上蔵地区の一段高い静かな森の中に佇む信濃宮(しなのぐう)
信濃宮(しなのみや)と呼ばれた宗良親王を偲んで昭和15年に建立されました。
私自身、歴史に詳しくないので、少し宗良(むねなが)親王について調べてみました。
≪大鹿村ってこんな村より(略)≫
後醍醐天皇の第八皇子・宗良親王は征夷大将軍として、30有余年にわたって大河原に滞在し、明治天皇親政の規範となったと言われる
南北朝時代の動乱の中で、父君の天皇親政樹立のためその人生を捧げるが、志叶わず悲運のうちにこの地で亡くなられた。
親王は後醍醐天皇を父に、二条家の流れを汲む藤原為子を母とし、1311年、生を受ける。
1339年、後醍醐天皇薨去後南朝の勢力は衰退し、宗良親王は遠州・越中・越後など転々とした後、
1343年、大河原の地に足を踏み入れている。
親王32歳、その後の生涯の後半生を大河原で過ごした。
宗良親王は歌人でもあり、多くの和歌を残していて、
信濃宮にある石碑に掘られている宗良親王の和歌からも、当時の心境を偲ぶことができる。
「君のため 世のためなにかおしからん すててかひある いのちなりせば」
「我を世に ありやととはは 信濃なる伊那とこたえよ 峰の松風」
この地にあって、京都・比叡山や吉野の事を思い詠んだ歌と共に
「いはて思ふ 谷の心もくるしきは 身をうもれ木と 過ごすらん」
「稀にまつ 都のつてもたえねとや 木曽のみさかを 雪埋むなり」
「思いやれ きそのみさかも雲とつる 山のこなたの 五月雨の比」
など、当時最も厳しいと言われていた東山道の神坂峠越えの事も詠まれており、今同じ場所に立ち、同じ道を歩き、同じ峠を越える時、
この歴史ロマンの中に思いを馳せながら、歴史に守られてある今を実感するのです。
この信濃宮から約4km、更に山の中に進むと宝篋印塔(宗良親王の墓標塔と言われている)があり、
宗良親王のこの地での薨去を裏付けていると言われています。
更に2km先、今でも林道釜沢線の終点となっている地点に
御所平と言われている宗良親王の居住地跡が残されています。
大河原城城主香坂高宗に守られ、古い開墾地であるこの地を安住の地とされ、
ここでもまた、いくつかの和歌を詠まれています。
「信濃の国大河原と申し侍りける深山の中に 心うつくしく庵一二ばかりして住み侍りける。
谷あひの空もいくほどならぬに月を見て侍りし」
「何方も 山の端ちかき柴の戸は 月みる空や すくなかるらむ」
「かりの宿 かこふはかりの呉竹を ありしそのとや 鶯のなく」
説明板にある「谷あひの空もいくほどならぬに月を見て侍りし」・・・を読み
庵の前に立ち見上げた空は、やはり小さく、
おそらく何十年、なん百年の時が経とうと変わってはいないであろうこの山の端の風景を見ながら、
月の夜ばかりではなかったろうにと思う時、聞こえてくるのは夏ゼミの声と遠くで聞こえる鹿の鳴き声。
そして、キツツキの木を叩く音。
御所平から戻る道、一番山の中の釜沢集落が木々の間から見え、
上蔵集落が見えて来るまでには、歩いて約1時間半ほどはかかる道のりだった。
今でこそ車が通れる道ではあるけれど、昔はきっと獣道くらいであっただろうに・・と思う。
上蔵集落に戻って、宗良親王を守った大河原城主、香坂高宗の墓と大河原城跡を見て行こう。