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熨斗(のし)

のし(熨斗)について、趣味について、色々なことを綴っていきます

古里の歴史が終わる時ー1(はじまり)

2020-04-14 21:41:54 | ひとりごと

はじめに

「布る里の峪の谺に 今も奈を 籠里て 阿羅無 母の筬の音」

(子供の頃 学校から家に帰る頃 どこからともなく 機織の音が聞こえて来た。

 今でも懐かしく思い出される)

今はなき山の中のの、今はなき屋敷跡に建てられた句碑だけがここに人が住んだことを物語る。

 

昨年93歳でこの世を去った叔父の記憶と、だんだん薄らいでいく95歳の父の記憶。

この古里の風景と先祖から言い伝えられたこの家の歴史は二人の記憶の中にしかなく、

その歴史と風景を残らず記録に残しておきたかった。

 

記憶が終わる前に・・・・。

(尚、文中に出て来る固有名詞は仮名です)

 

① 始まり

時は天保の時代。

あんな山の中でも土地の支配は庄屋様が一手に握っていた。

立派な石垣と白壁の屋敷の門を入ると、三頭か四頭分の厩舎があり、豪壮な鴨居に長刀や槍、

そして土蔵には火縄銃の他、鎧もあり、乗馬で何人かの役人を従えて権力を揮い、あちらこちら見回り歩いていた。

 

ご先祖、重五郎は天保11年(1840年)この庄屋様・武田家に生まれた。

重五郎の実家、武田家の家紋は「武田菱」

恐らくは武田信玄信州制圧の際、武田軍に関わった人物がこの山の中に住み着いたのであろうと想像するのだが、

想像の域を出ない。

成長するに従い、分家するにも傾斜の土地の小さな田畑ではどうする事もできなかったのであろう。

重五郎は武田家よりももっと山の中の青木ヶ沢にある「下」と呼ばれる嘉右エ門の家に作男として入った。

安政の時代に入った頃だった。

 

嘉右エ門の家も大きな白壁の家で、入り口を一歩入ると一間程の三和土(たたき)になっており、座敷は三尺程高く、

左を見ると十畳程の薄暗い板の間は一段低く、使用人や子供などは上の間に座る事は決して許されなかった。

見上げると太い鴨居に槍が二、三本、白壁の分厚い土蔵には火縄銃などがかけてあり、打つ真似などをしながら眺めたものだった。

「下」は青木ヶ沢のの役人であり、の慶弔に使う膳や漆器など一式は納めてあり、結婚式や葬儀、兵士の出兵の時など、

民は頭を下げて借りに行くのである。

重五郎はこの使用人の使う薄暗い板の間で寝泊まりしたのだろうか。住み込みで働く事になった。

ここから歴史が始まった。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

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