仁・義・礼・智・信」の一つ一つが、動物脳との関係で説明できる。

__________
 たとえば、「仁」は相手を思いやる心ですが、動物脳が主体で自分の保身のみ考えると結果的に相手を思いやる心の余裕は生まれず、相手を利用することばかり考えるようになります。

「義」は正義(=弱い者を助ける)ですが、動物脳が主体になると正義どころか私腹を肥やすほうにばかり頭を使うようになります。

「礼」は相手に敬意を払う態度ですが、動物脳が主体になると弱い者に対して傲慢にふるまいがちです。

「智」は知識を得ることですが、動物脳が主体になると、年をとったり、あるいは自分の得にならないと思ったことに対して、知ろうとする意欲が失せていきます。

「信」は信用ですが、動物脳が主体になると自分の利益のみを考え、相手に利用価値がないと判断すると離れてしまうため、結果的に信用を失います。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 こうして見ると、『論語』の「仁・義・礼・智・信」とは、動物脳を抑制して、人間脳中心の生き方をすることで実現しうる徳目と言える。


■5.暴走する動物脳

 冒頭で紹介した社長は、動物脳主体による自己中心的な生き方をしていたのだが、会社の業績が下がるにつれて、そのストレスで認知症になってしまった。このメカニズムは、脳科学である程度、解明されている。
__________
 脳内ではストレス(敵)がかかると側頭葉の内側にある扁桃体という神経細胞からノルアドレナリンという神経伝達物質が分泌されています。すると動物脳は、それに応じて攻撃・待避行動をとります。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この動物脳は、自分の生存が危うくなると暴走する性格があるという。

__________
 ストレスがあると、人間は眠れなくなったり、頭痛、吐き気、ふらつき、息苦しさなどの症状を起こします。症状が重くなるとパニックになることもあります。その原因は・・・、動物脳(たとえばその中の扁桃体)が過剰に反応しているのです。

 動物脳が過剰に反応すると自律神経がバランスを崩し、さまざまな症状が出現して、まともな活動ができなくなります。頑張って活動しようと思う人間脳に反して、動物脳が逃げる方向に暴走してしまうわけです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この社長さんの動物脳は、会社の業績降下というストレスに過剰に反応して、自律神経のバランスを崩し、ついには認知症に逃げ込んでしまったのだろう。

 動物脳がストレスに過剰に反応することで、神経症やうつ病の原因となる。また外に出て行く元気をなくして、家に引きこもってしまうのは、動物脳が逃げに入っているからと考えられる。逆に学校や家庭で暴力を振るうのは、動物脳が保身のために攻撃に出るからであろう。

 こう考えると、現代日本の会社や学校で神経症、うつ、引きこもり、暴力などの症状が目立っているのは、動物脳主体に自己中心的に生きている人が増え、様々なストレスに動物脳が耐えられずに暴走しているからだと言えよう。


■6.動物脳の暴走を抑えるには

 ストレスによる動物脳の暴走を抑えるには、どうしたら良いのか。ここでも『論語』は重要な示唆を与えている。

「君子固より窮す。小人窮すれば、斯(ここ)に濫(みだ)る」

 小人は窮地に陥れば取り乱す。君子も当然、窮地に陥ることがあるが、小人のように取り乱したりしない。この差はどこから来るのか。篠浦氏はこう解説している。

__________
 ・・・困難から逃げてパニックになると、脳の血流が落ち、頭が真っ白になって、正常な判断力を失い、窮地を脱することが困難になります。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 窮地に陥って、自分の身がどうなるのだろう、と自分のことだけ考えていると、動物脳が暴走して、正常な判断力を失う。これが「小人窮すれば、斯(ここ)に濫(みだ)る」ということである。

__________
 自分のことで思い悩んでいても、自分がやったことで人に喜んでもらうとふっと気が楽になるのは、動物脳から離れたためです。そういう余裕が生まれると、強いストレスを感じる緊急事態でも動物脳の暴走をくいとめやすくなり、ストレスを乗り越える原動力になります。

 不安感というものは、その場から逃げなければ脳の活性化につながるのです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 君子は自分の保身より「公」を考えようとする。その姿勢が、動物脳の暴走を止め、人間脳を働かせる。人間脳はストレスを「乗り越えるべき課題」と捉えて、逆に活性化する。

 同じくストレスを受けても、認知症になった社長さんと、90歳過ぎまで活き活きと社会に貢献した渋沢栄一の違いは、「私」のために生きるのか、「公」のために生きるのか、という姿勢の違いにあったのである。


■7.楽をしたがる動物脳

 動物脳は身の危険を感じると暴走するが、逆に自己満足すると、楽をしよう、休もうとする。そのため、動物脳を主体にして生きている人は、ある程度の生活水準に達すると、そこで満足してしまい、向上心がなくなってしまう。

 動物脳と人間脳の間に帯状回という部位がある。楽をしたがり、逃げたがる動物脳をコントロールする、人間脳のエンジンとでも言うべき働きをする。

 この帯状回の機能が低下すると、楽をしたがる動物脳を制御できず、認知症(アルツハイマー)になる。逆に、人間が何かに夢中になると、帯状回が活発に働き、人間脳と動物脳が一体になって脳全体が活性化する。

「憤(いきどお)りを発して食を忘れ、楽しみを以って憂いを忘れ、老いの将に至らんとする知らざるのみと」
(学問に発憤して食事を忘れ、向上を楽しみとして憂いを忘れ、老いが忍び寄っていることさえ気づかないほどです)

『論語』学而篇のこの一節は、まさに帯状回が活性化して、学問や仕事に打ち込んでいる人間の姿を現している。

 人間が「私」のためだけに生きていると、ある程度の冨や名声を得れば、自己満足してしまう。ところが、「公」のために生きている人には、「もう満足」と いう状態はありえない。渋沢栄一が企業5百、公共・社会事業6百の設立に貢献し、80代後半になっても、まだ著述を続けていたのが良い例である。

「公」のために、仕事や学問に打ち込む事が、脳の活性化、老化防止につながるのである。


■8.元気な人間脳を育てるために

 篠浦氏の本を読むと、現代日本で自殺や校内・家庭内暴力、引きこもり、メンタルなどが目立ってきた理由がよく分かる。それは「公」のために生きるという 姿勢を、戦後教育が否定し、その結果、人間脳が未発達なまま、ストレスを受けては動物脳が暴走する「小人」を作ってきたからであろう。

 伝統的な我が国の教育では、『論語』を生き方のお手本としてきた。「私心」を去る事で動物脳を抑制し、「公」のための志を持つ事で、人間脳を発達させ、艱難、すなわちストレスを活力源に変える生き方を説いてきた。

 孔子が説いてきた生き方は立派な社会を作ると共に、健康で活力に満ちた脳を育てる道である事を、篠浦氏の研究は示しつつある。

 本講座では近年、幼児・児童教育でも『論語』が見直されつつある状況を紹介したが、それによって、健康で活力にあふれた人間脳を持つ日本人が輩出される事を期待したい。

(文責:伊勢雅臣)
■参考■
1. 篠浦伸禎『脳は「論語」が好きだった』、致知出版社、H22

共生と循環の縄文文化  高度な技術をもった古代社会

2011年01月06日 11時45分34秒 | 歴史
 昨年、生物多様性の国際会議が開かれましたが、現代の地球規模の環境破壊への対応に、人類は本気で智慧を絞って対応しなければ、そのうち地球からの反撃で人類は生存の危機的状況を迎えるのではないかと心配になります。しかし各国の国益、利害打算がぶつかり合い、解決は程遠い状況です。こうした環境問題への解決のヒントが、ひょっとしたら、日本人の古代からの物の考え方、自然に対する考え方の中にあるかもしれません。
 私たちが習った古代史では、縄文時代は非常に原始的な時代で、狩や漁をして、まるで映画やアニメにでてくる毛皮を着た原始人が粗末な石器を使って生活しているイメージに近いものがありましたが、三内丸山遺跡の発見によりそれが大違いであることがわかったのです。非常な高度な技術をもっていて、女性はおしゃれな髪飾りやアクセサリーに凝っていて、その装飾品のために日本列島の広い地域と交易するほど、平和で、文化的な世界だったのです。

 国際派日本人養成講座より転載


■1.三内丸山遺跡の衝撃■

 約5500年前から1500年間、縄文時代前期から中葉にかけて栄えた青森県の巨大集落跡、三内丸山遺跡の発掘は、原日本人のイメージに衝撃を与えた。高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂る。新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作る、等々。

 縄文時代といえば、従来は、たとえば次のように描写されていた。

 今から2400年前、水田による稲作が北九州に伝わった。中国の稲作が、おもに朝鮮半島南部から、人々の移住とともに伝わったのである。米づくりが始まると、人々は採集や狩りのくらしから、計画的に食料を生産するくらしに変わり、定住して生活するようになった。

 すなわち、文明化されたシナから稲作が伝わる前は、日本人は定住もせずに、狩りをしたり、貝や木の実を採集して、原始的な生活を送っていた、というのである。

 最近の考古学的発見から、このような原日本人のイメージがどのように修正されつつあるか、見てみよう。

■2.大規模な木造建築群■

 三内丸山遺跡の大きさは、約35ヘクタール。平均直径6~700mもの巨大な円形状の土地である。ここに約100棟の掘立柱建物、約580棟の竪穴住居が、整然と配置されていた。





 掘立柱建物は、直径2m、深さ2mの巨大な柱穴に、クリの巨木を立てたもので、柱の高さは10m以上と推定されている。柱の間隔は、すべて4.2mと一定で、縄文時代に長さの単位、尺度があった可能性がある。長さが10m以上のものが何棟もあり、最大のものが32m、床面積100坪である。




 建物は、祭祀施設などの可能性が考えられているが、よくわかっていない。これだけの敷地に約1500年にわたって継続的に人が住んでいた。最盛期の人口は500人規模であったと推定されている。
■3.全国規模の大量生産と交易ネットワーク■

 発掘された面積は遺跡全体の15%に過ぎないが、それでも出土した土器や石器はダンボール箱約4万箱におよぶ。現在までに発見された土器では日本の縄文土器が1万6500年前と世界最古であるが、土器の先進地域として、ここでも多種多様な土器が大量に見つかっている。

 出土したなかには、直径が30センチほどもある見事な漆塗りの皿もあった。今でも東北地方は漆が盛んだが、現代にひけをとらない漆の技術がすでに5千年前からあったことは、専門家を驚かせた。

 通常は一集落から数点しか発見されない土偶が、約600点も出土した。骨角器の針も大量に見つかった。これらはここで大量に生産され、周辺のムラに供給されていた可能性が高い。


針 つりばり

 さらに広域の交易が行われていた証拠として、新潟県のヒスイ、秋田県のアスファルト、岩手県のコハク、北海道の黒曜石などが出土している。

 ヒスイは日本では新潟県の糸魚川上流の姫川でしかとれない。その原材、半製品、完成品が、中部地方、関東地方、そして、今回の青森県の三内丸山遺跡で見つかっている。出土遺跡の分布状況から、新潟から青森まで500キロ以上もの距離を日本海をこえて、直接持ち込まれたと考えられている。

 太平洋上の御蔵島、八丈島など、伊豆諸島には、前期から縄文人の活発な進出が見られるが、その狙いの一つはゴホウラという貝だったと言われている。縄文晩期には、これら南西諸島産のゴホウラの製品が北海道まで運ばれている。縄文人は激しい黒潮をつききる高度な航海術をもっていたのである。

■4.おしゃれな縄文人■

 興味深いのは、これだけ遠方から集められた材料が、装飾品などに使われたことだ。白や緑、黒のきれいな石は、リング状に加工され、ピアスとして耳を飾った。

 ヒスイ、コハク、動物の歯、貝などは、穴をあけてビーズ状にして、首飾りや腕飾りを作った。硬玉製大珠やイノシシの牙などはペンダントにされた。

 一枚板から切りだした櫛、骨格器でかわいい飾りをつけたかんざしやヘアピンも見つかった。樹皮を十字に編んだポシェットも出土した。これらの高度の加工技術から、専門的な技術者の存在が考えられる。

ヘアピン ポシェット

 ザンバラ髪で、毛皮をまとった原始人というイメージは、これらの発見にはどうにもなじまない。かんざしやヘアピンで髪を美しく飾り、耳輪、首輪、腕輪をつけ、ポシェットをこわきに抱える-それが縄文時代の日本の女性であった。

 このような美への欲求を満たすために、新潟のヒスイや、伊豆諸島の貝が、数百キロの波濤を越えて、もちこまれていたのである。

■5.平和な平等社会■

 丸山三内遺跡では成人の墓約100基、小児用の墓約880基が見つかっている。集落のそばに平然と配列されたこれらの墓地は、全く大小の区別なく、副葬品もみな同様だった。

 ここから縄文社会が階級差のあまりない、基本的には平等主義に立脚した共同体社会であったと見なされている。巨大な建物も、王や貴族の家ではなく、宗教的儀礼や共同の作業場、食料貯蔵庫などであったと推定されている。

 三内丸山遺跡が発展した今から5千年前、メソポタミアやエジプトでは、すでに王が出現し、人民を搾取して、巨大な建物を造って富めるものと貧しいものの階級があらわれていたのとは、著しい対照をなす。

 さらに、縄文時代には、人殺しの武器はなかったとも推定されている。縄文時代は戦争のない平和な平等社会であったようだ。

■6.環境に適した効率的な食システム■

 三内丸山遺跡の周辺には、クリ林が広がり、縄文人はクリを主食の一種としていた。クリが人工的に栽培されていた可能性も指摘されている。

 ヒエも利用されていた。穀類であるヒエは狭い面積で多くの収量が期待でき、栄養価が優れ、貯蔵が簡単と、主食として優れた食品である。実際にヒエは日本では近世まで非稲作地帯の主要穀類であった。世界のヒエの分布から見て、ヒエ栽培は日本が起源地であるという説もある。

 またニワトコの種子と、その果実が発酵していた事を示す昆虫化石が発見され、当時の縄文人達は野生の果実を集めて、酒造りを行っていたことが確実視しされている。

 さらに年間を通じてとれる貝類、季節的に押し寄せるサケ、ニシン、イワシ、アジが、主食や副食として利用されていた。肉類では、ウサギ、ムササビなどの小動物が主となっていた。

 縄文人は、クリやヒエを主食とし、これに水産資源や小動物を幅広く利用していた。季節の変化をよく理解し、身の回りの多様な動植物を最大限に利用する効率的な食のシステムを作りあげていた。

■7.貝塚は貝のお墓■

 他の縄文遺跡では、捕獲されたイノシシやシカ、カモシカなどの大型動物の骨も見つかっているが、そうした動物では幼獣の骨が極めて少ない。また、シカやイノシシの歯の萌出段階の分析では、冬の季節にしか捕獲されていない事が分かっている。それらが絶滅しないよう、他の食物の少ない冬に限定し、成獣だけを捕った。そこに共に生きる自然への配慮が窺われるのである。

 昔の考古学では貝塚とは、貝の捨て場と考えられていたが、最近では「貝のお墓」だという説が生まれた。貝は丁寧に並べられて、盛り土をされており、どう見てもゴミ捨て場とは見えない、という。

 貝がふたたび豊かな身をつけて、この世に戻ってくるようにとの願いを込めて、貝の霊を丁重にあの世に送る場所が貝塚なのである。三内丸山遺跡で見つかった土器塚も、土器をあの世に送り返す場所であった。

 縄文人の精神の根底には、すべてのものに生命が宿り、それがあの世とこの世を循環しているという世界観があった。これが基底となって、聖徳太子が仏教を受け入れた時も、「山川草木悉皆成仏(自然のすべてのものに生命が宿る)」という思想となり、また現代でも道具が壊れた時、「お釈迦になった(成仏した)」と言う。縄文人の共生と循環の世界観は、日本人の心の基層をなしているのである。

■8.共生と循環の文明■

 縄文文化が自然との調和の中で、高度の土器文化を発展させ、一万年以上にわたって一つの文化を維持しえたことは、驚異というほかはない。縄文文化が日本列島で花開いた頃、ユーラシア大陸では、黄河文明、インダス文明、メソポタミア文明、エジプト文明、長江文明など、農耕に基盤を置く古代文明がはなばなしく展開していた。

 東アジアの一小列島に開花した縄文文化は、こうした古代文明のような輝きはなかった。しかし、これらの古代文明は強烈な階級支配の文明であり、自然からの一方的略奪を根底に持つ農耕と大型家畜を生産の基盤とし、ついには自らの文明を支えた母なる大地ともいうべき森を食いつぶし、滅亡の一途をたどっていく。

 それに対し、日本の縄文文化は、たえず自然の再生をベースとし、森を完全に破壊することなく、次代の文明を可容する余力を大地に残して、弥生時代にバトンタッチした。それは共生と循環の文明の原点だった。

 環境考古学者・安田喜憲氏の言である。1万年の間、原日本人はこの列島の中で、共生と循環の世界観のもとで、豊かで、平和な平等社会を営んできたのである。それはユーラシア大陸に発生した「自然収奪型文明」とは、まるで性格の異なる「自然循環型文明」の基盤となった。

■9.自然循環型文明の最後の砦■

 ユーラシア大陸の自然収奪型文明は、常に森を食いつぶすことで、新たなるフロンティアを必要とした。四大古代文明の地はほとんど砂漠化・荒地化し、ギリシアは禿げ山となった。イギリスの森は16~18世紀にほとんど消滅し、現在の森は19世紀以降、人間によって植えられたものである。ドイツの有名なシュバルツバルトの森の大半も、人間によって再生されたものである。

 アメリカの森は17世紀以降の移民によって切り開かれ、ワタ、トウモロコシ、タバコなどの大規模栽培が始められた。安田氏は花粉分析の手法により、アメリカの大森林が1620年から1920年までのわずか3百年間にほとんど破壊つくされたことを示した。それはまた森の民、インディアンの滅びとも軌を一にしている。

 気候変化の影響により、やむなく稲作を受け入れてからも、日本では森との共生の努力が続けられた。神社にはかならず鎮守の森がもうけられ、また森を食いつぶす家畜の数はきびしく抑えられた。さらに森を美しく保つことで、栄養分が川から海に流れ、漁獲を安定させるという「魚付き林」が維持された。

 現在でも、日本の緑被率(森林が国土に占める割合)は67%と、フィンランドの69%に続いて世界第2位である。この狭い国土で、世界有数の人口密度と工業生産を維持しながら、なおもこれだけの森を残していることは、縄文時代からの共生と循環の思想が、今なお我々の精神の基底にあるからとしか考えられない。

西天城高原の空晴れわたりひめしやらの苗人びとと植う

 平成11年5月30日の静岡県における全国植樹祭での天皇のお歌である。昭和25年から国土緑化振興のために始められたこの催しも、すでに50回目となった。ヒメシヤラは当地の周辺の森に自生する代表的な樹木で、高木となる。静岡県では、「山村に住む人だけでなく、都市に住む人達とともにみんなで植え、育てる」森づくりを啓発に努め、この日は1万2千人もの人々が参加した。美しい国土作りを通じた人々との連帯感がうかがわれる御歌である。

 自然との循環と共生を大切にする縄文の心は、このような形で現代の我々にも脈々と受け継がれている。自然収奪型文明により破壊されつつある地球を救うのは、このような心である。