丑太郎が生まれて2年後、妹スギが生まれた。
嘉右エ門の屋敷の片隅に建てられた家は、こどもを育て長く生活するにはあまりにも狭く、
又、嘉右エ門の監視の目は厳しく、何をするにも気兼ねをしながらの生活だった。
丑太郎が成長すると、
重五郎と丑太郎は力を合わせて嘉右エ門の屋敷から少し離れた山を拓き、
材を削り、鑿を叩き、石を積み、苦労して家を建てた。
青木ヶ沢のの中で、いや、村の中で一番高い場所だった。
そして村で一番早く朝日が拝めるからと屋号を「旭屋」と名付けられた。
丑太郎は同じ村のサトを嫁にもらい、この山の中での生活が始まった。
丑太郎は病んで寝た事はなく、囲炉裏の端で縄を綯い、寒くても物置の三和土に仕掛けを組み、
藁を敷き、藁で編んだ座布団に座り、筵を編み俵を作る。
「下駄作りの青木ヶ沢の丑さ」と村人から呼ばれていた丑太郎は、
秋の麦蒔きが終わると、下駄材(こうら)に適した「きわだ」や「かわぐるみ」「桐」などを採りに深山まで足を延ばし、
峠を越えて山向こうまで下駄材を探しながら山中を歩いた。
秋過ぎから冬にかけて、日当たりの良い家の前は桟積みされたこうらが山高く積み上げられ、日干しされていた。
冬場の仕事として、ひき下駄やさし下駄を作り、背負って売りに山を下った。
サトは生糸はもちろんの事、山から採って来た草や木の皮を煮て、糸から染めて機を織る。
文字も読めなかったサトがどこであの技術を覚えて来たのか、
豆腐や蒟蒻を作り、里に下りて売り歩き、
蚕を飼って真綿を作り、生糸を紡ぎ、絣や縞を織り、そこらここらの人真似ではなく、
どの木の皮がどんな色になるのか知り、草木染や型染の手芸などもした。
味噌や醤油は豆を炊き、藁靴で踏みつぶし、大樽で麹もろみを仕込んで造る。
蕎麦もうどんも自分で作り、それらの道具は代を繋いだ。
丑太郎とサトは二人の男の子を授かり、明治、大正、昭和という動乱の三時代を生き抜いた。
つづく